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街はすでに夕闇に包まれ始め、通りに連なる提灯の明かりが、一軒、また一軒と灯りはじめていた。そんな大通りの片隅に、小さな看板を掲げた店がある。「焼肉ポメ」。初めてその名前を見たとき、多くの人は首をかしげる。焼肉屋なのか、犬の名前なのか、それとも何かの暗号なのか。だが、一度暖簾をくぐった人は皆、口をそろえてこう言うのだ。「ああ、あそこは名前の不思議さ以上に、味と雰囲気で忘れられない店だ」と。
店を切り盛りするのは、白髪の混じり始めた店主・古川。無口だが、客の焼き加減を一瞥しただけで、その好みを見抜いてしまうほどの職人肌である。彼が網の上にそっと肉を置く仕草は、どこか儀式めいていて、まるで客一人ひとりの物語に寄り添うような静けさと尊さを帯びていた。
しかし、「焼肉ポメ」が特別なのは、味や店主の人柄だけではない。この店には、店名の由来となった看板犬――いや、今では“看板だった犬”と言うべきか――ポメがいた。ふわふわの白い毛並みを揺らしながら、常連客の足元を軽やかに歩き、初めての客には少し距離を置いて尻尾を振る。誰にでも媚びるわけではないが、どこか人を安心させるあの穏やかな眼差しは、店の空気そのものを柔らかくしていた。
ポメが店にいた頃、常連客の一人がこう話していたことがある。「ここでは、焼肉を食べながら、不思議と自分の気持ちを整理できるんだよ。ポメが横にいると、嫌なことがあってもどうでもよくなってくる」。店主はその言葉に答えなかったが、どこか照れたように笑ったのを覚えている。
そんなポメも、数年前に静かにこの世界を旅立った。常連たちは店主を慰めようとしたが、彼はただ、昔と変わらぬ丁寧さで肉を焼き続けた。そして、いつのまにか店の名前に「ポメ」が残されたままであることに、客たちは気づき、誰もその名を変えようと提案することはなかった。むしろ、店名がそのままであることが、ポメの存在をそっとこの世界にとどめる、大切な儀式のように思えたのだ。
ある日の夜、私は久しぶりにこの店を訪れた。暖簾をくぐると、店主は軽くうなずき、いつもの席を示してくれた。網の上でじゅうじゅうと音を立てる肉の香ばしい匂いに包まれると、時間がゆっくりと流れ始める。ふと足元に目を向けると、そこにはもうポメの姿はないのに、彼がいたころと同じ空気の温かさが残っているように思えた。
焼きあがったロースを口に運ぶと、脂が優しく舌の上で溶け、ふわりと香りが広がる。その瞬間、胸の奥にしまいこんでいた懐かしい時間が蘇り、心がほぐれていくのがわかった。この店の味は、ただうまいだけではない。人の記憶や思い出までも包み込み、静かに寄り添ってくれるのだ。
帰り際、店主が小さく言った。「またお越しください」。その声は相変わらず淡々としていたが、不思議と胸に沁みた。私は暖簾をくぐるとき、ぽつりとつぶやいた。「ポメ、また来るよ」と。姿は見えなくても、あの優しい眼差しは確かにそこにある気がした。
「焼肉ポメ」は、今も変わらず街の片隅で灯りをともしている。美味しい焼肉と、店主の静かな温もり、そしてポメが遺していった柔らかな空気。それらが混ざり合い、人々をそっと包むこの店は、今日も誰かの心を軽くしているのだろう。