3回
2015/11 訪問
らーめん(半ちゃんらーめん)
こうして時間が経ってからレビューを書くとなると、色々と思い出され、寂しい気持ちや懐かしい気持ちになる。今は亡き店主はこの日も厨房で座っていた。もう腕を振るうことはなくなってしまっていた。
この日も前回同様に、かつては洗い物やトッピングを担当していた助手の方が厨房でラーメンを作っていた。
「半ちゃんらーめん」を注文したが、味の方はやはり昔とは違っていた。だが実際には、もはや味なんてどうでも良かった。ただこのお店がいつまで続くかわからない状態で、とにかくここに来ることに意味があった。
ここで「半ちゃんらーめん」を注文し、この空間でこれを食べて「ごちそうさまでした」と言って去る。僕にできることはこれくらいであって、これだけできれば僕も幸せなのだ。
麺を鍋に放り込んでから外で煙草を吸い、戻って平ザルで引き上げて奇策に話しかけてくれた店主の姿は今でも目に焼き付いている。
記憶の中で生き続ける名店だ。名店、、、伝説の店、なんだろう、ありきたりな表現ではなく何か別な言葉があると良いのだが。
2021/01/08 更新
2012/09 訪問
半ちゃんらーめん
この店は特別な店だ。僕にとっても、ラーメン通たちにとっても、あるいはこのラーメン業界にとっても。
鶏ガラ出汁の昭和の東京ラーメン店としてはほかのどの店もこの店には勝てないと思う。
勿論、半ちゃんラーメンの生みの親であるという重大な事実もあるが、それ以前に単純に美味い。懐かしい味とかそんな次元ではない。
すごく簡単に説明すると、生姜の効いた鶏ガラスープ、細麺ストレート、脂っぽい、甘いメンマ、しょっぱい炒飯。以上。
これがとにかく癖になる。今も思い出しながら唾液が分泌されている。この癖になる味を長い年月厨房に立ち続けて腕を振るい続けてくれた店主に感謝したい。
この店は昨年閉店した。この事実は、予想していたのに、すぐに受け入れられはしなかった。
この日の訪問時が店主が厨房に立っていた最後だったかもしれない。その後は夜営業を横でずっとサポートしていたもう1人の男性がラーメンを作っていた。味も少し変わっていた。
もっともっと前の訪問時に、まだ元気だった店主から身体のことを聞き心配になってはいたが、厨房に立てずとも店の前に椅子を出して店に来る客に挨拶する姿を思い出すと泣けてくる。
本当はこの店を文句なしの「ええ店」認定したい。だが既に閉店の事実を知っている店を認定できない。何か他に名誉賞のような勲章を与えたいので今後考える。
2020/12/08 更新
神保町の伝説となってしまった名店だ。別に僕が書かなくても皆知っているだろうけども半ちゃんラーメンの元祖、これが僕の最後の訪問となった。すごく寂しい気持ちだ。
もう何年前になるだろうか、今は亡き店主が「左目が見えないんだよ」と話してくれた時期はまだ厨房で腕を振るっていた。お客さんを凝視する様は睨み付けていると誤解されそうだが、お店に通うお客さんの顔を一生懸命見ようとする姿だったのだ。
その後、立つことも辛そうな様子になり、遂には店の前に座り客に挨拶するだけになった。体を休めるべきだったにもかかわらず、おそらく「いらっしゃい」と「ありがとうございました」を言うためだけに、必ず店に来ているのだ。
誰にでも気さくに話しかける店主は、滅多に笑顔を見せないので威圧感があるが、小さい子供がお店にいるといつも満面の笑みだった。温かい人なのだ。
店主が厨房に立たなくなってから味は変わった。それはそうだ、作る人が変わったのだから当たり前だ。もちろんそれはそれで残念な部分はあったが、そんなことは別に構わなかった。
あと何回ここに来れるだろうかと思い始めてから2回しか来れなかった。もっと遅くまでやっていてくれればもっと多く来れたのだろうが、むしろ「昼営業だけで良いから休んでほしい」とさえ思った。店の前まで行って店が存続しているか確認するだけの日もあった。
この店は本当に特別だ。この店が特別の存在だという人は何人もいるだろう。僕なんかよりももっともっとこの店を愛して、そして悲しんでいる人もたくさんいるだろう。
店に流れるテレビのバラエティ番組に「なんだそりゃおかしいだろ」と突っ込みを入れ「そう思うだろ?」と共感を求めてくる店主。ニヤニヤしながらボソッとその件についてコメントする助手。そんな談笑をしているうちにラーメンが着丼。時間を置いて炒飯が到着。今では懐かしい思い出だ。