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もうお店の中に入った瞬間から、一つの劇が始まったような甘い夢心地を感じていました。
まだお店は口あけ。わたしの前にお客様はいません。お店の扉を奥様が開けて下さり、足を一歩お店の中に踏みいれます。
フレッシュなカレースパイスの香りに歓迎されました。自分史にはない、初めて経験する、どのカレー屋さんとも違う、店内にかすかにただよう眠りから覚めたばかり、と感じさせるスパイス、香辛料のかぐわしい香り。もう序章から引き込まれ、期待のボルテージは一気にあがります。
一番奥の4人掛けのテーブルに案内されました。一人だったので、カウンターで結構ですよ、と言いかけましたが、奥様の言葉に、外でお待ちいただいて申し訳なかったけど今からどうか楽しんでください、との温かい気持ちを感じて素直に従いました。ほんとうにこじんまりしたお店ですが、ほっとする温かさを感じます。なぜでしょうか?
もう答えは簡単です。すべて、手作りだからです。すべて、おそらくはご主人と奥様が一生懸命に作られたものばかり。カレーの作り方を書いた説明文を載せたボードが正面に掲げてありますが、手作り。カウンター左手に36種類のスパイスを入れた36個のガラス容器に貼られたスパイスの説明もすべて手書き。見事です。そう言えば、お店の外に手作りの看板が何枚かありました。奇をてらわず気持ちを込めて作っている情景までもが浮かんできそうです。
自分たちがお客様にお出しするカレーは、こうして作るんですよ、と手作りボードに書かれている文字に目がいきました。表現は控えめですが、ご主人の並々ならぬ決意と自信を感じざるを得ません。少し書きとめました。
「欧風カレーとシチューの専門店「トマト」にご来店いただき、誠にありがとうございます。
シチューはたっぷりの野菜と肉を煮込んでは濾しという作業をくり返して、それぞれの素材の持ち味が、フォンドボー、ブーケガルニ、ワインとともに混然と溶け合ったソースをベースに、厳選した牛肉や四季おりおりの野菜を加えた煮込み料理です。
カレーは、香味野菜、フォンドボー、グラスドビアンをたっぷり使った旨みを生かしたこしのあるソースに、薬効ある34種のホールスパイスを含む36種類のスパイスをブレンドしてじっくりと一週間以上をかけて丹念に仕上げました。」
この文章から、わたしは御主人のなみなみならぬ決意と自信を感じました。カレーに限って言えば、(納得いくまで)「たっぷり使った」、(他ではまねのできない)「こしのあるソース」、(他ではまねのできない)「36種類のスパイスをブレンドして」丹念に仕上げたのです。
このカッコ内が、自信であり、また絶対に手を抜かない、宣言した通りの作り方をする、という決意の表れではないかと感じたのです。
お店のカウンターの左端に、ガラスのビンにそれぞれ個別に入れられたスパイスには、ひと瓶ずつラベルが貼られ、ラベルには説明が手書きで書かれてます。
和漢名 アニス(Anise)
科名、原産・主産地、香味の特徴、薬効が、几帳面なインクの手書き文字で書かれていますよ。まあ、実物を見ないと分かりにくいでしょうが、まったく根気の要る仕事で感心しきりでした。
この日のオーダーは前の日から決めていた和牛ビーフカレー(中辛)と季節の野菜。
さて、お料理をいただくまえに汚れて感度の鈍くなったのど、舌、咽喉から食道から胃までリフレッシュするためによく冷えたビールをいただきます。じんわりと五感が眠りから覚め始めました。準備万端です。
いよいよ、お料理の登場です。奥様がテーブルまで持ってきて下さいました。
それが、写真のカレーです。まず、見た目よりカレーのスパイスが立った強烈な香りのパンチに見舞われます。もう、今の今生まれ変わって命を吹き込まれた香りです。ホールスパイス独特の今までずっと蓄えていた香りを一挙に解き放たれて自由浮遊始めた香りです。この画面に香り機能があったら、おすそ分けできるんですけど。22世紀には必ずこの香りを届けると約束しますけど、今はだめ。お店に出向くしかありません。
鼻がくんくんなってます。
まあ、濃そうなカレーですね。季節の野菜はカレーの中で出番を待ってます。一緒に最後合わせたもので、これはトッピングではありません。もうこれは絶対ごはんと一緒でないとね。ごはんの上に、スプーンですくったカレーをのせます。玉ねぎピクルスと福神づけも一緒。インドカレーではなく、日本荻窪生まれのイングリッシュ・カレー。ナンではなく、ごはん。
なんだこりゃのうまさ。もうすでにぶっとんでます。カレーにもコクがあるんだ、と。強烈なスパイスの香りが自分のからだを包んでくれるよう。コク味のカレーとごはんを口に含み、はふはふ食べ進みます。うまいなあ、しみじみ。いろんな野菜が出てきて、宝探しのよう。あれ、マツタケも出てきました。小ぶりのオクラ、パプリカ、大根、にんじん、ぎんなん、さつまいも、じゃがいもなんかの大きくカットされた野菜は発見できましたが、スパイスだらけのカレーに埋蔵された小者はなかなか見つけることができません。こんなカレー初めて。自分も料理がすきで、よく台所に立ちますが、このカレーはちょとマネできません。スパイス、野菜、肉、ワインなど全く同じ素材を渡されても全くどうやってこの味になるのか、見当もつきません。試行錯誤の末、もちろんそうなんでしょうが、わたしなら100年くらい試行錯誤やっても、ここにたどり着く自信なし。このうまさ、どう説明したらいいんだ。
こしのあるカレー、うまいこと言う。その通り、で、それしか言えない。
あの目隠ししてAとBを食べ比べて、50000円のワインか500円のワインか当てる番組あったでしょ。トマトのカレーなら絶対に間違えっこないうまさ。全然説明になってないわ、これじゃあ。
オヤジ、すごいぞゥ。こころからの喝采をおくりました。カレー部門全国一位のカレーですが、カレーのわくを超えたカレーという感じです。
食べている途中で噛んでつぶれるスパイスもあります。そして、強烈な香りの強襲。計算づくなんでしょ、にくいよ。ホントそのおいしさにしびれながら、うわさの玉ねぎピクルスをぽりぽり一緒にわっさわっさカレーをいただきました。これも、ご主人、計算に入っているんでしょ。
値段は決して安くないです。安さも大事ですが、この御主人、とにかく必要な食材を躊躇なく使い理想の味を追求していて、どうしてもこの値段になっちゃうんですよね、きっと。お財布と相談して、半年に一度か1年に一度のご褒美ということで。
デザートが付いてました。ぶどうのアイスクリームです。上に乗った巨峰もリキュールに漬けてあって、まあ手を抜くことをしません。ごちそうさまでした。
お店から出ていくのは、ちょっといやだなー、もう少しここにいたい、と思いながらも、次のお客さんのためご夫婦に感謝を述べて、雨降る荻窪の雑踏のなかへ消えていきました。