「君は嵐の中で藻掻くカイト(凧)だよ、ボンドくん ……」
<平成28年元旦/まずは映画鑑賞後、正月で身の振り方分からずに藻掻くもう一人のカイト(凧)の巻>
「某スパゲッティ屋さん 日比谷店」
“角水割り” @450
“スモークサーモンのイタリアンサラダ” @430
とりあえずそれだけ注文して、「メニュウは置いておいてください」とやった。こういった格式張ったイタリアンで(そんな店でもないだろ)このような“居酒屋注文”が許されるのかどうかは知らない。
私はビールをやらないが、ドリンクメニュウに角ハイボールをみつけたので角の水割りと告げたらそのまま注文が通り、出てきてものはサントリーのロゴ入りの取っ手のついた中ジョッキくらいのやつ、なのでウィスキィの水割りとしてはかなり量多め、且つハイボールとしては少々濃いめ、ふつうのシングルくらいの額面通りの水割りが。
まずはそのことに一安心し、次に、単価がハイボールといっしょであってほしいと祈った。
実のところ、お酒は、今日はいいやと思ってる。
一年のうち今日、明日くらいは休まないと、また一年間ぶっ続けになると思って
“ブロッコリーとソーセージのペペロンチーノ” @350
「熱いので気をつけてください ♪」 とのこと。
さらに“角水割り” @450
「お水少な目で ♪」
水を少な目でとお願いしたら、連動して明らかにお酒が濃くなった。そういうのはサーヴィスじゃないと訝る方がいらっしゃるであろう。斯く言う私も、それは接客、及び酔客のプロとして理解出来る。
可能性としては、この元旦営業という非日常的ルーティンの中で給仕係を一人でこなすお姉さんが、何かの拍子に瞬間的に私に恋してしまった、ということがあるかも知れない(ないないない !)。
私も今までの酒人生、そういったことに常に甘えてきた人間であるがしかし、もう7、8年前になるだろうか、東十条の或る居酒屋にて、そこの娘さんと思しきチャーミングなお姉さんが、通いはじめてほとんど初っ端から、都度水を少な目でとお願いする私に、それならば「ダブルにします ?」と小悪魔的に囁くのを図らずも認めてしまった為に、その店は私の中で“高くつく店”となり、しかしながらパートタイム的な使い方をして上手く逃れていたところ、いつかの夜に恐れていたフルタイム本気飲みしてしまい、お会計、哀れ九千円近くに達してしまい、それからもうその“大衆居酒屋”には恐れをなして二度と足を向けなくなった。
その時のお姉さんのチャーミングな、「今日、イッちゃいましたね !」との微笑を、私は一生忘れないだろう。
でも、いっくらお姉さんが可愛くても、こと東十条の一杯飲み屋でおっぱいも揉めないのに小一万払うということを、私は金輪際する気はなかった
“PREMIUM ナポリタン” @1,080
「サイズS、M、ラージとございます ♪」
「Mで」
私は家飲みはしないが、量販店のお酒の価格をまったく知らないわけではないので、そこが悩ましい。
今は昔、上野仲町通りで数件の居酒屋をグループ運営し、自らも仲通りに立って呼び込み営業を行っていた平岡さん(仮名)は、店の改装に伴ってウィスキィボトルを置いている別の店に移ろおうとする我々を、なんと「ボトルサーヴィスにしますから !!」と同グループの他店に引き留めたのである。
私がここで言いたいことは、そういう“商魂”を見せつけられれば、俺らは若かったけど、でもそれに応えるべく“食おう”(客単価を上げてあげよう)って共通意識でもって全員一丸となる、ということである。それこそ、“義をみてせざるは勇無きなり”ばりの勢いで。
まあ、そんなこと無関係に我々チームは結局喰らうし、それを見込んでの“ボトルサーヴィス”ということなんだけど ……
だから、この飲食ビジネスの鉄則としての“サーヴィスの均一化”ということは、おそらく“浅い”ところでは合っているんだろうけど、突き詰めたところではちょっと違うんだろう。これは“平等”とか“公平”ということの基準の問題となろうが。
―― いや、そんな理屈のところを俺は言いたいんじゃなくって ……
朧気ながら、ケチャップ不使用で“蜂蜜”を使っているのだと“プレミアム”を名乗るそのナポリタンは、そんな大したもんじゃなくって、ふつうにケチャップ使ったらと ……