『鈴木其一 《風神雷神図屏風》鑑賞に向けて 3つの《風神雷神図屏風》』コロコロさんの日記

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この記事はコロコロのアート見て歩記&調べ歩記にリライトして移動しました。

  ⇒ ■建仁寺:キャノン高精細複製品《風神雷神図屏風》

写真なども加え追記しておりますので合わせて御覧いただけましたら幸いです)
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昨年は琳派400年で、京都国立博物館では
「琳派誕生400年記念 琳派 京を彩る」が行われ、
75年ぶりに風神雷神の屏風が三者そろい踏みということで
注目の展示が行われました。

宗達、光琳、抱一を一同に見られる機会はそうあるものではないと思い、
京都にはせ参じました。


■それぞれの違い
三者の風神雷神を比較する時に、目線の向きについて語られるようです。
しかし、事前にそういう先入観を持たずに、実物を見たらどう見えるのか
それを確認したいと思って訪れました。

実際に見て思ったのは、人は、言われたことを鵜呑みにしやすい
このように見ていると言われたらそう見えてしまうものだということ。

そして、屏風は見る位置や高さによっても見え方が違います
自分がどの位置に、どんな高さで立つかによっても、
見つめている方向が違うように見えるはず。

そう思って、いろいろな角度から見てみようと思っていたのですが、
あまりの混雑に、そんな見方はできませんでした。

ただ、なんとなくわかったのは、
視線は、見る人の心の中にある
というのが、私の答えとなりました。



■絵画における目線
その後、絵画における目線について、
「八方睨みの龍」とか、「自分を見てるように見える」ための描き方
ということを考えるようになりました。

そこで、わかったのは、目の玉、黒目をどこに入れるか・・・・


それは、「目の玉を中央に入れる」


それによって、どこから見ても、どこにいても
自分を見ているように見せることができる
中央で方向性がないため、移動しても、ついてくるように見える。
ということに気づきました。

しかし、例外というものがあって、モナリザは目の向き持ちながらも、
鑑賞者を見つめているのです。

ただ、例外はあったとしても、中央に目の玉を入れておけば
鑑賞者が見たいように見て方向を決めることができるのでは?

そんなことを思っていました。



■視線は自分を見ているように感じる
風神雷神の目はどこを見ているのか・・・・
建仁寺にあるレプリカを見た時のことでした。

屏風は座位で見るように描かれている。
本来の座位でみないことには、視線云々はできない。
高い位置に展示され、それを立って見る。
その位置は本来の見え方ではない。
たとえレプリカであっても、座位で見ることに意味がある。
そう持って、建仁寺の《風神雷神図屏風》を見に行きました。

宗達の風神雷神は、一般的には両者、下界を見ていると言われているようです。

私が座って見た時は、両者の視線は、いかようにも見ることができると思いました。
こっちを見てると思えばそのようにも見えるし、下界を見ていると思えば、
そう見えます。

しかし、私には、どう見ても、風神の目は、
下界を見てるとは思えませんでした。
横を見ている・・・・

そこに、次のように解釈しているところがありました。
風神の視線前に飛び出しているものの
視線は白い雷神を見ているように見えます。

雷神の視線:もっと手前、ふたつの屏風の真ん中手前へと注がれる。
ふたりの真ん中に鑑賞者が座り雷神を見上げると、まさに視線があう。

その視線に威圧感を覚え、鑑賞者はもとの風神へと視線を送ります。
すると風神はまた雷神へと視線を注ぎ、さらに雷神は鑑賞者を見下ろして……。
これぞ、視線のトルネード!


私も上記と同じように思いました。
雷神は下界でなく自分を見てると感じていました。
そして風神は、下界ではなく雷神を見ていると・・・・


鑑賞者の心理的な特徴として、自分が見られている・・・・
と思ってしまう気持ちになりがちではないでしょうか?
さらに座ることによって、雷神とちょうど目が合うように描かれています。
これは、立位で見ていてはわからないことかと。



■視線は鑑賞者の心を表す
そして、またまた、建仁寺のレプリカの別バージョンを、日を変えて見ました。

今年の5月、その時は、いろいろなものを見たあと、
いろんな発見があって、とっても充実した京都旅行でした。

最後に、建仁寺の風神雷神図屏風を見ました。
建仁寺のレプリカの屏風3種類あることは、
いろいろ調べる中で知っていました。
これまで2つは見ています。
最後の一つ、もう一つの風神雷神図屏風を見たい・・・・と思っていました。
しかし、それはタイミング。時の運なのです。
訪れた時のどの屏風が飾られているか・・・・
それは天のみぞ知る?



■風神雷神が語りながら目くばせをする?
今回は、難しそうだな・・・と諦めていた時です。
突如、現れたのでした。

無理だとあきらめていただけに、
その屏風を目の前にしたときは、それはもう・・・・
目の前がかすんでしまったくらい。

やっと出会えたもう一つの風神雷神。
その前に座わってじっと対峙していました。

すると、風神が語りかけてきたのです。

「今回、いろんな面白いものを、みつけてきたようだね。
 でも、まだまだ、世の中にはいっぱい、面白いものがあるんだぞ
 それくらいで満足してたらだめだぞ・・・・
 ほ~ら、あっちの方にも、その先にも・・・・」

と言いながら、その目は、屏風の枠からはずれて、
遠く向こうのほうを見ながら、何かをさし示してくれているような
目線に見えたのでした。

そして、雷神を見ると、
「こっちにも、面白いものはあるぞ・・・・ほら・・・・」
やはり屏風の画面から目をはずした位置、その下の方を見ながら、
何かを教えてくれている目だったのでした。


■見る人が決める
風神雷神の目が、どこそこを見ていのか・・・・
いろんな人がいろいろに言われています。
しかし、そんなことは、見る人が好きに感じればいいことなんだって思いました。

私の風神雷神は、目線だけでなく声までかけてきたし・・・・・
絵は心を映すとよく言われますが、この旅行ではまさに、
いろんな発見がいっぱいあって、とっても充実していました。
そんな旅行で感じていたことをそのまま、
風神雷神がくみ取って、さらに語りかけてきたのです。



■風神雷神を描いた絵師の印象
昨年の今頃、ちょうど1年前です。
細かいことはよくわかりませんでしたが、宗達ってすごいんだ・・・・
とう印象を強く感じながら帰ってきました。
光琳の方が知名度は高いけど、その前の宗達あっての光琳
宗達が、琳派のベースを築いたという意味でも、
なんとなく格の違いのようなものを感じさせられてきました。

そして、抱一を見た瞬間、漫画チック・・・・
そんなあたりから、天真爛漫な性格で、自由奔放に描いていた人。
前者の2人とは、雲泥の差・・・・ 足元にも及ばない。
同じ土俵にで並び称されるには、実力不足。
こうして飾ってしまっていいのか・・・・
ぐらいに思っていたのでした。


ところが、今回の鈴木其一展で、抱一への見方が変わって
なんてことを思っていたんだ・・・・と冷や汗ものだったのですが、
改めて抱一の風神雷神を見ると、そう見えてもおかしくないなぁ・・・・
と感じられるのでした。


■75年ぶりの三者そろいぶみ しかし・・・
75年ぶりの快挙・・・と言われていたはずが、
なにやら、2008年 「大琳派展」では 
4つの「風神雷神図」が揃い踏みを果たしたって?!

3つでなく4つ・・・・
なんだか、騙された感が・・・・(笑)


こういうキャッチにあおられてはいけないという教訓です。
(と言っても見に行ってしまいそうですが・・・・)



■其一の風神雷神
琳派の風神雷神は、3つではなく其一も描いていたことを知りました。

小さな画像でしか見ていなかったので、
抱一の風神雷神図屏風ですら、格が違うと思っていたところに、
其一のそれは、な~んちゃって風神雷神 みたいに思っていました。
これをわざわざ見たいとも思うこともなく・・・・
其一も風神雷神を描いていたんだ・・・ぐらいにしか思っていました。


ところが、今回、其一展で《風神雷神図襖》が展示されるとなれば、
琳派の〆として《風神雷神》をぜひ拝んでおきたいと・・・・


画像を見る限り、かなり長い構図のようです。
どうやら襖らしいことがわかりました。
こんな構図で、これまでの風神雷神は
視線がどうたらこうたらといろいろ
論じられてきましたが、ここではどう表現されているのでしょうか?

また、この空間構成は、いくらなんでも間延びしてはいないか。
この空間に風神雷神をどう配置して、バランスをとったのか・・・・


そんなことを見てみたいと思ったのでした。



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  ⇒ ■建仁寺:キャノン高精細複製品《風神雷神図屏風》

写真なども加え追記しておりますので合わせて御覧いただけましたら幸いです)
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