なんなの? マジで?
理解力とか読解力は、言い換えると、それが「頭がイイ」となる事なのだと社会生活の中でマジで実感する。
言葉明瞭なれど、意味や根拠が薄く経験が浅いための「思い込み」ほど、「バカ」に見えて、ペラペラの人間性をただただ表していると感じることが多い。
「文章力がないから」を言い訳に、思いを感じを羅列することに反論は無いが、もう少し、その意見のバックボーンは見え隠れしないと「説得力」につながらないと思ったりする。
自分の思いを伝えることは、実は簡単だけど難しいとの反する「表裏一体」の表現だと気が付けるかどうかが、実は大人の境界線だと、特に感じる。1/2
人が発する「意見」や「発言」には、常にストレートな意味だけではなくその裏に添えられる「思い」のようなモノがある。
それを感じる「読解力」が、生きていく上で、「結果」につながる「素養」となると考えている。
本を読むだけでは、知識も認識も実は増えてはいかないし、汲み取るべき「読解力」も身にはつかない。
真意を理解するためには、「読解力」で読み取った知識を「書く」ことでしか身にはつかないモノだ。
文章は、言葉の連なりである。
つまりは、「語彙力」の勝負である。
語彙力に溢れ、表現の自由さをモノにするには、「言葉の数」を理解して手に入れないとイケない。
つまりは、操る「言葉」を増やさないとイケないと言う事。「語彙力」を養うことだ。
勘違いする教育の一環で、四文字熟語や故事成語やことわざを正確に知りぬくこと、使えたりすることが大事だと思いがちで、さらには薔薇とか難しい漢字をスラスラと書けることが「教養」と勘違いする愚かな人も多いが、それらは、今更ながら、辞書や本からの「受け売り」でしかない。
魂がこもって居ないと言ったら分かりやすいだろうか。
日常の中では、全く持って意味があるとは思えない。
なぜなら、そんな言葉を社会生活の中で乱発する人居る場は、場違いで、シラケまくり、聞いている人達が飽き飽きするものだから。
この感覚が分からないと言うことは、何のバックボーンも持たない、ただのウンチクたれ、物知りたれの発言に、世間は嘲笑といった態度をとることを「読解」出来ない哀れさすらも読み取れないと言うことだから。
周りの空気が読めないと言うことは、何を読んで記憶しようが、元の「文章を読み取れていない」表れである。
人と人の関係性は、難しい言葉、辞書をひかないと理解できないような言葉の連なりでは成り立ってはいない。
むしろ、より簡単な言葉の連なりでつながっている。
「おはよう」、「こんにちは」、「はい」、「そうですね」、「好きです」、簡単な言葉の連なりで、人は人と関係性を保っている。
その連なりを理解してこその、「語彙力」なのである。
人の関係性が言葉の連なりであって、それを身をもって理解することが出来ずに、頭だけで難しい言葉の意味やいわれを理解したとこで、何の意味も無い。自己満足としても、かなりレベルの低い話で、ある程度の感覚が大人として花開いているのなら赤面する話でしかない。
言葉は、「語彙力」は、噛み砕いて分かりやすく心地よいリズムで使ってこそ、始めて人の心に届き意味を成す。
覚えたことをストレートにアウトプットすることは、オウムと変わらない。
つまりは、自分で「言い換える」ことに、「語彙力」の本質的な意味合いが出てくる。
人は言葉によって、その人の能力や人柄や可能性を感じて、始めて読み取ろうとする。
人が話すこと言葉、書く言葉の「意味」を簡潔に表せば、好きとか嫌いとか、本来ならそれほどを「差」が出ることは無い。しかし、その「差」を生むのが実は「語彙力」とも言い換える事が出来る。
人の差は、実は、読み取った後、「ほぼ同じような内容」を「どのように表現するか」だけなのだ。
目の前で起こった現実は、映像としたら誰の目にも同じように移っている。
しかし、それらの「説明」を求めれば、10中10人が別の言葉で書き記す。
その「差」が「語彙力」であり、人の「差」として現れるモノである。
「おはようございます」
「おはよう」
「オッす」
「ちっーす」
挨拶にしても、人は発する相手により、まったく違うニュアンスで、コミニケションを取り、思いを伝えている。
人は、文体を使い分け、同じ人であっても、状況により、相手により、さらには自分の感情によって表現を使い分ける。
それは、相手に対して「自分を表現」しているから。
逆に、そんな多様な「言葉の表現」を聞いて、人は他人を判断する。
「語彙力」が無い、表面的な人は、社会では評価されない。または、評価されづらい。
自分を「語彙力豊か」に表現できないのなら、当然、相手を「語彙力豊か」に受け入れることが出来ないのだから。
「知的にみられたい」のなら、「語彙力」を身に着け、使いこなさないと意味などない。
コピぺや本の引用など、コチラは全て知った上で話している。
それらをはぶいて、オリジナルの言葉だけをつなげて読んでみると良く分かる。
浅はかな言葉の羅列が。
コッチは値段に見合った「味」とかコスパとか、立ち止まって怒るほど程度の生活環境でも無いし、
性格的に、今がダメなら未来に意識が直ぐに向くタイプだし、ソコに居て騒ぎ立てることは、
自分に何にもプラスにならないし、ソレを語ることが自分の価値をひたすらに下げるだけの話だと知っているし・・・。
大多数の賛同賛成の意見は基本「無音」で過ぎていく。
ほんの少数の批判めいた批評は「耳にあざとく粘りつく異音」でしかない。
これって、結構大事。
大多数は、クレームなど無いから 何も言わない。
クレームは、常に少数の意見でしかない。
少数意見っては、本当に弱者の意見か?
甘やかされて育った、どうにも使い道のない輩の姿では無いのか?
ネットが、人を動かしている?
人が動かされているのでは?
・・・だって、ネット・・・、これって・・・兵器だよ。本当は・・・。うぅん? 知らないの?
まぁ・・・。
そんなモノに惑う自分がバカにしか見えないから、
私は突き詰めようにも突き詰められない「味」の話なんか、これっぽっちもしたく無い。
味なんか、別に「食えるなら何でもイイ」ものだ。
些細な違いをあげつらって「味がわかる」とか、片腹痛い。
つまんない人生を見つめ直すことを諦めた老害の戯言など、火葬場の窯の中で喚き散らせばイイ。好きなだけ。
後進の指導が出来ぬ、人を創れぬ輩に、どんな場であれ、ドコにも席などは無い。
歳を重ねたなら、重ねた振舞いを考えるべきでアリ、するべきだ。
ただ、出来ないなら、速やかに引っ込んでろ。
普通の生活での感覚を持っていて、一人では決して生きてはいけない社会性の重要さを知っているなら、素直な「こんな味わいが好き~♡」的な話の方が大好きなハズだけど。それが出来ないと言うのは、年金とか本気で「自分が納めたお金が帰って来ているダケ」とか思っているような、学ぶことが出来ないで、ただ無駄に歳を重ねた、振り返っても自分以外誰も「実のある人生でしたね」とは、言ってもらえない生き方をして来た人なのだろう。
苦虫を嚙み潰したようなブス顔で、
決めつけた程度の低いウンチクと誰かの書いた本の引用など、
本当に目と耳が汚れる感じがして大嫌いだ。
現状仕事の世界では、脳が怠慢な動きしか出来ないのに、
急に賢いフリで、「何かを悟った」風の本人自己満足の世界観は、
マジで、
薄らハゲっが右耳から左耳に流れる数本の髪の毛で、
黄土色の汚い地肌のその全てを覆いつくせると勘違いしているよりも、
さらに激(ハゲ)しく勘違いでしかない・・・ははっ~♡