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日差しはすこぶる心地よいというのに、時折吹きつける風は時にして荒れては私の体温を奪った。
下北沢駅から小田急線に乗車し、代々木上原駅で千代田線に乗り換えて綾瀬駅に向かった。
ある案件のために綾瀬に足を運ぶことになったのだが、まだ時間的に余裕がある。
綾瀬駅から常磐線に乗り継ぎ、松戸駅に向かうことにした。
電車の窓辺には見慣れぬ低層の家々や真新しいマンション群、突風にせせらぎが激しいばかりにきらめく江戸川を抜け、再び見慣れぬ街の風景が次々と無造作に通り過ぎていった。
松戸駅に到着した頃には13時を過ぎていた。
どの街の駅前商店街も似たような姿ではあるが、私のかすかな記憶ではもっとこじんまりとした印象が強かったのに、私に立ちはだかるように巨大なビルが林立している。
振り返ると関東圏に住んでいた頃から、私は千葉県とは縁の薄い関係と言って良い。
千葉市も松戸市も市川市も、のんびりと散策したことはなく、俄に通り過ぎた程度の記憶しかないのだ。
とはいえ見知らぬ街を歩くのは静かな興奮で私を奮い立たせる。商店街が途絶えたかと思えば、古い大きな屋敷のような家屋や歩道橋が立ちはだかり、私をさらなる迷宮へと誘うようだった。
しばらくつづら折りに歩いていると、行列を成す人々の背中が見え隠れしていた。
私の足は幾許か足早になり、行列を超えて店先に向かい店の名前を確かめた。
その名は、あのつけ麺の名店「中華蕎麦とみ田」であった。
私の心は突如にして踊りながら券売機でチケットを購入しようとすると、“食券の販売は終了いたしました”という文字が無表情のまま浮かんでいた。
『券売機が壊れているだけに違いない』
と自分に言い聞かせながら店の扉を開けると途端に女性スタッフが、
「本日は終了しました……」
という声が私を失望の淵へ追い込む声が聞こえた。
濃紺の暖簾は、どこかしらにべもない沈黙を宿しながら私を拒絶しているように見えた。
やり場のない失望。
それを持ち越したまま綾瀬に戻ることほど物憂いものはない。
しかし、限られた時間の中でこの見知らぬ街で、私は何でこの失望を補えばよいと言うのか?
おそらく松戸駅方面に歩いているはずだった。
すると、そこに晴れ渡った空を背景にしたモノクロームの看板が私の前に出現したのだ。
何の知見もない私にとって、その名は「中華蕎麦とみ田」と「富田食堂」が同類のものなのか、それとも食堂という名にふさわしい店なのかすら分からなかった。
店の入口には「松戸中華そば」とある。
「中華蕎麦とみ田」ほどではないが待つ客もいることで、それが暖簾分けか姉妹店であることを了解することができた。
どうやら先に店内の券売機でチケットを購入し、再び外に出て待つというスタイルのようである。
つけ麺に関する私の浅い知識ながら、「つけチャーシュー」(1,350円)、「半熟味玉」(120円)、「極太メンマ」(150円)のボタンを押して行列の最後尾に追随した。
私の足元には背後の行列の影が色濃く映じているのだが、徐ろにその数は増えていくのだった。
「次のお客様、9番のカウンター席へどうぞ」
それなりに年齢を重ねた男性スタッフに促されて席に座った。
入口付近の窓辺から店の奥にまで続く長いカウンター席、そのさらに背後にはテーブル席が見え隠れしていた。
皆が寡黙につけ麺を啜る姿は、どこか滑稽でもあり圧巻でもある。
目前ではスタッフが厨房を忙しなく往来しているのだが、麺を調理しているのは若い女性スタッフであることに少しばかりの驚嘆を抱いた。
ジェンダーフリーやLGBTQが叫ばれて久しい。
ラーメン業界もきっと例外ではないのだろう。
そう身勝手に想像していると、私に切迫するように眼の前からそれは置かれた。
俯瞰したその情景もまた圧巻だった。
とりわけチャーシューの存在感はひと際で、その傍らで灰色がかった野太い麺が濁った光沢を放ちながら横たわっている。
私の失望は、看板の出現とともに希望へと変わり、そしてつけ麺と向き合った今となっては興奮に代わっていた。
麺を持ち上げると、その重みが箸伝いに行先を震わせた。
恐れることなく汁に漬け込み、思いのままに吸い込むと濃密な豚骨と魚介の風味が波打ち際に打ちつける満潮のように口腔を覆い、コシの強い麺が鞭打つように鞭打つ。
なんという遍満だろう。
なんという豊満だろう。
しかも、それに追随するようにゆずのほのかな香りが嫌味なく漂うのだ。
勢いに任せてチャーシューを汁に漬け込むと、かつて経験したことのない風味豊かなチャーシューの印象をもたらす。
薄い部分は口に入れた途端に溶け入るような優美さを、厚い部分は歯に刻まれる肉感の芳醇さを、それぞれ放つのだった。
一方、極太メンマはといえば、しなやかながらも芯の部分では強い弾力でその存在を誇張している。
次第に僅かばかりの疲労を覚えた。
いずれにせよ、このつけ麺の奥義は咀嚼にあるようだ。
ラーメンやつけ麺といったジャンルに咀嚼力が問われるとは。
そう関心しながらも、完食はほど近い。
忙しなく動き回る男性スタッフを呼び止めて、「スープ増し」(80円)をお願いすることにした。
すると、
「ゆずは入れますか?」と問われた。
もちろん肯定すると、スープの注がれた丼が手許に置かれた。
ゆずの香りの増したスープは、それまでの濃密な魚介豚骨の余韻の中で落ち着いた風合いで咀嚼疲れした私を癒やした。
『それにしても』と、私は感慨深げにふと思った。「それにしても、この完成度は何だろう。またいつか必ず食べたくなるに違いない』
14時を過ぎてもまだ店の軒には行列ができていた。
私は、その行列のできる意味を納得しながら、強い風に打ち消されながらも一片の雲が浮かぶ空を見上げ、松戸駅に向かうのだった。……