『【プチピクリ】個人的にレジェント』blueboyさんの日記

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ブルーボーイの喰い物徒然草

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blueboy (60代前半・男性・愛知県) 認証済

日記詳細

名古屋市名東区。
近くに親戚の家があった。
親戚の集まりで大人と過ごす時間に飽きた時、一人で抜け出してはぶらぶら歩きまわった。

その店は、一階が店舗になっている集合住宅の一角。
入口に置かれた黒板のランチメニューには“ビーフストロガノフ“の文字。
明治生まれながらハイカラ好きの祖父が喜びそうだと思った。
 
まだまだガキだった頃。
バイト代だったか、小遣いだったかは覚えていないが、それなりに頑張って貯め、しばらくしてから祖父をランチに誘った。
祖母はついてこなかった。
洋食と聞いただけで「バター臭い」と拒絶する祖母には無理だろうと最初から諦めていた。
 
祖父はとても喜んでくれた。
それは孫が連れてきてくれたということより、料理が素晴らしかったことの方が比重は大きかったと思う。
厚手の皿は、それを素手で運んでくるマダムのプロ根性に感嘆するほど熱々で、そこに盛られた“ビーフストロガノフ”は最高に美味しかった。
 
当時としては本格的な料理を提供するレストランでバイトをしていたこともあって、同年代の友人達より少しだけ舌は肥えていたと思う。
料理を食べることだけを目的に東京の有名店まで出向いたのも一度や二度じゃない。
それなりに味蕾は鍛えていたつもりだっただけに驚いた。
名東区の目立たない場所にあるビストロとは思えなかった。
それが久留宮シェフとの出会いであり、“プチピクリ”との出会いだった。
 
初めてディナーに訪れた時のことは忘れてしまったが、初めて訪れた日のことは座った席から料理まですべて覚えている。
 
いまだに、ここのブイヤベースを超える一皿に出会っていない。
あれほどまでにサフランを豊富に使い、それでいて調和を高める調理の妙はセンスとしかいいようがない。
 
“プチピクリ”というのは、シェフがフランスでの修業時代に働いた店の名前が由来。
その店の名前が“ピクリ”だったので、“小さなピクリ”という名前にしたそうだ。
毎年パリに渡り、研鑽を積む姿勢は立派だと感心したが、同時に数週間、利用できなくなるのは残念だった。

初めて会社を作った時の設立記念パーティーでは貸切にさせてもらい、誕生日やデート、クリスマスとさまざまな記念日の舞台になった。
 
いつだったか、自分の誕生日にお邪魔すると、生まれた年のドンペリをプレゼントしてくれたことがある。
既にバブルは崩壊していて、価値あるボトルは大量消費の憂き目に遭っていたので驚いた。
メニューに“スズキのシャンパン蒸し”と書かれていたので、65年のドンペリで蒸してみたらどうかと提案すると、茶目っ気たっぷりに「最高の贅沢ですね!」

シェフとも親しくさせてもらい、連れ立って花いちに出向いたこともある。
そこでも旺盛な好奇心を発揮して、銀蔵さんにあれこれ尋ねていた。
 
仕事が忙しくなり、名古屋にいる機会が激減するにつれてシェフの顔を見る機会も減った。
ミレニアムという言葉が使われなくなった頃、シェフが体調を崩して閉店すると聞き、得も言われぬ寂寥感を味わった。
それから数年してシェフは鬼籍の人となり、“プチピクリ”は本当になくなってしまった。

先天的な障害を抱えながら、料理の道に一途に生きた人だった。
客の前では、はにかむような笑顔を見せてくれたが、マダムによれば頑固一徹。
こと料理については一切の妥協を許さなかった。
ステーキ一つとっても、到底フレンチのそれとは思えないような物しか供されていなかった頃から、純粋に正統派を貫き、お陰で得難い学びの機会を得た。
 
先日、たまたま懐かしい場所を通った。
いまは違う飲食店になっているが、僕の目には“小さなピクリ”しか写らない。
シェフが亡くなってから、程なく10年。
いまなお新鮮さが色褪せない久留宮シェフの料理をふと思い出す。
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