3回
2019/05 訪問
大人の秘密基地で極める、静かに交わされる「物語」のペアリング
荒木町は僕にとっていつだって特別な場所だ。入り組んだ路地が織りなす迷路のような構造、そこに三者三様の小さな店がまるで秘密の暗号のように身を寄せ合って存在している。全体に漂うのはどこか厳かな、大人のための秘密基地のようなムードだ。世界の主要なニュースや明日朝の会議のことなど、ここではすべてが一時的に無効になる。
その奥深い場所で、僕が「大好き」という言葉をためらいなく使える店が「たつや」だ。
予約したコースは八千円ほどだったと記憶している。しかし、最終的な会計は二万三千円。残りの大半はアルコール代だ。僕はこの店で飲むときいつだってアクセルを底まで踏み込む。提供されるすべての酒を料理に合わせた最高のペアリングとして、その夜の調和が極まるまで受け止める。一般的な人の二倍は飲んでいるだろう。日本酒、ときには白ワインや赤ワインがリズミカルに途切れることなく目の前に差し出される。
これが他の星付きレストランと比べると驚くほどリーズナブルな価格帯に収まっている。しかし、パフォーマンスの高さは価格の数字とは逆行している。提供される料理はすべてが非常に美味しく、そこには食材に対する確かな敬意と惜しみない手間が注ぎ込まれているのがわかる。八千円という価格で、これほどの「物語」を出し切れることに僕は静かに感服するしかなかった。
店主は最初こそ言葉少なで、どこか自分だけの領域を持っているように見えたかもしれない。しかし、酒が数巡し料理の波が押し寄せてくる中でぽつりぽつりと交わす会話の中に、彼の料理と酒に対する純粋でどこまでも深い情熱がまるで高周波のように皮膚の下に流れ込んでくるのだ。
連れとの会話、目の前の料理、そして静かに流れる酒のリズム。それに加えて、店主との間に生まれる数少ない、しかし意味深い言葉の交換がその夜の味わいをさらに深めていく。それは、孤独な航海士が遠い灯台の光に導かれるような連帯感だ。
昨今の都内の和食店は価格が現実的な感覚から遊離してしまったかのような店が増えすぎた。それはまるで価値を測る定規が歪んでしまったかのように見える。しかし、「たつや」にはその歪みがない。ここは良心という名の見えないコードで運営されている。
僕たちはお金を払って料理を食べ、酒を飲む。だが、この店で僕が手に入れたのは金銭で換算できない「質の高い時間」と荒木町の迷路の中で見つけた信頼できる大人の秘密の連帯だった。僕はまた次の満月の夜にでもこの小さな秘密基地へとその夜の調和が極まるまで酒を飲みに行くことになるだろう。
2025/12/13 更新
数年が流れてしまった。時の流れは加速度的に早まり、気づけば僕の好きな荒木町にもしばらく来ていない。見慣れていたはずの小さな店が、いつの間にか入れ替わったような気さえする。だが「たつや」へと続く道のりは、以前と何も変わらなかった。それはまるで通学路のように僕が歩き慣れた道であり、その不変性に僕は静かな安心感を覚える。
以前より人気を博していると聞いていた通り、店の外観には微かなオーラがまとっているようだった。小料理屋の外観からは想像できない、とても大きな何かの予感を感じさせる。数年ぶりということもあり緊張しつつ、僕は引き戸を開けた。
中に入ってしまえば、そこは僕の記憶と寸分違わぬ空間だった。いつもと同じ、安心感のある大将が僕を出迎える。その瞬間、張り詰めていた僕の緊張感は一気に解けた。いつと変わらず厳かでありながら、深く落ち着けるカウンターだ。
大将が調理に入った瞬間、出汁の良い匂いが店内に静かに広まる。その香りを深く吸い込むたびに、僕は日本人で良かったと本能的に思う。どの料理も繊細で、日本人の本能を呼び覚ますような香りと味わいが、僕の身体の奥深くに訴えかけてくる。料理に負けず劣らずの素晴らしい器が、料理の持つ美しさをより一層際立てていた。
今回も日本酒は大将におまかせした。どれも料理にとてもあっており、お酒と料理の双方がお互いを静かに際立てている。その調和があまりに心地よく、僕は以前と同様に少々飲み過ぎてしまった。
前回から期間が空いてしまったが、この変わらない安心感、この繊細な物語、そしてこの良心のコードが生きている限り僕はまたここに帰ってくるだろう。次回はきっと、もっと早くこの扉を開けたいと僕は心の中で静かに誓った。