蕎麦の薀蓄を語るなんて、愚の骨頂だと思いますが、数年前から本格的に蕎麦に向き合う様になってから、蕎麦の深さに感心しきりです。蕎麦の魅力は多々あれど、毎日蕎麦を手繰っていると同僚から毎日食べてて飽きませんかとよく言われます。そりゃあ、好きな店でも毎日食べれば飽きが来るってもんですが、蕎麦屋は星の数ほどありますし、まっとうに蕎麦に向き合っている蕎麦屋でもいろいろな種モノや蕎麦も季節によっては変わりを出すところもあります。
元来、麺類に関しては、舌の根がB級なものですから、以前はそれほど拘りがありませんでした。和食の素晴らしさを知るにつけ、蕎麦と汁と云うシンプルで有るが故、星の数ほどの店の味に展開がある蕎麦が、江戸で開花して今日まで食べられてきた様を思うに、地方それぞれの蕎麦とは違った江戸前の蕎麦がある事に感謝する一方で、その伝統の灯が残念ながらひとつまた一つと老舗(池之端藪、巴町砂場、虎ノ門砂場を始めとして)が消えゆく昨今に危機感を覚えます。
蕎麦と云うと、古のファストフードであり、且つその性質上速攻食べないと伸びてしまうという事から、鮨と同様、気性の短いお江戸で発展してきたものですから、元来軽食と考えられていますが、せいろ一つとっても千差万別で、蕎麦打ちのみならず、汁に至っては、店によっての拘りや修業元の伝統を昇華させた年季の入った仕業ものと言ってよいと考えます。
小生にとってお蕎麦は冷たい盛り(せいろ)を基本としておりますが、お蕎麦の出来というのは、蕎麦自体6:汁3:蕎麦湯1で構成されているのではないかと思っています。良く蕎麦の条件に「三たて」という言葉があるように、挽きたて、打ち立て、茹でたての蕎麦が良いというお話し(勿論異論あり)があります。しかし、これは蕎麦自体の条件であって、小生にとっては、蕎麦汁や食事後の蕎麦湯なども含めた全体、況してやお酒を召し上がられる方にとっては、蕎麦前に摘み(要は種ですな)と御酒をいただきつつ最後に小腹を占めるという蕎麦屋の使い方まで含めると、これまた、蕎麦若しくは蕎麦屋というものの評価するのは、奥がより深いということになってきます。
小生はうどん文化の福岡で育ち蕎麦と云うものはせいぜい温かい蕎麦位で、うどん(それも博多うどん独特の柔いもの)か、素麺、ちゃんぽん位で育った所為で、本当の江戸前蕎麦を真面目に頂いたのは、自分で糊口をしのぐようになってからです。それまでは、いわゆる乾麺や生麺でも製麺所で出来たものがほとんどで、蕎麦の産地も知りませんし、そば粉の種類、真の手打ちなぞ知りもしませんでした。幼少時、更科や永坂の甘汁(実家に中元で頂いた缶入りのもの)を、初めて口にしたときは、なんて甘美な汁があるのだろうと思ったものです。
上記、三たて若しくは理想の形を全て具現化して提供することが、現在困難な事は充分承知していますが、その精神を継ぎながら今現在の蕎麦を提供している矜持を保った老舗が好きです。また、一方で立ち食いや蕎麦居酒屋といったよりカジュアルなスタイルながらも、蕎麦の美味さをその店が持つ最大限のキャパシティーの中で提供する様な店が好きです。
前者の様な店は、そば粉自体の値段や種類、場合によっては使う時期やあれこれを考えれば、もりやかけでは殆ど利益がないところも多いと思います。蕎麦に加えて、蕎麦前や種が高く感じられるのも、他の業態の飲食でも料理を安価にかつ良心的に提供しているところでも、お酒だけはそれなりに値付けして稼いでいるのと同じだと考えます。後者の場合でも、コストを抑えるところと拘るポイントが、店によっては真摯に伝わってきます。立ち食いというから安かろうで良しとしないところに好感が持てます。
たかが蕎麦、されど蕎麦成れど、物事には万事バランスというものがあって、前者も後者も一定の理想形を、出来るだけ多くのお客様にコンスタントに出し続ようと、店主(オーナー)自らいろいろな努力をされているとおもいますが、それでも、先に申している(伝統も個性も含めて)それぞれの店の味を継いでいくことは、時代の移りかわりによる変化を取り入れることはあっても、大変な事だと思います。
先に上げた老舗が如何様にして閉店に至ったのかは知る由もありませんが、おそらく後継者、営業権、借地権等、様々な問題により、伝統ある歴史に幕を引いたのだと思われます。
温故知新という言葉にあるように、古いものを理解しつつ、新しい革新を追い求めるお店は、前者でも後者でも応援していきたいと思いますし、皆様に一人でも多くの方にいい蕎麦を提供する店で、月に一日でもいいから食べて貰いたい、それぞれの理想も含めた上での選択肢として多くの蕎麦屋が続いて欲しいとの思いを駄文を綴る次第です。
※ちなみに、小生は飲食関係者ではありませんので、細かい突っ込みはご容赦ください。間違い指摘や感想等ご意見はご自由にコメントください。