4回
2025/04 訪問
ベイポイントカフェにて、モーニングを
海浜幕張に勤めて五年になる。それなりに長い年月だし、それなりに駅の周りのことも分かっているつもりだった。けれども、そんな自負をあっけなく打ち砕くように、僕は最近「ベイポイントカフェ」という場所に出会った。言うなれば、五年という空白にふわりと温かい羽毛を埋めるような発見だった。
朝のベイポイントカフェは、まるで誰かが世界から人を蒸発させたみたいに静かだ。出勤前の9時前。広い窓から注ぐ光が、カフェの床に淡い水彩画のような影を落としている。客は、僕ひとり。つまりこの空間は、贅沢にも僕のためだけに存在しているのだ。
スピーカーからは、スタン・ゲッツの「デザフィナード」が流れている。テナーサックスの柔らかな音色は、まるで湖面を撫でる春の風みたいに、僕の耳をそっとくすぐった。冷たいレモン水をひとくち。通勤ラッシュのざわめきが、音もなく遠ざかっていく。これは朝という短い時間に与えられた、ささやかな魔法のひとつだ。
やがて、いつもの女性スタッフが、いつものモーニングセットを運んできてくれた。厚切りのトースト、彩り豊かなサラダ、そして白く輝くゆでたまご。これ以上でも、これ以下でもない。完璧な三重奏だ。トーストの上では、バターがじんわりと溶け、黄金色の小さな湖を作っている。
「今日はマーマレードをお付けしています」
彼女は微笑みながらそう言った。僕はふっと思った。「マーマレードの朝」か。(久しぶりにあの本を読み返してみようかな)そんなささやかな思考の渦に身を委ねていると、カップの底からコーヒーが消えていた。
2杯目を頼むと、今度はジバンシィのクラシックなカップで運ばれてきた。ここでは、いつも違うカップでコーヒーが提供される。それもまた、まるで小さなプレゼントを受け取るような嬉しさだ。
カフェの奥からは、女性スタッフが調理する音が聞こえてくる。ナイフがパンを切る小さな音。カップを置くときの軽い響き。それらすべてが、店内を満たす音楽の一部になっている。まるで朝という曲の、欠かすことのできない小さな楽器たちだ。
こんなにも完璧な朝を過ごせる場所が、ほんの会社の近くにあったなんて。この五年の空白を埋めるべく、僕は最近ちょくちょくここに通っている。たとえこのひとときが永遠に続かなくても、少なくとも今、ここにいる僕は確かに幸せだった。
そしてまた、カップをひとくち傾ける。温かなコーヒーが、胸の奥に小さな灯りを灯す。まだ一日のはじまりに過ぎないのに、僕はもう、十分に満たされていた。
#ベイポイントカフェ
2025/04/26 更新
2025/02 訪問
ベイポイントカフェにて厚切りバタートーストセットを
海浜幕張に勤務するようになって、気づけばもう五年が経とうとしている。その間、僕は駅周辺の飲食店に対する期待値を徐々に下げていった。理由は簡単だ。そこに並ぶのは、多くがチェーン店か、あるいは単に調理をこなすだけの店ばかりだったからだ。もちろん、それが悪いというわけではない。彼らも商売としてやっているのだから、それはそれで正しい姿なのだろう。ただ、僕自身もまた、それに合わせるようにして食事を済ませる日々を送っていた。まるでメトロノームの振り子のように、決まったリズムで、機械的に。
そんなある朝、僕は「ベイポイントカフェ」というレストランと出会った。それはまるで長い旅路の果てに偶然たどり着いたオアシスのようだった。乾ききった心に、一滴の冷たい水が染み込んでいくような感覚。それは突然訪れた。
その店は、CMやドラマ撮影にも使われるというビルの中にあり、驚くほど広いキャパシティを持っていた。そして、そんな広大な空間の中に、僕はぽつんとひとりきりで座っていた。まるで取り残された旅人のように。
厚切りバタートーストセットを頼んだ。メニュー通りの厚切りのバタートースト、淹れたてのコーヒー、サラダ、ゆで卵。どれもシンプルな構成だが、それがかえって心を落ち着かせた。トーストはふわふわで、バターが染み込んだ部分はまるで夏の午後に溶けかけたアイスクリームのように柔らかく甘やかだった。ナイフを入れると、バターがじわりと流れ出し、それを舌の上で転がすと、どこか懐かしい味がした。子供の頃、父が連れて行ってくれた、喫茶店の厚切りトーストの味を思い出した。
淹れたてのコーヒーは深みがあり、ブラックのまま飲んでも角がない。「おかわりが欲しければ声をかけてください」と女性店員が優しく微笑んだ。その言葉が妙に心に染みた。まるで、遠い昔に別れた恋人の声を思いがけず聞いたような、そんな感覚だった。
コーヒーカップはクラシックなデザインで、まるでヨーロッパの片隅にある老舗のカフェから持ち帰ってきたような趣があった。そして、おかわりのコーヒーを頼むと、今度はまた違う柄のカップが運ばれてきた。その心配りがなんだか嬉しかった。それは単なるカップの違いではなく、ひとつの物語の始まりと終わりのようにも感じられた。
それにしても、これほどのモーニングがわずか500円というのは信じがたい。淹れたてのコーヒーをおかわりできることを考えれば、なおさらだ。こんなにいい場所が、こんなにも近くにあったなんて。灯台下暗しとはまさにこのことだ。
僕はまだまだ海浜幕張のことを知らないのかもしれない。そして、それは悪いことではない。知らないものがあるというのは、まだ発見の余地があるということだからだ。次の朝、またここに来ようと思った。あるいは、明日ではなく、一時間後にでも。
#ベイポイントカフェ
2025/02/24 更新
少し曇った空の下、今朝、久しぶりに「ベイポイントカフェ」に足を運んだ。海浜幕張駅から職場への流れをそっと外れ、ビルとビルの隙間に身を滑り込ませるようにして、そのカフェに向かった。時計の針はまだ八時を少し回ったあたり。街はすでに動き出していたけれど、カフェの内部にはまだ世界が呼吸を始めていないような静けさがあった。
広い店内に、今日も僕ひとりだった。広すぎる舞台にたった一人、椅子に座っている感じ。それはある種の贅沢でもあり、同時にどこか小さな罪悪感のようなものを伴っていた。自分ひとりで空間を独占することの、どこか所在ない後ろめたさ。
注文を取りに来てくれたのは、いつもの女性スタッフだった。声も笑顔も変わらない。その変わらなさが、むしろ朝の風景に安心感を与えてくれる。まるで静かな港町に立つ灯台のように、変わらぬ場所に変わらぬ姿でいてくれる。
今日はホットコーヒーをやめて、アイスコーヒーにした。そろそろ朝の日差しがじりじりと肌を焼きはじめる季節。いつものクラシックなカップで味わうホットもいいけれど、今日の空気はもうすでに少しだけ、夏の体温を持っていた。曇っていても、湿り気を帯びた気配が肌にまとわりつくようだった。冷たいコーヒーを喉に流し込むイメージだけが、今の自分のなかでしっくりと形を成していた。
注文を伝えると、すっと運ばれてきたのは透明なグラスの水。そこにはレモンスライスもなければ氷も浮かんでいない。ただの冷たいレモン水。それでも、朝の曖昧な気分にはちょうどよかった。感情の波をやわらかく整えてくれる無色の海のように、ひと口、またひと口と喉を通り過ぎていく。
しばらくして、モーニングがやってきた。いつもの——としか言いようのない、あの完璧な組み合わせ。厚切りのトーストに、サラダ、ゆで卵。
トーストには最初から十字にナイフが入っていて、その切れ目からふっくらした白い内側が顔をのぞかせている。ふかふかのその感触は、どこか遠い記憶の中の布団のようでもあり、まだ何者でもなかった頃の自分の心のようでもある。バターがじわりと染み込んでいく様は、静かに誰かを好きになっていく過程にどこか似ている。一見なんの変化もないように見えて、気がつくと全体がしっとりと変わっているのだ。
サラダは清涼剤のような存在だった。冷たいレタスと、控えめなドレッシングが、バターの甘みと油分をちょうど良い距離に押し戻してくれる。まるで言い過ぎた言葉を、ちょうどいいところでフォローしてくれる友人のように。
そして、ゆで卵。これをただの添え物と考えるのは誤解だと思う。この皿の中で、彼は静かに、しかし確固たる主張をもってそこにいる。殻をむきながら、僕はなぜか昔読んだ短編小説のことを思い出していた。何も起こらないのに、なぜか心がざわつくあの類の物語。ゆで卵もまた、語らずに、物語る。
食後、アイスコーヒーを口に運ぶ。カランと氷が鳴る音が、まるで季節のドアノブを回す音のように響いた。冷たい液体が喉を過ぎるたび、僕の中で何かがきちんと整理されていく気がした。朝の不確かさが、ひとつずつ名前を持ちはじめる。そんな感覚だった。
カフェを出ると、空はまだ曇っていた。でも、その曇り空でさえ、今の僕には必要なグラデーションの一部に思えた。何もかもが明るすぎる世界では、目を細め続けなければ生きていけない。
だからこそ、この曇り空の下で、あのモーニングを食べることができたのは——やはり、少しだけ幸運だったのだと思う。
#ベイポイントカフェ