2回
2017/06 訪問
和洋折衷の演出はもちろん、テイストも蠱惑的
界隈ではよく見かける三階建ての古いビル。
その一階に日本料理店と思しき雰囲気のあるくぐり門。
そこをくぐって右手の通路へ。
ビルそのものもくぐるように奥へと進む。
昼でも薄暗いであろう動線には雰囲気を盛り上げる調度が施されている。
通路を抜けると、そこはまさに異空間。
出迎えるようにたたずむ楓をふと見上げれば、隣接する二十階建ての高層ビルが誘導路のように視線を上へと誘う。
その先には宙。
そこに屋根がないことを知る。
先斗町か木屋町、はたまた時代劇に登場する町屋や長屋のような雰囲気の時代がかった和風建築が通路を囲む。
全室個室で古民家再利用と聞いていたが、広めの古民家を間仕切りしている程度だろうとたかをくくっていた。
まさか桜通に面したビルの裏手に箱庭のような空間があり、そこに古民家が残っているなどとは思いもしなかった。
建物に挟まれて奥へと続く通路の右手にはオープンキッチン。
その中をコックスーツのスタッフが動き回る様子も垣間見える。
薄暮に浮かび上がる街灯を思わせる照明のデザインも異国情緒たっぷりで、やっとここがイタリアンレストランであることを思い出す。
そう思えば、楓の下に置かれたスモーキングスペースも、楓を屋根に見立てたガゼボにように見えてくるから不思議だ。
ジブリの世界観と言ったら安直な気はするが、この不思議な感覚は、例えば台湾の九份のような非日常に共通するものがある。
一番奥右の個室に通される。
磨り硝子の引き戸をあければ、懐かしい風合いの座敷。
隣部屋との仕切りは白い硝子の引き戸になっていて、真ん中に掘り炬燵。
完全に和テイストなテーブルにきっちりとセッティングされたカトラリーは、ブレンディングの違和感を感じさせないほど凛としてオスピテを迎える。
こうなってくると、テーブルにカトラリーでいいのか、タヴォラにポザーテなのか、いっそのこと食卓にシルバーかわからなくなってくる。
セルヴィーレも心地よく、会話もウィットに富んでいていい。
アぺリティーヴォは Federiciane Flaegreo Spumante di Falanghina。
自己主張せず、クセのないスパークリングワイン。
まさにアペリティーヴォのために存在しているかのような泡。
イタリア語で“カリカリ”を意味するクロッカンテは、イタリア北西部、リグーリア地方でクリスマスや結婚式など、祝いの席で出される伝統的な菓子。
本来はカラメッラートした砂糖にバターを混ぜ、アーモンドを加えて冷ますのだが、アーモンドは加えず小さな四角に切られたカリカリにフォアグラのムースがサンドされ、大振りのガラス皿の真ん中にちょこんと置かれている。
「そのまま手でお召し上がりください」
という言葉に従い、片手でつまんで口に運ぶ。
カリカリを噛み砕いていると、テリーヌから風味と味わいが広がりだす。
アペリティーヴォとストゥッツィキーノ。
古民家を再利用したイタリアン。
最近では、そんな演出を売りにして料理はガッカリという店も少なくないが、思いがけず本格的なアプローチにほくそ笑む。
アンティパストはイタリアンらしい絵皿で華やかに。
これはなかなか効果的な演出。
スプーンに乗せられたむき身の蟹、カツオのカルパッチョ、プロシュット・ディ・パルマの下には完熟マンゴー、バルサミコでマリネされた茄子。
同じ皿に盛られているのだが、リレーションやシナジーというよりは一つ一つがはっきりとした輪郭をもった独立した料理になっていて、それを大皿にまとめているのも面白い。
グラスに注がれるのは Torre dei Vescovi Pinot Grigio。
ピノ・グリージョの割りにドライ感はさほどでもなく、これも無難なボトル。
どちらかといえば背徳感あふれる午後の陽射しに似合いそうな味わいだが、それが意図的なものであれば愉快だし、願わくはそうであってもらいたい。
続いて石プレートに稚鮎のフリット、知多牛のグリッリア、鰯のベッカフィーコ。
ということは、一皿目がミストで、こちらがカルドということか。
和洋折衷ながら、イタリアンとしてはあくまでも真っ当なスタイル。
稚鮎のフリットはデュラム小麦粉を使用しているとのこと。
鰯のベッカフィーコは、やや小鳥には見えないけれど味わいはいい。
シチリア地方の伝統的な調理法。
これは鰯が得手ではない人にとってもチャレンジし甲斐のある出来映えだ。
バゲットと一緒にアルドイノのエクストラバージンオリーブオイル。
クロッカンテと同じリグリーア地方で愛されてきた。
随分前になるが、Biancardoをプレゼントされたことがある。
伝統的な製法を守り、サラッとして風味がよい良質のオリーブオイルだ。
プリモ・ピアットは2種類のパスタ。
スカンピとムール貝、それにトマトソース。
いまでこそ、随分とレベルアップしたものの、名古屋で美味しいパスタが食べられる店となると限られてくる。
そもそも“あんかけスパ”を名物と自慢する力強い舌と味覚をもった人が多いのだから、言わずもがな。
スカンピとムール貝のパスタは、フュメ・ド・ポワソンを思わせる魚介のスープでシンプルながら複雑な味わい。
トマトソースも決してデフォルメされることなく、真っ当な調理法ながら繊細なまでの調和を保っている。
麺料理は麺そのものが美味しいことが重要だと思っているが、この店のパスタにはオリジナリティというか個性があり、それは嗜好性というフィルタリングを生じさせることにもなる。
それを上回るパフォーマンスを発揮する自信があるということだろう。
麺料理は調和が生命線というのはパスタも同様。
この微妙な調和を維持していってもらいたものだ。
時間経過という課程を経て、どのように昇華されていくのかが楽しみだ。
何ごとに限らず、これでいいと慢心に溺れた刹那からすべての破綻は始まる。
セコンドピアットは知多牛のロースト。
赤身の歯応えがしっかりしている。
万願寺唐辛子やビーツなどのガルニもセンスが良く、ポーションもいい。
愛でるという技巧は、何も和食の専売特許ではない。
確かに和食も美しいが、イタリアンも遜色なく美しい。
日本人の手によって、それこそ和洋折衷の文化として新しいスタイルが誕生しているのも事実だ。
ドルチェはフルーツのパフェ。
これまた女子であれば黄色い悲鳴か嘆息を漏らしそうなポーション。
どこまでもお洒落で、味わいもいい。
食後のエスプレッソまで、実にしなやかに流れる。
さすがにディジェスティーヴォまで供されることはなかったが、十分満足。
初めてくぐり門を過ぎてからずっと感じていたことだが、この店には意志の力を感じる。
店舗の内外装はもちろん、セルヴィーレからピアット、一つ一つの調理に至るまで。
この店を創った人間の意志、それを支える人々の意志、そうしたものが雰囲気を醸す。
その意志の方向性が間違っていない証拠こそが、この居心地の良さなのかも知れない。
イタリアンにはまった時期もあったが、最近はあまり好んで出向かなくなった気がする。
こんな時間を過ごせるのであれば、また楽しませてもらいに来よう。
2017/06/25 更新
東京、広島、愛媛から友人が集まった今年の正月。
地元名古屋の友人から、「是非セルジョで」と提案されて、20時からエントリー。
今回は一番奥の棟の2階。
初めて利用したが、シックで落ち着いた雰囲気は和テイストがいい。
男女比もバラバラだったので、コースではなくアラカルトで。
前菜の盛り合わせ以外は、それぞれが思い思いのディッシュを愉しむ。
気の合う仲間と過ごすには、この空間は得がたい。
美味しい料理とワイン、そしてこの空間。
今年は春から縁起がいい。