10回
2025/01 訪問
尾張屋 本店/海老呼吸
アウディ・クワットロのステアリングを弄んでる。
このスーパーカーはしかし、ウィンカーを出そうとするとウィンカーが出ずに、ワイパーが狂ったように暴れ出すことだけがちょっといただけないところだと思う。
このクルマの真骨頂であるスキーのジャンプ台を登っていける実力をぜひ試したく浅草通りをきょろきょろして見るも、やっぱり見つからないし、向こうに聳えるスカイツリーには、いくらなんでも登れそうもないし ……
小春日和という言葉を新春使って良いかは知らないが、昨夜の凍てついた空気とはうって変わってぽかぽか陽気の浅草。
社長同行での浅草のお客さんへの年始挨拶ということで、正月っから不純な期待に塗れるボク ……
<2025.1.7>
「尾張屋 本店」
お店のおじさん 「いらっしゃいませ。いつもお世話になってます ♪」
ボク 「社長、どんな使い方してるんですかこの店」
社長 「私が有名人だからじゃないですかぁ ?」
ボク 「また瀬川瑛子と間違えられただけですかね」
目論見通りに浅草ご飯となり、正午を15分ほど過ぎていたと思うが3人で暖簾を割ったらそのまんま着席出来てlucky !
ボクは現在、一旦は順調に成功していた減量が頭打ちとなってしまっているので理想的には従来通り、大盛りでもよいから“ざるそば”を一枚だけ注文するのがベストチョイスなのだが、社長同行ということで気分がデカくなってることには最初から気付いてる
―― そしてさっきっから、カッコ書きの“車えび”という美しい日本語が、ひどく気になってる ……
“上天丼” @3,500也。
自分のお金だったら絶対に注文できないが、人のお金で食べるご飯はタダ酒の如く、非常にうまいはず ! また人のお金だからこそ、私が思うに東京のおそば屋最高峰のこのお店で、潔く“ご飯もの”も注文出来ようというもの。
品書き写真の上ではふつうの天丼は文字通り“どんぶり”だが、こちらの“上”は“お重”でやって来る。
丸より四角が大きいように、丸いどんぶりよりも四角いお重のほうが(エビの尻尾が)大きいの !! と心の中で絶叫しつつオープンセサミさせれば、黄金色の皮を被った海老が、自らのその完璧なプロポーションをとうとう白日の下に晒した !
やはりお重のご飯はうまい。
お重が自身に詰め込まれたものすべてに魔法をかけているのだろうか。それはイタリアであればアモーレというものに間違いないと思うが、浅草においてのそれは、“粋”というものかな ?
目の前で瀬川瑛子が(お前また降格させられるよ !)“上”天ぷらそばをやっている様を、ただぼんやりと見つめてる。
その海老はあきらかに、つゆを呼吸していた。
それに引き換え水中から引きあげられたボクの海老は、苦しんでいるようにも見えないんだけど、どうだろう ?
そういえば海老って、エラ呼吸なのか肺呼吸なのか ?
そんなおバカな考えに微睡みつつ、この立派な海老の尾っぽをコドナに持って行ってあげればさぞや喜ぶだろうとポッケに入れて持ち帰ろうとしたが、油汚れになるなと思ってヤメた
2025/02/08 更新
2024/08 訪問
尾張屋/浅草順行
<2024.8.27>
「尾張屋 本店」
右手の卓は若いお父さんお母さんに小さな姉弟の4人家族で、お母さんと、とりわけきかんぼうの季節の男の子の心理戦が、佳境に差し掛かっているよう。
時刻は午前11時35分。
開店からわずか5分ほどの店内。その一階にもう八割方のお客さんの入りをみれば、暖簾を割ってすぐに着席することが出来た幸運を噛み締めつつ、“例のもの”を自分に負けて大盛りで注文。
その後も新規客が続々と戸を引いてきて、都度「お二階へどうぞ !」 と案内されているが、それだっていつまで持つものかどうか。
そのあたりで男の子がとうとう泣き出せば、それをトリガーとするように予めセットされていた盆に蒸籠がのった
“ざる” @900
“おそば大盛り” @200
男の子をなんとかなだめようとお父さんが奮闘するも、お母さんがまた火に油を注ぐ (笑)。
そんな極上のBGMに聴き惚れながら、猪口に注ぐつゆの分量だけは間違えないようにしないといけない。いや、ここで失敗すると、後工程のすべてがうまくいかなくなるから、とりわけ慎重になるのだ。
そうやってやおら箸の切っ先で、四角く千切られた海苔の隙間を狙っていく。
摘まみあげるそばの分量をその切っ先にのってくる重量だけで正確に計量し、引き上げてみてそれがうまく決まっていればもう、それだけで大満足 ……
一旦落ち着いてみると、このにわかに世界屈指の観光地となってしまった場所で、そうなるはるか前から厳然と佇んでいた熟成の空間が、昨日今日のにわかな未熟をも易々と許容している不思議にふと気づく。
いや、未熟を易々と許容することこそが、熟成ということか。
湯とうの湯の限りない透明度は、穢れを忌み嫌う日本人の神道精神を象徴し、同時に湯の限りない沸騰は、日本人が元来持っていたはずの強力なpassionを象徴しているように思えてならない。
そばを終え、残るうずらを溶いたつゆに湯を注げばタンパク質がたちまち白濁するが、それは一旦飲み切ってしまって、あらためて猪口につゆを注ぎ直す。
最終的には澄んだ湯をやりたいからだが、それを完成させるが為の、最初っからの、つゆの慎重な計量だったわけである
―― それは逆算のようでもあるのだけれど、でもうまくは言えないんだけれど、順行なんだよなぁ ……
「千円ちょうどで大丈夫です」
「……」
「あっ、すみませんこちらが間違えておりました。もりそば大盛りだと思ってしまいました」
千円札一枚と百円玉一つを差し出せば、ランチ割引などあるはずもないのに百円余計だと言われ、でも直ぐ様こっちが間違えてました、と。
きっと永年帳場を守っていたおばあちゃんの亡霊が、船場吉兆の女将さんのように彼の耳元で囁いたのだろう。その霊的腹話術をいつまでもいつまでも愉しんでいたかったが、戸の外で待つお客さんたちの気配に背を押される恰好で、one-wayの出口へ向けて、帳場の横をかろやかにすり抜けた
にわかには、決して醸成されない世界がある
今日、私磯野洋子は、日本初という地下商店街を行ってみました
そこには危険生物が満ち満ちています
助けて ! 川口隊長 !
でも私は美人女優。気を強く持って進みます
そして階段を上がれば
そこには百貨店という名の荘厳な大自然が広がっていました
2024/09/03 更新
2024/01 訪問
尾張屋/走り去る運命のメトロ
年明け早々に発生した羽田空港での旅客機炎上事故について繰り返される報道において、これは意図的な可能性もあると思うがまったく触れらない部分があり、どうにも気になっている。
それは事故最中機内映像の中、女の子だと思うが子供の声での、「早く開けてください!」、「開ければいいじゃないですか !」が、あまりに明瞭な腹式呼吸で、これは日頃からトレーニングを受けている発声ではないか、と察せられたこと
ではなく、そのときの子供の「ドアを開けてください !」に、CAさんが「口をふさいで、姿勢を低くしてください !」と、直接の返答にならないことを繰り返したこと。
営業セミナーのテーマとして“聞く力”というのがよくよくとり沙汰されるが、その緊迫の事故映像を見て私はピンと来たが、そのときCAさんたちは明らかに、逆に日頃から訓練された“聞かない力”を発揮していたのだ !
生死を分けるような緊急時、パニックに陥りかけている乗客を方向修正して、より生存確率の高い方へと導くということは並大抵のことではないと思うが、日ごろの訓練に抜かりなく、そしてまた本番でそれを滞りなく成したCAさんたちを、とりわけ本番に弱く、ちょっとしたことでもでもすぐにへろへろになってしまう私は尊敬してやまない
<2024.1.11>
「尾張屋 本店」
先日の仕事始めの日、神田の「尾張屋」さん本店に行って、同行していた社長の財布から1,850円のかき揚げそばを食べた。
同行社員は高級おそば屋に長けていないのであろうか、おそば大盛りの金額が品書きに入っていないことで、こういったお店は元々高価だから、大盛りは無料サーヴィスなのではないか ? と呟くのを、そんなバナナと聞き流す[注]
注):高級なお店ほどすべてのサーヴィスが高価となり、それに反比例するようにそばの盛りがささやかなものになるのが日本そば屋の常。ということを先ず理解し、且つ、それ以前に“大盛り”さえ拒絶する店もあるが、「尾張屋」さんは大抵どこでも大盛りは出来る、ということを知ってるくらいだって、未だそば通には程遠いんだけどね ……
そして花番さんに大盛り無料ですか ? なんて尋ねちゃって「250円です」と返され、「ぢゃ~いいです」とやったものだから(笑/恥ずかし過ぎるわ !)、社長が「そんなのいいから大盛りにすればいいぢゃない !」となって、ボクのおそばもそれに乗じて、まんまと大盛りになったわけである。
このように、聞き流すということもときにはlucky ! ということを知ったボクだが(これも“聞かない力”の一種かな)、今日も有償ということが分かっている上で、ここ浅草のanother尾張屋にて、大ざるを注文するボク
※ ちなみに大盛りをやらない店の代表選手が、すぐ向こうの「並木藪」さんとなります
“大ざる” @1,100也。
開店して間もなく、並んでいたお客さんが席に収まったくらいのところでの入店であったが、年始でパニクっていた神田尾張屋さんほどではなかったが、気持ち時間が掛かって舞い降りたざるは、気持ち、海苔が少ないかな ……
(このスクエアで存在感のある海苔の量には、ボクとしてはとくにこだわりたい)
兎も角、つゆを猪口に張って箸を割る。
そしてわざとつゆは追加せずに、おそば1/3ほどになったところで満を持してうずらの卵を落としてかんまし、今度はおそばを猪口に全釈放し、うずらのつゆをそばにふんだんに絡ませて、そこでつゆを一旦ぜんぶやり切ってしまうわけだが、その形式美を完成させる為に最初から逆算して張ったつゆの分量がまさに自然とぴったりに収まったときのこの達成感こそ ! そば食い冥利に尽きるというもの !
大繁盛の2階から狭い階段を伝って下りればもう、入りきらないお客さんが列を成している。
帳場にお婆ちゃんの姿は、いつから無いのだろう …… そこまで通い詰めていない自分を恥じつつ、年末から飽和状態をキープし続ける雷門通り、運命のメトロへの入り口まで歩ってく
―― あなたがいると辛すぎる。でもあなた無しでは生きていけない
浅草で日本そばを啜るという、もろに日本人の行動しかとっていないにも拘らず、どうしてそんなカトリーヌ・ドヌーブの声が耳に響くのか ?
そんなこと今検証することもないと思い、黙って運命のメトロ(銀座線)への階段を下りるボク
2024/01/18 更新
2022/12 訪問
尾張屋 本店/You're King of Kings
完璧なる快晴。
直近日に日に、目に見えて観光客をとり戻しつつある浅草の町であったが、とうとう仲見世がオーヴァフローしはじめ、とてもそのstreamにのる気は起きず、ただクロスしてやりすごし、雷門通りに出て右を見て左を見て、そしてもう一度右を見て横断歩道は渡らずに、雷門より西の、本店の暖簾を割った
<R4.12.19>
「尾張屋 本店」
午前11時半。
お店は既に賑やかであったが野郎独り、隅には潜り込めるだろうと楽観していたが、こちらで初めてだと思うが「お二階へどうぞ !」の声が掛かって、二階もあったんだと、不思議な気持ちで階段を上る。
それほど広い空間ではないが、ガラス窓から陽光がいっぱいにとり込まれる明るい店内に閉塞感はない。
それにしても飲食業界の中で日本蕎麦屋だけが、このように若く聡明そうな女子を花番さんとして安定的に確保できるというのは、いったいどういうmechanismに依るものなのであろうか ?
そんなことを、国際そば学者であるこの私こそが率先して世に訴え、飲食業界の人的貧困の改善に寄与できたら良いのだが、それに適う力量のまったく伴っていないこの自分の無力が、そこはかとなく胸に痛む ……
“ざるそば/大盛り” @1,050也
チョコレートパフェという料理を再評価するまで、私の中で世界最高の料理と信じて疑わなかった日本最高峰の“ざる”が舞い降りた !
それはチャンピオンの座を奪われて尚、威風堂々。いや、そんなことをまるで意に介していない、というのがほんとうのところか。
割り箸は、まさか杉 ? チープであることこそが最高ということを完全理解の上で選定された極くsimpleな箸は、その“割れ方”までもが素直で、だからこそ性能的に非の打ちどころもない。
やおら徳利に伏せられた猪口をおもてに返し、そこへ注ぐつゆの計量、薬味の葱また山葵の調整、そしてまたそばに入れる箸の深度計算等、そのすべてが全自動でこなせるくらいにそばには精通していながら、年齢相応の社会貢献がまるで出来ていない自分が、何故こんなときに、でも堪らなく愛おしい ……
そばを3/5ほどやったところで、甘いつゆの中にうずらを釈放させてやる。
そしてその限りなきマイルドの中に、今度はそばを完全に釈放してやってつゆといっしょに啜り切ってしまうという作法には、ザ・ロードウォリアーズのホークが誰に教わったわけでもなく逆モヒカンのヘアスタイルを完成させたように、私も誰に教わったわけでもなく、そしてまた試行錯誤するわけでもなく、実は案外あっさりとたどり着くことが出来たのだ。
逆に考え込んでしまったら、もっと遠回りしなければならなかったかも知れない。
それもこれも、ただひたすらに“きれいなつゆをきれいな湯で割る”、というただ一点の為にあることは言うまでもないが
鷲掴んだ湯とうを、山口百恵さんが最後のステージで置いたマイクのように静かに置いて立ち上がれば、久々の帳場には、お母さんの代わりにお若い女性の姿が
「変わらずに在り続ける為には、変わらなければならない」
これは進化し続けなければ現状維持すらままならないのだ ! ということを指し示す、ヴィスコンティ監督「山猫」劇中のセリフだが、私がそのシーンを覚えていないということは、もう先述させていただいている。
進化し続ける老舗そば屋であるからこそ、湯で割って尚豊潤を保ち続ける変わらない甘いつゆ、そして華奢な細身が嘘のように、しなやかながらも強靭であり続けるそばを、いつまでも出し続けることが出来るのであろう
2022/12/21 更新
2021/07 訪問
尾張屋 本店/そばの鳴りの話
新小岩のお客さんへ、引き上げなければならないものがあった為、クルマで向かって午後一番で無事用事を終える。
蔵前橋通りにパーキング付きのステーキハウスがあることが分かっていたのでそこへ寄ろうとしていたが、路地から出ていこうとすると信号付きの合流で、ぎりぎり平井大橋へ上れた為に、もう葛飾から一気に離脱してしまおうと、総排気量1,475cc、直列4気筒、最高出力109馬力のモンスターに渇を入れる !
(アクセルを踏み込まなければ、平井大橋の上り坂を上っていけなかったというのが事実)
自転車通学の女子高生たちがもう何組も、中川、荒川放水路を連続的にパスするこの長い橋をその脚力、及びはち切れんばかりの若さを頼りに漕いでゆく。
日本で生きていく覚悟を決めた韓国女性でもなかろうに、プリーツのミニスカートを簡単にリフトさせる“スカートの風”をものともせずに ……
<R3.7.15>
「尾張屋 本店」
上野へのOneway、そのコインパーキングにクルマを止める。
晴れ間も垣間見えるが、入道雲に支配された空の下の雷門通り。
晴れ、曇り、雨。雷門通りの三体変化はしかし、そのどれもがよく似合うと思う。
午後1時半くらいだったろうか。
べつに日本そばモードに入っていたというわけではなかったが、こちらが本店だったか支店だか、現時点での私の中での東京そば最高峰のお店の暖簾を割った。一人と告げるとちょうど入り口付近の二人掛けの席が空いており、そこへ誘われる
“大ざる” @1,000也。
正確にスクエアをキープする蕎麦盆。
手前に、徳利にかぶさる猪口、うずらの卵、薬味の小皿。その向こうに蒸籠が納まった途端 ! 圧倒的な形式美が疾走しはじめた !
もりそばのテーブルマナーを教わらずして岡田茉莉子さんの元を去ってしまったことが、こんなとき、今頃悔やまれる。
この荘厳なレイアウトが果たして正確な作法に則ってのことなのかどうかを知らぬままに、図らずも料理専門家として、内外からの絶大なる評価を得るに至ってしまった今頃 ……
依って恥ずかしながら正解は分からないが、そばをやりながら薬味の操作を行う右利きの私のやり方では、薬味のこの位置は適切。
猪口の位置は、 もり一枚の削ぎ落された形式美をやると決めているならば、それは左手にホールドしたままやり切ることとなろうから、どうでもいいと言えばどうでもいいこと !
若い彼が、一人つっかけてきたご婦人に、冷たいとろろそばはこちらですよ、と丁寧に説明しているやりとりが極上のBGMのように囁けば、呼応するようにそこかしこ、パーカッシヴに鳴るそばを啜るsound !
ならば私に与えられた仕事は、その“そばの鳴り”にmelodyを与えること !
ファイナルコンサートをやり切ってマイクをステージの上に返す山口百恵のように、そば湯をやり切って猪口を蕎麦盆に返すぼく。
ふつうのおじさんに戻る決心をして帳場へ向かえば、最近おばあさまの代わりを務められるようになった帳場の若い彼が、しかし最期の一人となっても未だ演奏し続ける覚悟を決めているようで、無我夢中でスマホに、深く、そして大きく、チョーキングヴィブラートをかけ続ける雄姿に、全米が泣いた
―― じゃあ、南米はどうなの ?
2021/07/18 更新
2021/01 訪問
尾張屋 本店/きみたちは海苔と対話したことがあるか ?
―― きみたちがもしも海苔と対話したことがなかったならば、きみたちの人生は、その程度の人生だということだ
「ナニコレ ?」
年末にぽち袋を用意していて、現ナマではいやらしいので、今宵コンビニでお札をQUOカードというのにすり替えて懐中に仕込み、休憩に入ろうというY~ちゃんに、日本最高峰のパン屋である上野松坂屋「アルサスローレン」で仕入れたローストビーフ入りカレーパンとともに持たせる。
何これ ? と不思議そうに休憩室に消えていくY~ちゃんを尻目に、創作活動に勤しむボク ……
やがてY~ちゃんが休憩からあがってくると、いつもよりかは(笑)丁寧にお礼を言ってくるので、頷いてさらに創作活動を続ける体制に入れば、やおらスマホが鳴った。それは休憩所のY~ちゃんからの、
「コンナニデカイモノ !」
「イツモアリガトウネ !」
という、一歩遅れて届いたお礼のLINEだった。
そこで「あっ、Y~ちゃんからLINEが来た !」 と傍らに立つ彼女に告げて、一方のLINEの向こうのY~ちゃんに向けて返信を打ちはじめたら、横に立つY~ちゃんから真顔 ! 「ナンデLINEニカエスノ ? (今この私に)チョクセツイエバイイジャン !」 ……
―― もうちょっとのところまできてるかのなぁ ? このespritが分かってもらえるまで
<R3.1.6>
「尾張屋 本店」
言問通りからひさご通りを抜け、場外馬券売り場から「聚楽」のアーケードを突っ切って兎も角南へと一直線に進んでくれば、当然の如く雷門通りにあたることになる。
時間的なこともあろうが閑散とした街並みを進んで来るうちに、こんなときこそ彼の国の人たちに占拠されてしまって久しいハンバーグ屋さんに行ってみようかとも思ったんだけれど、肝心要の看板に灯が入っていない。
そこで回れ右すればおそば屋さん。
そこへ突っ込めばすべての望みは叶うが、しかしそこに入るには完全に絶望していなければならないという妖のお店。瞬間、その資格を自分に問う間に勝手に中から戸が引かれ、店内の巨大な負圧にとても抗うことが出来ずに一気に最奥まで吸い込まれてしまったことは、言っちゃって私の本望 !
どんぶり専門家として、今日こそはこちらの天丼が食べてみたい気がする。それが初めてとなるかは忘れたけど。
しかし私の遺伝子に古(いにしえ)より組み込まれている遺伝子の設計が、そんなふしだらな白日夢を瞬間的に破壊 ! そうなったらあとはもう、例のsquareなる形式美に操られるままに、それを大きいのでとやることしか出来なかった ……
“大きいざる” @1,000也。
「おおざるで~す ♪」
との符号とともに蒸籠ののっていない薬味とつゆだけの蕎麦盆がやってきて(蕎麦盆という言葉を最近覚えた)、これが“ヌキ”というやつかと一瞬焦るが(嘘です、これがこちらのいつものルーチンです)、おっかけ蕎麦が舞い降りる !
それはいつものことながら、インダストリアルディザインの究極とも言えるスタイリングを魅せつけ(蕎麦はインダストリアル(工業製品)じゃないだろ !)、どこにも隙というものがみつからない。
ふつうで800円、大盛り価格は確認していないが、経験上値上がりしていなければ千円札一枚でぴったりだろう。
そば一枚で千円 !? と訝られる方がいらっしゃるかも知れない。
何を隠そう、私自身もその一人である。さらにもしもいきつけの鉄板焼き屋の用心棒のおじさんに私が一枚千円の蕎麦をやっているということが知られてしまったならば、私は間違いなくそのおじさんに殴り倒されることだろう ……
しかしその時には、その痛みを甘んじて受け止めなければならないと私は覚悟している。
何故ならば、私は足立区民。その用心棒のおじさんは北区民だが、足立区北区の住民が一枚千円のそばをやるということそのものが、もう完全に我々の地域に対する裏切り行為であると、私は分かっているから。
―― だからほんとうは一枚600円までのもりそばしか食えない俺なんだけどごめんなさい !!! またやってしまいました !!(笑) でもそれは人間として当然のことをしたまでです !
先ずうずらを除け、猪口につゆを注いだら蕎麦徳利も除ける。
そしてそばを半分くらいやったところでつゆにうずらを落としてかんませば、そこでそばを猪口にぜんぶ釈放できるくらいにつゆが鈍るので、ならば猪口の中で蕎麦をもうぐるんぐるんして最後はもう、そばとつゆとを一緒に啜り切ってしまうということが、私のここん家でのもりそばルーティン !
そうするとまだ徳利に残った汁を“生(き)のまま”に湯で割らなければならないことだけに(そばをやった後の、そばの香が移ったつゆを使えないことだけに)皺寄せがくるということはもう重々承知なんだけれど、もうそれはいい !
その瞬間が倖せであったならすべからくその瞬間を優先させるべきであって、そしてその瞬間瞬間の積み重ねこそが、人生を“全体的”に充足させることだとは自明の理というもの ! なんだけど……
―― いつもそのことを、おれはこの馬鹿でかいsquareの海苔に問うてる。それで答えが出るわけではないのだけれど、でも今はただ、この海苔との対話に微睡んでいたいボクなのよ ……
2021/01/09 更新
2019/10 訪問
尾張屋 本店/変わらずにあり続けるには
花川戸のお客さんのもとを出たのが午後5時半頃。
技術系で多忙な先方の、いつものことだが世間話を一切介さぬ純粋なる本題だけをメーカの営業とともに伺って小一時間が経過したということは、そうとうに密度の濃い話となっていると思うのだが、高度な客先要望にこちらの“手持ち”が着いていけないということが些か歯痒く、しかしお客さんからも、こちらも漠然と突拍子もないことを要望しているということは重々承知なのだと仰って下されば、こういった摺り合わせもまったく無意味なものでもなかったのかなと、うっすらとした希望的雰囲気の中で打ち合わせを切り上げられるということが、実に不思議なものである
<R1.10.30 夕方の部>
「尾張屋 本店」
未だ時間が早かったので漠然と雷門通りを歩いていたら、無性にこちらのそばが食いたくなる気持ちをとても押さえることが出来なくなって衝動的に暖簾を割ってしまった !
一人と告げると帳場の横へとなり、尻を落としていちおう品書きをひらいたその“ざる”、800円。
子供の頃、お婆ちゃんちでそばの出前を頼むとき、海苔は家でかければいいから“もり”にしなさいとの誘導を、子供ながらに頑なに拒絶していたのは何故だろうと今更考えることがある。
まだ結論は出ていないのだが、(昭和の町場のそば屋がそれをやっていた可能性は限りなく低いと思うが)出前使いをしていたそのそば屋がもりつゆとざるつゆを使い分けていて、ガキながらにそのざるつゆの豊潤なる甘さを無意識に嗅ぎ分けていたか、または、お婆ちゃんちの海苔よりもそば屋の海苔のほうが上質だということを見抜いていたか、或るは ……
“ざる” @800也。
こちらのざるそばは、私の中での現時点でのひとつの極致となろうこと、「上野藪」亡きあと、それが厳然たるものとなりつつある。
そば通の方の目には、この画に明らかに余計なものを二つ見付けられると思う。言わずもがな、それは“海苔”と“うずらの卵”であろう。
実は私も長い間そのように思っており、何故かというと、それらはそばという食べ物の持つ最大の特性であるストゥイック性というものを阻害する異物に他ならない、と浅はかにも思い込んでいたことに依る。
しかし或る地点を超えたとき(それがどんな地点かは自分でも分からないんだけど)、これはどの店にも当て嵌まる話ではないのだが、自分はもりそばよりもざるそばを愛していて、もう自分に嘘をつくのはやめようという心境に達したことは、決して退行などではなく絶対に進化なのだと直感している。
この大振りに手切りされるスクエアの海苔には、それは当然そばを粋に啜るということを全力で阻害しにかかってくるのだが、上手くは言えないけど、完成されたものを敢えて破壊するという美学がある
夢中で啜る余りにうずらの卵を置き去りにしていることに、最後の一口で気付く。
猪口にわずかとなったつゆを、注ぎ足さずにうずらの卵をそこへ落とし、かんましてから、蒸籠に残ったそばを切れっ端までもすべて猪口に溺れさせてつゆと一緒にそばを啜り切り、そしてつゆ徳利からあらたなつゆを猪口に注ぎ、その朱の湯とうの限りなく澄んで限りなく熱き湯で割れば、そここそが楽園 ……
これは私の願望だが、そば切りというものは日本を代表する食べ物として日本人、その中でもとりわけ大衆の気質、佇まいというものがありのままに表現されたものであって欲しく。そしてそれがどんなものかといえば、あくまでも素朴でありつつ、且つ限りなき芳醇、といったことではなかろうか。
素朴と芳醇という相反するもの同士の危うい拮抗。引き算という考え方ととりわけ親和性の高いそばという食の、すべて削ぎ落とされたところからの敢えての足し算。帳場を守ったいつものお婆さまも今宵、夕方からだからか若いお姉さんへと変化をみせて ……
「変わらずにあり続けるには、変わらなければならない」
ルキーノ・ヴィスコンティ監督「山猫」の中でのアラン・ドロンの科白だと言うが、恥ずかしながらその名画を私は未だ観ていない
2019/11/04 更新
2019/05 訪問
尾張屋/うずらと海苔とおばあちゃん
浅草は台東区民会館での社交ダンス教室(嘘)が終わって外へ出てみれば、陽は低空飛行ながらもまだ街のそこかしこ、隅々までを照らし続けている。
まだ時間が早いので例の上野、浅草間を東西に結ぶワンウェイロードを利用し、徒歩での上野入りを目論んでるんだけど、その前に果たしておかなければもう収まりのつかないことがあって、一時的に雷門通り、即ち南へ逸れた進路をとる。
先ずは支店の前に立って、そこはシャッターが閉まったまんま。となると自動的にもう一方となる。本店が営っているとの貼り紙そのとおりに、徒歩3分というのがほんとうかどうかを確かめる意味も籠めて(笑)、本店へと向かう
―― 雷門通りを野郎独り巡航中。君といた季節、君をlostした春 ……
「尾張屋」
引き戸を引いて間髪を容れずに「いらっしゃいませ ! どうぞこちらへ」と即座に促されることすら希有となった、チパングという名の島国に蔓延る飲食店群。
その中で日本的且つ庶民的接客の最後の牙城と成り得る唯一の希望こそが、この“日本蕎麦屋”という世界となろうか。マスコミが和民の社長を鳴り物入りで引っ張りだこにしていた時代、私はその和民を拠り所としていた客の一人なんだけど、単なる一客としてのその没落の実感とは“落ちるべくして落ちた”というのが、やはりその偽らざる実感である。
そのメカニズムについてはここでは言及しないけど ……
そして接客という意味においてそれらのすべてが最高次元で凝縮された店の典型が、こちらであろう。
いや、そば屋の花番さんで恐ろしく気の回る、それこそ頭の後ろに目がついてるんじゃないだろうかって訝せられるおばちゃんたちは実際時折見かけるし、そういう方々の重要性ったらないって分かってるんだけど、こちらのお店は加えてチームプレイが完成されているということが凄い !
「ざるそば/大盛り」 @1,000也。
ヴィジュアル的にはその中心であるうずらの卵がだんとつに映えているが、回りのものが、例えばこの徳利にかぶせられた猪口のわずから崩された角度さえも計算づくのものであり、そしてばくっとした蕎麦ともども、またパリッとしたスクエアの海苔ともども、尋常じゃなくフォトジェニックであるからこそ、はじめてこのような完成された画になるということを、我々はもう少し意識したほうが良いと思う。
これは見るものすべて、そのうわべしか目に入らない者たちにとって、例えばキャンディーズを見たとき、なんだ ! ランだけが美人なんじゃないか ! とついつい短絡しがちなんだけど、実はミキ、スーという途轍もなく魅力的な個性が脇から支えているからこそそれが成り立つのだということに、大人になったなら、そろそろ気付かきゃダメだろうということを私は言っている。
箸を入れる瞬間、食い手はわずかに緊張を強いられるが、それは敢えて喉越し無視の大ぶりな四角い海苔が直ぐ様ドロップさせてくれる。
大盛りとやってしまったことを後悔はしていない。何故ならば、愛することは、けっして後悔しないことだから ……
(好きだなぁ俺、この諺)
そばが半分を切ったところで、満を持してうずらの卵を蕎麦猪口にくれてやる。
元来それほどスパルタンなつゆではないんだけれど、それでも江戸汁の形式美を守るつゆが、瞬間、柔和な表情を魅せてくれるという至極の変化を愉しむ為に ……
このことは、例えば松坂慶子さんという稀代の美人女優が、でもプライドが高くってなんかとっつきにくい人なんだろうなと先回りしちゃって緊張していたら、ある瞬間から途端に庶民的な笑顔をみせてくれて何かホッとした、という感覚とまったく同様だと思う。
帳場のおばあちゃんに千円札一枚。
そうだ、いいこと思いついた ! 蕎麦一枚の一人客にもまったく差別なく丁寧なありがとうを返してくれるこのおばあちゃんの爪の垢を飲ませたい奴リストを、今度Lotus 1-2-3でつくってやろう !! 思い立ったときにいつでも発表できるように !
―― そしてロータス・アプローチでデータベース化し、お店屋さんのダメ人間を徹底的に分析、客観的に(それお前の主観だけだろ !)ダメ人間大賞を選出して、見事大賞に選ばれた者には、今のおばちゃんになったキャロライン洋子に無理矢理チュウさせてやるのよ !
2019/05/22 更新
2013/03 訪問
雷門通り 尾張屋/ナロウぎりぎり
<H26.5.12 浅草>
薄曇りを易々と突き破って届く陽光。
雷門通りが、まさに雷門通りらしく情緒的に映えていた。気持ち、人通りが少ないようだが、私にはその原因は分からない。これが黄金週間の反動というものであろうか。
いつものように食通街からアプローチし、雷門通りから首をちょこんと出したところ、翻る暖簾をみつけて反射的に戸を引いてしまった。もともと、今日の浅草は人出の落ち着きということもあってか、何故かのんびりとした雰囲気を纏っていたが、帳場のお婆ちゃんの小さく不動の構えが、この空間の時の流れを、更に緩やかに減速させていた
「尾張屋 本店」
お茶が差し出されてからさえ、柄にもなく、ひどく迷った。
まさか、この期に及んで自分が蕎麦屋で注文を迷う人間とは……。しかし人間誰でも、魔がさすということもあるだろう。そう思って、自分を慰めた。精神がセルフディフェンスの構えになっているということが、少々癪だったが。
花番さんが私の迷いを正確に察知して、私から少し距離をおいた。隣の卓に供されようとしているどんぶりから海老の尻尾が威勢良く二尾、天を突くように派手に飛び出しているのが見えた瞬間、私は決めた。
「天せいろください!」
同時に若き男女二名づつ、都合四名のパーティが入店。私の向かいの席に着いた。男子は意図的にそうしたのであろうか紳士的に女子二名を上席、壁側へと着座させ、自分たちは手前の椅子を引いた。
向かって右側の女の子が尋常でなく可愛く、見ないように見ないように自分に言い聞かせ続けても、永遠に凝視し続けてしまっていた。
気付けば、大きな漆黒の瞳を両側からサポートする戯れなき白目に、もう恋をしていた
“天せいろ” @1,000也
「てんぷらよは~い!」
花番さんの声が通った。
向かいの若き四人組は、揃ってあったかい天ぷらそばにするようである。それは果たして日本人の美徳か、はたまた主体性の欠如か。同行者がいても、他者の注文との協調など露も思わぬ私が、しかし何故か今この瞬間だけは、そんな自分を省(かえり)みて、少々恥じた。
やがて花番さんが、空のお盆に天ぷらと蒸籠を、それぞれが在るべき場所に納めてくれた。
天せいろうをこの店で注文するのは、これで二度目か。蕎麦の盛りがいつもより良心的な気がするのは、気のせいか。手前で海老が、まるで鬼才ブライアン・デ・パルマの映画に登場する美しきバラバラ遺体のように、小気味の良いくらい気持ちよくバラバラとなっていた。こんなにも爽快感のあるバラバラ殺人というのも、ちょっとほかにないだろう。
しかし私は、デ・パルマ映画のように、この美しき遺体に恋焦がれはしない。何故なら、目の前に横たわるそれは美女ではなく、海老だからだ
余談だが、私は冷たい天ぷら蕎麦(所謂天ざる、天せいろうだが)をやる時(といっても滅多にそれをやらないが)、蕎麦つゆとは別に天つゆを貰うことが多い。大抵の蕎麦屋はその我儘に快く応えて下さるが、こちらの店でそうやってどうなるかは、ちょっと分からない。
ちょっと、おばちゃん達が怖そうな気がして……
そしてこれも全くの余談ながら、向こう岸の可愛い女の子の蕎麦の喰い方がちゃんとしていて、ひどく救われた気持ちになった。蕎麦を途中で歯でちぎってぶつぶつと丼にリリースする女性の姿を見るたびに、そうやっているのが例えどんなに美人でも、どんなに可愛い娘でも、一瞬で興醒めしてしまうというメカニズムを、恥ずかしながら、私は未だ解明出来ていないのだが……
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<H25.3.7 浅草>
コートは必要なかった。
金曜、午前十一時半過ぎ、浅草。日本屈指の観光地をもってして、今日は何故だか幾分人通りが疎らに感じられたが、老舗蕎麦屋の戸を引いて、その印象変わらず。人差し指を一本立てただけで、野郎独り全く違和感を覚えぬところへ腰を据えることが出来た。
「尾張屋」
どちらが本店で、どちらが支店かは知らない。
雷門より西のほうの店である。こちらへの訪問は二度目、ないしは三度目だと思うが、内容を整理して記憶していないので、これからでてくる蕎麦への印象は、初めてのそれとなる筈である
“大ざる” @800也。
薬味と汁だけの“空”の盆をもってこられて、何の不信も覚えないのは一体何故であろうか、もし外国人であったなら、これは狼狽えるに値することなのではないか、そんなことを今更ながら考えた。器に盛られて五秒十秒の世界で活きる死ぬの領域の話となる食べ物が、果たしてこの世にどれほどあろうか。そして常に、そんなどうでもよい考えを遮断するかのように一直線にせいろうが向かってきて、目の前で“空”の部分にぴったりと、或いははみ出しつつ収まるわけである
東京人であれば、その流れに些かも奇妙を覚えることは無い筈であろう
供された蕎麦の、そのぎりぎりの細さに暫し見惚れた。
大降りに、四角く千切られた海苔が眩しかった。これはつるりと喉越されることを頑なに拒む、強固な意志の現れか。立ち向かうようにこちらも問答無用に摘みあげ、好きなだけ汁に落っことして啜り上げてやった。
話は前後するが、汁徳利の口は妬けに窄まって(すぼまって)いて、逆に蕎麦猪口は口広くしてテーパーもそれほどついていない、東京の蕎麦猪口として、大容量と言ってよいものである。そして添えられる大根おろし、またうずらの卵諸々、その全てが巧妙な仕掛けであることに気付きながら、無防備にその罠に掛かる、それこそが形式美というものであろう
実は、それほど期待していなかった。
観光地の只中の完全なる奔流を往く老舗蕎麦屋のイメイジが、自覚無きままに、私の中でネガ側で固着していたのである。その感覚のまま、この辺りの食事処新規開拓に行き詰まり、単にブログ、リポート用素材と割り切って暖簾を割ったはいいが、供された蕎麦から発揮される、私のそのいかがわしさを見透かしたように濡れ光る純粋性に、素直に打ちのめされた。
あくまでもナロウに引き締まる蕎麦。どこまでも澄んで優しい汁。頑なに頑固な海苔。万能の三本脚“トリスキール”はここでもまた誇らしく完成されていたのである。
補足であるが、白濁を一切排した透明な湯も、時流に迎合しないというか、時流意に介さずというか、兎も角立派であった
ところで、私が丁度蕎麦をやりはじめたところ、隣に、その言葉から関西方面の方達と思しき親子連れが着いた。親子連れといっても、いい大人の娘さんと、その両親である。関西人が東京の蕎麦をどうやるのか非常に興味深かったので、茶を啜ってその親子の蕎麦がでてくるのを待った。無論、混みあってくりゃすぐ席を立つつもりで。
「これをこう入れればいいんやな……」
考えながら、お父さんが徳利から猪口に汁を注いだ。娘さんも同様、考えたわりに、潔く一気に全部注いじゃうようだ。お父さんは蕎麦を多めに摘んで、猪口に一度そっくり釈放してしまい、娘さんは、それはやらずに摘んだままひき上げた。
「固めでいいな……」
茹で加減が固めで美味いということらしい。優しい汁に偶然救われ、九死に一生を得たことなどまさか気付いていないであろう。で、やっぱ味覚なんか、全国共通なんだろうな。ひとまず納得、同時に何故か、幾ばくかの安心に包まれながら席を立つことができた。
最後に帳場のお婆ちゃんの微笑みに釣られ、“ごちそうさま”なんて、やりつけないことやっちゃったよ、俺……
2014/05/24 更新
ママのナポリタンが無性に食べたくなって、多国籍軍を突っ切り食通街へと入った。
いつものオレンヂの看板は、ちゃんと出ていた。が、ガラス窓のブラインド越しに人の気配無く、ドアの把手に手をかけてびくともせず
―― 中で孤独死していなければいいけど ……
という実際いつ起こっても不思議の無い不安を拭い切れぬまま(こらっ !)、あきらめて雷門通りに身を委ねてみることに
<2025.4.21>
「尾張屋 本店」
戸を引くと運良く端っこの二人掛けの卓が空いていた。
腰を据えるなりいつものものを注文したが、もう堪らなくなって「大盛りで」、とやってしまったことに後悔などしない。
「愛することは、けっして後悔しないこと」
そうアリ・マックグローも言っていた
“ざる/大盛り” @1,100也。
或る意味での日の丸構図と言ったら良いか、そんな小津安二郎的なものと明らかに同じ領域にあるこの風景が舞い降りて、胸が昂らない日本人がどこにいようか。
久々の再会に胸躍らせつつ、徳利から猪口を外してつゆを少しだけ注ぎ、無垢の箸をsplitして、そのtipにそばを引っ掛けるところまでは良い。
そこからそばの尾を、案外大胆に猪口に堕とすことが出来るかどうか、そこに東京者としての力量が試されるような気がする
引き算の美学が“もり”だとすれば、“ざる”はそこまで到達していないから無粋。ととらまえる向きがあるが、それは違う。
一旦引き算を完成させてそこから足していったもの、言い換えて、完成形を敢えて崩したものが“ざる”であるのだが、それは例えていえば完全に美しい篠ひろ子さんが、しかし口元にほくろを備えることに依り、図形としてのシンメトリックはそこで破壊されるが、言わば完全が崩されるが、その“崩し”が逆に美しさをより激しくsparkさせる !
ということとまったく同じメカニズムなのである
「悪いわねぇ」
夫婦でみえた年配の奥様から発せられた、一万円札を出してそんな艶のある東京弁のBGMと、湯とうから透明に滾(たぎ)る湯の映像美とが絶妙にシンクロしてゆく午後の雷門通り
あくまでも細いそばと、あくまでも甘く辛いつゆ
ふと、今はもういない帳場のおばあちゃんを探して、視線を空中に這わせてしまうボク