11回
2022/03 訪問
浅野屋 本店/おれの新会派、「SDGs神田」へようこそ !
汗ばみながらも日本最高峰のおそば屋さんに向けて這う這うの体で歩いてるのは、昨晩飲み過ぎてしまい、あっさりおそばといきたい為。
このように二日酔いでも胃が受付を赦してくれる食べものが、間違いなく一番おいしい食べものなのだろうと思う。
というかその受付が許可される食べものがなきゃ、おれなんかとてもやってけない
<R4.3.31>
「浅野屋 本店」
既に正午に達していたと思うがカウンターは未だ空いていたので、今日もそのうちの二人掛けのポジションをget !
おそば大盛りは辛うじて踏みとどまることが出来たが、まさかの ! ランチご飯を注文してしまい、(体調的に)大丈夫かとにわかにビビるぼく。
今日はお母さんのお孫さんが遊びに来てるのかな?
お会計を済ませた界隈のサラリーマンと思しき男性を、小さな女の子が帳場の前で延々とおせんぼしていて、それを困ったような嬉しいような表情で(笑)、子供相手に強行突破も出来ず、いつまでもいつまでも立ちすくんでいる彼の姿が、もうなんとも、ほのぼのとした雰囲気を醸し出してる
“もり” @700
“今日のご飯/あさり、海老、いかの炊き込みご飯” @120
お茶碗が舞い降りればいきなり、潮の香りがぼくを誘う。
それはけっして大それた海なんかじゃなくって、その辺の江戸前。なんだけど、その江戸前の凛々しさといったらなかった。
潮騒に包まれながら、でもその小ちゃなお茶碗はあと回し。先ずはこの限りなく繊細なおそばを頂点から紐解いてゆくときの、この倖せといったらなかった。
私の経験では海岸沿いにうまい日本そば屋など現実的には存在しないと思うが(なんで決めつけてんの !?)、それを図らずも見つけてしまったような、不思議な気持ちになる。
まるで迷子になっていたハートのエースが、忘れた頃にふと出てきたような ……
炊き込みご飯の味付けも繊細だが、不思議と物足りなさを感じることはない。おそばもご飯も完全に香りに支配されていながら、両者ともに、不思議とそこに実体を伴っているのだ。
芸術的ヴィジュアルに豊潤な香、啜りのsoundに実体としての喉越しが伴うという、視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚、その五感すべてのヴァランスをここまで高次元に満たす料理を、私は日本蕎麦以外には知らない。
それらは私のこの徹底的に痛めつけられた胃に信じられないほどスムースに落ちてゆき、私にふたたび元気を与えてくれる。
そしてその元気でもって、おれは今晩も自分の胃を痛めつけるのだ。
それこそが、無免許運転で当て逃げ事故も起こしていないおれの持続化可能性であり、それこそがおれのSDGs !
2022/04/02 更新
2022/03 訪問
浅野屋/最高峰、上り詰めて
<R4.3.11>
「浅野屋」
一言で神田といっても広いが、神田駅近くに謙虚に佇む日本最高峰のおそば屋に昼の部一番のりし、カウンターの、今日は二人掛けの席に陣取らさせていただく。
「注文がお決まりになりましたらお声かけください」というお母さまに、注文は決まっていたが、ほんの一寸タメを作ってからあらためてお願いするのは、これは駆け引きということではなく、自分のコンセントレーションを整える為の時間を一寸頂戴したのだ。
静寂の店内でこけしと見つめ合う。
このようなイコンに対する偶像崇拝という信仰を私自身は持っていないし、同時にその破壊という正義を掲げているわけでもなく、あくまでも私は一人の日本人、一人の神道徒として八百万の神の一人であるこけし(こけしって神様なの ?)と、かるく世間話でも交わそうと
“もり” @700
“おそば大盛り” @210
“重ね”よりも“もり”を大盛りにしてもらったほうがはるかにお得感があると理解しての注文だが、その結論付けをする為、今一度“重ね”をやらなければならないと前々から思いつつ、1,300円という値付けに気圧されてなかなか実現できていないことは、私の人間の小ささ。
無音であった空間に、些かリヴァーブの効き目は弱いものの自分自身奏でる“啜り鳴き”がBGMとして加われば気分上々 ! 箸の捌きもストレスなく、どこまでも加速していこうというもの。
そのそば、あくまでも褐色。あくまでも細打ち。それをあくまでもつめたく
そのつゆ、あくまでも漆黒。あくまでも艶を保って濁りなく、辛くして甘し
猪口の空中操作を以て、そばの尾っぽを完全にアンダーコントロールし切るということ。
シンプル、且つ高度な領域でそれを成すことが出来たならもう方程式どおり、答えは、常にシンプルな形に還ってゆく。そばがつゆを吸い、それをわたしが呼吸する
それ以上でもそれ以下でもない、濃密なる時間(とき)
2022/03/13 更新
2021/08 訪問
浅野屋/神田の鳴き
昨日から安定の夏空が返ってきたが、西日本は引き続き災害に繋がるような大雨のようで、そうなるとこの素晴らしいskyblueを手放しで存分に享受することも、ちょっと憚られてしまう ……
<R3.8.20>
「浅野屋」
未だ早い時間だったがカウンター最奥には既におじさんが一人着いていた。依って私はその一番手前に陣取って、お水を持ってきてくれたお母さんに店頭に見えていたそのまんま ……
「すみません、この冷やしたぬきっていうの、おそば大盛りにしてもらえますか ?」
いや、今日のランチ小どんぶりが鶏そぼろごはんと見えたので、(それが私には苦手なもので)おそば単品をどうやろうかと思っていたのだが、の素の大盛りか ? 冷やしたぬきか ? と一寸悩んだ末、好奇心が勝って後者が口をついて出たわけである。
「はいっ、冷やしきつね ♪」
一方対極のおじさんは冷やしきつねを注文していたようで、私とおじさんまでの微妙な距離にそこはかとなくシンパシーが漂ったが、べつに嬉しくはなかった
“冷やしたぬき/大盛り” @1,210也
圧倒的迫力で舞い降りたラウンドのお皿 !
お会計時に分かったことだが逆算すると大盛り分は210円である。最初はこんなの食べれるだろうか、と思ったほどだが、実際には底が薄く(笑)、いや、勿論そこそこのボリウムであったのだが、事なきを得る。
また今日は随分と時間が掛かっていて、茹で場からぱちぱち音も聞こえて来ていたので、ひょっとして揚げ玉からやり始めてるのかなぁ ? なんて思っていたが、なんと ! 揚げたてほやほやの小海老の天ぷらが二尾のっかっていてlucky !
こちらのおそば屋は、ちょっと高級店においての老舗に入ると思うし、実際そこかしこにそういった雰囲気は見てとれるが、しかしおそばのボリウムをケチらないことが、またそもそも大盛りを許容してくれること含めて非常に嬉しい部分。
(何度も前述させていただいているが、世の中にはスカして大盛りをやらないそば屋は多いが、私がもっとも悪質だと思ったのは、黙って大盛りを受け、お会計時に倍の値段をとるお店)
その皿がどことなく冷やし中華を連想させるのは、キュウリと錦糸玉子のせいだろうか ……
大盛り分が幾らか分からなかったので、千円札一枚を手渡しつつ「幾らですか ?」とやる。
小銭がぴったりと揃ったという小さな達成感に気分も上場、ふたたび暖簾を割ってone-wayに躍り出た ♪
快晴の神田。
神田といっても広いから、正確には快晴の神田駅周辺。かな ?
アメリカ製のエレクトリック・ギターが英語で鳴く(日本製の楽器もそこだけは真似出来ない)と言われるように、神田のそばにも、浅草のそばとはまた違った、格別な鳴きというものがあるのかも知れない
2022/03/13 更新
2021/06 訪問
浅野屋/Good Vibration
からくりとは知らず誘われて ……
メトロを這い出せば頭上一面、曇天が落ちてきていた。
この瞬間交通量が少なくてとりわけ広く見える中央通り、雑居ビル群も、同じく仄暗いtoneをキープ。
それにしてもこの少々草臥れたコンクリートジャングルはしかし、空の鈍色にうまく擬態しており、快晴よりも寧ろ活き活きと見えるのは気のせいか ……
<R3.6.23>
「浅野屋」
まだ11時半に達していなかったが、神田らしく、店内には早くも男性お一人様の都合二名。
内お一人がカウンターの一番手前に陣取っており、ならばとカウンターの最奥へ着いてみれば、目の前で電動ではないこけしが、無表情ながらもしかし、快く出迎えてくれた。
(と思いたい)
茹で場から幼子をあやす声が漏れ聞こえていて、一方でいつものお母さんの姿が見えないことが、とても、いや、ちょっとだけ心配。
さて、目下の課題は“重ね”と“大もり”との、見かけではなく(笑)実質的違いを暴くことだが、その為に“重ね”を注文することは経済的にあまりに負担が大き過ぎる為、それでもボリウム的に十分であること検証済みの“大もり”でいくことにする、どうしようもなくへなちょこのボク ……
“大もり” @910也。
今日も抱き寄せれば折れるほどに限りなくナロウなおそばが、ビスタサイズの蒸籠を伴侶に舞い降りた。
つゆは既に徳利に張られているので、私の仕事は箸をsplitして、そのティップを山葵経由で最短距離に操作し、そばを抓んで啜るだけのことだけだが、そのステップをなるたけレガートに繋ぐことには毎度少々の緊張を強いられ、それだけはどうしても慣れることがない。
今日のおそばは、無意識のうちに幼子に接する優しさが出てしまったわけではないのだろうけれど、気持ち、柔(やわ)かな ……
このナロウを支えるべく貫かれていなければならない芯のようなものが、やや希薄に感じとれてしまうのである
それでも素のそばでのお腹いっぱいを享受し、満足気にかえしの主張するつゆを白濁の湯で割っていく。
ぐいと飲んでは注ぎ、また飲んでは注ぎ、自分の要求する、リッチでもリーンでもない、中立なポイントを探し当てれば至福。
するとその気持ちが伝播したか、目の前の電動ではないこけしが、かすかにvibrationしはじめて ……
子宮から産道をわけて這い出る赤子のように、店内にある暖簾を両手で割り抜ける儀式も滞りなく。
戸が電動だったかどうかは、忘れたわよ ……
2021/06/23 更新
2021/04 訪問
浅野屋/もうひとつの極致
快晴の神田西口商店街。
そのまま西に歩き続けて外堀通りをあてもなく渡って尚、ボクのご飯処を見つけられそうもなく、一本南の一方通行を戻ることにした。
信号の先に“そば”の灯篭が揺らめいている。
そのめくるめく白昼の灯の導きにどうにも抗うことが出来ず、今日も暖簾を割ってしまった
<R3.4.19>
「浅野屋」
もう十何年も前から知っているおそば屋だが、最近になって不思議と、そのうまさがじわじわと滲みてくるようになった。
私があくまでも自分の狭い経験の範囲で東京最高峰だと思っているおそば屋さんは、現在のところ、(自分の中での)「上野藪」さん亡きあと(笑)浅草の「尾張屋」さんだが、どちらも東京のそばの様式美を完全に満たしつつ、こちらのそれはまた別の極致にいるのではないかと、最近思いはじめてる。
さらりと注文し、またも目の前の「神田蕎麦巡り紀行 2020」なる冊子に目を通す。
2020年だとすればまだ比較的新しい編纂だと思われるが、その中でも「錦町更科」さんが既に廃業されてしまっていることは寂しい。
余談ながら、この冊子を開いてmapの中に織り込まれるおそば屋の数々、そしてそれぞれの佇まいはたいへんに興味深く目を通すことが出来るものの、それらの紹介記事は、今となってはクラシカルに過ぎる、どんな方の目に留まっても不快感を与えない、模範的且つ汎用的な回答を“きれい”方向に振ったものばかりであって、正直つまんない(こらっ !)。
そしておそばはまた、少しばかり時間が掛かっているよう
“もり/大盛り” @910也。
本日の炊き込みご飯は私の苦手なキノコ系ということで、素のそばのみを注文。
質素なようでいて、逆にこれ以上の贅沢はない ! と素直に“思えるようになった”のではない。私は子供の頃から、既に最初からそれこそが最高の贅沢 ! と“思っていた”のであって、このことは、パコ・デ・ルシアが子供の頃から、既に最初からもう炎のギタリストであったこととまったく同じ。
蒸籠を盆の縁に引っ掛けて、やや傾ける恰好で向こうへ除けるのは、これは水切りの為の作法ではない。
私のそば食いは山葵を都度そばに擦りつけてやるスタイルなので、蒸籠の手前、利き手側に薬味をもってきたいが為である。
大盛りながら、つゆは潔く猪口に注がれているのみ。しかしその分量は、恰好ばかりスカしたそば屋と比較すればたっぷりと言える
(ちなみに“重ね”のときにはつゆ徳利でついてくる)
猪口が指先に吸いつき、まるで体の一部のように質量を喪失して宙を彷徨いはじめれば、そこへそばの尾がまるで生きもののように吸い込まれてゆく。
その不思議な様を、ただ他人事のように傍観していた。
そばの表面の水膜が、つゆの“噛み”をうまくリードしてくれているのを感じる。茹でに時間が掛かるのは、釜に放り込んでしまったが最後、お客に出すまで細心のコントロールが必要な蕎麦質の為に、幾人か分ついでに茹でてしまうということが出来ないからであろうか。
兎も角一連の動作が流体摩擦のようにレガートに繋がり、このおそばはうまい !
願わくば、このわざわざ打ち粉を溶いた白い湯だけ、透明なものに戻して欲しいと思うのは、自分が徹底的に不適合品なくせ、他者のパーフェクティビリティだけどこかで信じてしまうこの私の、質(たち)の悪い我儘というものか ……
2021/04/25 更新
2021/03 訪問
浅野屋/俺たちの foundation
今日も温かくなるとのことだったがそのとおりとなって、羽織っていた上着を脱いで西口商店街を進んでいる。
お昼休みの早い神田の町。午前11時を過ぎたところで、感覚的には飲食店のうちの半分くらいが既に稼働しているように見えるが、大陸系中華、及び居酒屋系お昼ご飯を除けると手放しで飛び込んでゆける店は、そう多くはない。
しかしそこは勝手知ったる神田の町。ならばメインストリームから速やかに外れ、いつもの一方通行を往くことにした。
西から東へと向かうOne Way Road。若さがいつでもワンウェイロードだとしたならば、齢53に達した私がそこへ許容されて良いものか ……
しかし少し北の、逆に東から西へと向かう一通のそば屋に、日本最高峰の花番のおばちゃんが厳然と君臨し続ける限り、私もまだこれらのワンウェイロードを若者たちに黙って明け渡すつもりはない
<R3.3.31>
「浅野屋」
外から覗くと店内が薄暗く見えたが看板は営業中へと返っており、恐る恐る入店したところ、誰もいないところへ一番のりしてしまったよう。
よりどりみどり、どこへ着こうかと迷ったがカウンターの一番手前、謙虚に一人掛けの椅子に着いてみる。
今日は店頭で見かけたご飯がやりたく、まだ十分に艶のあるショートカットにメイキャップもばっちりなお母さんに恐る恐る「ランチのセット」と注文したところ、「おそばは何にしますか !?」といきなり怒られた ……
しょぼくれて、「もりそば」といった。いや、もうもりそばというよりなかった。
何故ならば、そこにもりそばを注文しなければならないという義務が生じたとともに、そこにもりそばを注文してもよいという権利が、同時に与えられたからだ。
注文を通しに茹で場に向かおうとするお母さんの、その反転の動作が始まった途端 ! もう堪らなくなって「大盛りで」と付け足したことは、通りを隔てて分断された親子の間を今まさに自動車がすり抜けようとしているとき、自動車が近づくほどに不安が膨れ上がり、お母さんからの間の悪い「そこにいなさい !」が発せられた途端、それをトリガーとして堪らずに駆け出し、ドライバーをどきりとさせてしまった子供のようなものだと、自ら苦笑してしまう ……
“もり” @700
“おそば大盛り” @210
“炊き込みご飯” @120
釜の湯が沸騰するまで、手元に見付けた、これは業界の編纂であろうか「神田蕎麦巡り紀行」なる冊子に目を通し、こちらのお店の紹介の冒頭“暖簾をくぐればすぐに~~”を見て振り返れば、その通りに、石臼そば粉挽き挽きマシンが涼し気に佇んでおり、そのアクリルケースには、“2020年度 茨城県境町 常陸秋そば”と半紙にしたためられていたが、そんなこと私にとってはどうでもい~こと(こらっ !)。
そしてそれは突然に ……
舞い降りた瞬間に倖せが約束される料理は少ないが、まさに蕎麦盆の上には豊潤な倖せが重量感をもって揃えられていた ! その約束を完全にギャランティするは、ブロンズダイスの肌のファンデーションとして周到に計量された水っ気を湛えた、この艶やかな細打ち。その瞬間ただひたすらに、躊躇したものの大盛りにした自分を褒めてあげたいと思った
しなやかながら伸びのない、粒状感と艶とを拮抗させるまさにダクロン系を代表する凛々しい日本そばを、ケチらない盛りで千代に八千代に堪能するというこの至福。
盛りの山の崩れと水切れの完全にシンクロする様に、質の良い芸術を見たような、満たされた気分になる。一方の小柱の炊き込みご飯は、無垢な少女のように淡く、或る意味蠱惑ですらあり、そこはかとない罪悪感さえ芽生えてしまうほど。
〆て1,030円の半端なき満足。
これは酒場も含めてとすると、ふだんどうしても“贋”の料理に飼い慣らされている身として、ときどきでもこういった“真”で身を清めることが人間には必要だと痛感しつつ、この誰も引き返すことのできないOne Way Roadを、今度は流れに身をまかせて順行しはじめるボク ……
2021/04/03 更新
2020/06 訪問
浅野屋本店/神田 Supersonic
いつもは乗らない混血自動車のエンヂン(モータ ?)をスタートさせたら、なんかしゃべった ? 「今日は恋人の日です」とか、言った ?
―― やめてくれ永遠のチョンガーに向かって。傷つくから …… ガラス細工なんだから ……
(ガラスって硬度高いけどな)
神田。西から東へと向かう太いOne-wayに車をとめて食べグロ位置検索をかけると、良さげな餃子屋がヒットし、マップに従い足を進める。
夜にはまた雨とのことであったが、午後1時現在、まだ陽射したっぷりではある。私も最近地図を読まなくなったせいで、とりわけ道路と鉄道が斜めにクロスする神田駅周辺は、どこからアプローチするかで自分の位置がまったく掴めなくなるのがいつも歯痒いんだけど、西口商店街に出たら自分をとり戻した。
で、ちょっと左に入ると目当てのお店なんだけど、いきなり食券制のようで、そんなのヤだと(笑)そのまま直進。
―― 今日は天気もいいし ! 久々にあそこのそば屋にしよ~ !
<R2.6.12 神田>
「浅野屋本店」
「もしお嫌でなければ~、向こうの喫煙席のほうがクーラーが効いてますが」
空調機の調子が良くないようでそう提案されたが、特別暑さは感じなかったし、つめたいそばをやることしか頭になかったのでそれは不要と、丁重にお断りさせていただく。
こちらの本日のご飯セットは鶏そぼろご飯。
なのでそれは避けようという気持ちが働き、それでも何かボリウムを満たすものをと探しにかかる。冷やしきつね、たぬきは1,000円。
“かさね”という、蕎麦食いにとっては一つのドリームが目に入ったが、こちらのそれは果たしてどんなやつだろう ……
そんまんま重ねたやつ、変わりそばを重ねたやつ、蒸籠は四角いのか丸いのか、そしてどのくらいの大きさのが、何段重ねなのか etc.
そう考えていたら矢も盾もたまらなくなり、ちょっと高いんじゃないの ? と思ったけどそのまんま注文 ……
“かさね” @1,300
いろいろな思いを巡らせたが、結果それは考えうるもっともシンプルな“かさね”で舞い降りた(笑)。
素のふつうのそばの、2段重ね。しかしそれは私にとって、必要最低限且つ最大限のものとも言えた。早速浅野屋本店と飾られた鞘を抜き去り、無垢の角断面バスウッドをスプリットして構え、切っ先を素早くその盛りの頂点へと加速させれば、わずかに三寸ほどの距離でそれは音速を超えた。
バスウッドの感度はすこぶる良く、今日も摘まんだだけでその“対象”の性格を正確に伝えてきてくれる。
こちらのおそばは細打ちのブロンズダイス。その面もちから強い意志を予感させるものの、実は反発力は強くなく、寧ろ従順が個性という上質のおそばである。
つゆ徳利のふちの薄さ、白さがまた ……
そこからこぼれおちる漆黒のつゆがまた ……
“いろいろな食材をバランスよく摂取しよう !”、という一聞してもっともらしい妄言を嘲り笑うように、ただそばだけにひたすらにまみれる。
このまま死んでもいいと思うくらいに ……
つゆというものは湯で割ってとりわけその素性が白日の下に晒されるが、こちらのそれは、出汁よりかえしの芯が強いものかな ……
老舗として湯とうの湯、ぎんぎんに熱きこと言うまでもなく
―― epilogue ――
社に戻り混血自動車のエンヂンを切ると、運転お疲れ様でした ! 上手に加減速出来ていました ! 的なことをまたクルマがしゃべり、なんでクルマから上から目線でそんなこと言われなきゃいけないのよと、ムカつく !
―― セロテープ貼ってやろうかその口に ! あと、今日が恋人の日って余計なこと決めたの誰 ?
2020/06/13 更新
2018/02 訪問
浅野屋/百円玉さえ返してもらったら
二日酔いというか、素で酔っていた。
背広の下にセーターも着ていないしマフラーも巻いていないことに、家を出てしばらくしてから気がついたんだけど、それでも寒くないくらいに。
それでも昨晩のことは、ぜんぶ覚えてる。
一番覚えていることは、最後まであなたとチュウできなかったこと。昨晩も、あなたとのプラトニックラヴを破壊することができなかったこと ……
<H30.2.8>
心の中では、東京サンケイビルの地階の中華屋で麻婆豆腐をと目論んでいたのだけれど、店の前まで行ってみれば、午後一時をとうに過ぎているというのに、まだ店頭に滔々と待ち客を抱えている。なので兎も角おもてへ出て、今度は神田駅を目指した
「浅野屋本店」
ランチのセットとやると本日の炊き込みご飯が付くんだけど、今日はもう終わってしまったとのこと。もうそれに決めてたんだけどなぁ ……
―― こんなとき、どんな顔していいのかわからない ……
やおらグランドメニュウをひろげる。
お蕎麦をプラス三百円で付けられる丼の揃いものに目がいった。ご飯とそばのレシオは逆転するが、今日はどうしてもご飯気分。玉子丼といきたかったが、丼が本格となるのでおそらく椎茸を織り込んでいるはず、ということを鑑みると注文できず。傍らで (過去の)お姉さんが待っているので、持ち時間は限られた。追い詰められてもう反射的、けっこういっちゃうことを観念しつつ、それのおそば付きを下さいとやった
“天丼” @1,600
“おそば付き” @300
天丼は基本、海老二尾。
に、ししとうと茄子。私は蕎麦好きだが、日本人として、やはり白いご飯が最高だなと思うことが時折あって、且つその頻度が高くなってきていると実感している。でもそれは置いておいて、先ずは (冷たいぶっかけ形式、椀で供された)蕎麦を。
こちらの蕎麦が美味いことは最初っから分かっている。薬味の葱を表面に散らし、今まさに箸を引っ掛けようとするピンポイントに山葵をデコレイトしつつやりすすみ、半分ほど消化してから、指先でチャッキングしている真っ当な割り箸の矛先を、今度は天丼へと向けた
海老は、火の通ってちゃんとその身を白くさせるもの。
ご飯は、美味いが、天丼向けとしてはやや柔らかめか。しかしこのひどい二日酔いの身に、果たしてフルサイズのどんぶりにおそばまで付ける必要があったのかと、この期に及んで考えている自分に、はたと気付く。二日酔いで味も何も分かったもんじゃないのに、1,900円ものお昼ご飯にする必要がどこにあったのかと …… (笑)
とは言え、ここから外税で千円札二枚超えとなろうものなら、ほんとうに、「こんなときどんな顔していいのかわからない」ともなろうが、おばちゃんから百円玉を返してもらえば、何となく心も安らいで …… (笑)
―― ああ、ここから電池切れんだろうな、俺。でもそのあと、夜にかけてまたフェニックスのように復活して。もう自分でも復活しなくていいよお前は、と呆(あき)れるくらいに復活しちゃって、人生その繰り返し ……
2018/02/14 更新
2017/06 訪問
浅野屋/Godspeed
朝方降っていた雨はもう上がっていた。
お昼ご飯を、いつもの司町二丁目のワンウェイロードでと思ったが、さらに脚を進めた。とくに宛てがあってのことでもなく、何の直感も働かぬままに ……
<H29.6.26>
「浅野屋」
午前11時半。BGMは無音。先客は一人。
一番入り口付近のカウンターに謙虚に着いた。花番さんからのいつも通りの、「お決まりになりましたらお声をお掛け下さい」とのお言葉に甘え、調子にのって品書きを広げてみる。おっかけ、お一人様お姉さんが来訪して、花番さんのそのお姉さんへの、先ほどの私に対してと同じ言葉のリフレインが、私の右鼓膜を軽やかに振動させた。
で、やおら花番さんにアイコンタクトで合図を送りつつ注文を告げると、お姉さんも向こうから同時に注文をかぶせてきちゃって。
これがもし全盛期の全日本プロレスのリング上だったなら、天才レフェリー、ジョー樋口さんの後付けのゴングが、今まさに高らかに鳴り響いたことであろう
“かさね” @1,200也。
25°ほどずらして重ねられたせいろう。
子供の頃、お蕎麦でお腹をいっぱいにすることがこの上なく幸せだった。しかし大人になって、これは蕎麦屋のランチメニュウの工夫ということも大きかろうが、丼(ご飯もの)付きのセットに傾倒している自分を見つけてしまった。蕎麦食いとして、それが間違いなく恥ずかしいことだとは直感している。しかし不本意ながら、それも大人になるということなのだと、自分なりに納得してしまってさえいる私もいたのだ。
ところが今日、何故か私は素の蕎麦だけを渇望していた。
理由は分からない。ここのところ立て続け、極くスタンダードなスパゲッティを注文し、その中に想像を絶する“具”を見つけてしまって、心底怖じ気付いているからか (笑)。
その点、蕎麦ならば裏切られる心配はない。
子供の頃からそのことだけを、私は繰り返し繰り返し、この自らの皮膚に擦りこんで生きてきたような気がする
そんなことで私は今にわかに、何か失ったものをとり戻したかのような、そんなちょっと誇らしい気持ちになっていた。
お蕎麦は東京のマシンカット(機械切り)として神々しいまでの様式美を纏った、誇り高きブロンズダイス。
その“ざらり”をつまみ上げる分量は自分の中で決まっており、さらにその“ざらり”をつゆにひたす量も、自分の中で決まっている。というか逆に言えば、私は決まっていることしか出来ない、そんなつまらない人間であるのだろう。
湯とうの湯が徐々に白さを増してきた。
後から入ってきたはずのお姉さんに席を先立たれ、自動的にそこはかとない敗北感が漂う。すべての弦楽器の演奏にはすべからくハイスピードが要求されるべきであるように、蕎麦食いもスピードが命ということを、この皮膚に同時に刻み込んでいる私としたことが ……
2017/07/15 更新
2016/01 訪問
浅野屋/うっすら、後ろめたく
【 平成28年1月/再訪録追記 】
<H28.1.15>
神田の街。
行く手を阻むコンクリのゴルジュの連続。その底で、ランチを終えてオフィスへと還ろうという界隈の方々のうねりが醸し出す緩やかなストリームを、ただ一人遡行した。
出来れば未知の戸を引きたいというのは蛮勇。既知の戸を、安心感を持って引きたいというのは知勇。都会の冷えた空気にさすがの私の野生も少々たじろいだか、今日はほんのちょっとだけ、知勇の打ち勝つ午後となったようである
「浅野屋」
ここ三、四年の間に十回は暖簾を割っていないと思うが、それはこちらを敬遠しているということではなく、お昼ご飯処を探し歩くとき、大抵の場合、私の中の蛮勇、言い換えてフロンティア・スピリッツが勝ってしまうことに拠る。
午後一時過ぎ。
ゆったりと紫煙を燻らす若者。先にOLさん二人組の着く、いつもの入り口付近のカウンターに腰を据えた。お姉さんに、「お決まりになったら声を掛けてください」と宣告されてしまったことを、東京の蕎麦食いとしてひどく恥じた。蕎麦屋に入って反射的に注文出来ないことほど恥ずかしいことはない。これは私も身に沁みて分かっているつもりである。
しかし本日、何かランチ時にだけ用意されるご飯ものを店頭にみつけてしまい、それと何を合わせようかと、私としたことがペースを崩され迷ってしまったのである、とは男として、非常に情けないエクスキューズだが。
―― でもって検討の末に注文したものは、結局いつものもんなんだけど ……
“ざる” @730
“ランチセット (海老・いか他の炊き込みご飯)” @100
結局、“もり”か“ざる”かをもの心ついてから、そして死ぬまで、俺は迷うかも知れない。いや、でもそれが生きるということそのものという気もする。キャンディーズのランか、ピンクレディーのケイか、そのどちらかを男は永遠に迷わねばならぬように。
ご飯は小さなお茶碗にかるく盛られていた。
具は謙虚な配合で、小海老、小さな貝柱(何というのか知らない)、浅蜊、イカ。お家の炊き立てご飯のように熱々なので、淡い味付けながら殊更香りが立ち上り、日本蕎麦の汁(つゆ)の辛さに負けずに拮抗する、非常に質(たち)の良いもの。
こちらの蕎麦は、町場のふつうの「満留賀」、「長寿庵」のそれと比較して、確実に頭二つは抜けていると思っている。「上野藪」と比較して、頭二つほど落ちるくらい。ということは(価格、ボリウム含めて)普段使い出来るお蕎麦屋としては、案外、これはけっこう上位にいるのではなかろうか、と最近思うようになった
まるでコロンバスの肉薄フレームのように(こんなことずっと言ってて、俺はその断面を未だに見たことないんだけど)、口あたりのところの肉薄の、何とも言えぬ絶妙な猪口。
決して、ディテイルに凝っているわけではない。すべてを“考えた上で”揃えれば、必然的にこんな恰好となるのだろう。しかし先ずその“恰好”から考えてしまう店は、これは概ね頓珍漢となるのだが。
ふと目線を感じて顔をあげたら、壁の窪みにひっそりと鎮座ましましていたこけしが、能面のように喜怒哀楽そのすべてに溢れながら、同時にそのすべてを喪失してしまったかのような何とも言えない表情で、じっとこちらを窺っていた。
何も悪いことしてないんだけど、うっすら後ろめたくなるくらいに ……
-------------------------------------------------------------------
このまま彷徨っていても、熱中症になるだけだ……
否、常に万全の状態といえる私の塩分補給では、熱中症の心配はいらないか……
私は、最初から言っている。この世で、喰い過ぎ、及び塩分の捕りすぎによって“即死”する人間はいないのだと
<H24.8.27 神田>
「浅野屋」
“蕎麦屋でビルは建つが、ラーメン屋でビルは建たない”
とは飲食業界の定説だが、創業明治五年と謳うこの店も、ビルの地上階に、割合ひっそりと慎ましく佇んでいた。それが自社ビルかどうかは、知らない。抱えるお客は概ね常連のようで、そういった意味では落ち着きある店である。
冒頭の“二八は外二”を謳い文句にする説明的な品書きを閉じて、店頭のお薦めを注文した。
――既に十八割蕎麦というものを見付けた俺にとって、二八とか十割とか、もう関係ないね。カルロス・トシキではないが、近い将来、百割蕎麦の時代がくるのよ……
“天丼セット” @1,100也。
天丼は、見てのとおりのもの。そのタレ、辛くして甘し。
蕎麦も、見てのとおりだが、一応解説しておこう。このようなブロンズダイス(ざらざら肌)、細打ち、褐色の肌(御前蕎麦は除く)、そんなところが東京の蕎麦の典型で、蕎麦自体はその“形式美”に準じた、まあ、素性の良いものである。“冷たいお蕎麦”といって、ほんとうは汁につけてやる蕎麦を期待していたが、“ぶっかけ”だったことが少々、悔やまれるところだ。この画ではかけ汁(かけつゆ。かけじると読まないで欲しい)を纏っているので、“素”よりも更に濃い色となっている。
\1,100という価格だけ、少々割高な気もしたが、後客への対応をみると、お薦めとはどうも価格的にお薦めということらしく、「今日は天麩羅が安いですから♪」との会話が漏れ聞こえてきた
2016/01/23 更新
久々の神田駅界隈。
もう子供じゃないのに、ところどころに残った水溜まりに映りこむ真っ白な雲と青空のマーブル模様に興味を惹かれ、ずっと地面を見て進むこのぼくは、往き交う人々の目には果たしてどう写っているのだろうか。
そんなこと、知ったことじゃないと自分を励ましながら中央通りを渡り、勢い山手線の高架までくぐってしまった
<R4.8.31>
「浅野屋」
正午を少し過ぎていたかも知れない。
暖簾を割ってカウンターの一番手前に居場所を見つけ、ちょっと迷ったが、お母さんにフルスペックご飯を注文していく自分を止めることが出来なかったのは、私がこのお店を、自分の知る限り最高峰のおそば屋のひとつと認めているからに他ならない。
背では同僚と思しき若い男女に、揃って何らかの冷たいぶっかけが届き、そして私の隣に着いてきた彼は、記憶をたどるように恐る恐る、鱚丼ありますか ? とお母さんに。
私が日本そば屋が好きなのはほかでもない、この人それぞれという圧倒的自由。そして“もりそば”を注文しようが“鴨せいろう”を注文しようが、それが食い手のステイタスとはまったく連動しないという、その圧倒的平等
“もりそば” @700
“おそば大盛り” @210
“今日のご飯/小柱炊き込みご飯” @120
〆て1,030円也。
猪口を蓋する薬味の小皿を外して割り箸を割る、その瞬間のスリルだけにいつまでも生きていたいと願いつつ、山葵を二本のうちの下方の箸に主に移してそばに擦(なす)りざま、完全なる計量を以てつまみあげる。
そこまでは完全ながら、最初から猪口に注がれる艶のあって漆黒、そしてたっぷりのつゆに幻惑されて、どうしてもそばをつゆに落とす加減が狂う。
そんなつゆを纏い過ぎたそばを啜るという最高の贅沢に微睡みつつ、こんな調子でやっていては炊き込みご飯のせっかくの繊細がキャンセルされてしまうではないか ! とハッと我に返り、固執していた蕎麦猪口から指をほどき、小さなご飯茶碗に慌てて持ち替えた
黄金(こがね)あくまでも淡く、箸を入れて頬張った瞬間に迸るこの豊潤な香りはどうだろう !
この淡さのどこに、東京の辛つゆに拮抗する力強さが隠されているというのか ? しかし今そのミステリーを解いている暇などない !
この無限なる自由の享受は、そば切りへの空中操作の没頭という厳しい束縛を以て初めて成るものなのだ !
繊細、且つパワフル。
そんな両者の拮抗はあくまでも喧嘩ではなく、相乗。
すべてが研ぎ澄まされていながらしかし優しいという、この幾重にもかさなる矛盾の同居にいつもたじろぎつつ、その答えは求めていかない。
ただ微睡むのみ