『レビューから転載◆ 史跡『御土居』』ガスコーニュ青年隊さんの日記

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日記詳細

●御土居●
戦国時代の都市や城下町の多くは、
外敵から都市を防衛する為に、
「惣構(そうがまえ)」と呼ばれる土や石を積み上げた防壁で囲まれていました。

そしてこの京都の町にも惣構はあったんですが、
京都は少し特殊で、
『応仁の乱』の影響で、
都市が上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)の南北に分断され、
惣構もそれぞれ二つ存在していました。

戦国の世の京都の歴史というのは、
政争・戦乱に巻き込まれ続けた血の歴史であり、
死の香の漂う荒廃した都だったんです。

しかし天下を統一した豊臣秀吉は、
その荒廃した京の都を復興させようと考え、
京に詳しい天下一の才人・細川幽斎(←この人、御先祖様です♪うへへ)に相談したところ、
「都市も郊外も境目がはっきりせず、何かというと戦乱に巻き込まれてきたので民が居つけない。ですから衰退しているのも当たり前の話なのです。※~略~」と答えました。

そこで秀吉は、
「では先ず洛中(中心地)と洛外を定めよう!」と決め、
南北の惣構をぶっ壊し、あらたに巨大な惣構で京の都を囲みました。
その「囲い」が『御土居』です。

しかしこの御土居に関しては諸説ありまして、
それまでの惣構のような徹底した防御壁としての機能は持っておらず、
従って本当に惣構(防御壁)だったのかどうか疑問視する声もあります。

しかしすでに天下を統一していた秀吉にとって、
防壁としての役割は、周りに対する牽制程度で事足りたでしょうし、
あくまでも京(自分)の権威の復興&税の徴収・経済力の増強が第一義であり、
また騎馬や多人数の進入制限・管理や、
川の氾濫による水害対策としては十分な機能を備えており、
京の都の復興策としてはたいへん有効であったと考えられています。

ちなみに秀吉の施した京都改造計画は、
『聚楽第制定』、『寺町(寺院)の建設(集建)』、『天正の地割』、
そしてこの『御土居の建設』の四つです。

転載、以上。
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