地中美術館に展示されている作品は3人のアーティストだけです。
〇クロード・モネ
〇ウォルター・デ・マリア
〇ジェームズ・タレル
ジェームス・タレルの作品は、
《オープンフィールド》と
《オープンスカイ》です。
「南寺」に
《バックサイド・オブ・ ザ・ムーン》という作品も展示されています。
今回、見学した南寺の《バックサイド・オブ・ ザ・ムーン》については、
下記に記載。↓
○
直島:家プロジェクト「南寺」 滞在中に3回鑑賞 改め実験 (2016/09/14)
地中美術館のジェームスタレルの作品も10年前に体験しており、
初めて見た時は、思いもよらない世界観にそれはそれは驚きました。
=====================
以下、概要を示しますが、ネタバレとなります。
=====================
とはいっても、実際に体験をしてみないとその感覚はわからないと思いますが・・・・
■「オープン・フィールド」(10年前の体験)
こちらの体験をするためには、長打の列に並ばなければなりませんでした。
他の部屋をあちこち回りながら、なるべく人数の少なくなったところを見計らって並びました。
入場が人数制限されていて、だいたい8人ぐらいずつ案内されているようでした。
入室前に靴を脱ぎ、部屋に入ると、目の前に黒い10段ほどの階段があり
その上部には
青いスクリーンがあります。
階段の一番下に横一列に並びます。
それは、お正月の混雑した初もうででお参りするとき、
境内に向かって並びながら階段を登って進むような感じだなぁ・・・と
思った記憶が残っています。
(たぶん、その前に神殿のような
ウォルター・デ・マリアを体験していた影響かもしれません。)
そして、スタッフの声かけがあり、
「階段をあがり、登りきったところで止まって下さい」という指示に従い、前方に見えるブルーのスクリーンに向かって
階段を登っていきます。
登りきったところで、一度立ち止まり、そのスクリーンを見つめます。
(何かが浮かびあがるのだろうか? と思っていると)
「そのまま前へお進みください」
「その先には停止の目印がありますのでそれ以上は、行かないように」
と言われたと記憶しています。
(体験談を見ると、ここの部分は、いろいろ変化しているようです)
ここで最初の驚きは、
スクリーンだと思っていたブルーの四角い枠は、面ではなく、
そこが入り口となって
人が入り込める空間だったことです。
階段の一番上の上がるまでは、目の前の青い光はスクリーンでした。
しかし、一歩、踏み出した瞬間、空間への入り口と変化するのです。
さらにその空間は、軽い下り傾斜になったスロープを下ることになります。
突然の空間の出現に驚かされた上に、
その先には思いもよらない空間が広がっているのです。
そして、その空間には
妙な青白い光が、なんとも異様な状態で、
一面にもやがかかったよう満たされていて、
あたりをぼんやりと照らしています。
幻想的でどこまでも延々と続いていきそうな傾斜。
底なし沼に引きづり込まれていくような錯覚を覚えさせます。
そして「後ろを振り返ってみてください」と声かけがあったはず。
振り返ると、今、歩いてきた空間の入り口が今度は、
オレンジ色のスクリーンになって、面になっているという不思議な体験。
これは、いったいなんなんだ・・・・?
■仕組みは? 光源は?そんな不思議な体験をしながら、この仕組みはどうなっているのか。
それを探ろうとあたりを見渡していました。
この
ブルーの光源はどこにあるのか・・・ブルーの光はどんな光なのか。どうやって当てているのか。
そして振り返った時の壁が、
オレンジに見えるのはなぜか。
(どこかにライトがあるはず・・・・)
最初は階段の中央部から登って、その奥の空間も中央から下りました。
次は青い空間の左右の両端から、下ってみました。
振り返って戻る時も、両サイドの壁づたいから戻ったりしました。
オレンジのスクリーンに見える壁の見え方が、
場所によって違うことをみつけました。
オレンジのスクリーンが壁になるポジションは・・・・そして、
その光はどこからどう当てられているのか。
その
光源が認識できるポイント、隠れるポイント・・・
そんなことまで初めて見た時に確認していて、
ああ、そういうことだったのか・・・と思いながら見ていました。
その時は、視覚との関係までは、わかりませんでしたが、
この幻想的な、不思議な感覚をおこさせる光は、
どんな光なのかという確認をすることは、
10年前の初見の時に、しっかりしていたのでした。
同じような光の体験が、
南寺の「バックサイド・オブ・ ザ・ムーン」です。
両者ともに、不思議な体験をしたあとの反応、行動は同じでした。
どちらを先に見たのか、よくわからなくなってしまいましたが、
この
不思議な体験をもたらす光が、どこにあるのか。
それは
どのような光なのか・・・・
それをつきとめようという鑑賞をしているのです。
さらに《オープンフィールド》の並びが少なくなる頃をみはからって
3回ぐらい追体験もしていました。
その時、その時で、階段を上る位置と下る位置を変えたり、
後ろ向きに下ってみたり、壁の様子を観察したり・・・・
戻る時に視界に入る光源のライトの見え方を、自分でコントロールしたり、
外の階段を下りるときも、ライトを確認したり・・・・
そんな確認はすでに10年前に見た時にはしていての再度の鑑賞です。
■原理を考えるどうしてそう見えてしまうのか。
その
仕掛けはどうなっているのか・・・・
そういうことを探りながら見る。
というものの見方について、当時は意識的ではありませんでした。
最近になって、自分が
作品を見るときの癖、特徴として、
そういう部分に着目して、それを
解決して探り出そうとする。
ということに気づき始めました。
たとえば、どこから見ても、自分を見ているように見える目。
そう見えるように描くには、どう描けばいいのか。
エッシャーの絵は、どこをどう描けば、だまされるのか。
其一の朝顔が浮いて見えるのは、どう描けば、浮いて見えるのか・・・ みたいに。
おおよその仕組みは、すでに把握している《オープンフィールド》
その上で10年越しの再体験はどうなるのでしょうか?
■10年ごしの体験体験のための行列は、以前ほどの待ちはありませんでした。
再度体験して、変化していたことといえば・・・・
南寺の「バックサイド・オブ・ ザ・ムーン」と同様、
オペレーションが変わってしまった・・・・
簡略化されてしまっている!ということでした。
階段の前に並び、これから体験・・・・というときも、
以前は、ちょっと溜めのような一呼吸あって期待感を盛り上げてくれていたように思います。
そして、上りきったところで瞬間、立ち止まる時間を与えてくれ、
まだそこはスクリーンであることを確認させてくれたうえで、
前進することで、
大きなサプライズがありました。
ところが・・・・・今回は、最初から最後まで
階段の下で説明されてしまいました。
「階段を登って、そのままお進みください」これでは、
スクリーンの先に何かがあることを、最初から知らせてしまいます。
スクリーンに見えていたものが、実は、その先にぽっかり空いた空間だった!
という驚きが半減してしまうと思いました。
これによって並びの待ち時間は減っていますが、
効率よく回転させることができても、
せっかくの作品のよさが消えてしまう。
ということを感じさせられたのでした。
もしかしたら、案内スタッフによっても誘導が違うのかも・・・・
と思い、今回も3回ぐらい体験しました。
しかし、
階段を上ってストップするという、ひと手間は省かれていました。
この体験は、初めての時は階段の中央でした。
このポジションによって印象が変わると思いました。
今回は、階段の端からあがりました。
仕組みがわかっているせいもあり、仕掛けがなんとなくわかってしまうのです。
初めて見るときの位置、というは大事。
というのは、其一の屏風を見ても思ったことです。
中央から見るのか、右端から見るのか、左端から見るのか・・・
その時に目に入ってくる視界というものが、作品の印象を大きく左右します。
ジェームスタレルの《オープンフィールド》も、
最初のポジションどりによって、作品の印象が変わるのだろうなと思いました。
そして、今回も、すでに仕組みはだいたいわかっていたのですが、
前回同様、光の元を確認していました。
しかし最初に見た時のわくわく感はありません。
それは当然なのですが、あれ? こんな感じだったかな・・・・と、
ちょっと印象が違って見えました。
どこがどうとうまく言えないのですが・・・・
■オペレーションの違い 変化この作品の案内が変化していたので、
他の方たちは、どのような案内だったのかをちょっと探ってみると、
いろいろなスタイルがあるもよう。
ある日の解説は、
「線より先に行くとブザーが鳴るのでそれ以上はいかないように」
と解説されることもあれば、
「ブザーが鳴ったら戻るようにという説明」だったり・・・
そのため、ブー、ブー ブザーがなることもあるよう。
そして、「それ以上、進むと
落ちるとか、
転落の危険がある」
といった説明がされていることもあるようです。
さすがに、それはホンマかいな・・・と疑ってしまいます。
確かに底なし沼に引き込まれそうな感覚を起こす空間ではあるけども、
それは、
ちょっと演出過剰の感が・・・・・(笑)
ブザーが本当に鳴って、それによって現実に引き戻されるケースも
あるようです。
(私は、そのブザーを聞いたことがありません)
階段を上って、その先があると思わなかったところが入り口となり、
その先にも、延々と続いているかのようなモヤモヤした空間が広がっています。
しかし、
それは光の演出によってそう見えているだけ。
ということは、想像がついてしまいます。
それに対して本当に、
落ちる・・・なんて説明されてしまったら、
個人的には
一気に興ざめしてしまっただろうな・・・・
そんな解説に、あたらなくてよかったと思いました。
人が本当に落ちてしまうような構造に、わざわざするわけないでしょ・・・
別行動で見学していた主人にどんな案内だったか聞いたら、
「そんな構造にしたら、このご時世、大変だぞ。
ケガしたとかなんとか・・・すぐ保障問題だって騒ぎ出すだろ。
子供だって来てるんだから、じっとしてないのもいるだろうし・・・
それにブザーとかならなかったぞ。
俺、手伸ばしたら、壁に届いた気がしたけど・・・・」
手を伸ばした、届いたって南寺と勘違いしてそうな気もするのですが(笑)
「動物園の脱走防止の溝じゃあるまいしねぇ・・・
転落するような構造に、なんでわざわざしなくちゃいけないのよねぇ・・・・
しかも、
転落する恐れがある とか言ってるのよ
恐れってなんなのよ」と笑い種だったのでした。
いろいろな人が体験した解説を眺めながら、
中には、その言葉を信じてしまう人もいるらしく・・・・と楽しんでいました。
(乗りでつきあってるのかな?)
インターネット時代、こうして、情報があちとびこちとびするので、
現実味のない解説は、滑稽になるだけだと思うので、
せっかくの作品を貶めてしまう気が・・・・
ご一考願いたいところです。
10年という時間によって、年々増える来場者をさばかなければならない。
その中で試行錯誤しながら、たどりついたのであろう
解説の変化。
しかし、その解説によって、見る側の作品へのファーストインプレッションは
大きく変わってしまいます。
まだ、たくさんの人が訪れないうちに、体験することができてよかったなぁ・・・・
とつくづく思ったのでした。
(これは、他の美術館でも体験したことで、
ラリック美術館のルトランでも、数年後に全く違うオペレーションで体験し、
これじゃあ、価値が半減してしまうと思ったことがありました。
作品に、いつ出会うか。
スタッフの案内、解説というのも、その状況によって変化している。
ということを、強く感じさせられました。)
⇒
オリエント急行の旅とティータイム 時を超えて ■視覚の仕組みはわからず・・・ブルーのスクリーンが平面に見えてしまう。
それは、なぜなのか。どんな光の種類なのか。
そこには、
視覚における錯覚のようなものが作用しているのだろうと思うのですが、
そこまで読み解くことができませんでした。
先日、エッシャーの作品を見たのですが、
人の目は、補正がかかると言っていました。
実際に見えているものに、補正をかけて調整しているのだと。
そんな視覚の仕組みなども、利用しているのでしょうか?
興味深かったのは、香川大学医学部
眼科教室の医局の御一行様が、
この展示を見られていたこと。
⇒
直島(オープンスカイ・ナイトプログラム:光を体感する)>あるメンバーの探求心により、何となく「すごいな~。」
と思っていた事が「そうだったのか!!」に変わりました。
詳細はもちろん秘密です。
眼科医の方がこの作品を見ると、どんな風に見えたのか・・・・
どんなところに着目するのか
とすごく気になりました(笑)
こちらにも眼科医の方の感想をみつけました。
⇒
(直島・地中美術館(3):オープン・スカイ(ジェームズ・タレル)♪■整合性ある空間の再構築 拘束性の強い世界の見方其一の作品について、サントリーの石田学芸員と猪子さんが、
興味深い話をされていました。
エッシャーの絵と同じようなことが語られていました。
⇒
チームラボ猪子が解説、長年の研究でわかった江戸琳派の大発明より
ーーーーーーーーーーー
遠近法とは違った空間認識の論理構造が発達してたということです。どういうことかというと、
身体的には人間の目って、自分たちが思っている以上にフォーカスできる範囲が狭くて浅いんですよ。例えば顔の前にぴっと人差し指を出したとすると、その後ろの顔はぼやけて見えづらくなりますよね?
指を見ると、他はまったく見えなくなってしまうくらい。
肉体的な目の脆弱さを人間は瞬間的に脳で補って、まるで周りもちゃんと見えているかのような整合性のある空間を再構築してしまうことです。その再構築する論理構造が西洋と当時の日本は違ったと思っているということです。
(略)
日本の空間認識に基づいて平面化したものには中心がないから、鑑賞者の視点は固定されないですよね。
一点の中心を持たない表現や空間は、複数人が同時に絵と接点を持てるという可能性をもたらすわけです。
其一含め、日本の絵巻物や屏風絵にはその要素があるけれど、僕の知る限り、西洋美術にはそれがない。
鑑賞者の立ち位置、鑑賞者がそれをどこから見るかということが拘束される。
そういった
拘束性の強い世界の見方が、美術の様式、建築の様式まで決定していくし、もっと言えば社会を規定する法体系をも決定していく。でも、それは僕にとってかなり不自由なことなんですよ。だって、誰だって自由でありたいでしょう?
ーーーーーーーーーーーー
物を見る時には、
身体的な仕組みが影響しているということを感じさせられます。
そして、
どこから見るか・・・ということの選択。
それによっても、見え方が変わります。
ジェームスタレルのこの作品《オープンフィールド》にも
共通する概念のような気がしました。
この作品を見た直後は、10年前に見た状態と、今、見た状態。
何が変化したんだんだろう・・・・
オペレーションが簡略させれてしまったために、
この作品のよさが損なわれてしまった。
私は昔の案内で見ることができてよかったな・・・・・
それくらいしかありませんでした。
ところが、直島に訪れて、2か月たった今。
その間に、
エッシャーを見て、其一を見て・・・・
一見、何の関連もないような作品ですが、そこには「見る」という共通点があって、
それは、
身体機能を通して「見ている」ということで、
人はいかに見ているのか・・・・
その
見方によって作品の受け取り方も違ってくる・・・・ということが、
江戸琳派を研究して猪子さんがたどり着いた結果の中に
ヒントのようなものを感じさせられたのでした。
そして、脳科学者の茂木さんが、
美術手帖 2004年9月号に掲載された記事も、興味深いものがありました。
■【参考】
地の中深く美に包み込まれてより by 茂木健一郎
ーーーーーーーーーーーー
様々な感覚が覚醒して行く中で、私は地中深くにある。天井から取り込まれる自然光が柔らかく周囲を照らし出す。そのようにして静かな美の神殿の中に憩う時、自分を包み込んでいるものが、
芸術作品を収蔵する空間の設計についての論理的な演繹の帰結であることに気付かされる。
元来、
人間の視覚は220度の広がりを持っている。ある純粋な体験を与えようとすれば、その
視野全体を制御するしかない。理想的には、
意識の流れの中で、その中に表象される全ての要素に気を配ることで初めて
体験の純粋さを保証することができる。客席を暗闇にして、照明された舞台上に表象を提示する上演芸術においては、そのことはすでに「総合芸術」の哲学として確立していた。
一方、美術館という制度は、
視野の中でせいぜい数十度の広がりしかない
作品を交換可能な鑑賞対象としてとらえ、
それ以外の周縁で何が起きているのかに関心を払わないという約束に基づいて成り立ってきた。
作品以外の美術館の空間は、美的体験においては意識から消し去られるべき「黒子」として運命付けられていたのである。むろん黒子には黒子としての美しさがある。しかし、その
美しさと作品の美しさを高度の芸術的配慮の下に融合する可能性は、
従来の美術館の文法の下では封印されざるを得なかったのである。
ーーーーーーーーーーーーーー
「芸術作品を収蔵する空間の設計についての論理的な演繹の帰結」ってなんだ?
美術家の方というのは、こういうわかりにくい難しい言葉を使って煙にまいて、
凡人たちにはわからないでしょうけど・・・・
みたいな空気を発しがちに思っていました。
茂木先生は、その言葉について説明がされていて、
そういうことなのか・・・と理解することができました。
そもそも、
人の視界というのは、限りがあるもの。
美術館ではそれ以外は、無視するという暗黙の了解のもとに封印された空間
であったことを気づかせる装置。
ところが、地中美術館は、
美術館という制度(論理的な演繹の帰結)を超えた何かがあることを気づかせてくれる。
「目に見えたもの」そして「見えないはずの舞台裏の装置」
そういうものすべてを融合させた新しい空間なのかもしれません。
【参考】
直島+地中美術館+ジェームズタレル+安藤忠雄