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昼の点数:3.3
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~¥999 / 1人
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料理・味 3.3
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立ち食いそば界の上田 次朗
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2025/10/30 更新
先日のこと。 立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう に行って参りました。 なぜこの、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう が 立ち食いそば界の上田 次朗 の名を欲しいままにし、決して手放すことがないか。 それは・・・ 「上田 次朗」の「上田」と「次朗」のあいだに、「の」を入れてみると、「上田の次朗(うえだのじろう)」。 そして、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう は江古田駅前にあるため「江古田」と「のじろう」を続けて読むとを「江古田のじろう」。結果的に、「上田の次朗(うえだのじろう)」と「江古田のじろう(えこだのじろう)」が激しくも煌びやかにリンケージするからに他なりません。
さて、上田 次朗ですが、和歌山県田辺市出身、右投右打の投手です。現役時代は縁起を担ぎ、上田 二郎、上田 二朗、上田 次郎と登録名を変えています。南部高校のエースとして活躍するも甲子園出場は果たせませんでした。 東海大学に進学すると首都大学野球リーグでは在学中7度優勝。 1年生の時、1966年春季リーグ戦で開幕投手を務め完投勝利を果たします。 1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会では首都大学選抜のエースとして出場。 準決勝では渡辺孝博をリリーフ、大橋穣、内田順三らのいた東都大学選抜を4-3で降すと、決勝では東京六大学選抜の星野 仙一20らと投げ合い、田淵 幸一22、谷沢 健一41らの強力打線を抑えて1-0で完封勝利。この優勝によって首都大学野球リーグの存在感が高まり、各球団の注目の的となります。 4年生時の春季リーグで成城大から完全試合を達成し、全日本大学野球選手権大会で初優勝。 同年のアジア野球選手権大会日本代表入りを果たします。 リーグ通算51試合登板 37勝5敗、防御率1.27、393奪三振。最高殊勲選手4回、最優秀投手4回、ベストナイン1回受賞。1試合17奪三振を2度獲得と言う成績を評価され、同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団します。
プロ1年目から、上田 次朗は先発ローテーションに定着します。4月16日の中日ドラゴンズ戦で公式戦初登板、7回までマウンドに立つも1-1の引き分けに終わります。初勝利は4月23日の大洋ホエールズ戦で9回までに15三振を奪うものの味方からの援護がなく1-1のまま延長戦に突入し、延長10回ながら16奪三振でエース平松政次に2-1と投げ勝ちます。 9回15奪三振は当時の新人の最多奪三振記録でした。1972年は5月9日の大洋ホエールズ戦で、先発の若生 智男が1回無死一・三塁の場面で負傷したため、上田 次朗が登板。そのまま点を与えず、救援投手ながら完封勝利を収めます。 これは公認野球規則に定められた「1回無死無失点の時に代わって出場した投手が無失点のまま試合を終わったときに限って、完投勝利ではないが完封勝利の記録が与えられる」という条項によるもので、プロ野球では上田 次朗が初の適用例でした。 1973年、上田 次朗はキャリアハイの成績となる22勝を挙げ、オールスターゲームにも出場し、江夏 豊と並んで投手陣の柱として活躍します。 9月23日の広島東洋カープ戦でのダブルヘッダーで上田 次朗が1戦目の先発投手として、2戦目の先発投手として江夏 豊と共に同日に20勝目を記録します。 同年の江夏 豊は最多勝となる24勝を挙げ、これ以降日本のプロ野球で、2020年シーズンまで同一チームから複数の20勝投手が生まれてはいません。 同年7月1日の金万球団読売巨人軍戦では9回2死までノーヒットを続けながら長嶋 茂雄3に三遊間への安打を浴びてノーヒットノーランを逃し、バッテリーを組んでいた田淵 幸一22 はへたりこみ、出塁して一塁ベース上にいた長嶋 茂雄3から「上田、がまんせい、がまんだ。がまんだ」と声をかけられたとのことです。 この試合、上田 次郎は長嶋 茂雄3を3打席続けて変化球で打ち取っており、4打席目は変化球狙いに切り替えるはずと考えていたところ、捕手の田淵 幸一22は「長嶋さんはそれでも直球狙いで来る」と意見が対立。 結局上田 次朗の考えを尊重し直球勝負したが、長嶋 茂雄3は田淵 幸一22の考えどおり直球狙いで、見事に狙い打ちされたといいます。 上田 次郎は「もちろん悔しい思いもあったが、長嶋さんと真っ向勝負したすがすがしさがある」と語っています。 また、優勝のかかった中日ドラゴンズ・金万球団読売巨人軍とのシーズン最後の2試合で、引き分けでもリーグ優勝が決まるという20日の中日ドラゴンズ戦に中日キラーの上田 次郎ではなく江夏 豊が先発し、試合に敗れます。 10月22日の甲子園球場での金万球団読売巨人軍戦は勝ったチームがリーグ優勝という大一番となり、上田 次郎がこの試合の先発に起用されるも2回途中 33球4失点と打ち込まれて降板し、金万球団読売巨人軍が9年連続リーグ優勝を決め、阪神は優勝を逃したために、上田 次郎と江夏 豊28の起用法について疑問が呈されたが、中日ドラゴンズ戦を迎えた時点の上田 次郎の体調が悪く、その前の後楽園球場での金万球団読売巨人軍戦でも打ち込まれたため江夏 豊28を起用したという談話が残っています。江夏 豊も自叙伝で「この起用法は文句を言うべきものではない」という趣旨のことを記しています。 その後も先発として活躍を続けますが、1978年には開幕から低迷し3勝に終わります。 1979年 ドン・ブレイザーが監督に就任すると、小林 繁22の入団、工藤 一彦の台頭もあって先発投手陣の刷新が図られ、上田 次朗は先発から外され、登板機会も極端に減ります。 1980年に南海ホークスに金銭トレードで移籍。同年は南海ホークス 先発陣の一角として6勝をあげます。 ドン・ブレイザーが今度は南海ホークスの指揮を執ることになった1981年も5勝を記録するも首脳陣との軋轢もあり、1982年シーズン途中に阪神タイガースに戻るも、同年限りで現役引退を迎えています。
さて、立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう ですが、小生は記念すべき立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう との初対戦に 大盛り肉そば選手×生たまご選手 × ねぎ増し選手 を先発ラインナップに名を連ねます。 さて、西武池袋線 江古田駅ですが、恐らく小生は初めて下車した駅になりました。 昔から日大芸術学部があると言うことだけは聞いており、立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう は日大芸術学部の正門からも見渡せるスタジアムです。 さて、立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう のストレート(そば)ですが、制球力、コントロール、威力、伸び、切れ味、すべてが完璧なストレート(そば)です(風味、食感、のど越し、はり、鮮度、しなやかさ などすべてが完璧であり最高級のそばです)。 この日はちょっと遅めの朝練(朝食)での対戦とあって、大盛り選手は鳴りを潜めますが、十分に伸びと勢いのある(ボリューム)のあるストレート(そば)が魅力です!!! そして、変化球(肉そばの豚バラ肉)ですが、こちらはストライクゾーンのほとんどを幅広く使いこなし、まさに打者を圧倒し翻弄するコーナーワークが自慢です(こちらも具沢山! 先発投手の後続として、ブルペンには(追加トッピングで) 肉増し150円 選手が、ブルペンを温めますが、リリーフの出番が全くないほどの完璧な投球術です(肉増しの必要がないほど、ボリューム満点の豚バラ肉です))。 そして、立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう のもう一つの特徴はなんと言ってもバッティング(白髪ねぎ)です。 立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう の攻守(豚バラ肉と白髪ねぎのトッピング)は、まさに完璧なバランスであり、青ネギ選手ではなかなか醸し出すことができない高級感・贅沢間を味併せていただくことができます。 最高です!
そして、立ち食いそば界の上田 次朗 こと、西武池袋線 江古田駅 徒歩2分の名店 のじろう ですが、挨拶優良店です。挨拶は心のノック!(ここで言うノックは野球のノックではない)。試合前、試合終了後の気持ちの良い挨拶はゲームをびびっと締めてくれます(入店時、退店時の気持ちのよい挨拶は、食事を尚一層美しくしてくれます。