天才って言葉をよく使いますが、他人より秀でた人のことを大げさに言うときに使われているようです。わたくしは、いや、その表現は失礼なのではないか、やはりすぐれたパフォーマンスは努力によるものだろう、と思っていましたが、そうとばかりも言えないのではないか、やはり多少なりとも他人が持っていない特殊な能力なんかを密かに(あるいはそうと知らずに)使って、そしてもちろん努力との相乗効果ですぐれたパフォーマンスをあげる、これが天才ではないか、と思うようになってきました。
ということで、その例を探ってみたいと思います。第1弾(第2弾以降が続くかどうかわかりませんが)は、あの有名な作曲家、J.S.バッハについてです。奇しくもこの文章をアップする日はバッハの命日(なんと死後269年)です。
バッハは日本では「音楽の父」と教えられます。音楽の祖、という意味でしょうね。しかし実際には、音楽の歴史をたどってみると、音楽という芸術を完成させた人物であり、その後の音楽は技術面と言いますか複雑さと言いますか、そういった点ではこれ以上の発展が見られていない、と言っても過言ではないかと思っています。
それではバッハの音楽の何が素晴らしいのか、わたくしは、人間の生活や自然や神さえも音楽として表現してしまったこと、そしてその実現のために高度な技法を駆使し、しかしながらそのことが単に技巧に走っているだけではないこと、例えばそんなことが挙げられるかと思っています。
音楽で人間の生活や自然や神を表現?、なんじゃそれ、と書いていても思うのですが、これはあくまで聞いてみての印象ですので、まあそんなものか、と言われてしまえばそれまでです。そう感じる曲と名演奏をのちほど挙げさせていただきますので、お時間のある方は聞いてみたりしてみてください。
高度な技法、ということについて、現在の音楽、と言いますかバッハよりあと、モーツァルト以降の音楽は、乱暴に言ってしまえば旋律と伴奏から成り立っていますが、バッハの音楽は、複数の旋律が複雑に絡み合いながら伴奏を成り立たせてしまっている、という特徴を挙げることができるかと思います。例えば、カノンという音楽の形式がありますが、これは「かえるのうた」のような輪唱のようなものです。バッハはこの形式を拡張し、音の高さを変えても成り立たせたり、楽譜を逆さまにしても成り立たせたり、とても人間技とは言えないようなすごいことをやってのけています。これが天才とも言える要素の一つなのですが、どういうことか、もう少し見てみましょう。
バッハはすぐれた数学者、と表現されることがあります。このことについて、わたくしなりに考えてみました。先ほどのカノンの話で言いますと、カノンが成り立つには譜面の中の各瞬間で鳴る音のほぼ全てがきちんと調和が取れていなくてはいけません。あるいは調和が取れていないときには調和に至るように解決される音符の動きがなくてはなりません。通常の音楽は音程を自由に変えることができますからこのような調和は容易です。しかしカノンは音の連なりに制限がありますので2つ以上の旋律を時間をずらした時に調和が成り立つかどうかは、通常は音を並べて見なければわかりません。
ということは、バッハは、この連なる音符がいくつもの小節に渡って調和がとれることを、少し時間軸をずらすだけではなく、音の高さをずらしたり時間軸をひっくり返したりしても成り立つことを感覚的にやってのけるのです。言ってみれば、とてつもない多次元の連立方程式を暗算で解いてしまうようなものです。これが数学者に例えられる所以でしょう。
文章で例えてみると、長大な回文をあっさりと作ることができ、その回文は数十文字ずらしても回文として成り立つし、一つ一つの文字を法則立てて置き換えるとその文章も回文として成り立つ、そんな感じでしょうか。
こういったスゴ技はカノンだけに見られるわけではありません。バッハの傑作の一つに「無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ」という曲があります。この中の傑作中の傑作である「シャコンヌ」は、単旋律を奏でるヴァイオリンに多声音楽を奏でさせる、という人間ではとても思いつかないようなことを成り立たせる圧倒的な名曲です。その手法ですが、時間差をつけて音符を配置することにより、あたかも旋律と伴奏の双方を弾いてしまっているかのように聞こえる錯覚を利用しての見事な手法です。
そして、この曲が表現しているとわたくしが感じるもの、あるときには人生の起伏のようにも感じますし、あるときには自然の大きさを表現しているようにも感じます。こんなことを感じさせてくれる楽曲ってめったにありません。
ところで、こんな天才バッハであっても人間ですから稼がなければいけません。いくつか職場は変わっていますがそのどこでももちろん音楽に携わり、その職場に応じた楽曲を作っています。例えば、教会に勤めているときには教会で必要な合唱曲やオルガン曲、宮廷に勤めているときには宮廷で演奏される器楽曲や合奏曲です。そのいずれもが素晴らしいクオリティなのは万人が知ることなのですが、不思議なことにバッハには若いゆえの未熟な作品が見られません。モーツァルトでさえ交響曲を順番にたどっていくと成長の過程が見えるのにバッハにはそれが感じられないのです。
ただ、晩年には円熟の極地に達し、「ゴルトベルク変奏曲」のような人間が理解できるぎりぎりの複雑さと聞いていて天に昇ってしまいそうな素晴らしい音楽と感じさせてくれる絶妙なバランスが成り立っていますが、最後の作品「フーガの技法」とその前の「音楽の捧げもの」は、おそらく多くの人が名曲と感じることができないだけでなく、先に挙げたカノンの様々な技法等が高度すぎてもはや人間技とは思えず、そのことがかえって神が聴く音楽ではないか、とさえ感じさせてくれます。
要約すると、バッハの特殊能力としては、時間軸のずれ(場合によっては逆向き)とそれがもたらず効果を自由自在に操れること、複数の多次元方程式を解くようなことを感覚的にできてしまうこと、が挙げられるかと思います。そしてバッハの思いは、職業を通じてということもあるかもしれませんけれども人間と神とをつなぐこと、そのことは成功していると思っていまして、とっつきやすくはなくとも感動的な楽曲群はまさに神を感じさせてくれます。
バッハの死後、残念ながらその存在はほとんど忘れ去られてしまいます。と言いますか、生前当時も今ほどの存在ではなかったようです。このことは、彼の天才が理解されるにはやはり多大な年月が必要なのだ、ということの証明なのかもしれません。というわけでバッハは2,500曲ほど作曲したと言われていますが残念ながら1,000曲ほどしか残っていません。そして、バッハの死後約80年経ってメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を再演してその存在を復活させ、その後も20世紀初頭のパブロ・カザルスによる「無伴奏チェロ組曲」の再発見などを経て、やっと現在はその名声が確立したとも言えるかと思います。やはりその複雑な音楽は我々凡人が一聴して易々と理解できるものではなく、伝道者とも言える存在の名演奏者がいてこそなのかもしれません。そこで最後に、バッハの楽曲の名演奏をいくつか挙げさせていただいて、この文章を終わらせていただきたいと思います。
○無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番よりシャコンヌ
(ユリア・フィッシャー)
この曲はこれまで巨匠と言われる方々含め数十人かそれ以上の音源を聴いてきましたが、まだ30代と若い彼女の演奏が一番好きです。
彼女は知名度は抜群にあるわけではありませんが、現役のヴァイオリニストではナンバーワンとも言っていいのではないかと思います。音程の正確さがピカ一なのと技術と感情とのバランスの絶妙さは他のヴァイオリニストの追随を許しません。そして、彼女にはいい加減さがまったくなくて、彼女の演奏を聴くと、一音一音全てが真剣に奏でられており、置きにいっている音が一つもないと感じられるのです。
さてそういう彼女のこの曲の演奏、全体聴いてみての印象は、感情にあふれており、ドラマチックさは微塵も感じさせないながらもこの曲の起伏をそのまま伝えるような素晴らしい演奏です。
特に1/3ぐらい進行したあたりの早弾きとなるあたり、ここの演奏は各演奏者によってかなり異なり、譜面どおり丁寧に弾いていると意外とつまらなくて、バッハの意図する音の時間的な置き方をきちんと洞察したであろう彼女の演奏がとてつもなく素晴らしいです。だからこそそのあとのゆっくりになるパートとの対比がくっきりとしており、バッハが表現したかったであろう動と静がきっちりと感じられるのです。そういうわけで、彼女の演奏は何度聞いても感動します。
○管弦楽組曲第2番より序曲
(ムジカ・アンティクァ・ケルン)
バッハの合奏曲は一聴するとやや能天気のような印象を与えるものが多いのですが、この曲は例外と言える曲です。短調であることもその理由ではありますが、序曲と言いつつ緩急緩の3部構成になっていてストーリーを感じさせるような展開であることが大きいかと思います。バッハにしてはリリカルな緩の部分でうっとりとさせられるのも束の間、急の部分でフルートが中心となりながらも各楽器が畳み掛けるようにそれぞれ旋律を奏でる、しかしそんな複雑な状況でありながらも調和がとれている、なんとも素晴らしいです。そしてソロの楽器とも言えるフルートが奏でるのは、譜面を見るとなんともデジタルを感じさせる8分音符の長大な連なり、これでソロの旋律だけでなく伴奏的なニュアンスも感じさせるのですからすごいです。そして最後の緩のパートで現実に引き戻されるかのようにハッとさせられるのです。
彼らの使用楽器は、ピリオド楽器と言われるバッハの時代のもの、その透き通った音色もこの曲の素晴らしさをより感じさせてくれるようです。
○ヨハネ受難曲より合唱: 主、われらを統べ治め
(カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団)
バッハの宗教曲をポピュラーにした立役者の一人がカール・リヒターかと思います。彼の演奏の特徴は、とにかく重厚で暖かさを微塵も感じさせないと思わせること、しかしそのことが神と人間とをつなぐバッハの宗教曲の真の魅力を伝えていると思います。この曲は、わたくしには楽器の演奏が人間の感情、合唱が神の声のように感じられます。ゆらゆら揺れるような楽器の旋律に塊のような合唱が様々な角度から突き刺さっていく、なんと感動的な楽曲、なんと感動的な演奏なのでしょうか。
○ゴルトベルク変奏曲
(グレン・グールド、1981年の再演盤)
これも名盤中の名盤として知られているのでわたくしが挙げるまでもないのですが、個人的に思い入れもあるので挙げさせていただきます。グレン・グールドは1956年にこの当時はマイナーな曲でデビューして革新的な演奏でセンセーショナルを起こし、その後バッハ弾きとして名声を確立し、そして最後に同じ曲の名演奏を残してこの世を去ってしまいました。
その亡くなった際の新聞記事の扱いが確か1面でとても大きくて、「この名前を聞いたことないピアニストは何者だ?」というのがグレン・グールドを知ったきっかけです。まあわたくしはそのとき中学生ですから彼を知らなくても当たり前でしょう。それほどの新聞記事の扱いですからほどなくしてFMラジオでも彼の演奏を聞くことができました。その時の衝撃は今でも忘れられません。彼の弾く音一つ一つに金縛りにあったようになり、音楽というのはこんな素晴らしい芸術なのか、ということで、このレコードを購入して何度も聴いたのはもちろんのこと、様々なジャンルの音楽にはまるきっかけともなりました。
よく言われるように、デビュー盤がはつらつとして才気あふれる演奏であるのに対し、再録盤は円熟の極地と思います。全体通して聴くとまるで天国にいるかのような崇高な音楽という印象です。特に印象的なのが第5変奏でして、彼にしか弾けないような超高速の演奏で変奏テーマを浮き立たせる、という解釈としても斬新な演奏です。そして最後の第30変奏は本当に天使が自分を天国に連れて行ってくれているのかと思う素晴らしさです。そのあとの本当の最後のアリアで人間界に戻されるのですけれどもね。
楽曲としてはバッハの最高峰と思います。変奏曲というスタイルなので楽曲の構成に制限を自ら課しておきながらそのことをほとんど感じさせない自由な表現、カノン形式など複雑な技巧も使用しながら楽曲として隙のない素晴らしさ、こんな音楽が存在していること自体が奇跡のようです。
今の音楽だとすると、同じコード進行で何十曲も作ってしまってそれらが全て素晴らしい、といった感じでしょうかね。