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昼の点数:3.3
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~¥999 / 1人
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料理・味 3.3
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|サービス 3.3
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|CP 3.3
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|酒・ドリンク 3.3
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[ 料理・味3.3
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| サービス3.3
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立ち食いそば界の金田正一34
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2021/03/08 更新
先日のことです。立ち食いそば界の金田正一34の名を欲しいままにして、決して手放すことのない、豊島区大塚の超有名店、みとう庵に行って参りました。なぜこの山手線沿線はおろか、日本中の立ち食いそばファンの心を、ベアハンドキャッチのごとく手放してやまない、豊島区の超有名店 みとう庵が、立ち食いそば界の金田正一34の名を欲しいままにしているか。それは、金田正一34は日本プロ野球史上唯一の通算400勝達成、同時に298敗の最多敗戦をも記録。更に通算奪三振(4490奪三振)、通算完投(365完投)、通算イニング(5,526回2/3)、通算対戦打者(22078打者)、通算与四球(1808与四球)はいずれも日本記録を保有。更に更にNPB史上最年少ノーヒットノーラン達成者。また史上2人目の沢村栄治賞を受賞し、日本プロ野球名球会初代会長を務めた功績が、みとう庵のみとうと前人未踏と、激しくも煌びやかにリンケージしているからに他なりません!!!
さて、金田正一34ですが、1933年 愛知県に生れます。名古屋電気学校を経て享栄商業高校へ編入しまうが、この時点では14歳で、本来の就学年齢より1年早い高校入学となります。但し、ロッテ監督時代の1990年に金田の担当記者であったスポーツニッポンの大西純一曰く、本人から「2歳サバを読んでいた」と話されたことがあると言い、この話が正しければ金田正一34は1931年生まれで享栄商編入時には就学年齢に達していたことになります。享栄商では投手としてのスタミナと体づくりを学び、金田正一は「私の走る野球の原点はここにある」と記すほどです。3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズ・西垣徳雄監督にスカウトされ、シーズン途中に国鉄へ入団します。
1950年の入団以降、監督の積極的な起用も功を奏し、金田正一34は目を見張る活躍をします。1951年、44試合に先発登板し、22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録します。また18歳35日でのノーヒット・ノーランを達成します。翌52年2年連続で最多奪三振。53年3年連続で最多奪三振を達成。55年、自身4度目の最多奪三振。56年、自身5度目の最多奪三振を達成。さらに自身初の沢村賞を受賞します。57年自身初の最多勝、最優秀防御率を獲得し、 自身初のベストナインを受賞。さらに2年連続で沢村賞を受賞した。58年 24歳で史上最年少の通算200勝を達成。64回1/3連続無失点の日本記録も達成。最多勝と最優秀防御率を獲得し自身6度目の最多奪三振を達成。ベストナインも受賞。さらに史上初の3年連続沢村賞受賞を達成します。59年は7度目の最多奪三振を達成。60年8度目の最多奪三振を達成。62年は通算3509奪三振を達成!63年通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。この年はシーズン30勝を記録していますが、これ以降セ・リーグでは達成した投手はいません。最多勝を獲得し、9度目の最多奪三振を達成。ベストナインも受賞する。64年までに14年連続20勝、通算353勝。10度目の最多奪三振を達成。同年シーズン終了後に残留交渉がまとまらず12月21日に15年間慣れ親しんだ国鉄を退団することとなります。1965年から川上哲治が指揮を執る金満球団読売巨人軍に入団。1969年10月10日の中日戦で日本球界初の通算400勝を達成。同年11月30日に記者会見を行い、現役引退を正式に表明した。巨人での背番号34は球団では4例目となる永久欠番に指定された。金田正一34は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田正一34は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一34だからだ」というセリフに、最終的には引退を受け入れたエピソードはプロ野球ファンのみならず、グリム童話にも載るか載らないか程の有名な話であることは、令和以降も形継がれる逸話とされています。
さて、立ち食いそば界の金田正一34こと、大塚の超有名店 みとう庵ですが、まずそのストレート=速球(そば)ですが、まさにコシと繊細さと風味、喉ごし。全てが完璧と言えるほどの秀逸さと、繊細さと兼ね備え、まさに至極の逸品です!まさにこれは、金田正一34の速球は「手元から離れても最後まで速度が落ちない快速球」と言われるほど、凄まじい球威を持っていたとされ、数々の逸話を残している様と酷似していますね!次に、カーブ(だし)ですがストレート=速球(そば)と同様の評価を受ける程の賞賛を受ける程の最高レベルです!有本義明は戦後最高のカーブの使い手として金田正一34を挙げ、佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と述べています。野村克也27は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語ってるほどのカーブ(だし)であり、ストレート=速球(そば)との絶妙なコンビネーションで、通算400勝という前人未踏の大記録を打ち立てる程のだしです!!!また最後に特筆すべきは、打撃(天ぷら)です!投手として登板しての36本塁打は史上1位で、また投手でありながら8度も敬遠をされてるほどです。まさにこれは、みとう庵のオーダーを受けてから調理する姿勢の表れと、商品へのこだわりに保管りません。
金田正一34は身体作りに強いこだわりを持ち、むろん食にも現れるほどでした。現役時代から「いいものを食べなきゃダメ」が口癖で、春季キャンプには自ら食材を持ち込み、当時のサラリーマンの月給分に相当する額を全て市場での買い物に使い、それをたった3日で食べてしまったというほどです。また春季キャンプでは牛肉や野菜などは最高級品を自ら購入し、そうした食材をふんだんに利用してすき焼きやちゃんこ鍋や鉄板焼き、スープなど自ら毎日作り、チームメイトにも振る舞っていたほどでした。この拘りは、豊島区大塚の超有名店、みとう庵に間違いなく引き継がれ、令和以降も語り継がれるほどの名店となっています。