7回
2026/01 訪問
築地の吉平にて、リブロース200を。
先週に引き続き、今週もリブロースだ。理由は特にない。ただ、そうするのが自然だった。お気に入りの曲を、続けて聴いてしまうようなものだ。二度目だからといって感動が薄れるわけではない。むしろ、耳は細部に向かう。
お店は相変わらず忙しい。次から次へと人が現れ、暖簾の向こうで時間が圧縮されていく。厨房は、静かな戦場のようだ。無駄な言葉はなく、動きだけが正確に積み重なっていく。
僕はいつものように、心の中で「わさび」と唱える。そして、声に出す。「わさびでお願いします」。
だが、皿の上にそれはなかった。
不在、という言葉が一番しっくりくる。忘れられたというより、今日はここにいない。そんな感じだ。忙しさという大きな波の中で、わさびは静かに沖へ流れていったのだろう。
店長に声をかけようとする。しかし、そのタイミングが見つからない。人の流れが、絶え間なく割り込んでくる。まるで、踏切の向こうに知り合いを見つけたのに、電車が何本も続けて通過していくような状況だ。
まあ、いいか。
今日はこれでいこう。
岩塩。
からし。
そして、そうだ、レモンもある。
選択肢が減ったようで、実は増えている。そんな瞬間が人生にはある。わさびがない分、他の味が前に出てくる。スポットライトを譲り合う舞台役者のように、それぞれが自分の役割を思い出す。
リブロースは、何も気にしていない顔でそこにある。衣は軽く、音を立てて崩れ、肉は静かに湯気を上げる。脂は相変わらず甘く、赤身は芯を失っていない。わさびがいないことなど、この肉にとっては些細な出来事なのだ。
岩塩で食べると、味は水平線のように広がる。からしを添えると、少しだけ風向きが変わる。
レモンを搾ると、午後の光が差し込む。
それぞれが違う方向を指しているのに、最終的には同じ場所に着地する。その感じが、なんだか妙に心地いい。
浅草橋時代のことを思い出す。
あの頃も、わさびを頼んで、のっていなかったことがあった。店内には独特の緊張感が漂っていて、「わさびください」という一言が、必要以上に重く感じられた。声を出す前に、何度も頭の中でリハーサルしたのを覚えている。
築地に来てからは、そんなことはない。
店長は優しく、こちらの存在をきちんと見てくれている。ただ、今日は本当に忙しかった。それだけの話だ。
最初にコールせず、後からのわさびオーダーは有料だ。ルールはルールとして、そこにある。分かっている。それでいい。世の中は、そういう細かい取り決めの上に、案外うまく成り立っている。
ごはんと味噌汁は、今日も変わらず美味しい。
それは慰めではなく、事実だ。主役が少し予定を変えても、脇役は自分の仕事を淡々とこなす。その安定感が、食事全体を支えている。
食べ終えたとき、少しだけ思う。
今日は、わさびがなくてよかったのかもしれない、と。
欠けたピースがあることで、見えてくる全体像もある。完璧ではない昼食。それでも、いや、だからこそ、記憶に残る。
店を出ると、築地は相変わらず人で溢れている。わさびは最後まで現れなかったが、不足感はない。むしろ、少しだけ余白が残った。
その余白を抱えたまま、僕は次の土曜日のことを、なんとなく考えている。
#吉平TONKATSU
#吉平
2026/01/31 更新
2026/01 訪問
築地の吉平にて、リブロース200を
新年という言葉は、まだ少しだけ角が立っている。正月は過去になり、日常は完全には戻りきっていない。その中間地点のような日に、僕は築地へ向かった。
2025年最初のリブロース200。それは「何を食べるか」という問いではなく、「どう一年を始めるか」という確認作業に近い。派手なスタートダッシュではなく、足元を確かめるための一歩。僕はそういう始まり方が好きだ。
土曜日の吉平は14時オープン。そして土曜日は記帳制だ。名前を書き、時間を預ける。並ぶ必要はない。店の前に自分を縛りつけなくても、きちんと順番は守られる。この仕組みが、今の僕の生活に驚くほどよく馴染んでいる。
午前中は娘の塾の送迎がある。時間は細切れになり、気づけば昼を過ぎている。そんな土曜日に、14時という開始時刻と記帳制は、「焦らなくていい」とマスターが言ってくれているようで、少しだけ肩の力が抜ける。
時間になり、暖簾をくぐる。自分の名前は、すでにそこにある。この感覚は、コートをクロークに預けたあと、手ぶらで会場に入る感じに似ている。余計な荷物も、余計な緊張もない。
赤星と小さなつまみ。泡はすぐに消え、味だけが残る。無駄な前置きのない文章のようで、喉をまっすぐに通り過ぎていく。
そして、リブロース。
皿の上のそれは、完成された風景画のようだった。衣はきつね色というより、冬の午後の光に近い色をしている。主張しすぎないが、目を逸らすことも許さない存在感がある。
箸を入れると、衣は軽い音を立てて割れ、肉の断面が現れる。脂と赤身の境界線ははっきりしているが、そこに対立はない。長い時間を一緒に過ごしてきた二人が、同じソファに自然に座っているような距離感だ。
まずは岩塩。脂が舌の上で、ゆっくりとほどけていく。その甘さは丸く、角がない。長年使われてきた木製のテーブルのように、触れるほど安心感が増していく味だ。
わさびを乗せると、味は一段、輪郭を持つ。脂の甘みと肉の力強さが、別々の方向から同じ結論に向かってくる。まるで同じ物語を、異なる翻訳で読んでいるような感覚だ。どちらも正しい。
からしを添えると、少しだけ野性味が加わる。
舗装された道から一歩外れた、砂利道の感触。荒さはあるが、それが逆に心地いい。
ごはんと味噌汁は、特別に美味しい。この日だけそう感じたわけではない。味噌汁は、確実に日々、美味さを増している。一口すすった瞬間、出汁の輪郭が、以前よりもはっきりしていることに気づく。派手な変化ではない。音量を上げたのではなく、解像度が上がった感じだ。雑味が削られ、必要な音だけが前に出てくる。味噌の香りは丸く、温度は正確だ。それは偶然ではなく、毎日そこに立ち続けている人の手の記憶なのだと思う。同じ動作を何度も繰り返すうちに、無駄が消え、結果として「静かに美味しい」という地点に近づいていく。
ごはんもまた、明確に美味しい。粒は立ち、揚げ物の油を受け止めながら、口の中を一度まっさらにしてくれる。主役を引き立てるための存在でありながら、自分が手を抜かれていないことを、きちんと主張している。
もしリブロースが物語の主人公だとしたら、
このごはんと味噌汁は、読み返すたびに重要さが増していく地の文だ。一度目では気づかないが、通い続けるうちに、「ああ、ここがあるから全体が成立しているのだ」と分かってくる。
食べ終えたとき、皿の上には何も残らない。満腹でもなく、不足でもない。ただ、きれいに整ったという感覚だけがある。
店を出ると、築地の街は相変わらず少し騒がしい。けれど、時間を預け、きちんと受け取ったあとの自分の内側は、驚くほど静かだ。
2025年最初のリブロース。それは景気づけではなく、確認だった。この場所が変わらず存在していること。そして自分が、それを必要としていること。
土曜日14時。記帳制という、ささやかな仕組みの中で、生活と吉平は無理なく噛み合っている。それだけで、新年はもう十分に始まっている。
#吉平
#吉平TONKATSU
2026/01/18 更新
2025/12 訪問
築地の吉平にて、リブロース200を
12月末日。一年という長い物語が、静かに最終章へ向かっていく、その途中にある日だった。派手なクライマックスはない。けれど、読み終えたあとに、確かな手触りだけが残る。そんな終わり方を、この日は選びたかった。
今年最後の吉平。締めはリブロース200。それは選択というより、確認作業に近い。ここに戻ってくる理由が、今も変わっていないかどうかを、自分自身に問いかけるための。
開店1時間20分前に到着する。外はしっかりと寒い。冬は、自分が冬であることを隠さない。だが店は、待つ人のための場所があり、時間は穏やかに流れている。雨風をしのげるかどうかではなく、「安心して待てる」という事実が、ここにはある。
角ハイを飲みながら、ぼんやりと今年を振り返る。吉平が復活した一年。それは、壊れたままだと思っていた時計が、ある朝ふと正確な時を刻み始めた、そんな出来事だった。世界は、修復可能なのかもしれない。少なくとも、この場所に関しては。
そう考えているうちに、あっという間に開店時間になる。待つという行為は、意外なほど時間を短くする。マスターと店長の動きを眺めながら飲む赤星は、余計な泡のない言葉のようで、喉をまっすぐに通り過ぎていく。
そして、リブロース。
皿の上のそれは、何度も見ているはずなのに、毎回きちんと新しい。衣は軽やかで、均一で、どこにも破綻がない。切り口から覗く肉は、過剰な色気を持たず、ただ「自分はリブロースです」と静かに名乗っている。
まずは岩塩。脂身が、ゆっくりとほどけていく。甘さは前に出すぎず、しかし確実に舌に残る。それは、長く使い込んだ革製品の手触りに似ている。派手ではないが、信頼できる。
わさび醤油に切り替えると、味は一段、輪郭を持つ。脂の甘みと、肉の力強さが、別々の声で同時に語り出す。まるで同じ物語を、昼と夜で読み比べているような感覚だ。どちらも正しい。どちらも、欠けてはならない。
ごはんと味噌汁は、この日だけ特別に美味しいわけではない。むしろ逆だ。いつ来ても、変わらず美味しい。その事実こそが、何よりも雄弁だ。ごはんは粒立ちがよく、味噌汁の出汁は、必要なことだけを、正しい音量で伝えてくる。何年も前から、同じ場所で、同じ完成度を保っている。それは簡単なことではない。
食べ進めながら、ああ、今年は良い一年だったな、と自然に思う。劇的な出来事があったわけではない。ただ、大切な場所が、ちゃんとそこにあり続けた。それだけで、一年は十分に意味を持つ。
完璧に美味しい、という言葉は、ここでは誇張にならない。すべてが、正しい位置にある。
食べ終えたあと、来年の自分の姿が、ぼんやりと浮かぶ。きっとまた、何度もここに来るだろう。それは計画ではなく、習慣でもなく、もっと自然なものだ。呼吸に近い。
一年の終わりに、リブロースを食べる。それは区切りであり、同時に続きでもある。吉平は、そういう時間を、何も言わずに用意してくれる場所だ。
#吉平
2026/01/05 更新
2025/12 訪問
築地の吉平にて、ちきんかつを
吉平のメニューには、確固たる秩序がある。だが、その秩序は完璧に閉じてはいない。ときどき、季節風のように、例外が吹き込んでくる。
大山鶏のちきんかつは、まさにその風だ。いつもそこにあるわけではない。むしろ、ない日のほうが圧倒的に多い。だからこそ、それは「選ぶ料理」ではなく、「出会ってしまう料理」になる。
土曜日の14時。築地の時間が、ほんの少し緩む。Xに投稿された「今だけちきんかつ予約」という短い一文は、海霧の向こうに灯るブイのように、静かに、しかし確実にこちらを呼んでいた。
僕はマスターにお願いして、ちきんかつを予約した。それは席を押さえるというよりも、天気の良さを前もって信じるような行為だった。しかも今回は、むね肉でお願いした。以前は、もも肉だった。安心感の塊のような選択だ。でもこの日は、例外の日だった。
吉平が不定期に出すちきんかつは、どこか控えめだ。大声で「特別です」とは言わない。ただ、黙ってそこにある。気づいた人だけが、少し足を止める。
運ばれてきた大山鶏のちきんかつは、主張しすぎない佇まいだった。衣は軽く、色は淡い。むね肉の断面は、静かな湖面のように落ち着いている。箸を入れると、思いのほか柔らかく、時間をかけて育てられたものだけが持つ密度を感じさせた。
岩塩で食べる。塩は、嘘をつかない。噛むほどに、鶏の旨みがはっきりと輪郭を持って現れる。もも肉とは違う。だが、劣ってもいない。方向が違うだけだ。これは、派手な会話ではなく、長く続く沈黙のような美味しさだ。
ここで、手作りのタルタルに手を伸ばす。それは市販品の賑やかさとは無縁で、必要なものだけが、正しい順番で並んでいる。卵のコク、ほどよい酸味、そして全体をまとめる静かな塩気。ちきんかつに添えると、むね肉の落ち着きが、一段階、外向きになる。まるで内省的な人が、ふと冗談を言った瞬間のようだ。
わさび醤油に切り替えると、風景が変わる。むね肉の静けさに、わさびの鋭さが一筋の光を入れる。醤油が全体をまとめ、味は一気に現実へと引き戻される。その瞬間、これは「また出会えるとは限らない味」なのだと、はっきりわかる。
今日はレバのパテも用意されていた。濃厚だが、重たくない。肝のクセは丁寧に角が取られ、バターのような滑らかさだけが残っている。これは前菜というより、思考を切り替えるための一口だ。ちきんかつへ向かう前の助走として、あるいは余韻を整えるための句読点として、実に正しい位置に置かれている。
吉平のちきんかつは、名物にはならない。不定期であることが、その存在理由だからだ。いつでも食べられるものではなく、たまたまその日に居合わせた人の記憶にだけ、静かに残っていく。
食べ終えたあと、僕は少しだけ時間を置いた。また来よう、とは思わなかった。「また出会えたらいいな」と思った。
吉平には、そういう料理が似合う。確約されないからこそ、忘れがたい一皿。土曜14時、大山鶏のちきんかつは、そんなふうに、僕の中にそっと居場所を作った。
#吉平
2026/01/01 更新
2025/12 訪問
築地の吉平にて、ロース100を
築地の路地を歩いていると、東京という街が長年溜め込んできた記憶のようなものが、靴底からじわりと伝わってくることがある。吉平は、そんな記憶の奥にひっそりと差し込まれた、ひとつの安定した座標だ。
マスターから「今日はロース100がおすすめ」それは、長年レコード針を落とし続けてきたDJのように迷いがない。僕はその流れに身を任せることにした。人生の大事な選択の多くは、こういう瞬間にこそ正解が潜んでいる。
脂身の甘さを誇るリブロース。筋肉の密度で語られるぼーひれ。吉平では、どうしても皆が“アッパーな部位”に心を奪われがちだ。だが実は、この店の核心は、もっと静かな場所にある。それが「普通のロース」だ。
目の前に置かれたロース100は、まるで完璧なバランスで組まれた短編小説のようだった。衣はきつね色で、細かく、立体的。網の上に置かれた肉は、必要以上に語らないが、確信だけはしっかり持っている。
箸を入れた瞬間、音が違う。サクッというより、シュワッと空気が弾けるような感触。断面から溢れ出す肉汁は、自己主張が強すぎない。それでいて確実に存在を主張する。まるで、長年連れ添った相棒がふと見せる横顔のようだ。
驚くほどジューシーだ。そこいらのとんかつ屋で「ロース」と呼ばれているものとは、もはや別の言語で語られている。林SPFの持つポテンシャルは確かに高い。だが、それをここまで引き上げているのは、間違いなくマスターの揚げだ。温度、時間、油の機嫌。そのすべてを把握していなければ、この仕上がりには辿り着けない。
噛むたびに、肉の繊維がきちんとほどけていく。
脂は軽やかで、後味は驚くほど澄んでいる。それは、重たい言葉を使わずに深い話をする人のような味だった。
もちろん、アッパーな部位を狙うのも吉平の正しい楽しみ方だ。だが、このロースの旨さを知ってしまうと、吉平という店の輪郭が、もう一段くっきりと見えてくる。派手さの裏に隠れた、本質。静かなところに置かれた、決定的な一枚。
食べ終えたあと、僕はしばらく箸を置いたまま、何も考えなかった。それでいいのだと思った。吉平のロース100は、考えるための料理ではない。ただ、受け取るための料理なのだから。
またここに戻ってくる理由が、ひとつ増えた。
それだけで、この日のとんかつは十分すぎるほど、役目を果たしていた。
#吉平
2025/12/29 更新
2025/11 訪問
築地の吉平にて、リブロース200gを
吉平が戻ってくる。
それだけで、世界の色が変わった。
神田の吉平に最後に行った2023年8月のことを、僕は忘れたふりをして生きてきた。けれど本当はずっと胸の奥に刺さっていた。あの日の熱気、油の匂い、カウンター越しに見たマスターの背中。店を出るときに無意識に「また来ます」と言った自分の声までも、今思えば痛いほど鮮明だ。
その「また」が、いつまで経っても来なかった。店が静かに扉を閉じた瞬間、僕の中で何かがぽっきりと折れた。毎日の中で、言葉にできない“欠け”みたいなものができてしまい、それを直す術もなかった。
そんな2年間だった。
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その沈黙を破ったのは、ある日の午後にふと開いた吉平のXだった。
「新店舗決定」
その文字を見た瞬間、心臓を鷲掴みにされたようだった。呼吸の仕方を忘れて、気づいたらスマホを強く握りしめていた。目の奥が熱くなって、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、鳥肌が一斉に立ち上がった。
僕は自分でも驚くほど、吉平が好きだった。ただ好きだった、なんて軽いものじゃなく、生活の軸であり、週の終わりのご褒美であり、心を守る“家”みたいな存在だった。
浅草橋と神田の時代に、何度通ったかなんてもう思い出せない。数えようとしたことすらない。気づけば、生活の呼吸と同じリズムで、僕はそこに通っていた。
吉平は、僕の胃袋の一部であり、心の一部でもあったのだと思う。だからこそ、その喪失は大きく、その復活は、言葉にできないほどの救いだった。
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復活の知らせから数ヶ月後、築地の吉平の暖簾をくぐった瞬間、胸の奥が勝手に震えた。
店内の空気、光、温度、木の香り。それらが一瞬で心の深部に流れ込み、閉じていた何かをそっと開いた。
そして、カウンターの向こうに立つマスターと店長。変わっていなかった。時の流れなんて、ふっと笑い飛ばすように。
ただそこに立っていた。その姿を見た瞬間、胸の奥の堰がきしんだ。
神田時代とはオペレーションが違う。だけど、二人が放つ“吉平のリズム”は、魂の部分でまったく同じだった。
店長の芯の強さが少し増したようで、マスターはいつも通り落ち着いていて、二人のやりとりは、懐かしさと幸福と安心をまるごと運んでくる。
その景色を眺めながら飲む赤星は、まるで失った時間を少しずつ取り戻していくような味がした。
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2年間、僕は吉平を探していた。似た店を巡り、高い評価のとんかつを食べ漁り、時に希望を持ち、時に落胆しながら。
けれどどの店でとんかつが揚がる音を聞いても、どうしても吉平のマスターの姿が浮かんできた。
衣の繊細さ、油の温度を読む目、リブロースの脂の「甘さ」を最高潮に高める揚げ方。職人の背中には、誤魔化しの余地なんてない。
本物だけが持つ匂い、気配、説得力。僕が追い求めていたのは、まさにそれだった。そして今日、ようやく本物に戻って来られた。
⸻
皿の上に現れたリブロースは、ただの料理以上のものだった。見た瞬間、胸が熱くなった。
ひとくち噛んだ瞬間、堰が切れた。美味い、とか、柔らかい、とか、そんな単純な言葉ではまったく足りなかった。
「戻ってきたんだ」その事実が味となって舌に広がり、涙腺までまっすぐ届いてきた。
マスターの揚げる脂身は、世界のどこにも存在しない甘さだ。優しさと凄みと温度が共存した奇跡のような甘さ。わさびを乗せることで完成するというのも、吉平だけが到達した唯一の境地だ。
興奮で手が震え、気づいたらあっという間に完食していた。本当は、もっとゆっくり、ひと噛みひと噛みを胸に刻みたかったのに。でも次があると思うと、それでよかった。
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吉平、
あなたの復活は、
僕の人生の一部を救ってくれました。
長い2年だった。
本当に長かった。
でも今日、はっきりわかった。
とんかつは単なる食べ物じゃない。
人生だ。
記憶であり、時間であり、感情であり、
時に支えであり、祈りのようなものでもある。
帰ってきてくれて、本当にありがとう。
どれだけこの日を待っていたか、
どれだけあなたが必要だったか、
ようやく言える気がする。
#吉平
2025/12/10 更新
1月下旬の築地。
冬の空気は薄く澄んでいて、街全体が冷蔵庫の中みたいにきりっとしていた暖簾をくぐると、そこはいつもの揚げ油の宇宙。衣が弾ける音は、遠い星で起きる小さな爆発のように規則正しく、そして優しい。
僕が選んだのは、ロース100。そこに、メンチかつとハムかつをトッピング。文字にすると少しやりすぎに見える。でも、音楽で言えばベースとドラムに加えてホーンセクションを入れるようなものだ。厚みは出るが、芯はぶれない。少なくとも、そのつもりだった。神田以来、久しぶりのメンチとハム。皿の上に並んだ三つの揚げ物は、冬の午後の太陽みたいに黄金色で、それぞれが自分の光を持っている。
まずはメンチかつ。
箸を入れた瞬間、肉汁が内側から溢れ出す。それはまるで、ミンチにされてもなお失われなかった肉の誇りが、最後の抵抗を見せているみたいだ。噛むと、ぎゅっと詰まった肉の密度が押し返してくる。柔らかいのに、軽くない。脂は甘く、しかしだらしなくない。肉が「ここにいる」と主張してくる。
次にハムかつ。
厚切りのロースハムは、ただ衣を纏っただけなのに、別の人格を得ている。それは制服を着た優等生が、夜になるとジャズクラブでサックスを吹くような変貌だ。旨味が濃い。塩気が丸い。安心安全のハムというのは、こういうことだと思う。加工肉は出自がすべてだ。その素性の良さが、噛むたびに静かに伝わってくる。
そしてロース100。
君は、なんて懐の深い存在なんだろう。主役でありながら、決して出しゃばらない。二つの個性的なトッピングを受け止める、白いごはんのような包容力。赤身と脂身のバランスは、昼と夜の境界線みたいに穏やかで、どちらにも寄りすぎない。ロースの一切れをごはんにのせる。その上に、わさび。さらに抹茶塩をひと振り。抹茶塩は、まるで春を先取りした粉雪だ。緑色の粒子が肉の上で静かに溶け、味の輪郭を一段くっきりさせる。脂の甘みが、少しだけ背筋を伸ばす。
メンチとハムを十分に楽しむためには、やはりこのロース100が必要だ。ベースラインのないソロは、どこか落ち着かない。ロースはリズム隊だ。静かに、しかし確実に全体をまとめる。最高の組み合わせじゃないか、と心の中で自画自賛していたら、よく会う常連さんが、まったく同じ構成だった。僕たちは特に言葉を交わさない。ただ、皿を見て、少しだけ笑う。偶然というより、必然に近い。同じ方角を向いている人間は、だいたい似た選択をする。
味噌汁をすする。ごはんをかき込む。揚げ物の油と米の甘みが、体の中でゆっくり混ざっていく。
外の築地は相変わらず人で溢れている。でも暖簾の内側では、時間が少しだけ柔らかい。ロース100にメンチとハムかつ。三位一体というより、静かなトリオだ。それぞれが違う旋律を奏でながら、最後には同じ余韻に着地する。食べ終えた皿の上には、金色のパン粉の欠片が残っている。それは、ささやかな勲章みたいだった。
また来よう、と自然に思う。こういう確信は、言葉にしなくても身体が覚えている。冬の午後、築地。揚げ物の湯気の向こうで、僕は少しだけ満ち足りていた。
#吉平
#吉平TONKATSU