『いっぱい食べたい♡』パコ崎ミャ子さんの日記

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パコ崎ミャ子は、どうすればイイ?

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パコ崎ミャ子 (東京都) 認証済

日記詳細

書き物仕事が続くと、途端に「食べログ」に逃げ込みたくなる♡・・・本気でダメなワタクシ・・・。ははっ~♡

好きなことを好きなタイミングで書けないストレスは、物書きにとっては神経を擦り減す・・・。
いやいや、最初の書き出しは、いつも「好きなモノ」を書き始めているのだけど、
順調に話が進み、思っていた連載期間とか話のストーリーの完結が迫ってくると、大抵、

「もそっと、続けては・・・くれませんか?」

みたいな上目遣いの猫なで声で、袖の下とか股の舌とか足裏のペロペロとか、渋めでそんなこと言いそうもない中年担当様ににじり寄られてしまうと・・・、

『・・・う~んぅ・・・じゃ・・・後、・・・5回くらい?で・・・イイぃ?・・・』

とかと、オジサン体臭フェチの私としては・・・簡単に理性のタガが外れて、「好きなはずだった・・・話」をつらつらと書くことになっていく・・・。

別に、本当に「好きなコト」でも「好きだったコト」でも、そもそもは嫌いではないので、書こうと思えば、いくらでも書けるけど、自分としては「ある一定のquality」を越えたモノしか世には出したく無いワケで、惰性で書いているモノに自分が心から楽しめる要素はあんまり見出すことは出来なかったりする。

自分としては、趣味とか興味とか2年くらい真剣につぎ込むと、大抵は「やり切った感」が出てきて、いわゆる「飽きる」感じになってしまう。知的欲求の刺激が鈍感になると言うか、刺激に麻痺するのか「あたりまえ」の感覚が強くなり、集中力が極端に落ち、楽しんで始めたコトなのに・・・その最中に「違うコト」を考えだしたりする。

目の前のことに興味が薄れた瞬間、その先の見えなかった魅力に気がつく法則・・・とか、勝手な言い訳で言っていたりもするが。ははっ~♡


そんな性格の自分を考えても、自分の中で、「食べログ」に書くことは、なかなかに興味深い「自分の行動」だったりする。

2年で大抵は飽きる周期に、あてはまらないから~♡

初めて書いた「BISTRO SUZUKI」様のレビューが2015だから、ほぼ5年間、マイペースにその時の感情をフリーダムに書き散らかしている。
ごく一般的な平均的なレビューの文字数は知らないけど、私が書くレビューの一つは、多分、その平均的なモノの5~10倍の文字で埋めていると思う。
書き切ってアップしようとしたら、15000文字を軽く超えていて、削除添削を何度もしているから。・・・アホだ♡
まぁ、でも、遊び書きなので30分くらいの休憩時間だから、イイのだけど。

私が「食べログ」に書くことは、考えの整理や、感情の吐けぐちであって、「お店の紹介」からはほど遠いのは、書いている自分でもよ~く分かっているつもり。

でも、その書き散らした中には、必ず「お店の料理」に対する敬意と愛情を含めているとも思っている。

私が書くお店は1度や2度の来店ではなく、子供の時から何十年と通っているか、何度も足を運んでそのお店のほぼ全てのメニューを季節や時期を合わせて食べたお店ばかり。

その中で、「一つの作品」である特別なお料理にスポットを当てて書いている。

当然、それが読んだ人の来店意欲につながるかは、それこそ文章の「好み」によるものと思うが、私は、その「的を絞った書き方」の方がイロイロと書きやすいのでそうしている。

来店の様子や、店内の話や、食べた順番や写真も、人によっては「大事な情報」かも知れないが、私は食べるにしても他のことでもあまり「他の感性」を素直に受け入れられるほどの度量は持ち合わせてイナイ。
信用していないと言ってもイイのかもしれない・・・。

生きてきた経験で、誰かの後追いとか、誰かのアドバイスとか・・・身になって肥やしになったことが「ほぼ無い」から。

ナニカを気がつくキッカケや、チャンスには成ったこともあるけど、最後は自分が「気がつけるか、どうか」の方が重要で、「自分で気づく」ことが全てだったから。

味わいも、私は同じ感覚で見ている。

誰かの美味しいは、その人の美味しいで、一般的な美味しいが、自分に合うかは全くの別問題だと・・・思う。

その上で・・・。


「アナタの書くモノは、長いし、写真が無いのは・・・」


とか、よく言われる。

「食べログ」は、「総合的な食のブログの集合体」であり、「個人の感性の総体的なまとまり」と勝手な解釈から、結果的に「お店の紹介、称賛、宣伝」であるコトを「第一」と考える私としては、毎度、遺憾な言われようと思っている。


はたして、
「短い文」と「写真」は、お店の「お店の紹介、称賛、宣伝」に成っているのだろうか?


それこそ、ただの「食べた報告」だけで、「美味しい」「不味い」の意見は、読解力の無いラインにたむろするお金の使い方に不自由な人達を煽っているだけではないだろうか?

本当にそれだけの情報とも言えない「羅列」で感化される人がいるとしたら凄いコトだと思う。

就活で、「履歴書」の欄を埋めに埋めて、ステマ売込みで内定をもぎ取る図と何ら変わらない感覚と思える。

「短い文」は、読解力の先にある感性の一言であり、簡単にまとめるコトは本当は難しい。
「写真」は、温度も味わいも雰囲気もバックも、読み取るセンスがない人にとっては、どれも同じ絵でしかない。

「長い文」の方が優れていると言う話ではなく、それぞれがそれぞの思いの中から生まれたものであって、「食べる表現」と捉えると、それこそ、


「イロイロな表現」の形があったほうが、「面白い」と思う・・・と、言う話。


だって、ソレは、それを見たり読んだりした人が判断するモノだから。

誰かのしていることに、意見を言っていいのは、「言った事に責任がとれる人」だけが本当は言っていいコト。

むやみやたらの干渉は、ただ無責任なだけ。


「この料理は、もっとイイ素材を使えば」・・・じゃ、アナタが買って持って来てください。うちの商売は慈善事業ではないです。
「この料理の火入れは、甘い」・・・じゃ、アナタに火入れは任せます。でも、お代は頂きます。
「この料理に、このつけ合わせは合わない」・・・他のお客様は、その付け合わせが好きで通って来てくれています。
「このお店の内装は・・・」・・・。
「この味付けは・・・」・・・。
「バイトの店員が・・・」・・・。


読んでいると、イロイロと言いたくなる。

その中でも、

「生きて行くことは、食べること。食べることは、生きること。」

そんなことを・・・言う人がいる。

正直、どんな観点で言っているのか、よく分からない。

「人は、顔が命」

と、言っているのと同じだ。


「しゃ、アナタの顔や見た目や立場や生き方は、減点の要素が無いんですネ」


上辺だけの考えで、なんにもアカデミックに物事を考えることが出来ないで、学習能力も知に対する恐れもない、ごくごく普通の人達なんだと単純に思う。
なんにも恐れが無くて、自分に有り余る自信と地位と名誉と経済力が備わっていて、「本当に凄いですネ♡」と、声をかけてあげたくなる。

私は、欠点ばかりで、何も誇れるモノがないので、「自分が出来ないコト」を実践している人達をホントに尊敬する。


だからなのか、ただ、


「生きて行くことは、食べること。食べることは、生きること。」


ではない。・・・と、教えてあげたい。


正解は、

「生きるとは、死ぬこと。食べるとは、出すこと。」

が正解であると、生理学、生化学、解剖学を教えてる身からすると、教えてあげたい。


深い考察も無い「言い切り」は、時々、人を不幸にする。
普段は、「・・・あぁ、そうね」と流せても、真理の内側を学ぼうともしないで話す内容に時々疲れを感じてしまう。

食べれば出るのは、当たり前で、高級でもそうでないモノでも、食べれば誰でも出すモノだ。
つまり、どんなに栄華を誇る人生でも、いつかは絶対に終わりが来る・・・もの。


価値観の焦点をドコに合わせるかは・・・その人の経験による知の履歴でしかない。


「美味しい」とか「不味い」は、その時々で変化する身体や感情でドウとでも変わるモノ。
その一瞬の時を切り取って話すにしても、ソコにはちゃんとした責任が存在する。


杓子定規に規定をして、「他人のすること」に異議を唱えるなら、
その根拠となる話、学術的な話ではなく・・・、

自分の本心を語るべき。


その、嘲笑や陰口は、どんな「本心」から生まれている?

話てこその「言いたいコト」であり、「本当の味わい」だと、思ったりする♡


やっぱり・・・、食べたモノが「美味しい」か「不味い」かは、ドコまで行っても自分の責任。

誰のセイでも無い。
自分の責任。


その評価や点数は、それを味わった「その人」の評価や点数でしかない。

3.5点とするのは、「料理」ではなく、アナタが3.5点なだけ・・・。






・・・。・・・。・・・。





『「私ね、セックスの重要性は夫婦をつなぎとめる道具ではなく、当たり前に男と女の関係性をつないでいるモノで、ソコに立場とか理性とかモラルを乗せだしたらセックスの意味が無くなる」

と、こないだ番組で話したら、上手に編集されて、ただ

「不倫もあり」

みたいな感じになっちゃってんのよネ・・・』


大学の先輩の出版物の相談を受けて、二人でお茶している時にボソリと言われた。


もともと、強気でつっけんどんな物言いがカッコイイ先輩なのに、メディアに出だしてからは、その瞬発力ある自由な発言に1拍置く感じが出てきている。

人は、もまれて丸くなる。

ただ、あがいている人は、角が取れて丸くなるが、自分で「悩み」「考え」修正を出来る人は、

磨かれて、丸みの先に輝きが放たれだす。


才能があり、運が味方しているモノが、「やられっぱなし」のワケがない。

必ず、その変な鎖を断ち切って、より自由に羽ばたく。


分かっているから一緒に居るワケでは無く、
分からないから人は一緒に居るワケで・・・。


でも・・・、好きな人が知らない誰かとナンカするのも、「バレなければ無かった話」と・・・私は・・・その時、笑って言えるかなぁ・・・。


「・・・アナタも、こっちの世界の人なのに、いつになったら表に出るの?」

『いやいや。ははっ~♡ 私は無理ですよ。人見知りも激しいですからネ~』


私は、論客でもないしオモテで発言して責任を全う出来る立場でもない。
フラフラと、心の苦しさとか甘えの先に「食べログ」に書くのが関の山だ。


それでも、今の時間の進みは好き。

やりたいことがよく分からないで、与えられる仕事をこなしているだけでも、結構幸せ。

ナニカに熱烈に依存するほど強い思い入れがあるモノも、身内や友達意外にはほとんどない。

食べることも、朝は無しで、昼はカップスープとかトマトジュース。夜は付き合いの場で、ビールにつきだしの小鉢に刺身は食べないでのツマの大根をちょろちょろ・・・程度。

そんな程度の食生活の中で、レビューの数など増えるワケがない♡ ははっ~♡


イロイロと食べ歩くことが出来る人達をホントに羨ましい~と、思う♡ マジで!
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