・・・。
・・・。
・・・そうだ♡
イロイロと歴史に名をはせる哲学者の話をダラダラ書くのなら、個人的に推しの哲学者の話をしよう・・・~♡
個人の「哲学者」で、もっと広く知られると、現代での「生き方」がもっともっと潤う♡と思う、
フランスの哲学者、
「アンリ・ベルクソン (1859~1941)」の話を・・・流れついでにしちゃう♡
「アンリ・ベルクソン」は、なかなかに哲学者の中でも、その業績も秀逸に光り輝くのだが、育ちがイイのになぜか強烈な反骨心を持ち合わせ、見た目とは違い底抜けの明るさからなのか「アイディア」が豊富過ぎて、超マジで最高に面白い♡
「経験」こそが「思考」に大きく「影響」すると、明解に論じることのできる稀有な「哲学者」として知られている♡
父親が作曲家、演奏家であり音楽が身近な環境で育ち、ベルクソンも作曲し、ピアノやバイオリン演奏も得意だったらしい。
教育機関リセフォンタールで、古典学と数学の相反する考え方を学び、パリ大学では人文学を専攻。
その後、教育機関での指導者を育てる、パリ高等師範学校に入学し教育者を志す。
そこで、「哲学」を担当する教授連が放つ、過剰な「新カント派」の「一方的過ぎて、正解をすり抜けるている程度の与太話」の連呼に強烈に反発し、講義を受けるよりも図書館にこもり、一から哲学の成り立ちを学び直した。
そこで、琴線にふれた「ジョン・ステュアート・ミル(1806~1873)」の政治哲学や社会性から読み解く分析哲学を、また「ハーバード・スペンサー(1820~1903)」からは、他分野、多様な思想などのあらゆる角度からの考察と、その目で確認し感じとり、そこから「自分の言葉」に変換する大切さを学び、その後の哲学的な思考の基本を学び取る。
自分の素養を体感で知っていたのか分析していたのか、「身体に馴染む思考」に若い時に出会えたことは、彼の進む道の確信の光明となったのだろう♡
1888、「時間と自由」を発表。時間論の名著。
時間はだだの瞬間的な連なりでは無く、「経験」が流れてつながって行くものと提唱。
最初の「感覚」は無では無く、「有」であるのは「経験」であると説く。
哲学的な難問「有るとは何か。無いとは何か」に切り込もうとしている姿勢が見え隠れしていて、読み込むほどゾクゾクする♡
1896、「物質と記憶」を発表。
哲学での伝統的な問題の一つ、「心身問題」について考察。
失語症について医学との共同研究を手がかりとし、人の持つ「感覚」「感じ方」の認識する物質と確認する表象の中間的存在として「イマージュ(image)」という概念を用い考察した。
他分野との共同研究を当時では珍しいほど積極的に取り込み、結果としてまとめ上げる。
ベルクソンは、実在を「持続の流動」とする立場から、「感覚(認識)」からの始まりは「心(記憶)」からであり、向かう先にあるのが「身体(物質)」であると説いた。
つまり、心と身体の関係性は「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」であり、その間を取り持つのが「感覚、時間、経験」であるとした。
双方が「時間的(経験)な持続の律動」を通じて相互に関わり合うことを説明した。
そのベースから♡ ははっ~♡
1900、パリ国際哲学会議にて「笑い」についての3つの論文を発表する。
この、3つの論文はその後、「笑い」と言うタイトルで一冊の本としてまとめられているが・・・、
これがまた、何かがチびるほど狂おしくも愛おしく、超面白い♡ 名著♡
この「笑い」の論の中で語っているコト、書かれている内容は、「笑いの基礎」と学問的には言ってはいるが、別に、誰もが普段の生活のなかで体感し実践し知っているコトで、昔から世間には馴染み良く侵透している話である。
ベルクソンが書いた「笑い」の本のスゴイとこは、誰もが「知っている」「知ってイナイ」関係なく、その馴染みが良い空気感を読み取れるトコにアル♡
「笑い」についての哲学的な思索を試みるのは、様々な知識のバックボーンを持つベルクソンからすると、過去の歴史的な哲学者に対する「敬意を持った挑戦」であり、未来の哲学界に対して「誰かの論をトレースするのが哲学ではないんじゃ~!経験(分野を問わない様々な知識)なき思考など意味なんか無いよ~ん♡」のアンチテーゼだったと感じられる。
「ドンドンと何かを削って行くと最後に残ったモノが「真理」とするけど、
牛をドンドンばらして、最後に残った肉に何も味付けしないで焼いて食べても、それほど美味しくないでしょ?
でも、ソコにたった一つ「塩」を一振り加えたどうなる?
美味しくなると・・・思わないかな?
「真理」って、ちょっと「見方」と言う味わいを「一つ加える」と、なんかハッキリと「分かる」ってこと、意外とあるんだけどなぁ~♡」
そんな感じで♡ ははっ~♡
では、では♡
「笑い」については、哲学的な思索は古典の時代から取り上げられている。
プラトンは、もともと「喜劇」などに否定的な考えで、「笑い」と言うものをネガティブなものとしていた。
その感覚は彼の全ての発言に色濃く出ていて、私のような脳内お花畑なモノには、「パーで一人てスコッチを飲むのって別にカッコよくねーし、味なんかよく分かんねーから。一人で飲むなら家の台所でワンカップ大関飲んでいた方が落ち着くし~旨いし~」と思うほど、馴染みが悪い。
映画「プラトン」、
サブタ、「プラトン、「笑い」とは本質的に「卑屈」なものと考えたってよ~」。
・・・そげな、感じ・・・。
「自分を誰よりも優秀でありそのプライドを隠そうともせずに、他人を見下す発言ばかりしている人が居たとする。
本人は、自分が優秀であると思い込んでいるので、正しいことを言っているだけと思っているのだが・・・。
その人を取り巻く環境の人達は、「・・・残念だけど、彼はそれほど優秀ではない」と陰で笑っている」
「その時、周囲の人は何に笑っているのか?」
プラトンが出した答えは、
「人間の無知」としました。
「自分を誰よりも優秀と思い込んでいる姿は、周りには「自分で自分のことを良く分かってイナイ」との「自己認識の欠如」に写り・・・、それを笑っている」
そして、人が人を笑う「他人の無知」の根源には、同時に「嫉妬心」もあると指摘しました。
「どんな場面であれ、自信満々な態度や意見には、それを見せつけられ対峙した人の心に、少なからずうらやむ気持ちが芽生え、その心苦しさを打ち消すために、人は笑いと言う手段を活用している」
・・・なんか、昔の「笑い」は生活に馴染んでいなかったのか、
社会的に阻害されていたのか、「男は黙ってサッポロビール」的な、モヤモヤしている感情を押しとどめて寡黙に生きて行くのがカッコよかったのか・・・、
「笑い」って、心がhappyになるモノが一番最初に思いつくのに、「卑屈」バージョンから切り込む入り口がなんか・・・ダル・・・。
次に、アリストテレスが考える「笑い」。
・・・いや、別に紹介しなくてもイイんだけど、なんか、こっちもプラトンとほぼ同意見で、「笑い」に対して「好意的では無い」見解を示しているから・・・。
「笑いとは、他人を「軽蔑し見下す」ことから生じる「快感」である。
笑いの対象になる人は、他人の目には常識の欠如から社会性から外れているのに、笑われている本人はそのことには気が付いていない。その姿を人は笑う。
もしくは、常識の欠如が無い人を笑う時は、意図的に笑うことで相手を攻撃している。
そのことから、日常で過度に笑いを使用するのは危険であり、無意識であったとしても、その笑いで人を傷つける可能性がある」
なんか・・・、一理あるけど、マジ聞いているだけで辛くなる・・・。正直、ツマンねーのー・・・。
・・・ちょっと時代が進んだ「笑い」へのアプローチは、
近世哲学にて、機械論的世界観の先駆者であるイギリスの誇る哲学者、トマス・ホップスは、
「笑いが込み上げてくるのは、意図しない行動が上手く行き気分が良く成った時、あるいは、自分以外の他人に不出来なトコや不幸を見出して優越感に浸る場合」
「これは、自分自身の能力が自分の理想よりも乏しいと感じている人や、自分の不遇は己の努力不足では無く周りの環境によるものと不平を抱えている人に現れる」
「自分よりも劣る人を見つけることで、優越感を得て安心とする。しかし、他人の欠点を大いに笑うことは、小心でそれしか出来ない証拠でもある」
・・・ホップスさん・・・、「笑い」は優越感のあらわれと言っているが、また、解決方法なのか禅問答なのか、理想も言ってはいる・・・。
「価値ある人を目指すなら、誰よりも有能な者を自分自身の比較対象とすることで、他人を嘲笑から救い出し、尊厳の有る偉大な精神にふさわしい好意である」
と、道筋ポイことも言うには言っている。
・・・まぁ、いわゆる、一般的な「笑いの優越理論」が確立する感じではあるけど、正直・・・、
「だから、どうした?」 程度の話だと思うけど・・・ネ♡
時代を超えても、ココまでの3人は「笑い」に対して、
「あんまり良い噂聞かないから、アノ娘とは付き合わない方がイイわよ」
的な、かなり近い意見を持っていると感じる・・・。
・・・。
ホップスまで、結構時間が経過して、時代も変わってきているのに、「笑い」に対しての解釈にちょっとした違いはあっても、ほぼ同じような「ネガティブ」な話をして、それを聞いた周りは反論しなかったのだろうか?
哲学で不思議なのは、「言葉」があるけど、成立していない「曖昧で、確信に乏しいコト」を重要視しているトコ。
コレが、「個人だけの思考」と「集団的な考察」のラインのような気がしている。
当時でも、それほど受け入れられない程度の話だったはずなのに、年月で重みを勝手に持ってしまい、その重さにばかりとらわれて、抱いているのが最初から「子泣きジ爺」だったことを忘れている気がしたりする瞬間。
・・・。
もう一人、哲学から「笑い」に対してアプローチした人をあげるなら、最近何かと話題のドイツの哲学者、「イマヌエル・カント」の意見も見て診て視てみマしょうか♡
「笑いとは、張り詰めた期待が無に転化することによって生じる一つの情動である」
これは、笑いの理論として大変に有名な、「緊張と緩和」を示しています。
「絶対に笑ってはいけない状況下で、誰かが緊張感のない行動、もしくはその場にそぐわない出来事が起こると、私達は思わず笑ってしまうことがある。
高まった緊張感が何かの拍子で緩められると、心に張り詰めていたエネルギーが一気に笑いとして開放されてしまう」
この考え方は、「笑いの解放理論」「笑いの放出理論」とも言われ、多くの哲学者が言葉や例を変えて論じている。
・・・。
・・・うん・・・そうそう・・・。そんな時もあるけど・・・。でも、なんか・・・足りないんだよな・・・、正直。
「緊張と緩和」だけで、全ては網羅できないと感じるんだけどなぁ・・・。
自分が知っている「笑い」って、別に緊張感なんか無くても「笑える」ことに溢れているし、なんならナンカよく分からない夢とか見て、「笑って」起きることもあるし・・・。その「笑い」って何?
・・・。
まぁ、哲学の創成から「笑い」と言うテーマは、その時代その時代でイロイロと、手を変え品を変え考えられてきているっス。
では、私の推しのフランスの哲学者、「アンリ・ベルクソン (1859~1941)」は、
「笑い」とドウ向き合ったのでしょうか。ははっ~♡
ベルクソンは「笑い」単体の行動行為を分析するためにいくつかのテーマから「笑い」を分析しました。
この方法は、目的の「笑い」が、どのような効果を発揮し、社会生活の中で「笑い」としてどう存在しているのかを知ることで、「笑い」の本質に迫ろうとするアプローチです。
【4】 「笑うためには」
「「笑い」とは「何」を意味するのか、「笑い」を起こす「根底」には何があるのか。
笑いは誰にとっても身近にあるモノで、その存在は多様性に満ち溢れ、明確に「これこそが笑いだ」としぼれることはない。
先人たちの考えでは、「笑い」とは何かと深く切り込むあまり、「笑い」の全体像が見えない話に終始している。
なぜなら笑いには、大笑い、こらえ笑い、微笑み、苦笑い、薄ら笑い、愛想笑い、泣き笑い・・・と、その種類は、心地良いモノから不快なモノまで多種多様なモノがある。
笑いは、その多様性から人の複雑な感情を広くカバーしており、それが逆に「笑いとはこういうものだ」と定義するのを難しくしている。
そこで、とりあえず「笑い」を「喜劇的なモノ」に限定し、人が思わず笑ってしまう「可笑しさ」をみてみる」
・・・。
・・・もうね、切り口が明解過ぎて、ホレる♡
考え方って、その人を構築している経験からの柔軟性に色が出るけど、ベルクソンって一緒に酒飲んでも、普通に話していても絶対に面白いと感じてしまう~♡
なんか、イロイロと自分の頭の中にはパーツとして散らかって入っているけど、それを言葉に出来なくてモヤモヤすることってアルじゃん。
でも、それを断片の話を聞いただけで、スッとまとめて話してくれる感じがして・・・マジでホレる♡
イロイロ知っている人はいくらでもいるけど、その引き出しから出て来るモノに、必ず自分の色が添えられているってトコが、マジきゅん♡する。
・・・。
「では、「喜劇的な笑い」は、2つの要素が考えられる。
まず、①「人間的なモノ以外に、可笑しさは感じない」と言うこと。
景色や風景みて、人は美しいとか、ありきたりの景観だとか感じることはあっても、それが笑いを誘うということは無い。
しかし人は、動物をみて笑うことがアル。
それは動物達がみせる人間らしい表情や行動の愛らしさに、人は思わず笑ってしまう。
また、誰かが着ている服をみて笑うこともあるだろう。
その時、人は、服の素材や機能を笑うワケでは無い。
そんなユニークな服を作り出した人のセンスや、それを着ている人の感性を笑うのである」
「次に、②笑いを生み出す要素は、「冷静さ、感情の安定、落ち着き」である。
何かに対して可笑しさを感じる時、人はとても落ち着き、心に乱れが無い状態が必要である。
笑いに対する大敵は、人の気まぐれな「情動や情緒」になるだろう。
フツフツ湧き立つ怒り、悲観的な感情や悲しみの真っただ中の内は、なぐさめや優しさも響かないのと同じで、当然、笑いの衝動が起るのは難しい。
しかし、怒りや悲しみで涙にくれている時に、笑いは伝わらなくても、時が経ち、心に少しだけの平穏が戻ると、人は笑いを受け入れことが出来るようになる。
感性が豊か過ぎ、どのような出来事にも過剰に感情の共鳴を引き起こし、常に心が落ち着かず乱れた状態が続く時は、人は笑いを知ることも理解することも無いだろう。
人が「笑い」を得るためには、「心の安定」が必要であり、突き詰めた「過度な注意力」は必要がない。
細かい注意力は、物事の粗を探すようになり、その意味を深読みし読み違え、結果的に笑え無くなる」
・・・。
共感力や注意力が過敏になり過ぎると、セクハラ発言とか、発する方の意図と受け取る側の感情に大きな相違が引き起こされる。
少しでも「落ち着いた気持ち」があれば、「その発言は場に即しているか?」また、「その意図は冗談なのか?」など、その場の空気感で「笑い」になるかもしれない。
社会生活の中で、他者に対する思いやりや優しさは大事なコトだが、常識を超えた感情の流入や突き詰めは「情動や情緒」を失い、本来ある「人間らしさ」を超えてしまい、笑いへ到達は難しくなってしまう。
何らかの偏見や先入観や思い込みなど、人は、感情にとらわれた状態だと物事を「笑い」としては捉えられない。
「笑い」は、「純粋で単純な知性に訴えかけるモノ」であるからこそ、
人は、物事を客観的、理性的に観察することで、滑稽さや矛盾を発見し、そこでユーモラスな笑いを感じ取る。
時には、「傍観者」「無関心」などの「ゆるい視点」を持つことも「笑い」には必要かもしれない。
・・・。
【5】 「なぜ、人に笑いが必要なのか」
「「笑い」を味わうため、「笑い」の持つ社会的な役割、必要性を探る。
1つのグループがあり、何か共通の話題で笑いあっているとする。
自分もそのグループに参加し一員だったら、周りと同じ内容のことを理解し、同じように笑っているだろう。
でも、自分がそのグループの一員ではなく、ただの通りすがりの立場だったら、笑う意味は分からずに、ただ黙っているでしょう。
「笑い」は、「社会的な現象」の一面も持っている。
自分が「孤立」し寂しい疎外感を感じているなら、人は可笑しさを味わうことは出来ない。
笑いは、同じような「経験」を感じ、共有することで、周囲に響きながら広がって行くモノでもアリ、笑いが始まり伝わり広がれば、「集団の笑い」を形成するモノでもアル。
「笑い」は、ソコにいる人々が、「ある一定の知識や経験、社会的な文脈」などを共有している「前提」によって発生し、「孤立」していない「共同体」であることが必要となる」
・・・。
アレ? ドコかで、これと似た話を聞いたことがありますね~♡ ははっ~♡
この話は、「笑い」の「社会的な現象」の話で、とっても大事なトコは「前提」「孤立していない」ナンですよね♡
決して「個人の感覚」の話ではないし、ましてや「漫才を聞いて同じ部分で笑う」の説明にはナラないのですね~♡
だから「思い込みが過ぎる」、「ちゃんと理解していない」程度の「支離滅裂」な説明になるンですよね~♡
・・・なんか、気持ち悪いからチョットだけ言うけど・・・さぁ~あ・・・。
「街中華を語っていての「ウェ〇パー味」とか「化〇風月味」とか言うのは野暮な話だ。」の一文。
読解力ある普通の人は全員、私がこのお店のことを言っているのではなく、
食べログ内で町中華をバカにしている人達を揶揄している表現だ・・・
と、ちゃんと理解しているのに・・・お前だけだぞ。
変な思い込みで椅子から転げ落ちるのは・・・。
あのさー、子供の時から言われてきたでしょ? 「問題をよく読みなさい」「ケアレスミスが多いです」「集中しなさい」って、学生時代の態度って、社会に出ても大事たから・・・ね♡
やっぱり、ちゃんと本を原書で読んでいれば・・・。ねぇ~♡
交渉のテクニックの初歩である、「ただただ泳がせる」の巻。ははっ~♡
・・・。
「「3人で話していて、2人だけが分かる話題で盛り上がって笑っていると、残された1人は、愛想笑いをするか、その話題が過ぎ去るのを待つしかない。
もし、3人での話題に齟齬が無く、同じ感情の流れで同じ話題で盛り上がっていれば、3人の友情はより満たされ、かたい友情へと進むハズ」
「笑い」は、人が社会生活を営む上で必要な「共同体感覚」を養う手段にもなる」
・・・。
ベルクソンは、
「人間らしさ」、
「冷静さ、感情の安定、落ち着き」、
「孤立していない状態」
の3つの要素が、
「笑い」の根源としました。
・・・。
・・・。
ベルクソンの話が「全ての笑い」を網羅する話では無いのですが、かなり感じる世界観は自分の生活圏の中にリンクしている気がして、馴染みが良い♡
・・・。
【6】 「笑いが起きる要因」
「「笑い」がドコから来るのか?
なにも無いとこから始まるのではなく、「人間関係と社会」の人としての既にある生活の中に「笑い」は、すでにあるモノ。
「笑い」に対して3つの要素の組み合わせで「どういった距離感」で居るかが、「笑い」を知るために必要」
その上で、他にもある要因を考える。
「コント・・・♡
遊園地にメリーゴーランドがあった。
閑散期でその日は、広い園内で一組のカップルしか居なかった。
そのカップルは、メリーゴーランドに乗るため券売機でチケットを買い求め、入り口で待つスタッフに渡し、メリーゴーランドに乗り込みました
思いのほか楽しくカップルの会話は弾み、このまま時間を切らずに10周ほど乗り続けたいと感じ、
スタッフに、
「10枚分のチケットを渡すので、メリーゴーランドに乗り続けてイイか?」
と確認をとりました。
しかし、
「いえ、一度乗ったら、降りて、出口から出て、また入り口に並んで、順番が来るまでお待ちください」
と、そっけなく言われました。
カップルは素直に、誰も他に乗っていないメリーゴーランドに一回乗っては降り、出口から出て、入り口に並び直し乗り込む作業を10回繰り返しました」
・・・。
・・・古典的なコントであるこの話で可笑しさを指摘するとする、スタッフのマニュアル的な「機械さ」、それに素直に従うカップルの作業的な「機械さ」。
言うまでも無く、なぜ可笑しいと感じるかは、人に備わっているハズの環境や状況に合わせて態度や行動を切り替えられる「柔軟性」が失われているからです。
ベルクソンの言う「喜劇的な笑い」とは、人間的な思考の「柔軟性」と「機械的な硬直性」の間に存在しています。
喜劇、コメディなどでみられる古典的な表現方法ですが、現代の日常でも意外とこれと似た経験はあったりすると思います。
・・・。
「人は、本来備わっているハズの「柔軟性」や「弾力性」「臨機応変」が失われると、通常の「人間関係の構築」が難しくなる。
意思の疎通を「簡略化」し「問題を減らすため」のマニュアルであっても、その環境が常に「変化」するものが人の社会だとすると、機械的なマニュアルが優先され過ぎ「柔軟性」の意味合いが薄れるほど、深刻な社会不適応、物事によっては偶発的な事故が重大化、疾患疾病の悪化、さらには意図しない犯罪に巻き込まれるなど、人にとって社会にとっても悲しい状態になる可能性がある。
その上で、「柔軟性」と「機械的な硬直性」の間で、「人間関係」のバランスを保つモノの一つに「笑い」がアリ、「笑い」は社会を円滑にする機能も持っている」
もう一つ、
「就職面接に挑む若者がいた。
彼は、面接向かう前に、立ち食いそばでカレー蕎麦を食べてから会場に向かった。
彼は気が付いていなかったが、ネクタイの先端とシャツの前面に豪快にシズクが跳ね回っていた。
面接会場で、担当者の視線が自分の顔や目ではなく、ネクタイやシャツの前面にそそがれているのに気が付いた時に、担当者から笑われながら
「もう、結構です」
と一言。
彼は、その出来事を深く反省しました。
彼は、最初「笑われた」原因が、「カレー蕎麦」をチョイスしたことに始まりがあると思っていました。
しかし、その日提出した履歴書に書いた文字、一日の行動の流れを見直している内に、「笑われた」原因が、これまでの日常での生活態度、服装、習慣、そして何よりも物事に対する「準備不足」に原因があると気がつきました。
彼はその日以来、何事にも「準備」を徹底し、面接でも自信を持って臨むことが出来、希望の結果に結びつけました」
・・・。
・・・これは、面接担当者の「笑い」が、彼の自己理解を促し、行動を修正させ環境や社会への適応に導いた。
つまり、社会や環境に「受け入れられない」行動をとったモノには、「笑い」は潜在的な「警告」として機能し、社会に適させる道筋を示す力もアル。
しかし、少し注意しないとイケないのは、この嘲笑にも似た担当者の「笑い」が必ずしも「ポジティブ」な方向性を導かせるワケでは無いと言うこと。
ネットで特定の個人に対し「バカにしたような笑い」をあびせることで、その個人を環境から押し出し自尊心を傷つけ孤立させてしまう可能性もある。
だからこそ、「笑い」の力学や功罪を把握し、個々の状況を把握した上で、適切な「笑い」を考えないとイケない。
・・・。
【まとめ&おまけ】
「「虚栄心を抑える「笑い」
人は、自分を大きく見せたり、良く思われたいために、実力以上の余計なアピールをしたりする。
こう言った「虚栄心」にも「笑い」は強く関与している。」
「物語りを創造する上で、キャラ設定はとても大事になる。
喜劇的なキャラとすると、本人は気が付いていないのに、周りは気が付いているモノ。
また、他人に迷惑をかけるが、直ぐに修正出来るモノ。
社会にとっては耐えがたいモノなのに、不思議と社会生活から切り離せないモノ。
「モノ」とは、突き詰めると「虚栄心」になる。
他者が感じる「虚栄心」を好意的にとらえると、「憎らしいけどなぜか憎めない」感情とも言えるかもしれない。
「虚栄心」は、意味的には「上辺だけを飾ろうとする心」「自分を実力以上に良く見せようとする心」などのネガティブなコトを指すが、人が社会生活をおくる上では自然な産物で、「行き過ぎたプライド」ともとれる。
人から良く思われたいと言う気持ちは、多かれ少なかれ誰もが持っている性質。
だからこそ、人は「虚栄心」を隠そうともせずにあらわにしている人を見ると、その姿に「滑稽さ」を感じつつも、なぜか「共感」を覚えてしまう」
「「虚栄心」があるならば、それに対峙するのは「謙虚さ」となる。
人は、生まれながらにして「謙虚さ」を持っているのか?
生まれ落ちた子供の姿に「謙虚さ」を見出すのは少し難しいと感じる。
「謙虚さ」とは、経験の中で育ってしまった「虚栄心」と正面から向き合い「学び」「反省する」ことで獲得できるモノと言える。
「人のフリを見て、我がフリを直す」
こうした経験の中で起る自己修正の繰り返しが「謙虚さ」を作り上げる。
つまり、「謙虚さ」は生まれながらにして備わっているモノではなく、後天的に獲得される美徳なのである」
・・・。
人は、学んだ「知識」「経験」を話したくなるモノ。ただ、それが度を過ぎだ「行い」になってしまうと、周囲の人には、それが「滑稽」で「可笑しな」姿に見えます。
同時に、自分も「同じように振る舞っていないか」、「似たような行動が前面に出ていないか」と自己反省の機会に遭遇することになります。
「虚栄心」が引き起こす「笑い」は、過剰な行き過ぎを調整し「謙虚さ」と言う考え方を見つめ直す重要な役割も果たしているのです。
・・・。
少し、ズレますが、「プロ意識」「マニア意識」の中にも「笑い」との関係が見え隠れします。
「知識がある」との強い意識が高すぎるゆえに、人としての「柔軟性」や「感受性」が乏しくなり、他人から「滑稽な存在」として捉えられる場合があります。
④ 職業的な虚栄心
自分の専門分野が何よりも優れていてと思い込む姿。
「自分の作る料理こそが地球上で最も美味しいモノである」と言葉に出し主張するシェフがいるとすると、大抵周りからは「冷ややかな笑い」を得るだろう。その、他の料理をやみくもに見下している姿は「無知」で「滑稽」である何物でもないからです。
⑤ 職業的な無感動
特定の職業のプロや、特定の物事に集中的にこだわるマニアが、その特有の視点や感情から離れられなくなり、「一般的な感情」や「一般的な共感性」から理解されない状況。
野球でファールチップしたボールが観客席に向かって飛び、グランドボーイが観客にぶつかる寸前で横っ飛びで防いだとします。一般的には、そのボールボーイの素早い動きとゲーム進行に対する集中力を称賛しますが、プロ的な視線からファールチップの飛んだ先よりも、ピッチャーの投球数を稼いだバッターを直ちに絶賛するかもしれません。
職業的、マニア的な見方は、その感情に引っ張られ過ぎ、一般的な感覚との差異を生み出し「苦々しい笑い」や「嘲笑」的な「笑い」を周囲に生み出すことにもなります。
⑥ 専門用語の過度な仕様
特定の職業やマニアが、自分の専門分野に特化した言葉を環境に合わせることなく、一般の社会生活の中で頻繁に用いて周囲を困惑させる状態。
たわいもない日常会話で、難解な専門用語や聞きかじりの哲学などを誰にでも分かりやすい解釈を加えずにとうとうと話し、ただただ周囲に「困惑の笑い」を生み出してしまう。
これら3つは、誰もが経験したことのある「喜劇的な笑い」です。
普通、プロである、マニアである、と言うのは、それだけで尊敬されるモノです。
しかし、その傾向が過剰になれば、人としての柔軟性は失われ社会生活に支障をきたします。
そのため、「笑い」は、その「ズレ」を調整する、「自分を客観視」するために存在しているのです。
ベルクソンは、「笑い」に対して様々な角度からの見方を示し、「自己理解」のキッカケとなる一面があることを示しました。
・・・。
・・・。
・・・まだまだ、「笑い」についてベルクソンの考察は続きます♡
さわりだけ~♡
私はベルクソンを知った後、
彼の、生きた時代や背景に思いふけった後は、ひたすら「もし、ベルクソンが現代に蘇ったら」、 「何を話したいか」を考えました。
そして、
「笑けるぐらい美味しい」もしくは、「美味し過ぎて笑える」
について、ソーセージとザワークラウトをアテに、ドイツビールを飲みながら一晩中話してみたいと思いました。
私が、
『こないだ、南インドでミールスを食べたのね。そしたらね、3種類のカレーが付いてきたの。
私は、3つのカレーだと思っていたら、
「カレー味の煮込み料理」
「カレー味の炒め物」
「カレー味のスープ」
で、全部、違うモノだって言うのね。
ついでに、添えてあるのは「カレー味の漬物」だって。
私、それを聞いて、多分、口に入れた味わいと情報がバグって訝しい顔をしていたと思うのね。
そしたら、日本の定食だって、
「醤油味の煮魚」
「醤油で炒めたひきないり」
「醤油で味付けした芋煮汁」
「ついでに醤油漬けの漬物」
で、一つの定食ができるでしょ?
日本の醤油が、インドではカレー味なだけよ。別に変な事じゃないのよ。
と、言われて、
なんか、「笑って」しまい、凄く納得して「美味しく」食べられたの。
情報の先行も先入観もあるけど、感じ方ってその話の「切り込み方」で、結構変わると思うけど・・・、
どう・・・思う?』
とか、アホ丸出しの質問をしても、
「まず、インドのその定食には3つのメインたるカレー味が出てきたのですね。
インドでの3と言う数字は、「創造・維持・破壊」と言う三神一体の流れもあるかもしれません。
まずは、インドにおける3という数字から考察を始めましょう・・・」
と、全く凄い角度から豪速球を投げ込んでくれる気しかしない~♡
ははっ~♡