『歴史の転換点「関ヶ原」合戦場めぐり 2017.8』sophia703さんの日記

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sophia703 私のグルメ日記

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sophia703 (女性・神奈川県) 認証済

日記詳細

昨年、真田の史跡めぐりで訪れた松代の資料館で、
真田昌幸、信幸、信繁宛ての石田三成からの書状を多数目にしました。
秀吉の下では有能な官吏としての才能を発揮した石田治部少輔。
関ヶ原の戦いに臨み、夥しい数の自筆書状を諸侯宛て認めていたのでしょう。
その後も継続して「関ヶ原」近辺の本を読み漁り、
今年8月の映画「関ヶ原」の封切りを目前に
永年の夢だった合戦場を実際に歩き、その山野と風景を見て感じる旅に出ました。

尾張・名古屋で新幹線を降り、美濃・岐阜城を望みながら東海道線で「大垣」へ。
この辺りは、既に「関ヶ原」決戦の前哨戦が行われた場所。
大垣城は、決戦前に石田三成が本陣としていた場所です。
そして中山道「垂井」宿。上杉征伐に向かう大谷刑部吉継が、ココで宿営中に
盟友・石田三成から佐和山城に招かれ、対家康旗揚げの秘謀を打ち明けられました。
列車は旧中山道沿いに、左に南宮山そして「徳川家康最初の陣地」桃配山をすり抜けて
「関ヶ原」へ!!

慶長5(1600)年9月15日 午前8時 濃霧の中
中山道と北国街道・伊勢街道が交差するこの小さな盆地「関ヶ原」で
日本全土を二つに割った東西両軍15万の兵が、激突。
その端緒は、「関ヶ原」駅スグ、
徳川四天王の一人・井伊直政と女婿・松平忠吉の陣から宇喜多秀家隊への発砲
と言われています。
その後は、東西どちらも一歩も引かぬ激戦。
戦いを傍観して動かない
南宮山の毛利・吉川・安国寺・長曽我部・長束
松尾山の小早川・朽木・脇坂・赤座・小川
そして西軍・天満山裾に布陣した島津義弘・豊久 を除く諸隊は
凄まじい戦闘を正午頃まで繰り広げていました。

石田三成陣地のほぼ正面、田んぼの真ん中に建つ「関ヶ原決戦地」の碑。
小早川秀秋はじめ松尾山に陣取る諸将の裏切りで、右翼の大谷隊が壊滅し
それをきっかけに石田隊・島津隊を残して西軍が総崩れになったのが、
午後2時頃、この場所です。

関ヶ原を一望する笹尾山「石田三成本陣」からの眺めは
あの日の朝、石田三成が望んだのとほぼ変わらないであろう、山野の形。
大波のように押し寄せては引く蝉しぐれを聞きながら
東西両軍、諸将それぞれの野心と決意と疑念と逡巡…
ここで戦った兵卒一人ひとりの、この日を迎えるまでの人生…
すべてがるつぼとなって燃え尽きた、この山野の1日を思うだけで
耳の奥に響いてくる戦の音声と、
鳥肌の立つような興奮・戦慄・恐怖・哀惜・感銘・寂寥…
すべてがない交ぜになったような感傷で
もう、ただただ胸がいっぱいになってしまうのです。

ついに戦いには参加せず、東軍の勝利後、孤軍で凄まじい撤退戦を演じた
島津維新義弘の陣跡。
キリスト教徒であり、堺の商人の子から武将となった
アウグスティヌス小西行長の陣跡。
昼でも暗い杉林を抜けた「天満神社」内に建つ、宇喜多秀家の陣跡。
湿度を感じながら暗い山道を登り詰めた場所に突如開ける
大谷刑部吉継と湯浅五助の墓所。
裏切りを予感させる小早川陣営の松尾山を
敢えて真正面に望む場所に据えられたという、大谷吉継の陣跡。
そして、首実検されることもない、夥しい無名の戦死者が葬られた
東西に残る首塚。

今日の関ヶ原の静けさが深ければ深いほど、
あの壮絶な一日の記憶が、この地のみならず日本の歴史の上に遺した
足跡の重さと大きさを感じずにはいられません。
日本史の曲がり角の景色を、自分の足で確かめた
この夏の、鮮やかな記憶と記録。
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