24回
2025/06 訪問
赤と琥珀、そのあいだに
この夜の「あと一品」は、結果として二皿になった。
選んだのは、トリッパのトマト煮込みとブルーチーズ。方向性は真逆。
だが、どちらかを選ばなかった理由は明確だ。どちらも、組み込みたかった。
トリッパは、よく煮込まれたトマトベース。ゼラチン質の柔らかさがあり、臭みの処理も的確。
合わせるワインはシラー。果実味とスパイス。温度が上がるごとに、煮込みと輪郭が重なっていく。
この一杯で、胃の動きが静かに再起動された。
対してブルーチーズには、あえて甘めのシェリーを選んだ。
青カビの塩味に対して、琥珀の甘さが干渉せずに接触する。
粘性のある苦みが残り、口内はしばらく「混在」を維持する状態になる。
方向性は違えど、正解は両方にあった。
赤と琥珀。二皿と二杯。
順番に並べるか、交互に進めるか。その違いは大きいようでいて、本質的には構成の問題に過ぎない。
バルのカウンターで考えるべきなのは、「何を選ぶか」ではなく、「どう組み合わせるか」なのだ。
2025/06/12 更新
2025/05 訪問
前菜で四杯、主菜は一択
スパニッシュ、あるいはイタリアン。いわゆるラテン系の料理店には、特有の共通項がある。
それが何かといえば、「前菜の盛り合わせ」だ。
冷たいもの、温かいもの。少量ずつ、お皿に盛られて並んでいる。ただそれだけの構成であるにもかかわらず、酒飲みにとっては抗いがたい吸引力を持つ。これで何杯でも飲める——という認識は、実際その通りだったりする。
その一方で、いつも少しだけ気になるのが、店側の収益構造だ。手間に対して単価は控えめ。原価、仕込み、回転率。飲んでいるこちらが考えることではないと分かっていても、毎回どこかでよぎる。
だが、それを口に出すのは、さすがに野暮だろう。
ここ「ブルボ」でも、前菜盛り合わせひと皿で気づけばグラスが四つ空いていた。
さて、あと一品。そこから先が問題だった。
パエージャか、イベリコ豚のグリルか。両方は無理でも、どちらかだけというのも惜しい。
そこで提案されたのが、「イベリコ豚のパエージャ」だった。なるほど、理にかなっている。
火の入り、塩気、香ばしさ。どれも過不足がなく、ひと口ごとに満足が積み上がっていく。
結局、グラスはさらに一杯。計五杯。だがそれに見合う内容だった。
何を頼むかは重要だ。ただし、それが正解だったかどうかは、グラスの数が教えてくれる。
2025/06/06 更新
2025/05 訪問
正解は、隣にある
そもそもはラーメンだった。
職場で持ち上げられていた店があり、場所も調べてあったので、昼休みに足を運んだ。
だが、角を曲がった瞬間に話は終わった。列。最後尾札付き。
45分で往復して食べられるかという問いに、答えは不要だった。
引き返そうとしたとき、視界の隅に何かが引っかかった。
スペインバル。小さな看板、横幅の狭い扉、そしてカウンター主体の構成。
ひとり客を拒まない店は、だいたい静かに構えている。すぐには入らなかったが、視覚的記憶には残った。
夜。残業帰りの足が、その店に向かったのは偶然か習慣か。
メニューにチャコリを見つけ、特に迷わず注文。高い位置から注がれる微発泡の白。
やりすぎのようでいて、そうしないと香りが立たない。合理性は形式の中に潜んでいる。
前菜の盛り合わせでチャコリは進み、トリッパの煮込みには赤。
最後はフィノで締めた。全体として、設計は整っていた。
結果だけ見れば、昼に振られて正解だったという話になる。
だが重要なのは、そこではなく、「隣」に何があるか。
あらゆる選択は、実はその次の選択肢によって評価される。
2025/05/22 更新
イベリコ豚という選択肢は、昔から自然に存在していた。
飲食に関わっていた頃も、自宅での少人数飲みでも、こちらが特別に意識せずともメニューの中に組み込まれていた。
いわゆる「ホームパーティ」というほどの体裁はない。だが、酒と皿が揃う場にイベリコがあると、空気にわずかな緊張感が生まれる。演出というより、構成上のバランスである。
前回はパエージャだった。主張しすぎず、全体をまとめる立ち位置。
今回は単独での「焼」。構造的に言えば、主役に昇格した。
脂に甘みがあり、焼き目に香ばしさがある。これで勝負になる食材は限られる。
下にソースが添えられていたが、何だったかは覚えていない。
飲みすぎていたわけではない。単に、印象の大部分を味が占めてしまった。
イベリコ豚というのは、意識の外に置いておいても支障がない。
ただし、ひとたび皿に乗った瞬間、その記憶は食後にも残る。
正確な名称や味の細部は曖昧でも、「美味しかった」という感覚だけははっきりと輪郭を持って残る。
そういう食材が、具体というよりも輪郭だけを記憶に刻んでいくのだ。