4回
2017/07 訪問
自身が「本当に美味い」と思った一杯を突き詰める
「(好来のラーメンを)初めて食べた時、本当に美味いなあって思ってね。」
昼営業の閉店間際で、客がいなくなっていたこともあってか、この日の大将はいつもに増して饒舌だった。
5月初旬から6月下旬まで、約1カ月半の改修工事を終えて再開したと聞いたので、早速出向いてみた。
店内はどこといって変わり映えがないように見える。
「今回は外装と住居部分の改修だったからね。店舗も少しは手を加えたんだけど」
ここのところ、らしくない弱気な発言もまま見受けられたし、これは一陽軒を営む子息が戻ってきた時のための準備かと、冗談まじりに聞いたところ、
「あー、それ、よく言われるんだけど、そんなこと全然考えてないんだけどね」
もともと外側の屋号は、いずれ時期が来た時に誰かに貸すことができるよう、新築時から脱着可能な造りにしていたそうだ。
「足腰が丈夫で健康なうちは頑張ろうと思ってね。だったら、やっぱりちゃんとしたところでやりたいと思ってね。」
その言葉を受けるように女将さんが、
「改装は、もうこれが最後。」
つまりは、まだまだ頑張るために環境を整えたということらしいが、それでも“これが最後の”なんて言われると一抹以上の寂しさを覚える。
改装工事中の1カ月半は、当然店主夫妻も自分達が作るラーメンを食べることができなかった。
昼営業が終わると、カウンター席の一番奥に並んで、夫婦でラーメンを食べるのが長らく続く日課だ。
ご母堂がご健在だった頃は三人で。
「毎日自分や家族が食べるからね。身体に悪いものはもちろん、どうかなって思うものは入れたくなかったから。」
30年以上前、初めてこちらを訪れた時には、すでに無化調だった。
室鯵や鰹といった節系の出汁も、当時から。
なんだったら、まだ黒豚のブランドが広く知られる前から黒豚を使用し、乾燥メンマを茹で戻していた。
改修工事は、いわば長期休暇のようなものだ。
今回は、久しぶりに好来系の店も食べ歩いたらしい。
「倅の店も行ってきたよ。開店した頃以来、2回目。口出ししないことにしているから。口出すと、どうしても自分のやり方を押しつけちゃうからね。」
個人的に、好来系では断トツに美味いと評価しているが、
「そんなことないよ。」
と受け流されてきた。
「好来系の中でも、もともとの味を突き詰めて昇華させるタイプと、いろいろとアレンジして進化させていくタイプがあるけど、大将は昇華させるタイプだね。」
と水を向けても、
「初めて食べた時、本当に美味いって思ったんだよね。その味をずっと追求してきただけ。」
ビールなどの酒類はおかない。
「ビールを飲むと、どうしても塩味が強くないと味気ないからね。」
ひさびさに自分達で作ったラーメンを食べて、美味いと思ったらしい。
謙遜することはない。
40年の時間をかけて昇華させた味わいは、熟練という熟成を経て、素晴らしい味わいになっている。
好陽軒に初めて訪れた頃、それでも既に10年以上の実績があったにも関わらず、毎日レシピを微調整させ、まだまだ到達できないと大将が言っていたことを思い出す。
40年、一つの味わいだけを追い求めてきた真摯な姿勢あっての深み。
メニューはラーメンしかない。
ベースは叉焼麺。
麺と叉焼、メンマを大盛にすることができる。
それとご飯のみ。
酷暑地として知られる名古屋にあって、夏も熱々のラーメンのみ。
「冷やし中華は、ラーメンじゃないから。」
ラーメンはスープあってこそのものというのが大将の信条。
つけ麺もまぜ麺も、大将にとってはそういうことになるのだろう。
いまでも、こちらの一杯はリトマス試験紙。
この味わいを理解できない味覚の持ち主と食事をしても楽しいわけがない。
大盛スペシャル(大松) 1,200円
大盛スペシャル(大松) 1,200円
大盛スペシャル(大松) 1,200円
大盛スペシャル(大松) 1,200円
メンマ 自家製メンマ多入 1,200円
メンマ 自家製メンマ多入 1,200円
2017/09/15 更新
2017/03 訪問
相変わらず美味い 好来系では断トツの一杯
タッチ式スイッチを押して店内に入ると既に満席。
平日月曜日の11時30分だというのに、さすが人気店。
カウンター席の後ろにあるベンチシートに座ると、
「先にご注文をお聞きしておきます」
と注文を聞かれる。
こちらは“大寿“こと“大盛スペシャル”、嫁は“大松”こと“大盛叉焼麺”。
この日は朝食を抜き、ライスはやめて大盛にしようと打ち合わせてきた。
相変わらず清掃が行き届いた店内に感心。
次々と客が入って来て、ベンチシートの一番端に移動したが、さほど待たされることもなく席に案内された。
なみなみとスープが注がれた丼を、大将が慎重にカウンターに置いてくれる。
丼を両手で持ち上げてスープを飲んでほしいという大将の好みは知っているが、この丼を両手で持ち上げるには、相当熱さに強くないと無理だ。
レンゲでスープを一口。
「うん、美味い」
思わず独りごちた。
独特のスープは、確かに好来系のそれなのだが、ここまで澄み切った味わいとなると本家である好来道場をもってしても、いまや到達できていない。
もちろん、他に比す暖簾分けもない。
40年間、日々重ねてきた精進の結晶か。
風味も味わいも深みも、最早凄みすら感じる。
シンプルな叉焼も、このスープと一緒に咀嚼すれば、いかに調和がとれているのかわかる。
以前に比べると、やや柔らかくなった気がするメンマもいい。
この至福を30年前から知っているが、この味わいに勝る一杯を未だに知らない。
もちろん、感心する店にもたくさん出会ってきたし、その味わいに優劣をつけることに意味があるとは思わない。
しかし、この至福の一杯が、間違いなくここでしか味わえないことも事実だ。
初心に戻ってというわけではないが、今日は基本に忠実な食べ方で。
まず、スープが2/3程度になるまで、そのまま食べる。
滋味深いスープを堪能し、調和の妙を味わいながら。
スープが2/3くらいになったら、自家製辣油とガーリックパウダーを入れる。
辛味が好きなので、辣油は添えられたスプーンに2杯。
ガーリックパウダーは2〜3振り。
これも長年のスタンダード。
ガラリと表情を変え、重厚さを増したスープを楽しみ、麺がなくなり、1/3程度のスープ量になったら朝鮮人参酢をレンゲに1/5~1/4杯ほど、つまり少量を注いでゆっくりとスープに馴染ませる。
この朝鮮人参酢は要注意。
入れすぎると台無しになってしまうことは経験上、よく知っている。
適量であれば重くなったスープが一気に軽くな、さっぱりとした別の顔を見せてくれる。
一杯で三つの味わいを楽しむことができる。
さすがに大盛は無理があったようで、嫁の救助要請に応じて麺を少々引き受ける。
気がつけば、丼は空っぽになっていて、ひさびさの完飲。
やはり、美味い。
2017/03/21 更新
2016/02 訪問
まさに"名古屋の宝" 滋味豊かで深いスープは比類なき領域
■■■ 2016年05月10日 再訪 ■■■
少し間が空いたが、「是非食べにいってみたい」という知人のリクエストを受けて出向いた。
平日とはいえ、13時過ぎという時間帯に駐車場が1台分だけ空いていて、おまけに客待ちベンチにも人がいないどころから、カウンター席も2人分空いているという幸運に恵まれる。
注文は大盛りスペシャル 1,100円
出てきた丼は安定のポーション。
まずはスープを一口。
ああ、相変わらずシンプルにして奥深く複雑。
このスープを味わうためだけに30年来利用してきたといっても過言ではない。
いろいろ食べ歩いてみたものの、こうして一口飲むと、やはり適わないと思わざるを得ない。
これは最早、嗜好性の問題などではない。
ここまでシンプルにして複雑なラーメンのスープを他に知らない。
相変わらずという言葉がぴったりくる滋味深い味わい。
ひさびさに最後までスープも楽しみ、満足して席を立つ。
■■■ 初投稿 ■■■
八熊通(愛知県道29号弥富名古屋線)"滝子"信号交差点の東、最初の路地三叉路角。
空港線から"桜山"信号交差点に向けて東進してきた場合、八熊通には中央分離帯があるため、手前の"滝子"信号交差点を斜め右方向に進み、すぐにある最初の路地を左折することになる。
店舗西側に4台分の駐車スペースは用意されているが、路地が狭く待機が難しい。
南西方向にコインパーキングもある。
ラーメン店を企画するという仕事に携わり、愛知県内の主だったラーメン店を食べ歩いたのは既に四半世紀前。
いま振り返れば、その時に出向いた有名店の多くが存在していないことを考えると、時間の流れの過酷さを思い知る。
結果的に参考にしようと選んだラーメン店は別の店だったけれど、好陽軒を選ばなかった理由は、とても真似できるレベルではなかったからだ。
ただ、約60店の中で文句なしの最高評価をつけたのは好陽軒。
もちろん、味は重要な基準だが、こればかりは嗜好性が強く反映してしまうので、それ以外の要素も重視した。
店内の清潔感といい、必要最低限にして最上のサービスといい、感心しきり。
まだ現在の店舗(ビル)に改装される前だったが、調理場は経年劣化を感じさせない程、丁寧に清掃されていた。
どこそこのラーメンと比べて美味しいとか美味しくないなどということが、重要ではなくなってしまう何かがあった。
その何かに気づくまで随分時間がかかったけれど、つまり、大将自身が作りたいと思う究極のラーメンに向かって、ひたすら精進しているということなのではないか。
その思いの強さが、丼の中だけでなく、店舗の隅々にまで表れているというだと思えば理解できる。
30年以上、ほぼ毎日レシピを固定させないという姿勢にも頭は下がるが、ある時、「最近、ちと薄口になった?」と聞いてみたら、「この店を支えてくれたのは、毎日のように足繁く通ってくれた常連さんだからね。その常連さんは、僕と一緒に年齢を重ねていくんだから、それでいいんだよ」とさらり。
当時はご健在だった店主の母親は、それでもかなりのご高齢だった。
その母親と一緒に一日一回はラーメンを食べるから、身体に悪い者や余分なものは入れたくないと、30年以上前から当たり前のように無化調(化学調味料不使用)。
朝から晩まで忙しい家業ということもあり、せめて晩ご飯だけは家族揃って食べると決めていて、人気ラーメン店であるにも関わらず、19時、遅くとも20時には閉店していた。
"一事が万事"という言葉があるが、まさにすべてにおいて理念が確立していた。
メニューは、昔からラーメンしかない。
餃子もビールも何もなく、ラーメン以外は"ごはん"のみ。
そのごはんも、最近は割とコンスタントに用意されている気がするけれど、以前はランチ時にしかなかった…ランチで売り切れる程度にしか用意がなかったようだ。
「水煮のメンマはどうしても合わない」ということで、これまた四半世紀以上前から、わざわざ取り寄せた乾燥メンマを、圧力釜で戻して使うこだわりよう。
改装前は、決して広くはなかった調理場に、圧力釜は決して小さくない場所をとっていたが、必要と思えば厭わない。
メンマといえば胡麻油や糖類、または香辛料などを加えて誤魔化す手法も少なくないが、元来炒めてもシャキシャキしているのが良質のメンマ。
B級グルメなどという訳がわからないカテゴリーはなかった時代。
質の悪い部分を用い、保存性重視で水煮されたメンマが当たり前で、味や風味なんて語られることはなかった。
「別に業者さんが翌日に持ってきてくれても、味としては同じなんだけどねえ」と自嘲気味に笑いながら、その日に絞めた鶏を使いたいと、毎日往復3時間もかけて自ら買い求めにいくのも、現代用語として使用されるところの意味としての、まさに"こだわり"。
「そういうことを苦に思わずにやれる人じゃないと、この仕事はできないよ」というわけで、残念ながら後継者不在のまま、一代で暖簾を下ろすことにしているらしい。
スープには絶対の自信をもっているからこその気持ちのあらわれと理解しているが、改装前の店内には「スープ残した方は、お水お代わり一杯10円」と書かれていた。
丼になみなみとスープが注がれて出てくる。
レンゲで一口スープをすする…何ともいえない香りと滋味が口の中に広がる。
和食の究極は"淡さ"に集約されると思う。
人間の舌は同じ味に飽きやすく、鍛錬を怠ると鈍感になる。
味わうという言葉には、やはりじっくりという副詞が似合う。
スープの中にある味を探る愉しみは、秀でた和食の領域。
鼻腔を幸福感で満たす香りも、ビロードのように滑らかな舌触りも、何も尖らないスープも。
細かい角を、40年という時間をかけて丁寧に磨いてきたような熟練の凄みを感じる。
懐石でいえば椀盛のような丼は、いつ食べてもつい口元がほころぶ。
最近では押しよせるような強烈な味が支持されているが、そのジャンクな味わいとは対極にあるスープ。
このスープを「薄い」という人もいるが、残念な気持ちになる。
「ラーメンなんて料理じゃない」とまで断言していた割と有名な板前を連れていったことがある。
ここのラーメンを食べた後、他府県という遠方のハンデを乗り越えて、こっそりと店の若い衆を連れてきていた。
微笑ましい話でもあるが、その姿勢にはやはり感心。
調理場の掃除の仕方が、まず料理人として認めるレベルだと言っていた。
以降、自分の店のお客が「名古屋から来た」と聞けば、好陽軒のラーメンを薦める有り様。
同様に知己を得た料理人が名古屋に来ると連れていったものだが、やはり調理に対する姿勢とスープは異口同音に高評価だった。
いや、料理人が誉めたから良い…というわけではなく、とても適切な言葉で話してくれることが嬉しい気分にさせてくれる。
ただ一つ、個人的には麺の相性には検討の余地があるような気もするのだが。
では、どういう麺がいいのか…と考えてみると、これがなかなか難しい。
まずはそのまま、次に自家製の胡麻辣油を好みに応じて加え、最後はごく少量、朝鮮人参入りの酢を加えると味を三段階に分けて楽しめる。
これは若い頃、店主が直々に教えてくれた食べ方。
そのままストレートで楽しむのも、もちろんいいし、最近はすっかりこちら派。
いずれにしても、十分に堪能できる腰の強さがスープにある。
シャリシャリと表現したくなるようなメンマも、これまた香りがいい。
満足して店を出る。
あっさりした後味に、たったいま出てきたばかりなのに、また食べたいと思ってしまう。
あれから随分時間は流れて、ラーメンブームとやらも吹き荒れ、ふと気づけば店も立派に新しくなっていたりするけれど、「ありがと~ございましたっ。またど~ぞ♪」という独特の節をつけた大将夫妻の合唱を聞きながら店を出た後の満足感だけは、以前と少しも変わっていない。
大盛りスペシャル(大寿)【2016.05.10】
大盛りスペシャル(大寿)【2016.05.10】
大盛りスペシャル(大寿)【2016.05.10】
スペシャル 肉多入り(寿) 1,000円
叉焼麺(松)800円
スペシャルメンマ(寿竹)1,200円
献立表
2020/02/18 更新
台湾ラーメンやベトコンラーメンを名古屋名物と思われてなるものか!
というわけで、他府県からのゲストを連れてくることも多い好陽軒。
今回は四国は高知からのゲスト三名。
そのうちの一名は毎年名古屋に来て好陽軒のラーメンを食べるのが愉しみになっているいわば常連で、今回は若い二人を同伴しての名古屋入り。
20代と30代の二人は好陽軒初訪問となるわけで、この味わいをわかってもらえるか若干の危惧はあった。
花いちでゆっくりと過ごし、翌日のランチを好陽軒で済ませてから移動したいというのが毎年やってくる知己のリクエスト。
昨夜は花いちで四時間も長居をして愉しんだ。
11時の開店直前に到着すると、すでに駐車場は一台分しか空きがなく、数名が車の中で開店時間を待っている。
まだ強い日差しの中、一足先に開かぬ扉の前で待つことにした。
思えばかれこれ30年の付き合いになるが、一番乗りなんて初めてだ。
若い二人と自分はスペシャル大盛り。
毎年やってくる知己は並盛り。
二人はメンマに興味津々の様子だったが、最初はやめておいた方がいいと諭し、大寿にさせる。
案ずるより何とやら。
三人ともスープまで完飲。
若い二人は
「こんなラーメン、食べたことがない。不思議な味だけどじわっと旨さが浸みる」
と大絶賛。
必ずしも社交辞令じゃない食べっぷりに一安心。
「来年も必ず来ます!」
と熱く決意を語っていた。
19時か20時には閉店すると聞いて二人が驚いた。
高知ではラーメンといえば〆の一杯らしい。
「うちのラーメンは塩分が少ないからね。ビールを置いていないのも、餃子を置かないのも舌が濃い味になっちゃうから。アルコールが入ると、どうしても塩分が欲しくなる。でも、うちはこの味って決めてやってるからね。」
それでも、この味なら〆の一杯でもいけるとか、もったいないとかいう二人に、
「自分の信念を曲げてまで作りたくないしね。」
さすがにそこまで言われては反論の余地はなかったようだ。
この味わいがわかるだけでも、二人の味覚が真っ当な証左だ。
どうしてそうなるのかわからないが、塩辛さと油こさを混同する向きは少なくない。
こってりとしていることと、塩分が濃いことは違う。
年齢を重ね、さすがに油ギッシュなラーメンを好んで食べたいとは思わなくなったが、この淡さに惚れた頃は、まだ20代前半。
十分若かったが、この味わいには感動と衝撃を受けた。
味覚は鍛えなければ易きに流れるものだ。
食欲だけ満たせばいい、つまり満腹にさえなればいいというのも一つの考え方だろうけれど、それじゃあ餌と変わらない。
食材そのものの味や風味を楽しみ、調理の妙を楽しむ。
人類の英知でもある食のすんばらしさを堪能して貰いたい。
そのためにも、恣意的で安直、または狡猾、あるいは無知で愚鈍な作り手の単純な仕掛けに乗らないだけの力量は身につけて欲しいものだ。
いまのところ二人は及第点、そのまま精進してくれ。
酔ったような鈍感な味覚にだけはならないように。
跡は継がないと会社員になった大将の息子が、やはり自分でやりたいと言ってきた時、
「うちの味はこれから後の世代には理解してもらえない。味覚がそうなってしまっている。もっと押し出しが強く、わかりやすい味にしないと難しいだろう。」
と豚骨ベースを薦めたのも、やはり大将だった。
一幸舎で修行した息子は、一幸舎の一と好陽軒を合わせた一陽軒という屋号の店を塩釜口に出した。
迎合という言葉がいいか悪いかは別として、客や時流に合わせるにはどうしたらいいか、そんなことはわかっているけれど、自分の信念を曲げてまで作りたくないということだろう。
真っ当な仕事をしている職人が言うからこそ矜持も感じさせる。
故・楓翁が端緒を築いた好来の流れも半世紀近い時流を経て大きく枝分かれして直系と言われる店でも、いまや別物といってもいいほどの差異が生じている。
こちらのピカピカに清掃された調理場は、和食の料理人が感心するほど。
そもそも心構えからして大きな差異があったのかも知れない。
初めて利用した時から好来系ながら無化調、乾燥メンマを自店で戻し、飲み水は浄水されたアルカリ水。
ラーメン屋のコップの水が水道水じゃないというだけでも驚いた30年前。
昔から当たり前のようにやってきた。
それも、"毎日自分達が食べるから、身体に悪い物は入れたくない"という信念からだ。
時代は移り変わる。
それはそれでいいし、仕方がない。
でも、この味がなくなるのは、とてもさみしいことだ。