いつもの一杯飲み屋で飲んでいたが、今日も何となくだらだら営業を続けるこの店を、或る意味憂い、しかし或る意味エールを送る意味で、今まさに目の前で、今夜はドリンク係りを担当している女の子に語りかけた
「今日もつまんなくなってきたな ……」
「私も ……」
「カラオケとか置いたほうがいいんじゃない ? キミの田舎の新潟で潰れたスナックから、いらなくなったカセットテープ式のカラオケ貰ってきて。デュエットとか、何歌えるの ? カナダからの手紙とか歌える ?」
「カナダからの ? 何 ? 私は今を生きているから、ちょっと分かんないですね~ ♪」
「……。そうなんだ ……。俺は過去に生きる男だから ……」
久々、超恰好良いこと言ったなと心の中で悦に入ったが、何故か女の子は、さっきっからのまったくぴんときていない表情をキープし続けていた。
―― 何故だ ……
【 挿入画/平成27年9月 御徒町~そこら辺 】
※ モノトーンというものを、私は安易に使いたくない派である。何故ならば、モノトーンというのは往々にして、無意味な写真に殊更意味深(いみしん)さを与えてしまう傾向、もっと言って危険性があるものだと理解しているからだが、こんな私でも時には“魔がさす”、ということもある
今は昔の話。勤めていた会社を辞めたらタナボタで退職金を貰ってしまい、それでマミヤの645を買った。
新品。80mmの標準レンズ、TTL式露出計付きファインダーとワインダーグリップのパッケージとなっていたのを。それは趣味でもあったのだが、同じ通販業界への行き先が決まっていた私にとって、広告用の商品撮影の為の仕事用、ということも大きかった。
初めてジッツォの三脚を立ててコダックのカラーリバーサルを籠め、現像後にライトボックスに浮かび上がった、半信半疑で切りとった横浜の夕景の、空と地平線の神々しいまでのダークブルーとオレンヂのグラデーションの美しさといったらなかったことが、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る
その後、私はその業界から足を洗うことになったが、写真と文章を組み合わせて綴る電子ブログというものを興味本位で始めた途端、私の奥底でくすぶっていたものが、たちまち勢い増して再燃しはじめることになる。
デジタルキャメラというものを半ばバカにしていた私は、当初、それをモバイルフォーン備え付けの豆粒レンズに頼り、寧ろそれ一本でいくことで自らのブログに個性を与えようと目論んでいたのだが、そんなものはすぐに挫折。気づけばコンパクトながら、今では二機目のモデルを平然と手にしている自分がいるのである。
このことは、ハードヴォイルドである私にとって致命傷となり得る由々しき大問題であったが、パソコンと銀塩カメラとの連携の前に立ちはだかる巨大な壁は、とてもちょっとしたアイディアでブレイクスルー出来るような軟弱なものではなく、無念ながら私は、為す術なくそれに屈したのだ。
これは言い換えれば、昭和の男が平成という“時代に屈した”、ということでもあろう。そういった意味で、人間というものが混じりっ気のない純粋な“過去に生きる”ということなど、悲しいかな、最初から不可能なことなのかも知れない
で、今夜私が言いたいこととはずばり、飲食店での写真撮影、ということについてである。
昨今ブログ、或いはグルメサイトへの投稿記事など、様々な場面において、料理や店内風景を撮影した画像の垂れ流しを目にすることが出来るが、その是非について常にとり沙汰されるということも、斯く言う私も当然了解しているところである。
しかしご覧のように、私も、料理の写真をゲリラ撮影してしまっている。
ほんとうの文才というものがあれば、写真なんかよりも遙かに芳醇な色彩やぬくもりや、そして舌触りなんかの感触までをも、日本語という圧倒的表現力を持った言語を巧みに駆使して受け手にたやすく伝えきってしまうのであろうが、生憎私にそんな才能が無いということも然ることながら、もっと言って、直接的なヴィジュウアルの華やかさを得るということが、こういった媒体にとっての宣材写真の重要性をこの身に幾重にも刻み込まれている私にとっては、圧倒的に重要なことだったのである
先ほど、私は自身のそれを“ゲリラ撮影”と言ったが、それはいうまでもなく、“やっちゃいけないことをやっている”という自覚があるからに他ならない。
核心に迫るが、それならばと、やっちゃいけないこと(それが何故かを私は説明しない。お店屋さんの中でカメラを構えることが良いことか悪いことかも分からない人間を相手にしても、時間の無駄だからだ)の“正当化”の為にお店の許可を得る、という“手法の薦め”が時折見受られるが、私はこのことについてこそ、実は甚(はなは)だいかがわしいことだと思っているのだ。
というのは、昨今の飲食店というのは基本、その是非は置いておくとして“お客様は神様です”、ということを基底として運営している店が多い(と私は思っている)ので、「すみません ! 写真を撮らせていただいてよろしいでしょうか」 とお客にやられれば、それを即座に拒否出来る店というのも、ふつうに考えて店主が独特のイデオロギーを持った店か、或いはよほど感度の鈍い(そのまたの名を鈍感と言う)店員を抱えた店ではなかろうか
要は、ほんとうは店内撮影をされるということは、そのお店にとっての連続性の中で無造作に切りとられた“瞬間”が一人歩きしてしまうことへの恐怖に加え、他の“ふつう”のお客様への影響を考えると、腹の中では勘弁して欲しいことなのではないかと。そしていい歳ぶっこいたら、そんなことに気付く“想像力”というものを、人として備えていなければならないのではないかと。
更に欠落していることには、お店からは半ば、客としての“強制力”を発動して許可をもらったからといって、その空間を共有している他のお客さんたちはどうなのか ? ってことである。或る意味、客が店に迷惑かけたからってそんなの、東十条の飲み屋だったらあたり前に店がある程度のところまでは我慢しなきゃいけない話となるが、しかし、偶然その場に居合わせてしまった他のお客たちは違う。その空間を共有する他客は、お店から料理や飲み物だけを買っているだけではなくって、もっと総合的に、“今まさにそこにある時間”についての対価を支払っているのであるのだから。
兎も角、“撮影了承済み”ってことを免罪符として数十枚もの写真をアップしている人というのは俺にとって完全にハテナマークの人種なのである
ことゲリラ撮影ということに関し、私は自身の人生の中でただ一度、今は取り壊されてしまった浅草の名画座にて、もはや“神”の域に到達した方を見たことがある。
忘れもしない、緒形拳主演「復讐するは我にあり」にて、粗暴(というか連続殺人鬼なんだけど)な性格の夫、巌(緒形拳)に嫌気がさして逃げ出した倍賞美津子を連れ戻しに、彼女が身を潜める温泉旅館を訪れた巌の父親、三國連太郎。その義父と義娘の夜中の露天風呂での情事のシーンで、月明かりに露わになった倍賞美津子のロケットおっぱいをレコードしようと最前列で仁王立ちし、まさかスクリーンに向かってフラッシュ撮影を敢行したあの漢の中の漢を ……
でもここまでやれば、凄いと思う。
彼にも私にも、自分が“悪”だと知りつつ、その人間の業を背負ってやっているという覚悟がある。私は彼の倍賞美津子のおっぱい写真にはピューリッツァー賞をあげたい気持ちでいっぱいになるが、これは何度か先述させていただいているが悲しいかな、スクリーンに向かってストロボ炊いちゃったら、映像は写らないのよ ……