この口コミは、ガスコーニュ青年隊さんが訪問した当時の主観的なご意見・ご感想です。
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昼の点数:5.0
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~¥999 / 1人
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料理・味 -
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◆メメント・モリ◆
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2019/09/08 更新
※この拙レビュー最下部の消費期限についての所感は主観です※
今回は京都名物・阿闍梨餅のレビューです。
ちょっと不思議な体験をしたのでその備忘録として、
何故かまだレビューしていなかった阿闍梨餅の口コミをUP☆
☆よろしければBGMをドゾ。
ラスト・トレイン・ホーム
本日はまたぞろ墓参りに行ってきました。
私は何か思うところがある度に墓参りに行くんですが、
別に信心深い人間って事はなく、
それどころか死んだら戒名も要りませんし、
骨は犬猫の骨と一緒に山や川や海に撒いて欲しいと思っています。
まぁ便所に流してくれても全然いいです。
だいたいインターネットで墓参りが出来る時代ですから、
ばかばかしくって生臭坊主なんか有難く感じるはずもありません(笑)
じゃあ私は何をしに墓参りに行ってるのかというと、
ひとつには先祖と会話するために。
私は死んだら無になるのではなく、
今の人類には想像もつかない世界に行くんじゃないかと思ってまして、
そしてこちらの思念はあちらに届いている気がしているので(笑)
それと、子供は居ないし養子を迎える気も無いし、
僕の代で血が途絶えちゃうけどすんませんねぇと許しを請いに行ってます。
そしてもうひとつの理由は死を意識する為です。
普段は意識する事がない、
そう遠くない未来に自分も逝くのだという事を確認するために。
とはいえ、それならわざわざ墓所まで行かなくても、
気持ちさえあれば自宅でもお祈りは出来そうなもんですが、
そこはそれ、
子供の頃からの習慣というのはDNAに刷り込まれておりまして、
わざわざ菩提寺まで行くと本当に気持ちがすっきりしますし、
先祖と会話するための集中もしやすいのです♪
そういえば、ちょっと前に面白いニュースがありました。
ある寺の住職が、
孫を喜ばせたくて等身大のガンダムを作ったところ、
置いておく所が無いので仕方なく寺のお堂に置いておいたら、
檀家のお年寄りがそのロボットにも手を合わせていくというニュースでした。
私も最初はそのお年寄りのことを思わず笑っちゃいましたが、
よく考えてみれば、
仏像に手を合わせるのとガンダムに手を合わせるのと、
一体何が違うというのでしょうか。
仏像は良くてガンダムはだめ?
仏像って何だ?
ロボットって何だ?
自分に置き換えて考えてみると、仏像に手を合わせる時の心境って、
仏像は「神聖なもの」という日本社会での約束事がそこにあるだけで、
仏像そのものが神様仏様だとは考えていない。
だから夜中に動き出すとも思ってませんし、
それ自体はあくまでも単なる「物体」に過ぎません。
約束事に基づいて、
仏像という象徴を通して、
その向こうにある真理(天意、神や仏と呼ぶもの・森羅万象)に手を合わせていると思うんです。
それはあたかも、
ただの紙切れや金属に印刷をした瞬間から、
それは『貨幣』だという約束事を皆が守っているのと何も違わない。
だからこそ仏像は、ただの物体であってただの物体ではないと云えるでしょう。
そこには約束に基づき連綿と続いている祈りがあるんだから、
天界に通じる象徴として、仏像はアイコニックな意味を持つのでしょう。
しかしそうなると、
太古よりの信仰とは関係ないガンダムは手を合わせるに相応しくないとなるが、
本当にそうだろうか?
否!(と、私は思う)
手を合わせる時、ガンダムの向こうに何を見ているのか?
その見ている先が真っ当であれば、それがガンダムでも石ころでもいい気がします。
私にとって無意味な石ころも誰かが大切にしていた物だったなら、
それを知る者にとっては特別な意味が生じるように。
つまり信仰は、人それぞれの思いや美意識に基づいているのでしょうから。
そこが、
「金」という具体的(形而下的)な価値を持つものの意味と、
「信仰」という見ることも触れる事も出来ない形而上的な価値を持つものとの決定的な違いかも。
主観ですが忘れてはいけないなと思うのは、
唯物思想だけでは人は人として成立しないと思うんです。
唯物思想がどこに帰結するかというのは、
連合赤軍の内ゲバ大量虐殺などでも明らかですから。
そして手を合わせて念じる行為は、
自己の心の浄化を計るセルフセラピー作業ではないかと思っています。
だから結局、いつどこで何に手を合わせようが、
その人の心の在り処が最も大切な事なんではないかと思うわけです。
墓参りも然り。
私は凡百の馬の骨のひとつなので、
ふだん、自分もいつか死ぬという事を全く忘れて生活しています。
四六時中そんな事を考えている人は逆に異常だと思わないでもないですが、
それを完全に忘れて生きているというのは、
やっぱりどこか下品な生き方だなぁという気がしています。
たとえば私の場合、
中学生の時に通っていた私塾の平井先生という人に勧められて以来、
いまも毎日、眠りに付く前の一瞬、
その日一日の無事を感謝してから寝るようにはしてますけど、
でもやっぱり自分の死は意識しないですね~。
やっぱ心のどこかで自分は永遠に死なないと思っているんです(笑)
つい数年前、同い歳の親友が亡くなった時は愕然としましたし、
娘を思って最後まで笑顔を絶やさずに死んでいった親友の愛の痛切さには涙を禁じえません。
本人の希望でその時の事を食べた物にかこつけてここでレビューしたりしましたが、
あの時は実は辛かった。
しかしそういう事は自分も無関係ではない。
誰でもない自分の身に起こりうる事として、
もしかしたらそれが明日かもしれないんだという事を戒めるために、
私は墓参りに行くんだと思います。
明日の事が判るなら事故や災害で死ぬ人は一人も居ないでしょう。
一寸先は闇。
そういや黒澤明の映画「生きる」に、
“死に直面して初めて生を思う人間の軽薄”という言葉がありましたが、
私は墓参りをする度に、
“あぁ、ほんの数年前まで一緒に墓参りをした親戚達が今はもう居ない・・・”と、
いつまでも生きるつもりでいる自分の軽薄を再認識しています(笑)
生臭坊主も生臭神父も生臭神主も一切信用していない私でも、
この「先祖を思い、死を感ずる」という墓参りには大いなる意味と価値を見出しています。
メメント・モリ(死を思え)
いつかは死ぬという事を忘れるなという意味。
このラテン語の言葉の本来の意味は、
「直ぐ死ぬかも知れないんだから今を楽しめ」という享楽的な意味だったという人もいますが、
単純に死が今よりも近かった時代だったからこそ、
その当時から、ただ享楽や快楽を勧めているだけでなく、
そこに無常観や、やりきれない切なさやアイロニー(反語)など、
そこに叙情的な「哀悼」を感じないではいられません。
翻って今の自分や日本に置き換えた時、この墓参りという慣習も、
死が近かった昔と、
死や老いという自然現象が排除されつつある今の社会とでは、
その意味合いも大きく違っているのかも知れません。
今の日本社会では、
身内の死を見取ったり死に水を与える経験も殆ど無いでしょうし、
ご近所さんが亡くなってもどこかのセレモニー会場でサクっと済ませて、
町内の人もわざわざ行かない事が殆ど=人の死を面倒くさいものと定義してしまっていますし、
これはつまり、
私も含めた現代人の多くはどこかに優しさや共感を置き忘れていて、
それは取りも直さず“自然”に対する畏れを忘れつつあるのではないでしょうか。
おもえば、昔はあちこちに居た障害者のお兄さんお姉さんは、
一体どこに行ってしまったのでしょうか?
外で遊ぶ小さな子供の面倒を見てくれていたお兄さんお姉さん、
キャッチボールやサッカーや花火や焼き芋が当たり前に出来た公園、
いじめられて帰宅する小学生をいつも慰めてくれていた放し飼いの優しい犬、
・・・みんな今は見かけません。
『この遊具は○○県で子供が怪我したから危ない!撤去だ!
浮浪者は何をするか分からない!町から排除だ!
放し飼いの犬は子供を噛むに違いない!禁止だ!
キャッチボールの球は幼児の目を潰すに決まってる!禁止だ!
大きくなった犬猫なんて貰い手は無い!殺処分だ!』
こういうレッテル張りを知的怠惰という。
不都合・面倒を排除したいという心理から、
レッテルを張って単純に記号化した“邪魔もの”を自分たちの見えない場所へ追い出す。
どこか遠い、“自分たちにとって”見えない場所へ・・・。
ゴミ処理場の建設反対行動、
心療内科建設反対運動、
障害者施設建設反対運動、
児童相談所建設反対運動、
斎場建設反対運動、
原発、宗教施設、基地、風俗、工場・・・、
とにかく自分のそばでなければいいという考え(笑)
ま、レッテルを張って決め付けてしまえば楽なんですよね。
あとは皆で反対反対と不気味な目で叫ぶだけ。
カルトと似ていますね。
自分で考える事を放棄する行為。
そして同じ宗派だというだけで100%味方だという認識を持ち、
違う宗派の人間を十把一絡げに「悪魔」だという。
ふざけた事を言いなさんなよ・・・正気かい?(笑)
レッテル張りは思考や工夫の放棄であり、自己愛丸出しの大人の怠惰。
そうして後は民主主義という美名の下に多数決、
しかしその内実は派閥闘争な場合がほとんどでしょうか。
それが本当に地域の活性化や子供たちの為になっているのか。
面倒と責任を排除したいだけの卑怯大人による安全という名のご都合主義ではないのか。
どっちなんでしょうね?
無知と偽善。
これが今のごく一般的な日本社会のありのままの姿だと思います。
裏づけのないプライドがあるから無知無教養を自覚するのを恐れ、
その自己の怠惰を糊塗するために偽善の皮をかぶる・・・。
他者を思いやる最低限の心根さえあれば、
変人でもなんでもありのままを隠さなくても全然いいのに。
それがそのまま、後に続く子供たちの道標のひとつになれるのに。
無意味にメッキを塗ってカッコつけたって所詮は消えて無くなる身なのに、
だったらどうして人の心に根付く良き肥やしになろうとしないのか。
むかし・・・誰だったかなぁ・・・宮崎学だったかなぁ(今調べたけど判らなかったので違う人かも)、
『都会の子達は、こんな中で暮らしてたんじゃあ息が詰まって死にたくなるよ』と、
そんな事をおっしゃってた気がしますが、
それって今から20年以上前だったと思うので、じゃあ今なんてどうなっちゃうの?と思いますよ。
未来はなおさら心配。
そりゃあこんな事なかれ主義の仮面大人ばっかりの世の中じゃあ、
尾崎豊じゃなくたってイヤになるわ。
他人の子供の為に口角泡を飛ばして真剣に大声を出せる大人がこのご時世に一体何人居ますかね。
空の声を聞いたり風の色が見える様な、
そんな自由で純粋な子供ほど息苦しくて仕方がないでしょうから、
感性を押し殺して自分を無理やり「いい子」の型にはめざるを得ないでしょう。
個性的で面白い子が昔は本当にいっぱいいたのに・・・。
今はその存在が許されない陰湿な空気がすごい・・・。
僕は子供の頃、
戸川純が好きだったし、竹中直人が好きだったし、たまが好きだったし、
スペクトラムが好きだったし、座頭市が好きだったし、岡本太郎が好きだった。
思えばみんな個性的で、みんな違ってみんなよかった(笑)
だけど今は個性的でありつづける事が悪い事みたいに言われる世の中で、
だからやたらいい子ちゃんな大学生が多いのか。
でも経験上、一皮むけば異常にプライドばかり高い子が多い。
あるいは自己が傷つく事を恐れる余り無気力を装う子が多い気も・・・
草食男子?うそつけ(笑)エネルギーの出し方が分からないだけだろうが。
まぁこんな極端に“外面命”の世の中じゃ、
いっそのこと、
陰で大人達が奨励している“ズル賢く生きる”為の勉強としてイジメっ子にでもなってみるか?
・・・そんな風に曲がってしまう子も多いんじゃないかな?
町内会に参加していてもつくづくそう思いますよ。
あっちで不倫してるだのこっちで町内の酒をくすねていただのあの人の宗教は何だのと大忙し。
なのに表向きはニコニコしているのが大人のたしなみだと思ってますからね皆さん。
神様までだませると思ってんのかな?
「独りを慎む」という言葉を知らんのかな?
子供は大人の背を見て育つもの。
また、その国の政治の水準はその国の国民の民度に比例する。
民度が低ければ社会は破綻してゆく。
況や今の日本社会においてをや・・・。
いづれにせよ、
何事においても強く押さえつければその反動も大きくなりますから、
これだけ社会の閉塞感や不景気が長く続いている昨今、
一見平和に見える人心も、どこかで一気に爆発するんじゃないかなぁ。
それをどこかで待っているエネルギーも感じたりして。
と・・・徒然に、
こんな事を考えながら墓をきれいに掃除していたんですが、
ふと耳を澄ますと、何か話し声が聞こえてきました。
“観光客さんかな?”と思い声のする方へ行ってみたんですが、
そこは墓所の外、辺りには誰もいませんでした。
で、墓参りを済ませて、なんとなく観光客さんが辿るコースを歩いて行くと、
先ほど聞こえてきた話し声がまた聞こえてきたんです。
もの凄くか細い音なんですが確かに人間の話し声で、
先ほどより少し大きくなったので分かったんですが、
なにやら2人の女性がやけに楽しそうにクスクス笑いながら会話している風でした。
そこは丁度、墓所の真裏にあたる場所でした。
だから墓を掃除してる時に聞こえたんでしょうね。
ということは、これはやはり霊現象ではなく物理現象に違いない。
そう考えた私は、ちょっと面白くなってきて音の在り処を探っていくと、
その声は、
墓所の真裏に生えている竹の中から聞こえてきていました。
何を話しているのか内容は分からないんですが、
間違いなく2人くらいの女性がクスクス楽しそうに話しています。
竹の中で。
“こんな事もあるんだなぁ”と不思議なひとときでした。
まぁ私の頭がどうかしたのかも知れませんのでとりあえず病院いっとくか。
緑の救急車に乗って(爆)
※京都市内限定のギャグです
この日のお供えの名前がいけないかったのかなぁ?
阿闍梨餅ですからね~(笑)
私は亡くなった阿闍梨・酒井雄哉さんと40年前からの御縁でしたから、
酒井さんがイタズラしたのかも☆
命日も先月だし。
ところでこの日も、
墓参り恒例のにお供えの阿闍梨餅を獣に施しながら自分も食べたんですが、
いや~、久しぶり食べたら、これ美味しいですね~♪♪♪
子供の頃からあまりにも食べ過ぎて今は飽きてるので、
法事などで出されてもたいてい誰かにあげるんですが、
今日はあげる人も居なかったので自分で食べたんですが、美味しい♪
あ、賞味期限が短いんですが多少なら全然大丈夫だと思います。
仏壇に供えてそのまま忘れてたやつとか、
相当古いのを子供の頃から普通に食べて成長してきましたので(笑)
美味しかったです、ごっちゃん♪