『令和6年長月 陸中盛岡・南部攻め』ベルベットルームさんの日記

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ベルベットルーム (40代後半・男性・秋田県)

日記詳細

まだまだ暑い日が続く9月に盛岡より知らせが届いた。
ハルマサが盛岡にて兵を挙げたとの事である。
「殿!、盛岡より早馬の知らせにございます。」
「なに!ハルマサが反旗を翻したかっ!じい、すぐに出陣じゃ!!」
「はっ!!」
報に触れたチカスエは、1万5千の兵を従え仙岩峠(国道46号)を越え盛岡を目指すのだった。
令和6年長月の事である。

仙岩峠を越えたチカスエ軍は『南部マルシェぞっこん広場』にて情報収集に努めた。
ハルマサは盛岡城に籠城しているとの事だ。
チカスエ軍は一路南下、盛岡城を後ろから援護する盛岡南部の紫波郡に向かった。
紫波郡に到着したチカスエ軍は
『ホルモンたけだ』『肉のさんた』『産直センターあかさわ』を味方につける。
盛岡に入ったチカスエ軍は『ホテルメトロポリタン盛岡ニューウィング』に着陣。
「じい、相変わらずハルマサは強いのう。」
「まこと、精強な軍。ここは3方より盛岡城を囲み、出てきたところを迎え撃つ作戦は如何でしょう。」
「ふむ、じい、直ぐに準備じゃ!」
チカスエ軍は北の『福田パンみたけ店』、南の『オールウェイズ永井店』、西の『ルナール』を攻略し、盛岡城を取り囲んだ。
しかし、盛岡城の守りは固く、戦は長引いた。

「盛岡城」南部(盛岡)藩南部氏の居城。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。
慶長年間には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。なお、利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧・淡路丸大明神)の社宝として崇敬されている。

長引く戦の合間、チカスエは榊山稲荷神社にて必勝祈願をした。
榊山稲荷神社は、『もりおかかいうん神社』という異名でも知られ、盛岡市中心部の北方、北山に鎮座している。
南部信直が慶長2年(1597年)、盛岡城築城の折、祖先源義光の時代から崇敬されてきた「さかきやま稲荷大明神(豊受之大神)」を城内に祀り、藩の運命をかけ、 盛岡の街創りの総鎮守として定めたのが創建とされる。

「じい、それにしても城内から聴こえるこの歓声は一体?」
「はっ、これは盛岡市街地で催されている野外音楽イベントのいしがきミュージックフェスティバルの歓声のようですな。」
「なんと、ハルマサ、城内でそのような乱痴気騒ぎをしているとは・・・」
盛岡城を落とせぬと判断したチカスエは参加したい気持ちを抑え、盛岡を後ろ髪を引かれる思いで後にした。

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