『☆偶然が運命に変わる時☆ PART②』ガスコーニュ青年隊さんの日記

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PART①からの続きです。


小野道風(おの の みちかぜ/とうふう) 894年・誕 ~ 967年・没

この人、PART①で長々と書き殴りました斧定九郎とはうってかわって、
実在の人物である事はもちろん、凄まじく由緒正しい貴族の中の貴族さん。
関西風に言うなら『メッチャええ衆(ええし)のぼん』☆

まぁ有名な偉人ですので私がここで紹介するよりウィキでも見てもらった方が早いんですが、
調べるほどにオモロイ人だった事がわかりました。

なので簡単に解説しますが、
道風さんを解説するなら、先ずその父親から書かねばなりません。

父親は小野篁 おの の たかむら (802年・誕 ~ 853年・没)という人で、
この父親がまたごっつオモロイ人物で、
文武両道を画に描いたような大傑物であり、そして反骨精神のかたまりみたいな人なんです。
(※余談ですが、私が憧れてやまないフランスの剣豪かつ学者かつ芸術家のシラノとかぶるんですよね)

天皇の側に仕える学者という凄い一族で、
優秀な父親(小野岑守 おの の みねもり)も物凄い学者先生という家柄、
しかし篁さんは長男なのに勉強なんかそっちのけで武道ばかりを鍛錬し、
とうとう“弓馬の士”になってしまいました(笑)

その様子を嘆かれた嵯峨天皇は(天皇に嘆かれる若者というのも凄い話ですよね・・・)、

  あぁ・・・最高の血筋も環境も頭脳も併せ持っているのに何故そんな風になってしまったのか・・・
    他の者には出来ない能力があるのに・・・彼にしか出来ないとても大切な役目があるというのに・・・

と。

それを聞いた篁さん、
流石に『これはいけない!』と思い、
サクサクっと勉強して数年後には今で言う東大よりもっと難しいかもしれない試験をパスします。
この時二十歳。
もともと地頭がめちゃくちゃ良かった事がうかがい知れますね。

しかしこれは嵯峨天皇の嘆きが効いたというよりは、
誰よりも敬愛している父母が辛い立場に立たされている事を反省したのではないかと思います。

というのも、篁さんが28歳の時に父親が亡くなったんですが、
その時は悲しみの余りに見た目が別人の様になるほどやつれてしまったというのです。
後述しますがもっともっと後の行動に鑑みても、そうだったのではないかと思ってしまうのです。

話を戻しまして、
それからはとんとん拍子に出世街道まっしぐら☆
順調に重い責務をこなしつつ、31歳の時には皇太子・恒貞親王(女性)の教育係にまでなります。
いかに朝廷からの信任が厚かったかが判ります。

834年、篁さん32歳の時には遣唐副使に任ぜられ、
翌年には従五位上という役職に、
更にその翌年には正五位下に任命されるというとんでもないスピード出世を果たします。

  ここから先が面白くなってきます♪

この遣唐使がなかなか上手くいきませんでした。
この当時の航海はたいへんな危険を伴うものだったのは有名ですが、
この時も2回チャレンジして2回とも渡航に失敗してしまいました。

そして3度目のチャレンジの準備段階の時に事件は起こりました。

この時の篁さんは第二船の船長さんで、
第一船は藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)という偉い先輩が船長さんだったんですが、
この第一船がいきなり浸水するというトラブルに見舞われます。

すると藤原さん、篁さんをすっ飛ばして嵯峨天皇にお願いし、
第二船を第一船として自分の物にしてしまいました。
まるでジャイアンです。

さぁ、これに激怒したのが篁さん!

 「あんたは自分の出世欲や権勢欲の為に平気で人を踏みにじるのか!
  こんな道理の通らぬ事は断じて認めるわけにはいかない!
  私を信じて命がけで渡航しようとしている部下達に申し訳が立たぬ!」
と、抗議したうえで、

 「そうそう、年老いた母の世話をしなきゃ!
  ゴホンゴホン・・・おっと、そういや私自身も病気だった。
  というわけで、私今回はやめますさようなら。」
と言って職場放棄!

そして遣唐使は、篁さんを残したまま出発していきました(笑)

ここで終わっていたなら、まぁそんなに問題にはならなかったかも知れません。
なぜなら篁さんの言い分ももっともであり、
篁さん自身も朝廷や嵯峨天皇の信任厚き偉い人なんですからね。

ところがこの男、嵯峨天皇なんてどうとも思っていなかった!

というのもこの直後、
恨み節全開で遣唐使をボロクソに風刺した『西道謡(さいどうよう)』という漢詩を書いたんですが、
その中で朝廷=嵯峨天皇まで思いっきりヤリ玉にあげてしまったのです!(爆)

いや、もしかして逆に崇拝・敬慕していたとすれば、
それだけに遣唐使をそのまま出発させた朝廷に、
ひいては嵯峨天皇に対して大失望したからなのかも知れません。。。

そして当然これには嵯峨天皇が大激怒!(まぁこうなる事は分かりきった話ですよね)
篁さんは全ての官位を剥奪され、罪人として隠岐へ島流しにされてしまいました。

しかし島流しにされる道中だというのに、
『謫行吟(たつこうぎん)』という漢詩の傑作を書き上げます。
これは残念ながら現存していないんですが、
この時代の漢詩の名人達はこの傑作に一同感嘆し、謫行吟を吟じない者は居なかったといいます。

現代からは想像も出来ないほど自由も人権も縛られていた時代に、
誰もがうらやむ高い地位や権勢よりも、信念と芸術に従ったその生き様。
ついたあだ名は「野狂」。
当時の人々から見れば正に“狂人”と映った事でしょうね。
だがこの人は狂ってなんかいない。
そこにシビれる憧れるのは私だけではないと思います。

嵯峨天皇が亡くなる2年前の840年には罪を赦されました。
私見ですが、多くの人に慕われ、同情されてもいたのではないかと拝察いたします。

そもそも篁さんとう人は、
苦境にある友人に金を分け与えていたのでいつも清貧だったような人物です。
そして、親孝行で知られていた人でした。

ちなみに身長は六尺二寸(188cm)の偉丈夫。
書をとらせては当代一の風流人にして、
官僚としても超一流の政務能力を発揮する。

・・・『破格の人』とは、この人の為にあるような言葉でしょう・・・

さて、長くなりましたが、
こんな偉人の息子だったのが本題の小野道風さんです☆

そしてこの小野道風さんも、しっかり父親の血を受け継いでいます(笑)

PART③につづく。
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