無料会員登録/ログイン
閉じる
携帯電話会社の提供IDはこちら
食べログ
新潟 ケンシンのレストランガイド
メッセージを送る
新潟 ケンシン (男性・新潟県) 認証済
この口コミは、新潟 ケンシンさんが訪問した当時の主観的なご意見・ご感想です。
最新の情報とは異なる可能性がありますので、お店の方にご確認ください。 詳しくはこちら
利用規約に違反している口コミは、右のリンクから報告することができます。 問題のある口コミを報告する
1回
昼の点数:4.0
2010/03 訪問
ようやく。
2010年3月7日訪問この日は少しだけ小雪が舞う天気の中、どうしてもここそば屋 長森に行きたくて、妹・甥っ子と3人で六日町方面に向かった。実は2009年11月…浦佐でレンタサイクルを借りた時に、距離が遠過ぎて訪問を断念した店こそ、こちらの店だったのだ。2月に甥っ子の8歳の誕生日をむかえた時、時間があまりなかったので、一応簡単に回転すし屋でお祝いをすませたのであるが、その時最初に聞いた「食べたいものは?」に対する答えが、何と!「おそば。」だったのだ。8歳の分際でそばとは!何と子供気ない。。。(笑)そういえば去年の夏にも長岡市内の「リバーサイド千秋」で、彼の希望でそば屋に入った事があったっけ…そんな事で、2月からあまり時間が経たないうちにそば屋に連れて行ってやらねば…という思いで、こちらにおじゃまする事とあいなった次第である。3月の初めなので、まだまだ雪がたくさん残っている。こちらに入る道は、ちょっとややこしい。それでも何とかたどり着くと…八海醸造第二浩和蔵の横に店はあった。実はこちら、あの銘酒八海山を醸造する八海醸造直営のそば屋なのだ。立派な古民家風の和風建築…※入口が異常に低くなっていて、大人は身を屈めないと入れない。甥っ子・カゲカツ(笑)は楽勝で通過。。。(爆)※理由は、戦の時などに家に残される女・子供が、敵や侵入者が入口にすんなりと入れないでいるうちに逃げる時間稼ぎのために、昔は入口が低く造られていたという事らしい。店内も綺麗だが、昔風のいい雰囲気を出している。 座敷とテーブル席があり、 座敷に座ったのだが…とても低い、いすのようなもの(座いすの一種?)が置かれている座敷だった。女性店員に確認したが、その「いすのようなもの」の正式名称はわからなかった。しかし…正座をした時に、足が痛くならないように、そのいす(のようなもの)を、腿とふくらはぎの間に挟み込むようにして使うものだという。そうすると何時間座っていても、足がしびれる事がないそうなのだ。テーブル席の方には普通のいすに腰かけるのだが、すぐ後に別のお客さんが通され、ふすま(仕切り)が閉じられてしまったので、詳しい様子は観察出来なかった。さて…メニューを見てカゲカツは、もりそば・700円を指差している。どうも、おちょこのつゆにそばをつけていただく仕草…をやってみたいようなのだ。8歳になったばかりの分際で、少しでも大人に見られたいようで…(笑)それでは…と私は、田舎そば・700円を注文。妹は肉そば(温)・940円に決定。ちなみに肉そばの肉は、越後もち豚らしい。つゆは江戸前の濃い目と田舎風の薄目がある…との事なので、両方をためしてみる事にした。江戸前の濃い目…黙って出されれば、これが普通と思ってしまうのだが、比較してみると随分と濃い事に驚かされた。そばつゆを、そばにつけて食べる文化の江戸風を実感させられた。一方の田舎風の薄目…これも江戸前の濃い目と比べるからだろうが、マイルドで味わいがある。そばの方は…「もりそば」は色が白くて上品で、軽い感じ…しかし、しっかりとした噛み応えはある。(こちらはほんのひと口しか口にしていないので、うまく感想が書けなくて申し訳ない)「田舎そば」は殻まで挽き込み、つなぎに布海苔(ふのり)を使っている…との事。しかし、小千谷・十日町あたりの「へぎそば」とは違い、色は緑色ではないし、歯応えも異なる。「へぎそば」のは独特な弾力がある歯応えなのに対して、こちらのは直接的な歯応えなのだ。また「肉そば(温)」は、ひと口もいただいていないので感想はなし。八海醸造直営…という事で、清酒・八海山各種に地ビールの八海山 泉ビール各種。こんな交通不便なところに、良いのだろうか…?。。これで良いのだ!(笑) 今回はお酒はパスしたが、好きな人にはたまらないそば屋である。本当においしかった、ごちそうさま。隣には、世界の食や酒にまつわる本を集めた、「八蔵資料館(はちくらしりょうかん)」がある。【長森原の戦い】長森原の戦い…戦国時代の下剋上を絵に書いたような戦(いくさ)である。1510年、越後国長森原(新潟県南魚沼市内)で、とんでもない事が起こった。関東管領職の上杉顕定(あきさだ)を、越後守護代職に過ぎない長尾為景(ためかげ)が、討ち取ってしまったのだ。この3年前(1507年)には、直接の上司である越後守護職・上杉房能(ふさよし)を討ち取っている…場所は今の十日町市松之山地内。(松之山は温泉で有名な町である。)つまりは、長尾為景は、自分の上司2人を殺害してしまった事になる。この下剋上の申し子のような男・長尾為景とは何者なのか?何を隠そう…長尾為景こそ、われらが上杉謙信(長尾景虎)の父なのであった!この出来事は、謙信が生まれる20年前に起きた。長尾家が生き残るためにはやむをえなかった事とはいえ、父が謙信の反面教師になった事は間違いない。上杉謙信は「義」を生涯のテーマとして、実際にその精神を貫き通した。実は上杉家が「義」の家といわれるのは謙信以降で、養子・景勝によって江戸時代を通じて米沢にその精神が受け継がれて行く事になるのである。1510年…長森原の戦い・長尾為景、勝利をおさめる1530年…長尾景虎(上杉謙信)誕生1561年…長尾景虎、関東管領に就任・上杉政虎の名をたまわる 関東管領として、川中島の合戦にのぞみ、武田信玄に単騎斬り込む1577年…上杉謙信、手取川の合戦で、織田信長の北陸方面隊に完勝をおさめる1578年…上杉謙信、出陣を目前に突然死去する1582年…織田信長、本能寺で討たれる1590年…豊臣秀吉による天下統一なる1598年…上杉景勝、豊臣秀吉の命により、越後から会津120万石に加増移封される1600年…関ヶ原の戦い 東軍の勝利に終わる1601年…上杉景勝、北信越の大大名から米沢など、出羽半国・30万石の一大名へと没落。1615年…徳川家康、豊臣家を滅ぼし、全国規模の戦が終了する戦国時代の定義は諸説あるが、上記のように、戦国時代の象徴ともいえる長森原の戦いから、日本における全国規模の戦が終了するまで、105年の年月がかかっている事がわかる。
2011/05/05 更新
エリアから探す
開く
このエリアを地図で見る
ジャンルから探す
指定なし
ランチ
夜10時以降入店OK
夜12時以降入店可
始発まで営業
朝食
カード可
個室
貸切可
駐車場
飲み放題
食べ放題
子供可
ペット可
クーポン
テイクアウト
家族・子供と
デート
女子会
合コン
大人数の宴会
接待
一人で入りやすい
知人・友人と
禁煙 分煙を含む
喫煙可
ワインあり
日本酒あり
焼酎あり
オシャレな空間
カップルシート
カウンター席
ソファー席
座敷
2010年3月7日訪問
この日は少しだけ小雪が舞う天気の中、どうしてもここそば屋 長森に行きたくて、妹・甥っ子
と3人で六日町方面に向かった。
実は2009年11月…浦佐でレンタサイクルを借りた時に、距離が遠過ぎて訪問を断念した店こそ、
こちらの店だったのだ。
2月に甥っ子の8歳の誕生日をむかえた時、時間があまりなかったので、一応簡単に回転すし
屋でお祝いをすませたのであるが、その時最初に聞いた「食べたいものは?」に対する答えが、
何と!「おそば。」だったのだ。
8歳の分際でそばとは!何と子供気ない。。。(笑)
そういえば去年の夏にも長岡市内の「リバーサイド千秋」で、彼の希望でそば屋に入った事が
あったっけ…
そんな事で、2月からあまり時間が経たないうちにそば屋に連れて行ってやらねば…
という思いで、こちらにおじゃまする事とあいなった次第である。
3月の初めなので、まだまだ雪がたくさん残っている。
こちらに入る道は、ちょっとややこしい。
それでも何とかたどり着くと…
八海醸造第二浩和蔵の横に店はあった。
実はこちら、あの銘酒八海山を醸造する八海醸造直営のそば屋なのだ。
立派な古民家風の和風建築…
※入口が異常に低くなっていて、大人は身を屈めないと入れない。
甥っ子・カゲカツ(笑)は楽勝で通過。。。(爆)
※理由は、戦の時などに家に残される女・子供が、敵や侵入者が入口にすんなりと入れないで
いるうちに逃げる時間稼ぎのために、昔は入口が低く造られていたという事らしい。
店内も綺麗だが、昔風のいい雰囲気を出している。
座敷とテーブル席があり、 座敷に座ったのだが…
とても低い、いすのようなもの(座いすの一種?)が置かれている座敷だった。
女性店員に確認したが、その「いすのようなもの」の正式名称はわからなかった。
しかし…正座をした時に、足が痛くならないように、そのいす(のようなもの)を、腿とふくらはぎ
の間に挟み込むようにして使うものだという。
そうすると何時間座っていても、足がしびれる事がないそうなのだ。
テーブル席の方には普通のいすに腰かけるのだが、すぐ後に別のお客さんが通され、ふすま
(仕切り)が閉じられてしまったので、詳しい様子は観察出来なかった。
さて…
メニューを見てカゲカツは、もりそば・700円を指差している。
どうも、おちょこのつゆにそばをつけていただく仕草…をやってみたいようなのだ。
8歳になったばかりの分際で、少しでも大人に見られたいようで…(笑)
それでは…と私は、田舎そば・700円を注文。
妹は肉そば(温)・940円に決定。
ちなみに肉そばの肉は、越後もち豚らしい。
つゆは江戸前の濃い目と田舎風の薄目がある…との事なので、両方をためしてみる事にした。
江戸前の濃い目…黙って出されれば、これが普通と思ってしまうのだが、比較してみると随分
と濃い事に驚かされた。
そばつゆを、そばにつけて食べる文化の江戸風を実感させられた。
一方の田舎風の薄目…これも江戸前の濃い目と比べるからだろうが、マイルドで味わいがある。
そばの方は…
「もりそば」は色が白くて上品で、軽い感じ…しかし、しっかりとした噛み応えはある。
(こちらはほんのひと口しか口にしていないので、うまく感想が書けなくて申し訳ない)
「田舎そば」は殻まで挽き込み、つなぎに布海苔(ふのり)を使っている…との事。
しかし、小千谷・十日町あたりの「へぎそば」とは違い、色は緑色ではないし、歯応えも異なる。
「へぎそば」のは独特な弾力がある歯応えなのに対して、こちらのは直接的な歯応えなのだ。
また「肉そば(温)」は、ひと口もいただいていないので感想はなし。
八海醸造直営…という事で、清酒・八海山各種に地ビールの八海山 泉ビール各種。
こんな交通不便なところに、良いのだろうか…?。。これで良いのだ!(笑)
今回はお酒はパスしたが、好きな人にはたまらないそば屋である。
本当においしかった、ごちそうさま。
隣には、世界の食や酒にまつわる本を集めた、「八蔵資料館(はちくらしりょうかん)」がある。
【長森原の戦い】
長森原の戦い…戦国時代の下剋上を絵に書いたような戦(いくさ)である。
1510年、越後国長森原(新潟県南魚沼市内)で、とんでもない事が起こった。
関東管領職の上杉顕定(あきさだ)を、越後守護代職に過ぎない長尾為景(ためかげ)が、
討ち取ってしまったのだ。
この3年前(1507年)には、直接の上司である越後守護職・上杉房能(ふさよし)を討ち取って
いる…場所は今の十日町市松之山地内。(松之山は温泉で有名な町である。)
つまりは、長尾為景は、自分の上司2人を殺害してしまった事になる。
この下剋上の申し子のような男・長尾為景とは何者なのか?
何を隠そう…長尾為景こそ、われらが上杉謙信(長尾景虎)の父なのであった!
この出来事は、謙信が生まれる20年前に起きた。
長尾家が生き残るためにはやむをえなかった事とはいえ、父が謙信の反面教師になった事は
間違いない。
上杉謙信は「義」を生涯のテーマとして、実際にその精神を貫き通した。
実は上杉家が「義」の家といわれるのは謙信以降で、養子・景勝によって江戸時代を通じて
米沢にその精神が受け継がれて行く事になるのである。
1510年…長森原の戦い・長尾為景、勝利をおさめる
1530年…長尾景虎(上杉謙信)誕生
1561年…長尾景虎、関東管領に就任・上杉政虎の名をたまわる
関東管領として、川中島の合戦にのぞみ、武田信玄に単騎斬り込む
1577年…上杉謙信、手取川の合戦で、織田信長の北陸方面隊に完勝をおさめる
1578年…上杉謙信、出陣を目前に突然死去する
1582年…織田信長、本能寺で討たれる
1590年…豊臣秀吉による天下統一なる
1598年…上杉景勝、豊臣秀吉の命により、越後から会津120万石に加増移封される
1600年…関ヶ原の戦い 東軍の勝利に終わる
1601年…上杉景勝、北信越の大大名から米沢など、出羽半国・30万石の一大名へと没落。
1615年…徳川家康、豊臣家を滅ぼし、全国規模の戦が終了する
戦国時代の定義は諸説あるが、上記のように、戦国時代の象徴ともいえる長森原の戦いから、
日本における全国規模の戦が終了するまで、105年の年月がかかっている事がわかる。