グールマンの名店備忘録

グールマンの名店備忘録

「マキシム・ド・パリ東京」「ルカ・カールトン」「石丸館」「ビストロ・エトランジェ」「スパルタ」「赤坂ラーメン」「川菜」…。 惜しまれつつも閉店又は業態変更してしまった素晴らしき名店たち。 中でも、特別な思い入れのある店について自身の体験を交えて書き残します。

更新日:2018/08/07 (2017/12/10作成)

3965view

このまとめ記事は食べログレビュアーによる1489の口コミを参考にまとめました。

目次

「マキシム・ド・パリ東京」・・・・・・・・・・・・・・・・(フレンチ 東京・銀座)
「ルカ・カールトン(by Alain Senderens)」・・・・・・・・(フレンチ フランス・パリ)
「石丸館」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(フレンチ 東京・中目黒)
「ビストロ・エトランゼ」・・・・・・・・・・・・・・・・・(フレンチ 東京・新宿)
「スパルタ(by エリアス・スカンゾス)」・・・・・・・・・・(ギリシャ料理 横浜・曙町)
「赤坂ラーメン」(屋台)・・・・・・・・・・・・・・・・・(ラーメン 東京・溜池山王)
「川菜」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中国四川料理 名古屋・石川橋)
「海員閣」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中国料理 横浜・中華街)
「ビストロ・ヴァンサンク」・・・・・・・・・・・・・・・・(フレンチ 大阪・心斎橋)
「今庄そば」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(そば 名古屋・名古屋駅前)
「コンキリエ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(イタリアン 沖縄・石垣島)   
「八ヶ岳高原ヒュッテ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ホテル・カフェ 長野・野辺山)  
「ジャマン(by Joël Robuchon)」・・・・・・・・・・・・・(フレンチ フランス・パリ)   

マキシム・ド・パリ東京

銀座数寄屋橋交差点にあるソニービルの地下に「マキシム・ド・パリ東京」はあった。

2015年6月にその輝かしい歴史に幕を下ろしたが、日本におけるフランス料理界を長きにわたってけん引してきたことは間違いない。

写真は「マキシム」の地下エントランス。
ここの利用するには運転手付きの専用車又はハイヤーであることがプロトコールだった。

備忘録:そこには美味しい料理と比類なき別世界があった

若い頃の私はグルメ環境に恵まれていた。
学生時代は、バイト先のオーナーの関係で銀座のステーキ店や「レカン」「久兵衛」などに出入りしていた。
社会人になってからは、自称グルメの方々のグループが顧客になり、主にフレンチを中心に都内の高級レストランを引き回された。

ここ「マキシム」も、取引先だった親会社の重鎮の方の好意で当時の社長を紹介してもらい、いわゆる「○○定食」と呼ばれていた親会社専用の接待用のリーズナブルなコースを食べさせてもらったことから付き合いが始まった(いいのかなあ?こんなこと書いて…)。

後日こんなこともあった。
とある休日、私の顧客をご紹介して面倒見ていただいたお礼を社長に言うために、銀座デートの途中にお店にうかがったら、バールームでの茶飲み話が盛り上がって「夕飯食べていきなよ。お客さんを紹介してくれたお礼だよ」と逆に社長からご馳走すると言われてしまった。
私はジャケットは着ていたものの、カジュアルな靴とノータイだったことを理由に丁重にお断りしたのだが、受付の女性がデスクの引き出しからヒモ式のタイを取り出し身に着けてくれながら靴のサイズを訊かれたので閑念して結局ご馳走になる事にした。(ネクタイは理解できるが、サイズ別の靴まで用意してあるのにはビックリした。)

そんなこんなで、彼女の誕生日、結婚記念日、友人夫婦のエスコート等々「マキシム」との付き合いは深まり、ある一時期のグランドメニューの料理やデザートは、あの「ポム・マキシム」以外すべてを制覇する程だった。

元々数あるフレンチの中でも、ここ「マキシム」と六本木の「オーシュバルブラン」(閉店)、三田の「コートドール」の三店の料理は私の大のお気に入りで、特に「マキシム」には料理の旨さに加えて、導入部や車廻りの面白さや、客層と客の服装、セロ弾きの方の生演奏の演出など、他のレストランでは決して体験できない別次元の面白さがあった。
後にパリの「マキシム本店」にも訪れる機会が有ったが、やはり本店も、常連客と着飾った観光客が程よく交わっていて、そのいずれの年齢層も高いせいか、客層や客の立ち振る舞いが他のレストランとは全く違っていた。
とにかく優雅な世界だったのだ。

またこんなこともあった。
結婚直前、私が両家の兄弟・姉妹も交えて初めての顔合わせのランチをここ「マキシム」の個室で行った時、時はバブルの最盛期で、「マキシム」の親会社がアメリカで外交問題になるほどの爆買いを行ったため、親会社のトップと駐日アメリカ大使による会合がこの個室で行なわれていたらしい。
何があったのかは知る由もないが、それが大幅に延びて我々のランチのスタートも遅れてしまった。
社長はバールームを開放して対応してくれたが、元来呑兵衛の両方の父親と、この食事会が決まった時から「キャ~、マキシムで食事~?何着てゆけばいいの~?」とはしゃぎまくっていた妻の妹が、ほぼ完全に出来上がってしまった。
おかげで緊張するはずの顔合わせ会がとても和やかになったのは嬉しい(?)誤算だった。
そして、要人会合の直後に一般人の婚約の食事会とは、「マキシム」はいろいろな人々に様々なステージを提供しているレストランなのだと改めて思った。

とかく料理だけで評価されがちなフレンチの世界だが、料理・サービス・客層・雰囲気・演出・・・そのトータルで、当時の日本には「マキシム」を上回る店は無かったと思う。

そんな「マキシム」とも、私の転勤、社長の退任、仲の良かった支配人や受付女性の退職、運営会社の交代などで次第に足が遠のくようになった。
でも、当時一緒に訪れた事のある友人夫婦から「マキシムが閉店するらしい」という連絡があって、なんとかその最期に立ち会うことはできた。

最後の晩餐を何にするか?
私たちはここで大きな問題にぶつかった。
食べたいものがあまりにも多すぎる。
最初に足を踏み入れた時以外、私はいつもその日に食べたいものをアラカルトをオーダーしていた。
だが今回は結婚前のあの食事会以来久しぶりにコースを組んでもらうことにした。

「アミューズ」(おまかせ)
「ホタテとオマールのテリーヌ(完全版)」
「ビーフコンソメスープ」
「舌平目のソースアルベール」
「ロゼダニョーのマデラソース」
「シャラン鴨のオレンジソース」
「クレープシュゼット」
「ナポレオンパイ」

というとんでもないメニューになった。
(でもポーション調整で全て美味しくいただけました。)

その日、もう知っている人は誰も居ないマキシムだったが、中に入るだけでやはりワクワクする。
クロークで荷物を預け、バールームでいつものようにカシス少なめのキールをいただきながら友人夫婦を待つ。
過去のいろいろな思い出がよみがえってくる。
階段を下りてダイニングに向う時には完全にマキシムワールドに取り込まれている。

席に着くと、「支配人からです」と「ブーブクリコ」が差し入れられた。
「えっ、なぜ?」
「メニュー作るときに昔の顧客リストでも見たんじゃない?」
「最後だから皆にサービスしてるんじゃない?」
まあ理由は定かではないがありがたく頂戴した。

ただ、これで終わらなかった。
全ての食事が終わった後に、今度は「店からです」と言って「スフレグラッセ」が出てきたのだ。
さすがに「どなたかからの差し入れですか?」とメートルに尋ねたが、
「いえ、これまでの特別なご愛顧に対する店からのお礼の気持ちです」と。
でも「スフレグラッセ」は例の結婚前の食事会の時のデザートで、メニューにも載っていないはず。
当時の事を知る人の入れ知恵以外には考えられない。
特別メニューを依頼したことが引き金になったのだろうが、改めて「マキシム」に携わった人々の風通しの良さと、客を迎えるにあたっての真摯な姿勢に心から感服するばかりだった。

食事を終え、寂しさと共に改めて感じた「マキシム」の奥深さと心地よさを胸に、大好きなあの車着けのエントランスに向った時、支配人が見送りに来てくれて「長い間ご利用いただいて本当にありがとうございました」と深々と頭を下げられた。
私はおそらくこの支配人とは面識はないが、不覚にも涙を止めることができなかった。

ひとつの時代の終焉。
私は「グランメゾン」などという有りもしない曖昧な言葉は好きではない。
でも、そういった概念があるとすれば「マキシム・ド・パリ東京」が日本で初めての存在だったことは言うまでもない。
そして、人気の定番メニューを提供し続けながらも新たな料理も発信する。
一人の料理人やカリスマギャルソンに依存する事なく店の伝統を継承してゆく。
そこに集う客層とその華やぎによって店の雰囲気が作り上げられてゆく。
食べ歩きを志向していてもいつでも安心して帰って来られる店である・・・等々。
とかく「おまかせメニュー」の店がもてはやされる今の料理界へのアンチテーゼのような店が無くなる事への抵抗感が私の涙腺を緩ませたのかもしれない。

ルカ・カールトン (by Alain Senderens)

パリの中心部コンコルド広場の北、マドレーヌ寺院の目の前にある「ルカ・カールトン」。

歴史あるこの古典料理の殿堂に、ヌーベルキュイジーヌの旗頭であるアラン・サンドランスがやってきたのが1985年。

以降、自ら星を返上した2005年まで、30年間ミシュラン三ッ星を維持してきた。

2005年に「サンドランス」と改名し、リーズナブルなレストランとして生まれ変わったが、サンドランス引退後の2014年、再び「ルカ・カールトン」に店名を戻し、ジュリアン・デュマをシェフに迎え再出発した。

備忘録:「巨匠」アラン・サンドランスに献杯!


「サンドランスかロビュションか?」

1980年代、フランスではどちらがフランスを代表する料理人かという議論で盛り上がっていた。
私は初めてパリを訪れた80年代半ば、ちょっとした出会いから運良くロビュションの「ジャマン」に行くことができたので、その4年後のパリ再訪時には然るべきルートで予約をとり、アラン・サンドランスがシェフを務めるこの店を訪れた。

そのころの私は、仕事上で知り合った自称グルメの方々のグループのおかげで、フレンチに限らず都内の有名料理店を引き回されるなど、腕の良し悪しはまではわからないながら、少なくとも場数は踏んでいた。
また、今回の渡仏に際しても、三つ星を獲ったばかりの「ランブロワジー」をはじめすでに4軒の星付きレストランを食べ歩き素晴らしい体験をしてきたので、多少の事では驚かない自信はあった。

当時のサンドランスは、今でこそ珍しくなくなった「ワインペアリング」を初めて試行し、アラカルト主体のフランスのグルメ界で「ムニュ・デグスタシオン(コース料理)」が再脚光を浴びるきっかけを作った(その真逆を行っているのが今でもアラカルトだけで勝負している「ランブロワジー」)が、その一方で、アラカルトメニューにも「挑戦的」なメニューをどんどん送り出して話題をかっさらうなど、まさに絶頂期といえる充実ぶりだった。

コースかアラカルトか。時間をかけてメニューを眺めていた私だが、長い料理名の並ぶアラカルトの中に、シンプルに「Lapin」とだけ書かれた料理を見つけた。
私はあまり「ウサギ」は好きではなかったが、その表記にただならぬ思いを感じて、まるでいじめっ子の挑発に乗ってしまった子供のようにその料理を選んだ。

これでアラカルトに決まった。
連れのメインを決め、前菜は氏のスペシャリティのひとつであり、また、サンドランスが「ワインペアリング」を始めるきっかけになったといわれる「フォアグラのキャベツ包み」にした。
ワインはプティ・マンソン種の甘口のハーフボトル。
通りかかったサンドランスが「ベストチョイス!」と言ってくれた。

「フォアグラのキャベツ包み」は、当時フォアグラといえば「鵞鳥」のものが一般的だったのだが、この料理には「鴨(アヒル)のフォアグラ」が使われている。
今でこそ安価で飼育しやすいこちらのほうが主流になってきたが、ギャルソンによると、鴨のほうが滋味が強く程よく溶けてキャベツで包むこの料理でも味がハッキリするのだという。
妻は今でもこれより美味しいフォアグラ料理には出会ったことがないと言っている。
(ちなみに彼女はこの2年ほど前に京橋の「シェ・イノ」で同じ名の料理を食べているはず…)

ワインに関しても、私はそれまで甘口のワインは好きではなかったが、気が付けば最初のボトルはいつもプティ・マンソン(高い)やドイツのリースリングを探すようになってしまった。

そしてメインの「ラパン」。
ひと皿の上に3種類の料理が盛られている。
ひとつは骨付きのロースト。薄い味付けでまるで鶏料理のような優しい味わいだった。
ひとつはメダイヨン。肉自体もソースの味も濃くてジビエの雰囲気を演出していた。
そしてハンバーグ風。様々な具材と交じり合ったことでウサギの別の顔を表現しているようだった。

いやはや、すごい料理に出会ってしまった。

この時もサンドランスが現れ「どうだった?」と訊かれたので「パーフェクトだ」と答えたのだが、サンドランスは「もっとコントラストを付けたいんだ」と言っていた。
それはまるで学者が研究をしているような表情だった。
恐らくこの料理が基で後に「鴨のアピシウス風」ができたのではないかと勝手に思っている。

さらに、デザートの「チョコレートスフレ」がこれまた秀逸。
外はふわっと表面はカリッとした中に、中心に少しだけ濃くて柔らかな部分を残し、リキュールの入った大人の味ながら、食べやすく飽きの来ない深い味に仕上がっている。
これも、この後ここを上回るものには出会っていない。

私はすっかりサンドランスに魅せられた。

それから数年後、仕事でも度々パリに訪れるようになった私は、毎回欠かさず「ルカ・カールトン」に通うようになっていた。
といっても、2005年に5度目の訪問を試みた時点で店は閉店してしまった。
後日、現地スタッフから、店は改装して「サンドランス」という名で再開したが、サンドランス氏はセミリタイヤ状態で、メニューも雰囲気もカジュアルなものにガラッと変わったと聞かされた。

それでも私はその後2度ほど「サンドランス」に行った。
正直言って「ルカ・カールトン」時代とはすべてが違うが、ワインペアリングは健在というより進化していたようだ。値段も半分以下で楽しめる。
それでも、またすぐにミシュランで二つ星を獲得した。
2013年の2度目の訪問の時にはサンドランスに会えて、「ルカ…」時代の2度目の訪問時に食べた「オマールのバニラ風味」を作ってくれないかと言ったら快くOKしてくれた。
味は全く変わっていない。レシピを残しているとはいえ確かな旨さだった。

でもこの時がサンドランスとの最後になった。
彼はこの3か月後に突然完全引退して店も手放してしまったのだ。

ちなみに、今年の3月にお店に行ったら店名がまた「ルカ・カールトン」に戻っていた。
私たちは飛び込みで食事をしたが、さすがにオープン2年目で一つ星を獲得しただけあってなかなか良いものを出していた(ワインペアリング中心で、あの「フォアグラのキャベツ包み」も提供していた)。
シェフのデュマ氏とも話したが、彼は「サンドランスの料理が食べたければ言ってください。いつでも作ります」と言ってくれた。
心のどこかでホッとしている自分がいた。

この訪問から3か月後の今年6月、サンドランス氏が亡くなったと聞いた。

メディア露出が少なかったために日本ではあまり知られていないが、フランスでは、ワインペアリングの確立や、数々の挑戦的メニューで物議を醸し、またシェフとして携わった二つの店でトータル30年以上三ッ星を保持し、フランスを代表する「巨匠(ムッシュ)」と呼ばれたアラン・サンドランス。

その夜私は妻と共に、やはり彼が提唱して論争を巻き起こした「チーズと白ワイン(※)」で彼を偲んだ。


※サンドランスは生前「チーズと合わせるべきは、多くの場合赤ではなく白ワインだ」と言って論争を巻き起こした。私も赤よりも白ワインの方が汎用性に富むと思っている。特にゴルゴンゾーラ系は圧倒的に白ワインの方が合うと思う。

石丸館

中目黒駅のほど近くに位置していた「ふらんす料理・石丸館」。

ここは、かつて日本人として初めてシャンゼリゼ界隈に店を出した石丸勝麿氏の店。

実はこの備忘録を書いた後、石丸さんは既に昨年の5月に亡くなっていたという知らせが有りました。

心よりのご冥福をお祈りするとともに、いつの日か「弟子だ」と名乗る人(日本人かフランス人かにかかわらず)が私の前に現われると信じています。

備忘録:もう一度「鴨のオレンジソース」が食べたかった


別に私はこの店のシェフの石丸さんと知り合いという訳ではない。
でも、私にとって石丸さんはいつも偶然に現れる不思議な人だった。

最初に会ったのは学生時代。
世界で最も独り飯が侘しいパリの街で、その日に現地で知り合った男女4人で夕食を共にすることになった。
女性のひとりが「私まだフランス料理を食べてない」と言い出した事が発端で、近くの日本料理店で教えてもらったプラス・ド・モンジュにある1軒のレストランに向かった。

「日本人会で使う店で日本語の分かる人も居るので大丈夫ですよ」と言われて安心して行ったのだが、日本語の話せる人などいない。私はメニューを読めるが他の人は英語でも料理用語は厳しい。
ところが、いかにも気の良さそうなギャルソンがいて、「カモ」とか「エビ」とか片言の振り付き日本語で説明してくれた。
まさかこの人が「日本語の分かる人?」という素朴な疑問はあったもののおかげでなんとか全員無事オーダー。

私がオーダーしたのは「鴨のオレンジソース」。
それも、切ってあるものではなくビストロ風のゴロっとした塊のまま出てきた。
でもこれが実に旨い。この古典的料理を見事なまでに今風にアレンジしてあった。

格調は無いものの、手ごろな値段で美味しいフランス料理のコースが食べられて皆とても満足して帰ろうとした時、ギャルソンだけでなくメートルもシェフも見送りに来てくれた。

店の名は「ラ・ムフレット」。そのシェフが石丸さんだった。

その後私は就職して、自称グルメの人たちのグループが顧客になった。
その中に商社でパリ勤務だった人がいて、この時の話をしたら「『ムフレット』だろ?日本人駐在員には有名だよ。ミシュランで星を獲るのではないかと言われたが、店構えが悪く(確かに洞窟のステーキハウスみたいな店だった)てダメだったみたいだけど」と言われた。

それから数年が経ち、新婚旅行でパリに行く事になった時、航空券の手配で世話になったエールフランスの人から「もしパリでフランス料理が食べたいなら、シャンゼリゼの近くに日本人夫婦がやってるレストランがあるから試してみたら」と一軒のレストランを教えてもらった。

でも、その頃の私たちは都内のフレンチにはよく通っていたし、今回の旅行でも4軒の星付きレストランに行く予定だった。しかも私は既にパリでも「ラセール」とロビュションの「ジャマン」にも行ったことが有ったのでさほど不安はなかったが、妻が初めてのフランスという事もあったので、とりあえず「慣れ」のためにもその店に行こうという事になった。

私たちが宿泊していた「ホテル・ジョルジュサンク」の向かいにあった「レ・ジョルジック」というその店に到着すると、品の良い日本人のマダムが迎えてくれた。
さほど広くはない店だったが、フランス人のソムリエとセルヴァースがいて、他の客も外国人ばかりだったので、セルヴァースは一生懸命覚えたて?の日本語を話そうとするが、基本的には妻もパリのレストランの雰囲気を味わえた。

正直言って「ラ・ムフレット」程のインパクトはなかったが、良い意味でそれよりはかなり洗練された料理だった。
またデザートは一流のフレンチと比べても遜色ない美味しさだった。
食事を終えた頃、厨房から見覚えのある顔のシェフが出てきた。
そう、ここ「レ・ジョルジック」は石丸さんのお店だったのだ。
そしてマダムは石丸シェフの奥さんだった。

その後、出張時に2度ほど再訪したが、店は大きくなりかなり盛況だった。
だが、ミシュランで星を獲得したという話はついに聞かなかった。

そんなことも忘れかけていたある日の事、長年私の仕事を支えていてくれた関連会社のスタッフの方が、ひょんな事からフランス語が話せることを知った。
聞けば、若い頃にニースである日本人の金持ちのお嬢さんの運転手をしていたとの事。
そのお嬢さんがパリでレストランを営む彼氏を手伝うためにパリに行く事になり、彼は失業して日本に帰ってきたという。
彼はそのお嬢さんの名を「ユミコさん」と言っていた。
「ひょっとしてその彼氏って石丸さんですか?」
「そう、石丸さん。なぜ知ってるの?」
「そのご夫婦が営まれているパリのレストランに行った事があるのです」
「えっ・・・?」
意外な所でまた石丸さんと繋がってしまった。

そして「レ・ジョルジック」に最後に訪れてから20年近く経ったある日。
私の部下の若い子(男)が「変わったフレンチの店見つけたので行きましょう」と言ってきた。
「えっ?俺とフレンチに?」
「旨いフレンチなんですけど女の子と行くような店じゃないんですよ」
「???」

中目黒の駅近くのビルの2階にあるその店は入口に「ふらんす料理・石丸館」と書かれていた。
この段階ではまだ気付かなかったのだが、店に入ったらすぐにわかった。

あの石丸さんとユミコさんの店だったのだ。

むこうは全く記憶に無いようだったので、私も知らぬふりをしてお食事をいただいた。
石丸さんの料理はある意味変貌する。(お店はもっと変貌していたけど…)
この日いただいたいた料理は、「ラ・ムフレット」のようなビストロ料理でもなく、「レ・ジョルジック」のような洗練されたものでもなく、家庭料理に近いがそれでいて本物感の漂う料理だった。
そして、デザートは相変わらずの旨さだった。

食事を終えた後、また石丸さんがやって来た。
「ラ・ムフレット」や「レ・ジョルジック」にも何度かお邪魔した旨伝えると、石丸さんは覚えていないようだったが、ユミコさんが「覚えているわよ」と言った(本当かどうかは定かでないけど)。
気位の高いユミコさんらしい言い方とセリフだった。

ちなみにこの日の客は我々だけ。
それからしばらくいろいろな思い出話をした。
ニースに居た頃の話、「ラ・ムフレット」に居たあの陽気なギャルソンの話、「レ・ジョルジック」はいろんな意味で大変だったなど、正直、こんな気さくなイメージはなかったけど、時折(というかかなりの)自慢話を織り交ぜながら、興味深い話をいっぱい聞かせてくれた。
そして最後には、次回の訪問時にあの「ラ・ムフレット」で食べた「鴨のオレンジソース」をシャラン鴨で作ってくれると約束してくれた。

でも、このやりとりを最もビックリして聞いていたのは、この日のホストである私の部下だったのは言うまでもない。(殆どキツネにつままれたような顔で呆然としてひと言も発しなかった)

その後、私が忙しさに感けてなかなかうかがう機会が無かったのだが、半年後の昨年の夏、ご連絡を入れた時にはもうお店を閉じられているようだった。
予約が無ければ店を開けない事が多いとは聞いていたのだが・・・。
でも私は信じている。

石丸さんはまたどこかで私を驚かせてくれるはずだ。

ビストロ・エトランジェ

「ビストロ・エトランゼ」は新宿の厚生年金会館の隣に建つ古ぼけたビルにあった。

入口も決して綺麗ではなく、この奥に「美食の殿堂がある」という夢を与えるものではない。

でも、ファミレス風の店構えのその中には「仔羊の名店」が確かにあった。

備忘録:知る人ぞ知る仔羊の名店

私は若い頃、仕事の関係で自称グルメの方々のグループにかわいがられていた。
そのグループの定期ディナーにはいつも招かれていたものの、自分の懐ではなかなかそういった店には行けない事をグループの人に話したところ紹介されたのがこのお店。

その方曰く「7~8,000円も出せば東京でもトップクラスの仔羊を出してくれるわよ」
ここのご主人は元フレンチの有名店(名は失念)のグリル担当のスーシェフで、北海道産の生ラムを最も良い時期に仕入れられるルートをもっているのだそうだ。

ちなみに初めてご主人に会いに行った当時(約30年前)の「ビストロ・エトランジェ」は、ほとんどの人がハンバーグやチキンソテーなどの定食を食べるビストロというよりファミレスに近い店だったので、次回仔羊の予約をしたものの半信半疑でその当日を迎えた。

ところが、その日のご主人は真っ白のコックコートに身を包み、マダムは色鮮やかな服で我々を迎えると、ひとつだけ違うテーブルクロスの席に私たちを案内した。

その頃の私には厳密な味の違いは判らなかったが、たて続けに二度訪問してローストとパイ包みの二種類を食べても、それまで食べた名だたる高級レストランのものと比べてもひけをとらないぐらい美味しかった事は覚えている。

聞けば、このことを知っている人は結構いるそうで、そういう予約が入った時はボロい店ながらもいつも正装で出迎えるのだという。
しかも、さらにびっくりした事はこの店のワインリスト。
元々独立したのはワインを楽しむ店を作りたかったからだという。

それでもどこまでも気さくなこのご主人。
「うちは『スズキのムニエル』も美味しいよ。3,500円でコース料理にするからいつでもいらっしゃい。」
また、ある時は「私の彼女が姉妹で行くので仔羊をひとり5,000円で出して!」と無理言った時も「しょうがないなあ」と言いつつも快く応じてくれた上に、彼女の話では「ご主人、白いコートだったよ」と言っていた。

残念ながらその後私は転勤して、戻ってきたときにはすでに営業していなかった(勘違い?)のでそれ以来行っていないが、ここを見ると結構最近まで営業していたようですね。
営業再開するようなら必ず訪問したい。
ただもう相当のお歳だと思うのですが・・・。

ギリシャ料理 スパルタ(by エリアス・スカンゾス)

その昔、世界の海運業の中心にいたギリシャ。

最盛期のここ横浜・曙町界隈にはギリシャ料理店だけではなく、15軒を超える「ギリシャバー」があったという。

連日ギリシャ人船員が多数訪れ、日本人は入れなかったほど盛況だったと聞く。

ところが’70年代後半には船員の殆どが中国やアジアの人々に替わり「ギリシャバー」は一気に衰退した。

写真は「(初代)スパルタ」があった建物。
2階のかつての「ギリシャバー」がわずかに当時の面影を残している。

横浜・曙町にあった5点満点のギリシャ料理「(初代)スパルタ」

「世界で最も好きな料理は?」と訊かれたら、私は迷う事なく「ギリシャ料理」と答える。

私はプライベートで4度ギリシャに行くほどのギリシャ好き。
私をこのようにギリシャ行きに駆り立てたのは、実は一軒のレストランのせいだと言っても過言ではない。

その店は、横浜・曙町の阪東橋駅近くの鎌倉通り沿いにあった「スパルタ」というギリシャ料理店。

当時、このあたりには、ギリシャの船乗りが多く訪れていて、ここ「スパルタ」の他「アテネ」「サロニコス」という3軒のギリシャ料理店があり、まさに日本におけるギリシャ料理の聖地だった。
中でも「スパルタ」は元・船乗りだったギリシャ人のオーナーシェフ、エリアス・スカンゾスさんの店で、濃淡のメリハリが効いたそれはそれは旨い料理を食べさせていた。

スターアニスの風味が漂うパンチの効いたミートソースとナスのグラタン「ムサカ」。
クミンとスパイスがアクセントになったラムの串焼き「スブラキ」。
炒めた茹で置きスパゲティにかかったミートソースの上にチーズとオリーブオイルをかけてさらにオーブンで焼き上げるという、これでもかというほど濃厚な「ギリシャ風スパゲティ」。
オリーブオイルとビネガーの塩梅が絶妙で、酸っぱくないがさっぱりとした米のブドウの葉包み「ドルマダキア」。
多少独特なにおいを残すが、ヨーグルトソースと共に食べるとそれゆえより一層深い味わいになるイカのフリット「カラマリ」。

思い出すだけでもよだれが垂れてくる。

現在の「スパルタ」を含むその後に訪れたどの店の料理とも違うオンリーワンの料理の数々。
ここの料理はどれも個性的で実に美味しかった。

また、この店は店内の一体感も半端なく、普段は無愛想なのに気分が乗ってくると突然踊りだすおばあちゃん(エリアスさんの奥さん)や、いかにも面倒見の良さそうな女性スタッフのキャラクターもあってか、自然に他の客とも話すようになる。

ある日、初心者や女性の方にはなかなか厳しいギリシャのお酒「ウゾ」の攻略法として、私がギリシャに行った時に見つけてアテネのタベルナ(食堂)でも好評だった「ファンタオレンジ割り」(当時の欧州では『オランジーナ』が主流だったが、ギリシャは昔も今も『ファンタ』が幅を利かせている)を連れの女性に勧めた時、怪訝そうなおばあちゃんを尻目に、女性スタッフが早速試して「これ美味しい」と言ったものだから、店じゅうが「ウゾのファンタ割り」で盛り上がったなんてこともあった。

そして、夜が更けて突然おばあちゃんが踊りだすと、他の店員やバーカウンターにいたバーテンや時には厨房からシェフも飛び込んでくると同時に客も引っ張り込まれて、気が付いたら見ず知らずの人と一緒にダンスを踊っているなんてことも珍しくなかった。
というか日常茶飯事だった。

とても楽しい体験ができる貴重なレストランだった。

正直言って、当時私がこの店を訪れる時は女性と来ることが多かった。
「外人墓地・港の見える丘・ギリシャ料理(中華街)・山下公園・ドルフィン」というのはデートに誘いやすかったから。
そんな時におばあちゃんが踊りだすと私は内心「シメた!」と思った。
食事の最後にこんな余興を体験するのは、女性にとってはとても印象に残る。

こんなこともあってか???私は学生時代から就職を経て地方勤務になるまで時々通っていた。

そして、私はこの間に2度ギリシャに出かけた。
そのきっかけは、最初にも書いたように、この店の存在に因ることが大きかったと思う。

1度目は、本場のギリシャ料理を飽食し、ラム肉と野菜をピタパンで巻いた「スブラキ・ピタ」や「ギロス」にハマり、ギリシャの歴史と人々のやさしさに触れ、特に、国民性という言葉では片づけられないその観光立国のホスピタリティ精神(おもてなし)は、その後の私自身のキャリアにも大きな影響を与えた。
(詳細は「MANDARIN ORIENTAL BANGKOK」のレビューに記してあります)

2度目の訪問は、前回訪問から4年半しかたっていなかったものの、その間の信じられないほどの急激なインフレ(貨幣価値1/4、物価2.5倍)で荒み切ったアテネの街や人々の心とは裏腹に、地方や島の人々の「おもてなし」や相変わらず美味しいギリシャ料理を堪能した。

余談ですが、その後、ギリシャの経済はユーロの導入やアテネ五輪によって一時的に持ち直したが、この頃から既に始まっていた既得権益者と非権益者との格差の拡大が、結果的に2008年の市民の暴動や国家財政の破たんを招くことになった。
おもてなしの国が世知辛くなったというあの頃のアテネで感じた人々の気持ちの変化と格差の誕生は、今の東京(日本)にも共通するものが感じられ、2020年の後が少し心配なのですが…。


ところが、地方勤務を終え久しぶりにこの店に訪れた時、「スパルタ」の料理はガラッと変わってしまっていた。
聞けば、オーナーシェフのエリアスさんは引退してギリシャに帰ってしまったとのこと。
新しいオーナーとシェフの店は、料理がどれもさっぱりしすぎていて面白みがない。
例えるなら、素人が「クックパッド」の通りに作ったらそれなりにできましたといった感じの料理ばかりで、少なくともプロの技や創造力を感じさせるものではなかった。
また、おばあちゃんも居なくなったせいか店も静かになった。

しばらくすると店は無くなってしまった。

数年後、友人から「スパルタ」が関内で復活したと連絡があった。
その店で料理をしていたのは、かつて「(初代)スパルタ」でバーテンダーをしていた人だった。
決して美味しくないわけではないが、少なくとも「(初代)スパルタ」とはまるで異なる毛色の料理だった。

それでも、私はその頃いろいろな所でギリシャ料理を食べていたので満足はしていた。
大阪勤務時代は神戸の「ミコノス」。
名古屋勤務時代は皿割りダンスをさせてくれて料理も美味しかった名店「アテネ」。
地元・埼玉では川越の「ヨルゴス」。
東京での職場に近かった六本木の「ダブルアックス」。
そして「(初代)スパルタ」無き後の横浜では本牧の名店「パルテノン」。
特に「パルテノン」は最も本場に近いなかなか美味しい料理を出していた。
少なくとも選択肢があった。

しかし「(二代目)スパルタ」以外の上記の店舗はその後全て閉店してしまった。
今となっては「(二代目)スパルタ」から一部の料理が卸されている同じ横浜の「オリンピア」のグループや東京・蒲田の「スピローズ」などほんの少数になってしまった。

私は今、専ら海外出張の時にギリシャ料理を楽しんでいる。
ロンドンのベイズウォーターやパリのサンミッシェル界隈のギリシャ料理店や、ニューヨークのブロンクスやカナダのトロントなどにあるギリシャ人街にも足を運んでいる。
海外(特に欧米の大都市)ではギリシャ料理は結構メジャーだ。

私はギリシャ料理は日本人に合うと思っている。
やり方次第では日本でもメジャーになれるとも思う。
特に、前述の「スブラキピタ」や「ギロス」はギリシャを訪れた日本人の多くがその虜になるという。

本場ギリシャを含む海外で多くのギリシャ料理を食べてきた私には、「(二代目)スパルタ」に限らず日本のギリシャ料理店がまずは益々美味しくなってくれることを心から願っている。

ただ…、

現在の「(二代目)スパルタ」のHPを見ると「日本で最も古い」とか「創業60数年」といった記載が見られますが、経営者もシェフも場所も違い、空白の時間があって、何より料理の系統や店の形態もまるで違う「(二代目)スパルタ」が、「(初代)スパルタ」から何を受け継いでいるのかという素朴な疑問を私はこの店を訪れるたびにいつも感じている。

「(初代)スパルタ」を知っている者から見れば、虚偽とは言わないが、このような宣伝文句で店の価値を高めようとする甘えた姿勢では、いつまで経っても何も期待できない。
極端に言えば、店名を替えてでも純粋に自分の味が認められるようになって欲しいと思っている。

いずれにしても、曙町の「(初代)スパルタ」は、私にとって永遠の5点満点。

写真は「(初代)スパルタ」のオーナーシェフ、エリアス・スカンゾスさんご夫妻。

今でも、ギリシャ以外でこのご夫妻が始めたこの店を超える店には出会っていない。

赤坂ラーメン (屋台)

かつて、溜池山王の日商岩井(現・双日)の向かい側、今の山王パークタワー前の交差点の傍らに一軒のラーメン屋台があった。

写真は、その屋台があった場所の現在の姿。

備忘録:日商岩井の前の伝説の屋台ラーメン

通称「赤坂ラーメン」。

一見すると豚骨ラーメンのような白濁のスープは、濃厚でありながら、どこか香味野菜の風味を感じさせるさわやかで後味の良いラーメンだった。

私も就職したての若造だった頃、会社帰りに同僚たちとよく寄ったものだ。

佐藤さんというご兄弟が営まれているこの屋台は、接客と麺茹ではいかにも人の良さそうな弟さんの担当で、寡黙なお兄さんは、よほど手間のかかるのか、いつもスープと格闘していた。

私たちはその後、このお兄さんが元高級クラブのシェフだった事を知った。
なるほど、だから普通の豚骨スープではなく「ブイヨン」の技法を持ち込んだものなのだと妙に納得したものだった。

とにかく抜群に旨かった。
特に冬の寒い日などは、残業の時も、飲んだ後も、ここで温かいラーメンを食べてから地下鉄に乗るというパターンが定着していた。

ところがある日、普段いらっしゃるはずのお兄さんが居ない。
聞けば、お兄さんはカラダを壊されたとの事。
しばらくすると屋台は無くなった。

だがこの屋台は、無くなったことによって逆に「伝説の屋台」として語り継がれるようになった。

その後私は地方勤務になったが、ある全国ネットのテレビの番組で、あの「赤坂ラーメン」が元利用者の熱烈なラブコールに応え、ラーメン店となって山王下で復活したことを知った。
あの佐藤さんの弟さんの方が店主として紹介されていた。

私は東京に帰任した後、同僚が止めるのも聞かずある日「赤坂ラーメン」を訪れた。
そこにはあの伝説の屋台の面影もない普通にライトな豚骨ラーメンしかなかった。
弟さんに訊いたところ、お兄さんはだいぶ前に亡くなられたとの事だった。

そんな事とは関係なく、当時の「赤坂ラーメン」は絶好調。
支店も出し、弟さんは「ラーメンのカリスマ」としてよくテレビにも出演していた。

「赤坂ラーメン」は、場所も経営者も変わりながら今も営業を続けている。
でも私たちは、その後二度と「赤坂ラーメン」に行く事は無かった。

そしてひとつ確実な事は、あの伝説の屋台の味はもう二度と食べることができないという事だ。

川菜

「川菜」は名古屋市東部の昔からある住宅地の一角に有った。

近くに住んでいた有名人のひとりに、名古屋グランパス時代のアーセン・ヴェンゲルがいる。

彼は、名古屋在住時代、餃子と焼売に異常なほどハマっていた事はあまり知られていないが、彼が通っていた店は残念ながらここではなかった。

ちなみにこの近くに有った「コメダ珈琲店本店」には時々姿を現していた。

備忘録:日本一の「担々麺」「麻婆豆腐」「海老チリ」・・・

かつて名古屋駅前の名古屋都ホテルの中に「四川」という中国料理店があった。
名古屋勤務時代の私はここの「担々麺」と「麻婆豆腐」が好きでよく主にランチで利用していた。
ところがある日、名古屋都ホテルが廃業し、同時に「四川」も閉店になった。

それからしばらくして、私の家の近くに「川菜」がオープンした。
この一帯は普通の住宅地ながら、ステーキ、寿司、鶏料理、そば・きしめん、とんかつ、イタリアン、味噌煮込みうどん、うなぎなど各分野では名古屋でもトップクラスの店が集い、あの有名な「コメダ珈琲店」の本店もある知る人ぞ知るグルメスポットだ。

その中でも好立地と言える場所に出来た中国語で”四川料理”を意味する「川菜」に私が行ったのは必然だった。

店の扉を開けると出迎えたのは見覚えのある顔。
元都ホテル「四川」の支配人だった。
メニューを見た。四川料理の名が並んでいた(店名から考えれば当たり前だが…)。
料理を食べれば、このあたりの中華料理店とは比べ物にならない洗練された見た目と味。
「担々麺」も「麻婆豆腐」も同じ味。いや、制約がない分それ以上になったかもしれない。
帰りに支配人に尋ねたら「料理人も『四川』に居た人です」と言っていた。

東京勤務時代に「四川飯店」グループの総本山である「赤坂四川飯店」や都ホテル東京の「四川」にも何度か行ったことがあるが、ここ「川菜」の方が自分には合っていた。
一時期、中国四川省の成都に仕事で通っていた時に、本場の四川料理や「陳麻婆豆腐店」にも行ったが、やはり日本人の私には比較の対象にはならなかった。
その後も転勤族・出張族の私はあちこちで中国料理も食べたが、少なくとも「担々麺」「麻婆豆腐」「海老チリ」に関してはここを上回る店には出会わなかった。

名古屋を離れてからも主に出張時を中心に時々訪れた。
最後に訪れた時も出張を利用して名古屋時代の友人たちと会食した。
しかし、残念ながら半年後に訪れた時にはもう店は無かった。
移転先も不明なのだそうだ。

兆候はあった。
昔に比べていつ行っても混みあっていない。ガラガラな日もあった。
末期は味も少し変わったような気がした(料理人が代わったのかな?)。
値段もこの立地と席数にしては高すぎる気もしていた。
支配人に商売っ気が感じられないのも心配だった。
私は友人数家族とよく会食をしていて「四川」の個室を借りた事もある(子供がいるので)。
この店でも、店の半分を借り切った事もあった。
なのにここの支配人は淡々としている。
私が接待で使った時などはもっと気を遣ってくれてもと思っていた。
(単に私が良い客ではなかったのかもしれないが・・・)

いずれにしても、私は私にとって日本一の「担々麺」「麻婆豆腐」「海老チリ」を失った。
あの料理人はどこに行ったのだろう?
あれから7年。私にとってのこの店の代わりは未だに見つかっていない。

「川菜」(ツェンツァイ)の名のごとく、本当に「再見」(ツァイツェン:さよならの意味)なのか?

海員閣

横浜中華街。

「海員閣」は昔も今も絶えずその中心に居続けた。そして、30年以上に渡り、毎日毎日変わらぬ大行列を作り続けてきた。

店は決して綺麗じゃない。
店員の愛想も良いわけではない。
でも料理は抜群に旨かった。

周囲の店が今風の料理に迎合してゆく中においても、決してブレることなく我が道を貫いてきた。

惜しまれつつ2017年7月をもって閉店したが、今も多くのファンがその復活を願っている。

備忘録:THIS IS THE 中華街

私は学生時代からよく中華街に通っていた。
元々中華料理が好きだったこともあるが、「中華街」「外人墓地」「ドルフィン」と言うとデートに誘いやすかったという側面があったことは否定しない。
また、毎年横浜スタジアムでイベントを行っていて年に10日ぐらい泊まり込む時もあった。

そんなことで、昼夜問わず中華街の姿を見てきたが、同じく昼夜を問わずいつも大行列が出来ていたのがここ「海員閣」だった。

でも、デートであれ、飲み会であれ、なかなかこういう店は使いにくい。
就職してからは、昼食ではよく中華街を訪れたが、当時は多くの店が5・600円程度でランチを出していたので、時間も金もない私たちはどうしてもそちらに行ってしまう。

しかもその頃は、それまで30軒以上の店を訪れた中で「(先代の)四五六菜館」にハマっていたので、接待や会食などでは「聘珍樓」や「萬珍樓 」などに行くことがあっても、美味しいものが食べたい時は、高級店や大行列より「四五六菜館」の不思議な味に魅力を感じていたのも事実。

しかしその後、「四五六菜館」も代替わりして、それまで時々行っていた「鴻昌」や「山東」なども同じように味が変わってゆく中、新規開拓の必要性に迫られて、ついにあの「海員閣」に行こうと決心するに至った。

ただ「海員閣」に行くためには作戦が必要だ。
我が家は開店1時間前から子供も含めて交代で並ぶ方法で大行列を攻略した。

初めての訪問時は「焼売」「辛海老」「牛バラ飯」など評判の良いメニューから始めた。
評判通りというか評判以上に美味しい。

特に「焼売」はいわゆる焼売の形でなく、ゴツゴツのハンバーグに破けた皮を付けた感じだが、中にいろいろなものが入っていてとても美味しい。

「牛バラ飯」も八角の香りが食欲をそそり、ひと口食べるとトロットロの牛肉が口の中で溶ける。

私たちは一発でこの店の個性あふれる料理にハマってしまった。

確かに、特徴があるがゆえに好き嫌いはあるかもしれない。
私たちも人気の「辛海老」や「五目焼きそば」などは頼まず、「焼売」「牛バラ飯」「豚バラ麺」を中心に、人数と体調で追加オーダーをするのが常になった。

いずれにしても、私たちは中華街に行くと決めたら、まず「海員閣」へ行くことを前提にスケジュールを組むようになった。

そして席はほとんどいつも2階のおばちゃんのすぐ前の座敷。
ここにいると無視されず飲み物のオーダーもすぐできる。
おばちゃんとも仲良くなれていろいろやってくれる。

口コミを見ると、時々サービスが良くない旨が書かれているが、私たちはそう感じたことは一切なかった。

でも閉店してしまったのはショック。
ここはどの料理を食べても「オンリーワン」だから替えがきかない。
ただでさえ、最近の中華街は個性がなくなってきているので、わざわざ行く必要を感じくなってきた。

先日、近くまで行ったので店の前を通った。
「再開していてくれ」と願ったがダメだった。逆に「海員閣」の看板の「員」の字がなくなっていた。
「再開するときはHPなどで告知します」と書かれた貼り紙がむなしい。

再開は無いような気がしてきた。

ビストロ・ヴァンサンク

大阪・心斎橋にある「ル・ヴァンサンク」。

かつて「ビストロ・ヴァンサンク」の名で、大阪の街場のフレンチレストランの代表として孤軍奮闘していた名店。

初代シェフは、新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)出身の原彬容氏。

まさに伝説のレストランだ。

備忘録:「ビストロ・ヴァンサンク」から「ル・ヴァンサンク」へ

今から約30年前、「ビストロ・ヴァンサンク」のことを私に教えてくれたのは、全日空・シェラトンホテル内のレストラン「ローズルーム」のシェフだった横田知義氏だった。

「ローズルーム」は出張で来た時に地元スタッフと初めて訪れた。
手間を惜しまないことがよくわかるその料理を私はとても気に入ってよく利用していていた。
その後、私は転勤で大阪勤務になり、横田さんも喜んでくれていろいろと話すようになった。

大阪の名物料理や有名な店、関西のフレンチ事情など、主に料理に関する話が多かったが、元々話好きなのか、時には閉店時刻を超えても延々と話し込むこともあった。

横田さんが言うには、当時最も売れていたグルメ本で「ローズルーム」と並んで大阪で最高評価を受けていたのが心斎橋の「ビストロ・ヴァンサンク」で、そしてそこのシェフ・原彬容氏は自分の先輩だけど、ヌーベルキュイジーヌの要素が強い自分とは違って、古典料理が得意な人だという事などを教えてくれた。

後日、さっそく「ビストロ・ヴァンサンク」に行ってみた。

「ビストロ」というのでもっと気楽な雰囲気なのかと思っていたら、普通のフレンチレストランだった。
料理もビストロ的な要素は全くなく、完全無欠な高級フレンチ。
ただ、メニューを見る限り、古典料理の中にもヌーベル系の料理も多くみられた。

客層もそれなりに良くて、中にはドレスで訪れている人もいた。
この日私は「ビストロ仕様」の少々ラフな服装だったので完全に浮いていた。
「出直すね」と言って帰ろうとしたところを「気にしないでください」と迎えてくれたのはありがたかったけど・・・。

オードブルは「赤ムツ(ノドグロ)のナージュ風」。
いかにも大阪らしい派手なメニューだが、赤ムツのせいかナージュ風独特のパサパサ感が全く感じられない味わい深い逸品だった。

メインは「仔羊の香草ロースト」。
通常の倍の厚さのラムラックにたっぷりと少しドロッとした香草パン粉を塗って焼き上げてある。
ダブルサイズで出すことによって、強めに焼いた香草パン粉の香ばしさと、柔らかい赤身が両立してとても美味しく仕上がっている。

計算された料理の数々は見事だと思った。
と同時に、これだけの料理の割には価格が抑えめなのでコストパフォーマンスの高さは抜群だった。

その後は、初めての大阪住まいなので新規開拓に勤しんだこともあって年に2回ぐらいの訪問になったが、古典料理からヌーベル系まで大いに楽しませてもらった。
ただ、「ビストロ・・・」名のためか、初めて訪問した時の私のような客が必ずいた。
「名前を変えたほうが良いのでは?」といつも言っていたのに・・・。

でも、この店は「ローズルーム」や閉館してしまったプラザホテルの「ル・ランデブー」と並んで、私の中では関西を代表するフレンチだった。

ただ、大阪を離れてからは一度だけしか行けなかった。
住んでみて、大阪には美味しいものが他にもいっぱいあることを知ってしまったからね。

それに加えて、大阪のフレンチはサービスのレベルがイマイチだとも思った。
ここも、「ローズルーム」も、神戸の「ジャン・ムーラン」「アラン・シャペル」「ラ・コート・ドール」なども、料理は旨いがサービスがそのレベルに追いついていない。

東京やパリでフレンチを食べる機会に恵まれた私にとっては、高額な料理の対価には当然サービスも含まれているという考えなので、サービスの未熟な店にはどうしても積極的に足が向くことはない。

良質なサービスができていると思ったのは、「シャンボール」と「ル・ランデブー」だけだった。
奇しくも2店とも老舗ホテルのフレンチだ。
特にロイヤルホテルの「シャンボール」は、向上心あふれる若手ギャルソンが多く感心した。
(詳しくは「シャンボール」のログを参照)

そうこうしているうちに、「ビストロ・ヴァンサンク」は私の忠告通り???に「ル・ヴァンサンク」に改名し、原さんが勇退した後を、なんと私にこの店を教えてくれた横田さんが継ぐことになった。
(確か原さんには料理人の息子さんがいると聞いていたのだが・・・?)

横田さんとは、彼が大阪を離れてからは、私が別の仕事で東京のANAホテルに行ったときに一度お会いしただけだが、懐かしい「ヴァンサンク」を継がれたなら是非お邪魔したいと思って、連絡も入れて機会をうかがっていたのだが・・・。

2014年の春だったか、大阪の仲間から横田さんの訃報が届いた。

約束が果たせなかったことや、時おり自慢話を織り交ぜた軽妙な語り口の話がもう聞けない事も然りだが、あの美味しい料理が食べられなくなったことが何より残念だ。

かつて「ローズルーム」で横田さんの「鳩」料理を食べたことがある。
その数か月後に食べたパリの「ランブロワジー」での癖のある素材ばかりと組み合わせたワイルドな「鳩」とは全くの対照的な優しい味の「鳩」は今でも忘れられない衝撃的な一皿だった。

また、リヨンの「ポール・ボキューズ」では、私の予約ソースが大阪にある有名料理学校だったため、ベテランのギャルソンが「ムッシュ・ヨコタを知ってるか?彼はここで私と一緒に働いていたんだぜ」と言ってきて、いろいろと良くしてもらったこともあった。

その後、「ル・ヴァンサンク」は3代続いた個人経営のレストランから、企業経営のレストランとして生まれ変わったという。

横田さんの死は、大阪で40年続いた街場のフレンチの雄の終焉でもあった。
心よりのご冥福を申し上げます。

今庄そば (名古屋テルミナ店)

今庄そば テルミナ店

今庄という街は、福井県の中央部南越前町にある集落(昔は町だった)で、北陸トンネルの北の入り口のある。

ここは古くからそば所としては有名で、いわゆる越前そばの発祥と言われている。

特徴は、平打ち麺と甘いつゆ。
ざるそばではなく写真のようにどんぶりで、おろし又は山掛けで食べるのが一般的。

ただ、ここでご紹介するのはかつて名古屋にあった同名のそば店のことです。

備忘録:オンリーワンのそば

私はこの店に「そば」の美味しさを教えてもらったといっても過言ではない。

私が名古屋勤務時代に知った事だが、名古屋には実に多くの「めんつゆ」がある。
そもそも名古屋近辺の麺文化は豊富で、「うどん」「そば」はもちろん、「きしめん」「味噌煮込み」「カレーうどん」、案外メジャーな「ひやむぎ」等々、パッと思いつくだけでも多いのは間違いない。

めんつゆの種類も、「かつおだし」「こんぶとかつおだし」「混合だし」「かつおと鶏だし」に、「薄口醤油」「濃口醤油」「味噌」「カレー」・・・メジャーなものだけでもこれだけある。

一般に「関東風」と呼ばれる「かつおだしの濃口醤油」は「うどん」「そば」「ひやむぎ」などに、
「関西風」と言われる「昆布とかつおの薄口醤油」は「うどん」に、「かつおと鶏だしの濃口醤油」は主に「きしめん」、「混合だし」は主に「味噌煮込み」や「カレーうどん」に使われるが、名古屋では、それをそのまま「きしめん」や「そば」にも使っているところも多い。

ちなみに、この「混合だし」は味噌やカレーの風味に負けない出汁として使われているが、この出汁で「温かいそば」を食べると実に旨い。
私が名古屋時代に住んでいた昭和区にあった「諏訪屋」という店や、現在は無くなってしまった名鉄名古屋駅の地下コンコースに有った立喰いそば屋などはこのつゆを使っていてよく食べに行ったものだ。

もうひとつ余談だが、美味しいと評判のJR名古屋駅の在来線ホームのきしめんは、現在はどうか知らないが、当時は「かつお」だけではなく「かつおと鶏だし」を使っていた。

さて、話を「今庄そば」に戻そう。
「今庄そば」はかつて名古屋駅新幹線口地下街「エスカ」にもあって、名古屋勤務以前の出張時などにもよく利用していた。

ここのそばは、別に手打ちとかそば粉にこだわっているわけでもないようだが、作り方にはとてもこだわっていて、そばの締め方や盛り方などはいつも一定で、特に「もりそば」は他の店に比べて少し冷たく締めるのだという。

でも、最も違うのは「つけつゆ」。
ここのつゆは、関西風の「薄口醤油」なのだがとても甘い。
ところが「うどん」や「ひやむぎ」には合わないこの甘さが、こと「そば」となると見事に合う。

確かに今庄のある福井県の越前そばのつゆは全体的に甘い。
だからそのまま食べても旨いが「おろしだれ」にすると尚旨いと言われている。
実際にこの店でも「海老おろしそば」が一番人気だったという。

ただ、この店の主人に言わせると、この軽い甘さを味わうためにそばの温度を下げているのだと言う。
確かに、これでそばが冷たくなかったらさほど美味しく感じることはないかもしれない。


私は、そば好きだった父の影響を受けて「うどん」よりも「そば派」だった。
それは今も変わらない。
ただ、関東風の醤油の強いつけ汁も、関西風の甘くない薄口醤油のつけ汁も、そばのつけつゆとしてはなんとなく違和感を感じていた。
唯一甘いつゆだった「出雲そば」もそばの風味が弱いとやはり醤油の風味が気になっていた。
案外、塩がいちばん合っているのではないかとも思っていた。
または、そばは温かい方が美味しいのではないかとも思っていた。

ところが、私が初めてこの店で「もりそば」を食べた時、子供のころから感じていた違和感が一気に解決したように感じた。
そして、ここの主人が教えてくれた「塩を少しのせてこのつけつゆで食べるのが最も美味しい」という案を全面的に支持する。


だが、残念ながら「エスカ店」が閉店し、残っていたここ「テルミナ店」も閉店してしまった。
未だ似たような店を見つけるには至っていない。

コンキリエ

沖縄・石垣島の市街地から車で15~20分、サンゴ鑑賞のボートで有名な川平湾に行く途中の、夕陽のきれいな名蔵という海に近い集落の中で、民家に囲まれるようにひっそりとこの店はあった。



備忘録:石垣島の知る人ぞ知るイタリアンの名店

私が沖縄勤務時代、仕事上の担当エリアだった石垣島には、子供たちの休みの時期になると私の出張に合わせてよく家族を呼び寄せて遊ばせていた。

その時、必ず食事をする場所は、焼肉の「やまもと」、最北端のソーキそば屋「明石食堂」とここイタリア料理「コンキリエ」がお約束だった。
この3つの店は、沖縄本島の同ジャンルの中でも特に右に出る店がないため、石垣島に来た時に通っていたのである。

中でも、ここ「コンキリエ」は市街地や観光地から離れた名蔵という地区にある集落に目立たぬようにあって、石垣の人でも知らない人が多いイタリアンレストランだった。

でも、料理はとても美味しく、全国的に見てもなかなかないレベルといっても過言ではない。
しかも王道ながらもひと工夫あるものが多く、ピザのチーズは塩加減を押さえたまろやかで食べやすいものだったり、パスタもオリジナリティーにあふれた超大盛りの皿が売り物だった。

私たちはここに行くと、「エビとトマトのサラダ」「ジプシーネ(仔牛煮込みソース)」と「ピザ1種類」をベースに、人数や空腹度合いで追加してゆくのが常だった。
「ジプシーネ」以外には「エビバター」や「アラビアータ」、海の幸をふんだんに使った「ペスカトーレ」などをよく頼んでいた。
また「牛ロースの赤ワインソース」や「ガーリックチキン」などの一品料理も美味しい。

しかも、とても安くて、夕食に食べ盛りの子供を連れて行っても、酒を飲まなければひとり1,000円台でおさまる。

したがって、普段はとても混んでいて、私たちはいつも夕食の開始時間の17:00前後には到着して1巡目に入店することを目指した。
そうしないと最低4・50分は待つことになるからだ。

もっとも、それぐらい待つ価値は十分あると思うけど・・・。

今回は、以前この島を担当していた私の久々の石垣出張だったので、現地スタッフや取引先の人々が気を遣ってくれて、短い滞在時間の中で盛り沢山の行事を詰め込んでくれて、ようやく自分の時間が持てたのは最終日の夕方だった。

空港に行く前に若手のスタッフと最後にここ「コンキリエ」に行こうと誘ったら「あの店無くなったんですよ」と言われた。
もともと「冬季休業」や「臨時休業」はよくある店なので「その類では?」と言ったところ、昨シーズンの終了時に完全閉店する旨の新聞告知があったとのこと。

跡継ぎの問題なのか、ご家庭の都合なのか(元々ナイチャーなので)わからないけど、残念なことだ。

八ヶ岳高原ヒュッテ

私にとっては、ここを語るうえで「高原へいらっしゃい」というテレビドラマを外すことはできない。

昭和51年版・・・田宮二郎主演、前田吟、由美かおる、益田喜頓、潮哲也等出演。

平成15年版・・・佐藤浩市主演、西村正彦、井川遥、菅原文太、平山浩行等出演。

どちらがお好みかは、世代や好みによって違うことだろう。

備忘録:「高原へいらっしゃい」

私は、田宮二郎版を観て、このホテルが実在するなら行ってみたいと思って訪れたのが最初だった。

今から35年ほど前、大学時代に友人たちと訪れたときは宿泊施設はクローズしていて、1階のロビーで挽きたていれたてのコーヒーが売り物のティールームだけが営業していた。
館内に漂うコーヒーの香りは、それはそれでひとつの趣を演出していた。
見学客が多かったのでそれで充分にペイしていたのだろう。

次に訪れたのがその7・8年後のこと。
このホテルの運営会社に勤めていた先輩のコネで、妻と「八ヶ岳高原ロッジ」に宿泊して、レストランとして再開していたここでフレンチのフルコースをいただいた。
料理自体は、美味しいものの取り立てて見るべきものがあったわけではないが、料理長役だった益田喜頓さんが作っていてくれるような錯覚に陥りながら感慨深くいただいた。

さらにその2・3年後?(少し記憶があいまいながら)宿泊を再開したと聞き再度訪れた。
かなりくたびれた客室だった上に、このときはティールームとバー以外は、朝食もすべて「八ヶ岳高原ロッジ」で摂る必要があったために多少の不便はあったが、窓から見える景色と田宮二郎や潮哲也さんのような従業員(前田吟さんのようなうるさそうな人はいなかった・・・笑)の心温まるサービスを堪能しながら滞在した。

実に素晴らしい体験だった。

もちろん滞在中には、ずっと私の頭の中にはドラマの主題歌である小室等さんの「お早うの朝」が流れていたことは言うまでもない。


今でも、この荘厳ながらどこか優しい雰囲気を醸し出しているその建物を見るだけで、様々な思い出がよみがえってくるのだ。

ジャマン(by Joël Robuchon)

ジョエル・ロビュションは、「ホテル日航・ド・パリ(現・ノボテル・パリ・センター)」の「レ・セレブリテ」時代の1981年に初めてミシュラン一つ星を獲得。
その年に独立して、パリ16区に「ジャマン」開店。翌年から毎年星をひとつづつ積み上げ、1984年、開店からの最短記録で三ッ星を獲得した。

現在は世界11カ国に自身の名の付く店がある。

備忘録:「ジャマン」から「ジョエル・ロビュション」へ

私が初めてジョエル・ロビュションの店を訪れたのは、彼が「ホテル日航・ド・パリ」の「レ・セレブリテ」から独立し開店した「ジャマン」で三ッ星を獲得した翌年の事。
その頃すでにアラン・サンドランスとナンバーワンシェフの座を争っていたロビュション。
その彼の店を訪れたのはちょっとした偶然だった。

当時まだ学生だった私は、欧州各地を貧乏旅行で楽しんでいた。
ある日の午後、エッフェル塔の近くを歩いていたら、同じ年頃の日本人の男が話しかけてきた。
彼は東大の学生で、私の友人と同じゼミだというという事もあって意気投合。
世界一独り飯が侘しいパリという事もあって、私は軽い気持ちで夕食を共にする約束をした。

ところが彼は「スーツ持ってきてますか?」と尋ねてきた。
実は私も欧州旅行ならドレスコードの厳しい所もあるだろうと思って、バックパックにジャケット&タイや革靴を忍ばせて旅をしていた。

聞けば、彼は春から大蔵省(現・財務省)への入省が決まっていて、先輩から紹介された外務省の人に「行きたいレストランがあればどこでも予約を取ってやる」と言われたとの事。(こんなこと書いて大丈夫かな?)
「どこか良いレストラン知ってる?」と訊かれたので、渡りに船とばかりにニワカ知識で知っていたロビュションの「ジャマン」かサンドランスの「ルカ・カールトン」を提案した。

ただ、さすがに天下の外務省でもこのふたつのレストランへの当日予約は無理だったようで、結局二日後の「ジャマン」のランチなら取れるという返事だった。

私はこれでこの話は無くなると思っていたが、東大生は私がこの二人の料理人について色々と話したせいか「どうしても行きたい」と言い出して、二日後の昼に再度待ち合わせて、なんと「ジャマン」に行く事になった。

当時の「ジャマン」にはランチコースはなく、アラカルトのみだった。
私は、学生時代からバイト先のオーナーの紹介で銀座の「レカン」に出入りしていたので、立ち振る舞いやメニューについてはある程度分かっていたが、東大生の彼には大変な経験だったと思う。
結局彼は私と同じものを頼んだ。

私が選んだのは、薄くスライスしたジャガイモにトリュフとタップナードが挟んである一品(名は失念)。
当時は「ロビュションと言えばジャガイモ」と言われていたぐらいだったので、付け合わせではなく、直球勝負のチョイスをしてみた。

ジャガイモはブイヨンで茹でただけなのだが、芋臭さは全くなく、芋だけ食べても充分な味わいを持っていた。
タップナードはセップ茸をベースにしたものとパテ(リエット?)をベースにしたものの2種類だった思う。
それにトリュフがタップナードとほぼ同量入っているというぜいたくな皿だった。

かなりの量だったが、飽きることなくとても美味しく食べられた。
この料理は、おそらく恵比寿の「タイユバン・ロビュション」がオープンした時に一世を風靡した「ホタテとトリュフのカルパッチョ」の原型になった料理だと思われる。

メインは「平目のキャビアのせ」。
大きな平目の上にかなりの量のキャビアが乗っていた。
付け合わせには例によってジャガイモのフォンダンが添えられていた。

でも、この料理の主役は明らかにジャガイモ。
とろとろのジャガイモが平目とキャビアを上手く結びつけている。
さすが「ジャガイモのロビュション」の面目躍如だ。

そしてチーズとデザート。
私の初ロビュションはこうして終わった。
これから先、あちこちで長い付き合いになるとはこの時は思ってはいなかった。

連れの東大生の彼は、ワインと食べ過ぎで少々お疲れのようだった。
彼とはその後東京で一度会っただけだが、今どうしているのだろう?
立派な官僚になっていると良いのだが・・・。
思わぬ形で私に初ロビュションの機会を与えてくれた事には感謝している。

その後「ジャマン」は移転して「ジョエル・ロビュション」と改名したが、1996年にかねてからの発言通りに引退・閉店し、パリにおいては、2003年にサンジェルマン、2010年にシャンゼリゼに再度店をオープンした。

2018年8月7日加筆。

昨日、ジョエル・ロビュション氏が逝去された。

ここ「ジャマン」で初めて出会ってから、移転した「ジョエル・ロビュション」、恵比寿の「タイユバン・ロビュション」、六本木やパリ・サンジェルマンの「ラトリエ」、マカオの「ドム」…、いろいろな所で客として訪れる事が出来た。
頻度はさほど多くないが、結局35年近くの長い付き合いになった。
料理のスタイルは大きく変わったが、ただ美味しいという一点でいつも私を楽しませてくれた。

昨年6月、長年のライバルだった「巨匠(ムッシュ)」アラン・サンドランス氏が亡くなった。
今年の1月には、「神様」ポール・ボキューズ氏も後を追った。
ヌーベルキュイジーヌの旗頭として長年にあたりフランス料理界を引っ張った3人の相次ぐ逝去で間違いなくフランス料理界はひとつの時代の終焉を迎えた。

それにしても、私には3人が天国で料理談義を戦わせている様子があまりにも容易に想像できる。
何だかとても楽しそうだと思うのは私だけだろうか。

今夜は彼の若き日の象徴的食材「じゃがいも」で彼を偲ぼうとしたが、あいにく山奥に旅行中の為、ポテトチップスと土産用に買った地ワインで献杯することにした。

※本記事は、2018/08/07に更新されています。内容、金額、メニュー等が現在と異なる場合がありますので、訪問の際は必ず事前に電話等でご確認ください。

ページの先頭へ