『日常にある美味探求』Sanurai Jさんの日記

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大味必淡(そうでないのも亦楽しからずや)

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Sanurai J (50代後半・男性・岐阜県)

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先日某店より頂いた小鹿の肉がまだまだ残っているので、これでシチューでも
作るか、と昼から取り掛かった。

鹿肉を中程度の塊に切り分け塩コショウをし、玉ねぎ、セロリ、ローリエ、
人参、トマト、ニンニク少々、タイム少々と共に赤ワインと酢少々で半日
マリネにする。その後肉だけ取り出し小麦粉を付け、バターで焼く。
続けて野菜類を投入し適当にかき混ぜながら火入れをしたら、残ったマリネ汁
+水少々+若干の追いワインでひたひたにし、後はひたすら煮込む。
およそ1時間40分程、焦げ付かないように時折かき混ぜながら余分な水気を
飛ばしていく。
途中ウスターソースとトマトジュース少々を足しながら後は塩味を調整。
ニンニクや玉ねぎ、トマトの姿がほぼ消えた頃に一旦火を止める。
フライパンでしめじをバターで炒め鍋に投下、混ぜ合わせれば自家製鹿肉の
ブラウンシチューの完成と相成った。

中々に爽やかな味わいで美味いものだった。半日掛ければいっぱしの
デミグラスソースは出来上がるものだと思った。
ただ、鍋肌にこびりついたソースの固まりをヘラでこそげとって舐めた時に
気付いた。これが非常に美味い。
・・・という事は、火入れ処理が甘かったのだ。
この手のデミ系ソースを料理する際は、焦げる一歩手前の火入れで上手く
仕上げないとソースのコクと香ばしさに深みが出ない、というシェフ三国氏の
言葉を思い出した。こんな事で味わいが変わるから、料理と言うのは怖いし
面白い。

ともあれ、最近は加齢のせいもあるのか「次はあそこの店、ここの店」と
新しい店に意欲的に出かける気力が若干欠けている自分に気付く。
その代わり、オーソドックスで構わないのでなるべくちゃんとした物を
美味しく食いたい、と家で食事をする頻度が以前にもまして増えてきた。
(小鹿肉のシチューが家で食すオーソドックスな料理かどうかは別として)

先日は妻が「いい感じの鰯が売ってた」と5匹700円の鰯を塩焼きにした。
太さ、身のツヤ、張り、断面の脂の乗り方、確かに良い鰯だった。
一塩して余分な臭みを抜いたものを塩焼きにして食したが、案の定大変に
美味いものだった。
手前味噌な話になるが、妻は米の研ぎ方、晒し方、炊き方に拘りがあり、
そのせいかうちのご飯は大変に美味い。過去日本料理屋の名店と呼ばれる
幾つかの店で口にした物と比べても勝るとも劣らない。
その炊きたてのご飯で上記の鰯の塩焼きを食す。不味い訳がないのだ。

味噌汁も、削り節で出汁を取ってから三陸のお気に入りのワカメを具にして
地元の無添加の豆味噌で拵えれば、毎日の食卓には充分に上等な物となる。
ご飯の残りにこの味噌汁を掛け、そこに京都長文屋さんの山椒をちょいと
振って食せば最高に美味な猫マンマの出来上がりだ。

最も頻度の高い食事が家でのものであるのなら、なるべくいい加減な物は
口にしたくない。そういう拘りが、年齢と共に高まってきている気がする。

1kg¥500未満の地元コシヒカリ、1パック700円の鰯、地元JAに売っている
無添加の豆味噌に、高いと言ってもせいぜい1kg¥2000しないワカメ、上質
だが1パックで言えば数百円程度の山椒。
これらでもって「ああ、美味いなぁ」としみじみ思える食卓は完成するのだ。

何も店巡りだけに拘らずとも、美味探求は出来る。但しその探求には自分で
食材を見究めて購入し、料理をしてみる事が不可欠となる。
自分にとってグルメとは、そういうものである。

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