『人を使うと言う事』パコ崎ミャ子さんの日記

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パコ崎ミャ子は、どうすればイイ?

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パコ崎ミャ子 (東京都) 認証済

日記詳細

大なり小なり、自分が組織のトップとなり何かをするとなると、人事がとても重要になる。
上から目線とか立場を見失った物言いとか、直ぐに感情的なあげ足取りの様に言うのではなく、上に立ちその組織を円滑に運営し、組織としての利益や結果を出すためには、誰かが総体的な評価をして指示しなくてはならないのは当然の事と言える。

最近のグローバル化とかボーダレス化とか社会の仕組みや考え方、また、そもそものやり方が変わったと声高に叫ばれ「嫌なら辞めればイイ」とか「自分を活かす生き方」とか「やりたいことだけ仕事にする」とか、生活基盤の仕事に対しての向き合い方に、「個人の価値観」を全面に出した物言いが昨今多くみられるが、その情報の発信元が「転職サイト」なり「自己啓発セミナー」なり「宗教的な囲い込み」だったりと、正直、現代社会の真裏の部分が必死になって叫んでいるだけでしかなく、環境に準じて意識が落ち着いていれば、普通は耳に入らない言葉ばかり。

なぜなら、現実的に、やりたいことだけで生きている人は居ないから。

まず、組織として仕事を進めて行くうえで、その環境内での「組織としての結果」と「個人の利益」は必ずしも一致はしない。
それは、組織内で行う「人事」が、適材適所の配置、決定権の譲渡、運営資金の采配と、どこまで任せるかどこまで信じるかは組織全体の死活問題だけでなく、組織としてのそもそもの存続の有無にまで簡単に発展する要因となるから。

「組織の価値観」を「共有できる個人」が、組織の中では最も大事で、それぞれが持つ「個人の価値観」を組織内の仕事上で出してしまうのは、組織運営者としては、もっとも忌み嫌うべき感覚でしかない。

そんな中、拙い人生経験のなかで、「同じ失敗を二度と繰り返さない」を心に身に深く刻み込み、日夜と対応に従事していると、一つだけ鮮明に見えてくる現実がある。

それは、「自分を優秀と思い込む、本質的にどうしようない 悪い奴」が居ると言うことを。

組織の中に、その「優秀と言われる仮面をつけた 悪い奴」が一人いるだけで、実は運営のほぼ機能がストップすることが少なくない。
「大袈裟だ」と言う向きも分るが、それぞれが心に手をあてて過去を鑑みると、実は「誰か一人の対応の悪さ」が、実はその「失敗」の、そもそもの引き金になっていることは、よくある事と気がつけるはず。

残念だけど、その「悪い奴」は、常に「自分の利益」のためだけに動く。

笑顔で、全体主義を話しながら、あざとい悪知恵を働かせ、場合によっては嘘や虚偽、粉飾でもなんでもし、組織や仕事のためではなく「自分の利益、自分のため」だけに、身の保身、立場の保全、今後の影響力の保持と、完璧な「自分の利益」のためだけにその知恵と行動力を使う。

実は、たった一人、そんな「優秀だけど、悪い奴」が組織に居るだけで、全ての仕事が壊れてしまう。

例えば、そういう「優秀だけど、悪い奴」は、自分の地位を守るためになら、本当に組織に有益になる「優秀な人材」が配属されても、権限があれば平気でその人を干したり排除してしまう。それとは逆に、自分を支持し、自分の価値観に有益な働きを約束してれる者が現れたら、多少なりとも能力が低くても強引に使うことを考えだす。

それらは、成果を目指す組織にとっては、静かに忍び寄る失敗への序章となる。

また、「優秀だけど、悪い奴」は、仕事を進めて行く上で、飛躍するために必要なはずの「高い目標」を立てることを極端に嫌う。実現が不可能であるとの意見では無く、ただ「自分の利益」に反するだけの理由で、「達成するのは到底難しい」などと、イロイロな理屈をつけて「低い目標」への転換を即したり、明らかに「努力を怠る怠慢さ」の正当性を訴えだす。

そして、もう少し知恵のある「優秀だけど、悪い奴」は、「上司のポジション」を狙って、上司に汚点がつくような失敗を「ワザと」してみることもある。最初はさもない「自分のミス」から始め、次は、「後輩」や「同僚」「先輩」と鮮やかな「技」を駆使して、上司を追い込みます。
誰もが愛した公平な上司が「飛」ばされて、その原因が、仲間や部下をかばったとの話を後から伝え聞くことは少ない。「優秀だけど、悪い奴」は、その「後から伝え聞く」等の広がりに技を繰り出す。スグに広がれば人の詮索は旬をむかえるが、時期を外した噂話ほど的を得ないモノは無いから。

これら全て組織にとっては大きな背任行為。しかし、一般の社会において、意識的になかなか気づくことはできない。「よくある話」や「ドラマの世界」のフィクションだろうと思われるかもしれないが、全て、大なり小なり社会の一員として働いていれば、感じることが出来る話だと思う。

「優秀だけど、悪い奴」は、ドコにでも居るし、なかなか尻尾を出さないので見抜くことは、難しい。
先ずは、「優秀だけど、悪い奴」は、面接などでもなかなか見抜けない。基本的なスキルは「優秀」であるが上、大抵は第一に好印象と聡明さを語れるほどの「弁」を持っている。組織が、どんな人を必要としているか演じることなどワケも無く、採用する側が欲しい答えを質問以上に準備しなくても、自然に違和感なく語れるほど。

詳しく見ると、驚くほどのたいしたことがない過去の経歴も、見事なほどにキレイに粉飾して話すので、聞き手である担当者の見る目を煙に巻くのはお手の物。
そもそも「優秀」ということ自体だけを見ると、頭脳労働に価値があるとした迷信がある現代においては、プラスの評価でしかない。しかし、一方ではなかなかその人の「本性」「本質」である誠実さや真面目さまで見抜くことは難しい。

新しい組織を立ち上げる時、仕事を仕切る時、経営、人事に関わっていると、過去の経験や学んだことから、単純に、言葉で語れる「スゴい経歴」の人をドコかで猜疑的に警戒するようになる。

当然の思いで、仕事に見合わないほどの履歴経歴や、誰々という立派な肩書の人の推薦状など、「イロイロとはスゴいと思うけど、なぜうちに?」とか、「紙面上の経歴自体は完璧だけど、そんな完璧な人って居る?」とかと疑心暗鬼になる。それゆえ、反動的にスゴい経歴の人ほど大きなプロジェクトでは何故か採用しづらい状況に陥ったりする現実がある。

「自分の価値観」を持ち、それが「組織の利益」になるのなら最高の関係だが、基本組織は、組織に対して「誠実さ」な人を求めている。「自分の価値観」などと言う幻想は全く必要としていない。右でも左でも無く、白でも黒でも無く、それが現実。

本当に組織が欲しい人材は、「謙虚であり」、「誠実であり」「嘘をつかない」「忠実である」「組織や事業のための貢献意欲がある」「会社の理念への共感や使命感を持っている」当たり前の価値観の人。
決して、「善人ぶる」ことが、信頼につながるワケでは無いと知っている人。

組織の信頼とは、「その人の行動が予測可能性であること」、つまり「この人にこんな仕事を任せれば、こういう行動をして、こういう成果を挙げてくれるだろう」と見通しがつくこと。
例えば、「目的のためには手段を選ばない」というと、不誠実に聞こえるかもしれませんが、その人の目的が組織の目的と疑いなく一致していれば、頼もしいことこの上なく「信頼できる人」となる。

真実の「有言実行」であるから。

「やっています」「理解しています」「思っています」と「意思」を表明することは誰でも出来る。

誰だって、結果を出したいし、人から評価されたい。
そのためには、「何でもやってやる」と最初は勢い勇。しかし、現実は厳しい。それほど、他人からの評価は上がらず、「こんなはずでは無かった」と思い出す。

結局は、人事とお金、動かす人の任命権と実行するための予算を握らなければ、人は動かず、人が動かなければ、結局はなにを言ったとしても状況なんか動くことは無い。そして「悪い心」に正当性を自分で与えてしまう。

人間って、愚かな生き物なんですよね。環境で自分を見失わないように、「悪い奴」になってしまう。

そして、全てを組織や社会に擦り付けだす。日本の場合、世間の常識よりも会社の常識の方が大事になっていると言い出す。そういった考え方が、そもそもの日本人のDNAに組み込まれていると。

昔風に言うと、お国のためと言うか、藩のために命を懸ける。カッコイイ言い方で言うと、侍の生きざまとでもいうモノで。

昔で言う藩、今で言う会社や組織。

私達が求めていること。それを活かすなら、人の命よりも組織の命を優先させる。そんなことを欧米の人が聞いたら、そんな組織はさっさと辞めて、他に移ればいいのにって言うでしょうね。それはそうなんですけど、侍はね、藩から出されるのは負けだと思っている。

忠誠心と言えば聞こえがいいけど、逆に守られても居て、まあ、そういう持ちつ持たれつの日本独自の関係性。

そんな企業風土が資源も何にもないタダの島国を先進国にと押し上げて行った功績は否定できないでしょ?

当然、どんなモノにも良いとこもあれば、悪いトコもある。

だから、「悪い奴」になっているのに、「気がつかないフリ」を決め込んで、自分を正当化する。

悪いのは組織で、悪いのは社会と。


・・・そんな、「悪い奴」・・・許すワケネーだろ。やっと、こちっちの番だよ・・・。
どんだけ、時間を無駄にしたと思ってんだ。
どんだけ、人の命を無駄にしたと思ってんだ。

ナメンナヨ。上には上が居る事見せつけてやる・・・。イヨイヨね~♡ ははっ~♡
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