南棟5階、緩和ケア病棟。
素晴らしい看護士さんたちでした。
家族でも到底真似できない献身的なケアとホスピタリテイでした。。。
1時間ごとの痰の吸引、床ずれ防止の体の入れ替え。
全身のお清め、歯磨き・爪切り、そして排泄物の世話。
いつも笑顔で父に、そして家族に話しかけてくれましたね。
「白衣の天使は実在するんだ」
心からそう思いました。
ナースボタンを押すと、どんな時も、何時であろうと嫌な顔一つせず来てくれました。
鼓動も呼吸もしなくなった父を、お風呂に入れてくれたのもあなたたちでした。
変色した顔や注射痕の残る腕に化粧をしてくれました。
まるで、映画「おくりびと」さながらのシーンでした。
『息子さんもどうぞ』と、ベージュのドーランを分けてくれましたね。
私はそれを注射の跡が痛々しい父の左腕に塗りました。
太かった腕は、骨と皮だけになり私の手の中でなすがままでした。
あまりに小さくなった父を、顔を、体を見ているのが辛すぎるので、
ずっと違うことを考えていました。
あなたたちのようなナースが働く病院、病棟で最期を迎え間違いなく父は幸せでした。
心からの感謝の気持ちを家族一同抱いています。
病院から車に乗って出ていく私たちに、深々と頭を下げてくれた姿は一生忘れません。
妹よ。
長期休暇を取り、ずっと病院に寝泊まりしてくれました。
体を張って、老いた母さんとともに父さんを看病してくれました。
狭い病室で二人寝るなんて、しんどかったはず。
父さんが意識をなくし昏睡状態に陥った時、兄はまだ大阪にいました。
あわてて帰ったけど、最後まで父さんは意識を戻しませんでした。
3日目の深夜、呼吸が浅くなったとき電話をくれたのもキミでした。
10分後病室に駆け付けた時、まだ父さんは呼吸をし、脈を打っていた。
結局キミのおかげで父さんの最期を看取ることができたのです。
ありがとう。
ダメな兄貴を支えてくれ、母さんの負担を減らしてくれました。
キミがそばにいることが、何よりも父さんは嬉しかったと思うのです。
本当にありがとう。
頼りにならない兄貴で申し訳なかった。
母さん。
何十年もコマネズミのように働き、全ての家事をこなしていた母さん。
そんな母さんが杖をついて歩く姿を見るのは心が痛いよ。
入退院を繰り返す父さんに付き添い、献身的に看病する母さんを
僕たちは、ただただ見ているしかなかったよ。
自分も病気も抱えながら父さんに付き添ってる母さんは、病人よりも痛々しかった。
意思疎通が難しくなっても、意識がなくなった後も、一生懸命父さんに話しかけていたね。
看護士さんが、「耳は聞こえていますよ」、そう言っていたから頑なに守っていたんだね。
夫婦の絆がこんなにも深いものかと、改めて思い知らされたよ。
長い、本当に長かった看病生活。
お疲れ様でした。
照れくさくて言ったことはないけど、僕たち兄妹は母さんが大好きだよ。
昔からずーーっとね。
今回父さんの喪主をしたけど、母さんの喪主だけはいやだ。
多分、いや間違いなくグダグダになるね。
母さんの葬式をするくらいなら僕が先に逝きたいとさえ思うんだ。
どんな形でもいいから、ずっと生きていてほしい。。。。
父さん。
あれは2年前の盆休みだったよね。
「実は医者から余命2年と言われたんじゃー」と僕に話してくれたのは。。。
そういう意味では医者の見立ては当たっていたんだね。
僕はあなたほど愛情深い人を知らない。
誰彼かまわず世話を焼き、相手の懐に飛び込む。
物怖じするということを知らない、豪胆でおせっかいな性格。
だからだろうね、通夜・葬儀には実にたくさんの人が来てくれたよ。
「盆までもたないと先生に言われた」と、母さんが涙声で電話してきたのは
7月の後半。
それから毎週末に帰ることになるんだけど、父さんは盆明けになっても意識があったよね。
僕の顔を認識すると破顔一笑、看護士さんも驚くほどの笑顔を見せた。
逆に僕が大阪へ帰るときは寂しそうな顔を見せた。
毎回胸が張り裂けそうだったんだ。
「もしかしたらこれが最後かも」、、、
いつもそう思いながら電車に乗ってた。
酸素マスク越しに話しかける父さんの言葉は、ほとんどわからなかったよ。
でも、言わんとすることはわかった。
最後は気力、体力を振り絞って筆談までしてくれたね。
あの紙は、あの絶筆は、ずっと取っておくからね。
元気だったころ95kgあった体重は、恐らく40kg程度になっていたのかな。
胸はあばら骨が浮き出てお腹はぺったんこ。
腕と脚は骨と皮だけ。
でも不思議と手だけは肉厚だった。
僕たち兄妹は、ずっと最後の瞬間まで父さんの手を握りながら顔や頭を
撫でていたよ。
僕たちの体温は伝わっていたのかな。
血圧が下がり、腕の脈はなくなっていたけど首の動脈は力強くずっと最後まで
脈打っていた。
意識がなくなっても3日間生き抜いた父さんの生命力には驚いたよ。
呼吸が止まったのが3時35分ごろ。
でも、脈は打っていた。
その脈が止まったのが3時40分ごろ。
先生を呼び、臨終を告げられたのが3時57分だった。
8月30日。
80歳の誕生日まであと二日だったね。
きっと父さんのことだから、誕生日まで頑張ろうと思っていたんだよね。
でも、十分すぎるほど頑張ってきたのは家族みんな知っているよ。
もしかしたら、頑張りすぎたかもしれない。
その大きな原因は僕なんだということも十分知っている。
頼りない長男の僕のことが心配で心配で、そして可愛くて仕方なかったんだよね。
昔から、できの悪い子ほど可愛いというから。
痛いほど無尽蔵な愛情をずっと重荷に感じながらも甘えていたのは僕。
いい年した僕だけど、感謝の言葉を言うのが恥ずかしくて照れくさくて満足に
言葉にできたことがないよ。
後悔とともに反省しているんだ。
大好きな看護士さんに体を拭いてもらい、お風呂に入れてもらって良かったね。
呼吸も鼓動も止まってしまった父さんの体は、それでもしばらく温かかったんだよ。
手や足の指はすぐに冷たくなったけど、背中とお腹は4時間たっても温かかった。
まだ少しは元気だったころ、僕が大阪へ帰るたびに駅まで送ってくれた。
そして少ない年金の中から万札を無理やり僕に握らせてたね。
固辞しても無理やり握らせるから、僕は受け取るしかなかったよ。
父さんにはいつまでたっても僕は頼りない息子だったんだね。
野菜作りが趣味の父さんが今年初めて作ったピオーネ。
先月はまだ色が浅かったけど、ようやく熟したよ。
父さんの体と一緒に棺に入れたのを気づいてくれたかな。
甘い、とっても美味しいブドウになったよ。
孫たちも美味しい美味しい~ってパクパク食べてた。
僕もいくつか食べたけど、本当に美味しいピオーネだった。
これからは毎年ピオーネを見るたびに父さんを思い出しそうだ。
大好きだったお酒と一緒に、今は向こうの世界で父さんが作ったブドウを
沢山食べてよ。
僕たち兄妹は父さんと母さんの子供に生まれて来て本当に幸せだったよ。
生まれ変われるなら、転生と言うものがあるのならもう一度親子でいたいな。
次回はもっと親孝行して、出来のいい息子って言われるように努力するよ。
長い、そして本当に苦しい闘病生活、お疲れ様でした。
これから僕は父さんの息子として恥ずかしくない生き方をしていくよ。
どんなことも正面から取り組んでいく。
父さん、いつかまた会おうね。
父さん、
サヨナラ。