早いものであの日から1年と2日が経ちました。
未曽有の大震災で約20000人の人が亡くなりました。
東北三県にいらっしゃった方の被害に比べたら大した
お話ではありませんが、うちがあの日何をしていたのか
思い出しながら書いてみようかと思います。
あの日、うちはとあるデータセンターにて仕事をしていました。
データセンターというのはいわゆるサーバなどIT系の精密機器を
預かってくれる場所です。データセンターというのは一般的な
建物に比べるとはるかに地震に強い設計になっています。
免震構造や耐震構造がいくつも施されている建物でデータセンターが
倒壊するくらいの地震であれば回り全ての建物は倒壊しています。
運命の14時46分。ちょうどデータセンターのCPU室にいました。
CPU室の床は一般的にフリーアクセスと呼ばれるタイルごとに
取り外しが可能な床となっているのです。最初、結構強めの地震が
来たなと思いました。それこそサーバラックが揺れています。
免震構造でしかも最上階にいたのでより揺れは激しく感じました。
結構大きな地震だなと思った直後、さらに激しい揺れが体感で
1分程度襲ってきました。フリーアクセスのタイルはタイル毎に
波をうっていてこんな光景は初めて見ました。多分もう生涯で見る
ことはまずないと思います。というか見たくはないです。
さて、どうしようかと。。。要するにデータセンターはIDカードを
持っている人は決められた場所を自由にアクセスできますが、CPU室には
IDカードなしで入館する人もいます。そうするとその人たちを置いて
自分だけサッサと逃げるわけにもいかないのです。ということでCPU室に
いた人間全員に声をかけてとりあえずCPU室から出ましょうということに
なりました。CPU室さえ出さえすればあとはどうとでもなるのです。
そして上司に連絡しました。上司からの指示はその場から動くな。というもの。
リーダーから連絡がありました。そこから避難して戻ってこいというもの。
恐らく学生時代に受けた地震教育の違いなのだと思いますが、人によって
避難しろという人間とその場で待機しろという人間が大きく分かれたのが
印象的でした。とりあえず上司の指示を優先してデータセンター内の
休憩スペースでみなさんとすごい地震でしたねという話をしていました。
各々それぞれの上司に電話をかけようとするのですが、回線が
混み合っているのか繋がりません。根気よく電話をしてようやく
繋がる人がボチボチと出ていきました。実は次の日にネットワークの
リプレース作業が予定されていたため、一人は避難している場合じゃ
ないということでネットワーク構築作業をせっせと続けていました。
命より仕事。。。ある意味すごいなぁと思いました。
もちろんこのリプレース作業は延期になったのは言うまでもありません。
テレビがないので震源地をみんなで探し当てる作業に入りだしました。
各々携帯電話でネットに繋ぎにいきますが、これまた繋がりにくい状況。
この大きさだから震源地は南関東の方だろうと誰もが思っていました。
すると震源地は東北ということを探り当てた人がいました。
誰もが恐らく「え!?」と思ったと思います。東北が震源地でこの大きさ?
テレビで津波の映像が恐らくあの後ずっと映されていたと思いますが、
テレビは見れていませんので直後の様子をリアルタイムで知ることは
ありませんでした。そのうち。。。「原発は!?」と誰かが言いました。
そう、福島には原子力発電所があるのです。うちは当時のんきなもので
まぁ大丈夫でしょ。あんだけ危険なものを取り扱っている建物の耐震構造は
それこそ別格だと思っていました。確かに地震には耐えきりました。
津波にやられてはしまいましたが。実はあの津波の映像はいまだほとんど
見ていないのです。当時どの局も地震・原発事故の報道を垂れ流し状態で
精神的に参ってしまいました。ですので現実逃避のためにニコニコ動画を
見ていたような気がします。あれには心底救われました。
さて、会社の事務所に戻るとみんなネットワークの死活監視の結果を
まとめていました。たしか、福島、茨城、千葉の沿岸部がことごとく
全滅していた記憶があります。福島は津波でネットワーク機器そのものが
流されてしまい、茨城はネットワークの主幹設備が壊れてしまい、千葉は
忘れてしまいましたが一部地域に停電か何かがあったのだと思います。
色々と地震対応を終わらせて終業時間になるものの電車は動きませんでした。
確か当時最速で復旧したのが東京メトロの銀座線だったと思います。
銀座線で渋谷まで戻るうちとしてはラッキーとは思ったものの銀座線に
乗り換えるまでの電車が止まっていたので結局意味はありませんでした。
多くの社員は会社から徒歩で頑張れば帰宅できる圏内にいたのでうちがいた
グループは上司とうちと新人の女の子の3人だけが会社に泊まりました。
上司からはとりあえず寝ないでネットワークを監視するよう指示がありました。
とりあえずご飯の買い出しに行きましたがほっともっとは既に襲い掛かる
群衆に売り切れ状態にさせられて営業終了状態。コンビニでカップラーメンを
購入するのがやっとでした。カップラーメンを食べつつ上司と二人で
ネットワークの監視をしていますが、どうしても疲れで二人とも寝てしまい
アラームが鳴るたびに起きては顔を見合わせて笑うというコントみたいな
ことをやっていました。そもそも今この状況でネットワーク監視をした
ところで意味はほとんどないのですが、当時はそんなことを考える余裕もなく。
なんとか朝の9時まで耐え抜きました。その頃には本数は正常ではないものの
家まで帰れるだけの電車が動いていたのでちょっと時間をずらして帰宅の途に
着くことにしました。が、ディズニーランド難民と見事に被ってしまい
電車の中はディズニーで楽しんでいたであろう人でごった返していました。
しかも蒸れた靴下のような匂いが電車内に充満して臭い。。。
渋谷までたどり着きお腹が空いたので蒙古タンメン中本で食べました。
こういう時にお店がやっているのは本当に助かります。確か中本で
流れていたラジオでお台場で火災が発生という単語が出てきていたのを
印象深く記憶しています。お昼頃にようやく家につきお風呂に入り眠りに
入ったような記憶があります。原発が爆発した!という声で起きた記憶が
あります。
今もまだ、原子力発電所では多くの作業員が日々国民のために働いています。
感謝してもしきれないほどの感謝を多くの感謝を国民はしているはずです。
そして1年後の3月11日は、神社に行き被災者のために祈ってきました。
そして亡くなられた人たちへ黙とうを捧げました。昔のうちなら多分
しなかったと思いますが、精神的な疾患がこういう変化をもたらしたのかと
思いました。色々あったこの1年でしたが今年はいい年でありますように。