31回
2025/08 訪問
苦手の向こうにある景色
「このお店、何食べても美味しいよ」
──その言葉が嫌いなわけじゃない。ただ、少しだけ立ち止まってしまう。
もちろん、それまで食べた料理が美味しければ、他の皿にも自然と期待は向く。だが私は、どこかで頑固な性分を手放せずにいる。「何を食べても」と言い切るには、自分の舌で“全部”確かめてからにしたい。
それが、私のちいさなこだわりだ。
とはいえ、現実はそう易々とはいかない。沁ゆうきで言えば納豆、ここブルボで言えばパクチー。食べられないわけではないが、積極的に手を伸ばす気にはなれない。
だが、その夜は違った。「ラムボールパクチー」──逃げられない一皿だった。
事情を話すと、パクチーは別添えに。ありがたい。その配慮に応えるように、まずはラムだけで一口。じわりと広がる滋味。悪くない。次にほんの少しだけ、パクチーを添えてみる。……思っていたほど、悪くなかった。
まだ、すべての皿を食べ尽くしたわけではない。
それでも、苦手をひとつ越えた先にある景色は、少しだけ誇らしかった。
2025/08/07 更新
2025/07 訪問
夏の酸味、夜の甘味
酸味のある料理には、どこか抗いがたい魅力がある。
舌を刺すようでいて、決して乱暴ではない。芯のあるやさしさ──そういう味が、昔から好きだった。以前通っていた寿司屋では、南蛮漬けがあると聞くだけで迷いが消えた。酢がしみた白身魚と、玉ねぎの苦味が交わる瞬間、酒は言葉を必要としなくなる。
この夜、ブルボで選んだのは、エスカベッシュ。
つまりは洋風の南蛮漬けだが、今日の主役は鱧とオレンジ。酸味は尖らず、どこか丸い。柑橘の果汁が下支えしているのだろう。オリーブオイルの香りがそこに重なると、皿の上に、軽やかな初夏がひらく。
そして最後に選んだのは、シェリー酒のアイスクリーム。
甘みはきっぱりと主張しながら、酒精の余韻がその輪郭をすっとなぞっていく。静けさの中に、余白を残す味だった。
酸味と甘味。
別々に始まった記憶が、最後には静かに重なり合っていた。
2025/07/29 更新
2025/07 訪問
記録にない夜
この店には、いつも一人で来ていた。
静かなカウンターで、料理と酒にだけ向き合う時間。それが自分の流儀だった。
この夜は、少し違った。
近隣の関連事業所の方々と連れ立って。店に来るのは、彼らにとっては初めてだった。
距離は近いが、顔を合わせるのは稀。どこか他所行きの空気をまとったまま、扉を開けた。
料理はすべてお任せに。最初の皿が届くころには、少しずつ言葉も和らぎ、笑いが混じり始める。
グラスが進み、話題が交差し、やがて空気はこの店らしい温度に整っていった。
気づけば、写真は一枚も残っていなかった。
けれど最後──シェリー酒のアイスと塩で食べるバスチーだけが例外だった。
「これだけは撮っておこう」と、誰かが言ったのだ。
記録ではなく、記憶に残る夜。
なにより印象に残ったのは、「今日は一人じゃない」という、それだけのことだった。
2025/07/29 更新
2025/07 訪問
赤と赤の構成式
朝は軽め。昼は仕事に吸われた。食べるという行為の優先順位が、勝手に後ろに回されたまま、気づけば夜になっていた。
空腹を伴ったまま、無意識のような動作でブルボの扉を引く。
まずは、いつもの前菜盛り合わせをつまみながらグラスを空ける。
そこまでで終わる予定だったが、胃がそれを許さなかった。
目覚めてしまったものには、次の供給が必要になる。
選んだのは「牛ザブトンのビステック」。脂と赤身の比率が安定しており、温度によって状態が変わる部位。
この夜はミディアムレア。外側には焦げの香ばしさ、内部は温度と肉汁が滑らかに混ざり合っていた。
合わせたのは赤ワイン。ここで赤を選ぶのは珍しいが、この肉には引力があった。
タンニンの角は削られており、果実味が脂と並走している。
皿とグラス。どちらの赤も温度が揃っていて、こちらに向かって同じ速度で迫ってきた。
満足感というのは、量ではなく構成で決まる。
この夜は「赤と赤」で組み上がった。余計な装飾はいらなかった。そういう夜も、ある。
2025/07/17 更新
2025/07 訪問
甘くない終止符
バスク風チーズケーキ──通称「バスチー」。
かつては流行の中心にいた。コンビニから専門店まで、あらゆる場所に並んだ。
今では熱は落ち着き、話題にされる機会も減った。
それでもメニューに残している店が一定数あるのは、つまり、単純に美味しいからだ。
この夜、最後に選んだのは、塩で食べるタイプのバスクチーズケーキだった。
表面は焦げ目の香ばしさ。中は半熟で滑らか。
甘さは最小限に抑えられ、そのかわりに塩が旨味を引き出している。
合わせたのは辛口のシェリー、フィノ。ナッツやイーストの香り。温度が上がると、塩気と苦味が前に出てくる。
甘味と甘味を重ねないことで、かえって輪郭が際立つ。
これはデザートというより、構成の一部としての終盤の皿だった。
バスチーに話題性を求める時期は終わった。
だが、美味しいものは、流行が過ぎても正当に残る。
最後の一手としての塩チーズケーキ。そこにフィノがあれば、締めとして十分だ。
2025/07/03 更新
2025/06 訪問
一番という仮説
「一番がたくさんある」──この表現に違和感を覚える人は多い。
論理として破綻している、と指摘されることもある。「○○じゃないんだから」ととあるキャラクター名をあげられることもある。
厳密に言えば、「一番」はひとつでも、「一番候補」は多数存在する。
その中から、当日の気分や体調、直近の記憶に照らし合わせて、暫定一位が都度選ばれているに過ぎない。
つまり、制度としての「一番」は変動性を含んでいる。
今日の一番は、鴨だった。
メニューは「鴨のコンフィー、レンズ豆のサラダ添え」。
低温で火を入れた鴨肉は、皮が香ばしく、内部はしっとり柔らかい。
下に控えたレンズ豆のサラダは、脂を吸収しながらも自己主張せず、全体の構成を整えていた。
食べながら、飲みながら、「今日の一番はこれだった」と確信するに十分な内容だった。
もちろん、明日は変わる。
牛かもしれないし、イベリコ豚かもしれない。
「一番」が不動である必要はない。
その日、その場所、その一皿。その一口に、「一番」は現れる。
だから人はまた、次の一番を探しに行く。選ばれるのは、皿ではなく、記憶の側だ。
2025/06/27 更新
2025/06 訪問
輪郭だけの記憶
イベリコ豚という選択肢は、昔から自然に存在していた。
飲食に関わっていた頃も、自宅での少人数飲みでも、こちらが特別に意識せずともメニューの中に組み込まれていた。
いわゆる「ホームパーティ」というほどの体裁はない。だが、酒と皿が揃う場にイベリコがあると、空気にわずかな緊張感が生まれる。演出というより、構成上のバランスである。
前回はパエージャだった。主張しすぎず、全体をまとめる立ち位置。
今回は単独での「焼」。構造的に言えば、主役に昇格した。
脂に甘みがあり、焼き目に香ばしさがある。これで勝負になる食材は限られる。
下にソースが添えられていたが、何だったかは覚えていない。
飲みすぎていたわけではない。単に、印象の大部分を味が占めてしまった。
イベリコ豚というのは、意識の外に置いておいても支障がない。
ただし、ひとたび皿に乗った瞬間、その記憶は食後にも残る。
正確な名称や味の細部は曖昧でも、「美味しかった」という感覚だけははっきりと輪郭を持って残る。
そういう食材が、具体というよりも輪郭だけを記憶に刻んでいくのだ。
2025/06/19 更新
2025/06 訪問
赤と琥珀、そのあいだに
この夜の「あと一品」は、結果として二皿になった。
選んだのは、トリッパのトマト煮込みとブルーチーズ。方向性は真逆。
だが、どちらかを選ばなかった理由は明確だ。どちらも、組み込みたかった。
トリッパは、よく煮込まれたトマトベース。ゼラチン質の柔らかさがあり、臭みの処理も的確。
合わせるワインはシラー。果実味とスパイス。温度が上がるごとに、煮込みと輪郭が重なっていく。
この一杯で、胃の動きが静かに再起動された。
対してブルーチーズには、あえて甘めのシェリーを選んだ。
青カビの塩味に対して、琥珀の甘さが干渉せずに接触する。
粘性のある苦みが残り、口内はしばらく「混在」を維持する状態になる。
方向性は違えど、正解は両方にあった。
赤と琥珀。二皿と二杯。
順番に並べるか、交互に進めるか。その違いは大きいようでいて、本質的には構成の問題に過ぎない。
バルのカウンターで考えるべきなのは、「何を選ぶか」ではなく、「どう組み合わせるか」なのだ。
2025/06/12 更新
2025/05 訪問
前菜で四杯、主菜は一択
スパニッシュ、あるいはイタリアン。いわゆるラテン系の料理店には、特有の共通項がある。
それが何かといえば、「前菜の盛り合わせ」だ。
冷たいもの、温かいもの。少量ずつ、お皿に盛られて並んでいる。ただそれだけの構成であるにもかかわらず、酒飲みにとっては抗いがたい吸引力を持つ。これで何杯でも飲める——という認識は、実際その通りだったりする。
その一方で、いつも少しだけ気になるのが、店側の収益構造だ。手間に対して単価は控えめ。原価、仕込み、回転率。飲んでいるこちらが考えることではないと分かっていても、毎回どこかでよぎる。
だが、それを口に出すのは、さすがに野暮だろう。
ここ「ブルボ」でも、前菜盛り合わせひと皿で気づけばグラスが四つ空いていた。
さて、あと一品。そこから先が問題だった。
パエージャか、イベリコ豚のグリルか。両方は無理でも、どちらかだけというのも惜しい。
そこで提案されたのが、「イベリコ豚のパエージャ」だった。なるほど、理にかなっている。
火の入り、塩気、香ばしさ。どれも過不足がなく、ひと口ごとに満足が積み上がっていく。
結局、グラスはさらに一杯。計五杯。だがそれに見合う内容だった。
何を頼むかは重要だ。ただし、それが正解だったかどうかは、グラスの数が教えてくれる。
2025/06/06 更新
2025/05 訪問
正解は、隣にある
そもそもはラーメンだった。
職場で持ち上げられていた店があり、場所も調べてあったので、昼休みに足を運んだ。
だが、角を曲がった瞬間に話は終わった。列。最後尾札付き。
45分で往復して食べられるかという問いに、答えは不要だった。
引き返そうとしたとき、視界の隅に何かが引っかかった。
スペインバル。小さな看板、横幅の狭い扉、そしてカウンター主体の構成。
ひとり客を拒まない店は、だいたい静かに構えている。すぐには入らなかったが、視覚的記憶には残った。
夜。残業帰りの足が、その店に向かったのは偶然か習慣か。
メニューにチャコリを見つけ、特に迷わず注文。高い位置から注がれる微発泡の白。
やりすぎのようでいて、そうしないと香りが立たない。合理性は形式の中に潜んでいる。
前菜の盛り合わせでチャコリは進み、トリッパの煮込みには赤。
最後はフィノで締めた。全体として、設計は整っていた。
結果だけ見れば、昼に振られて正解だったという話になる。
だが重要なのは、そこではなく、「隣」に何があるか。
あらゆる選択は、実はその次の選択肢によって評価される。
2025/05/22 更新
「鯖」と聞いて、まず味噌煮か塩焼きを思い浮かべるのは、ごく自然なことだろう。
白い湯気を立てるごはんの横に、濃い色の煮汁に照り映える切り身が一枚。あるいは、香ばしく焼かれた皮の焦げ目と、大根おろし。そんな記憶が、食卓の風景と結びついて離れない。
けれど、この夜ブルボで出されたのは、その既成概念をさらりと裏切る一皿だった。 「米ナスと鯖のソテー サルサソース」。 皮目をカリッと焼いた鯖と、ほどよい硬さを残した米ナス。それに重ねられるのは、トマトと柑橘が軽やかに調和したサルサソース。酸味と香りが、ひと口ごとに口内を洗い、鯖の脂を新たに照らす。
前菜の盛り合わせで緩やかに動き出していたワインが、この一皿で加速する。
鯖がワインを呼ぶ。
初めて見る風景だった。 見慣れた鯖が、スペインの陽を浴びて、どこか新しい表情をしていた。
「味噌煮だけが鯖じゃない」 そんな声が、グラスの奥で聞こえた気がした。