29回
2019/01 訪問
宮城野/俺のひやこん
【H31.1.5/某鉄板焼き屋にて】
私 「うめえ ! 明太子焼きうどん !」
Sちゃん 「おいしいね ♪」
私 「でもこれは明太子が美味しいんであって、ママの料理の腕がいいからじゃないからね」
目の前でまだなんか焼いてるママ 「……」(無言で怒り沸騰中/笑)
この正月連休、あと本日一日を残してはいるけど、気のおけない奴らとの野郎飲み2回、女子大生とのお食事会2回が織り込まれ、私としては、まあ充実した連休となったと思う。
我ながら、人恋しさの充足と孤独の謳歌をうまくヴァランスさせることができたかなと、そんなふうに一年に一度くらい自画自賛してやらなきゃ、人生やってけない ……
<H31.1.6>
「宮城野」
午前11時半ジャスト。
にして既に数組のお客さんが入っているので、こちらの昼の部は、というか通し営業だけど、午前11時からはじまるのではなかろうか。そして今回初めて喫煙席のほうに通されたが、これはお昼時間は全席禁煙ということだからであろう。
向こうにはお母さんと小さな女の子。
とんがらしの容器を興味津々いじくっている姿がなんとも可愛らしい。まずお母さんにせいろう、ということはつめたいおそばが届き、それを子供のおそばが来るまでじっと待つお母さんなんだけど、のびちゃうから早く手をつければいいのにって、見てるこっちが無駄にハラハラしてしまうのが、俺の悪いクセ(笑)
“金色” @918也。
「おねがいします ! ひやこんです !」
女の子が私の“ひやこん”を茹で場に通してくれる。
こないだ食べたばかりだったけど、自分に嘘はつけなかった。束の間でさえもその離ればなれを許容できない恋人同士のように、私たちはその再会を喜びあった。とくに昆布(なんども言うけど、こんぶじゃなくてこぶね !)とお揚げが、私との再会を待ち望んでくれていたようなので、そのあたりからそばとの口中調味をはかりつつ ……
余談なんだけど29日は王子の蕎麦屋、で、本日30日はこちら。
その辺りで一応、私の蕎麦はそれで年内食い納めかと思ったんだけど、はからずもこの翌日の大晦日にまた池袋に出て来てしまい、もうそうなったらほんとうの年越しそば食ってやろうかとまたまたこちらの階段を上ってみたんだけど、さすがに、待ち客がいて入れなかったわよ。当たり前だけど。
―― でもその日の他の多くのお蕎麦屋さんのように、もうなりふりかまわず店頭に買い物のそば並べて商売に走ることなく、その姿勢はほんとうに立派だと思いました
2020/07/16 更新
2018/12 訪問
宮城野/満足から恍惚へ
池袋。野口五郎交差点付近(ほんとは東口五差路交差点だけど)。
この夥しい数の愚かな人間どもは、いったいどこから沸いてきたのであろうか。突き刺す空気は尖った冷たさを放っていたが、ウエアリングが完璧に近い為、身体に堪えてくるまでにはまったく至っていない。
時刻は午後4時を回っている。
年末年始休暇に入り、一瞬にして二日をダメにした(笑)。原因は言うまでもなく酒である。飲んでいるときには調子が良いんだけど、ともすると次の日一日をまるまるダメにしてしまうというが酒の恐ろしいところだが、その恐ろしさを学習し、ある程度のところで切り上げるという技術を習得するには、それには人生はあまりにも短く ……
<H30.12.30>
「宮城野」
「金色(こんじき)ください。おそば大盛りで」
「はい。つめたい方でよろしかったですか ?」
「はい」
「おそばでよろしかったですか ?」
「はい」
「それでは金色のつめたいほう、おそば大盛りでよろしかったですね ?」
―― アナザー・カッターガール登場だわ。その上かなりくどいし(笑)
“金色” @918
“おそば大盛り” @324
おそばが届いてから、ああ ! つゆを多めにもらうの忘れたと思い出すが、まあ、足りなかったら途中で追加してもらえばいいかと、そのまま食べはじめる。
実際甘辛く炊かれた昆布、油揚げを、へんな話そばと口中調味していけば(そばの食い方としてそれもどうかと思うけど/笑)、別段の味の不足は感じない。こちらはふだん、私としては完全に“酒前”としての利用だったので、おそばの大盛りを注文することは滅多になかったんだけど、今日は、まあこれから飲みはじめることに変わりは無いんだけど、お昼ご飯抜きだったのでそのくらいは赦されるだろうと思って。
いつも通りに美味しいおそば。
ただでさえこちらのそばの盛りはケチっていないが、さらに大盛りにしているので尋常じゃない満足感があり、それがもはや恍惚感へと昇華してゆく。
―― つめたいそばでよろし“かった”です。大盛りでよろし“かった”です ♪
食事を終えて帳場へと向かう。
その直前に年嵩のご夫婦が例の重い戸を出られて開けっ放し、目の前でお父さんがお母さんから、戸を閉めなさい ! と怒られた(笑)。俺がお釣を手渡されるまでもうちょっとであったので、お父さんはそれを見越して閉めずに去ろうとしたんだと思うと、ぜんぜん悪いことしてないのにちょっと後ろめたくなる。
で、俺の第二の故郷でもある西武池袋の二階ハンケチ売り場へ一直線に向かい、Eちゃんの誕生日プレゼントにと2枚、来年の干支である猪が刺繍されたやつを自分勝手なセンスで色違い(色気違いではない)調達し、ラッピングしてもらって準備万端 ! 国鉄赤羽線にて十条駅を下り、いつものカウンターへ。
そこに滞りなくSちゃんとEちゃんの顔を見つけて、いつも通りに何も言わずに目の前に突きだされた限界ギリギリとばっ口まで注がれたウィスキィグラスにあごを突き出して口を持っていき、日本酒飲みしつつ、やっと一息ついたところで ……
―― ああ、今日までは下の鉄板焼き屋も営ってることだし何とか間がもったけど、問題は明日からだな ……。なんて明日から始まるであろう極限の孤独の何日間かをそこはかとなく恐怖してみたりして ……
2019/01/03 更新
2018/08 訪問
宮城野/その重さの向こうに
久々、二本立てをフルに堪能したあとにやる蕎麦はまた格別の味がするだろうと思って、西口散歩からわざわざ東口に還ってきた。
途中、まだ陽も明るいうちから、若いカップルの彼氏が咥え煙草で目の前を歩いてゆくが、何か正々堂々としたものが感じられない。当たり前だけど (笑)。
私は酒飲みなので、日常生活の大半を過ごす(笑)酒場に煙草の煙はつきものと思って生きてきたし、当然煙草の煙は不快なんだけど、でもそれが当たり前のものとして今までやってきた。しかし図らずも世の中がこんな風に勝手に快適になってきちゃったというのも、こういったマナーの悪い人たちのおかげにほかならず、これには皮肉でも何でもなくて、こういう頭の悪い人たちには素直に感謝するべきだと思う ……
「宮城野」
今日はこないだ出来なかった、温かくお餅ののってるやつでいこうと目論んできたんだけど、そして空調の効きもけっこう調子良いってことは直ぐ様分かったんだけど、でも品書きに目を通しはじめちゃうと、やっぱりこの季節、温かい蕎麦というのもちょっと …… となっちゃって。
それは“夏限定”というのの中から見つけた。
夏限定なので冷たいお蕎麦なのだろう、またこちらの得意技として、それは“ぶっかけ式”なのだろうと見当を付け、最奥に立つ女の子に挙手して注文を告げる。確認してやはりぶっかけだというので、つゆを多めにしてもらうことは、もはや常套手段。
またこの若いアルバイトと思しき女の子は、非常に良く気が付く。同じポジションに立っていてもお客に注意を向けているのと向けていないのでは、このように雲泥の差が出ると思う。入店時に、重い戸を閉める為に後ろ向きになっている私の背中に向かって「お一人様ですか ?」とやらずに、正面を向き直すまでちゃんと待っていてくれたことも、その時点で既にそれを証明してたけどね ♪
“明太子” @1,080也。
日本蕎麦に明太子 ! というのも、人生これが初めてだと思う。
大根おろしの上に明太子、茗荷と大葉がそれを補強していた (それは品書きで見えていたこと)。正直大根おろし、茗荷、大葉は、蕎麦をやるとき、どちらかと言えばそれをエネミー(敵)と私はとらえているのだが、そこへ“明太子”という異質が投入されたならば、そんな従来の認識などあっさりと捨て去るのが、科学者として当然の構えであろう。
今日の蕎麦は、いつもより若干太め。
別の職人さんが打ったものであろうか。あるいは蕎麦粉やその日の環境(湿度なり温度なり)によって打ち方を変えているのだとしたら凄いことだと思うが、正直それはないかな、とも思ってる(笑)。
最初は繊細にいこうと思い、ちょっとづつ大葉や茗荷をあわせてやっていったんだけど、そのうちに、結局ぜんぶぐちゃぐちゃにかんましてやった。
私だってたまには、美しいもの、清いものを穢すことによってのみ得られる背徳感というものに浸りたかったから ……
やはりお一人様のお母さんが立ち上がるのに気付き、私もそれに呼応して立ち上がる。
何故ならば、そのほうがレジに回った女の子に面倒をかけないだろうから。お母さんは私が後ろについていることに気付き、戸は開けたまま残して階段を下りてゆく。それで私も開ける手間が省ける。気のつく女の子が、私の手のひらを包み込むようなかたちで十円玉をふたつ返してくれた。
私にはおもてへ出て、ふたたびこの重い戸を閉めなければならないという儀式が残される。
―― いや、男の力で勢い叩きつけちゃうのは簡単なのよ。でもそれを静かに、ということに気をつかっちゃう。力を加えたらその分だけ、それを抑える力を裏に忍ばせてとかなきゃならない、ということがね ♪
2018/09/02 更新
2018/08 訪問
宮城野/お餅は冷やしは出来ない、はず
布団を畳んだのが午後四時を過ぎていた。
こんな調子で夏休みの一週間をまた無駄にするのかと思うと、我ながら情けなさと後ろめたさに苛まれるが、このサイクルから脱出する術を未だ知らぬ私である。
一昨日、愛用のちびっ子ワープロの底に付いていた、細くて 20mm程度の滑り止めゴム三つのうちの一つを脱落させて無くしてしまった。
マイコンで調べると、ちゃんと製造メーカの通販サイトから正式に購入出来るようだが、いちいち面倒な気がして、東急ハンズに何か代替になるものはないかと、池袋まで出てきた次第
<H30.8.12>
「宮城野」
いつものように重い戸を滑らせて、舞い込む暖簾を巻き込まないようにふたたび閉じようと難儀しているところへおかっぱのお姉さんがいつものように、間髪を入れず「お一人様ですか ?」とやってきて、背を向けたまんま「はい !」とやるのも何とも抵抗があるし、もう応えるのをやめにした。
何故ならば、一人で入ってきて一所懸命戸を閉めてる時点で、ふつうに考えれば一人だろうと分かりそうなものだから。
午後六時十五分。
先客は見える範囲で二組、都合六名。天麩羅とお餅の入ってる何とかっていうのを冷やしで出来ますか ? と聞いたらそれは出来ないというので (確かに、よく考えたらお餅が固くなっちゃうからか)、お姉さんの提案に従い、お餅の入ってないやつにすることに
“中吉” @1,026也。
海老の天麩羅と大根おろしと山菜と、あと細くて甘辛く炊いた昆布がのってる。
冷たいのはぶっかけになるだろうと予測が付いていて、且つそのつゆは徳利で別に付いてきて、そしてそのつゆの量が私にとっては若干控えめということがわかっていたので、つゆを多めにして欲しい旨お姉さんにお願いしてあった。
とんがらしの器、またつゆ徳利の朱がライティングに魅力的に映えていることに、自分の不甲斐なさから今日をまる一日潰してしまったことも忘れ、満足に浸る。
つゆ徳利のつゆを、最初っから乱暴に、すべてどんぶりに注ぎきる。時代に生まれ、時代を生きた男として、それ以外の選択は有り得なかったから。
そしてどうやって食べようかとほんの一瞬だけ迷ったんだけど、ぜんぶごちゃ混ぜにかんました。足立に生まれ、足立を生きた男として ……
―― でも本籍北区になってんだよなぁ ……
今日はちょっと蕎麦の“冷やし”が甘いかなと思ったけど、いつもどおりに美味しいお蕎麦。
海老の見た目は、その色合い、風合いは浅草の燻し銀のところが出してくるのに比べたら、ちょっと垢抜けてない気もするけど、この値段にして、でも熱が入ってちゃんと身の白くなる海老が使われいた。
冷たいお茶のお替わりももらって、満足気に階段を下りる。
私はふだん食品サンプルに異常に固執するタイプではないが、そこに最初注文しようとした“お餅の入ってるヤツ”を見つけ、ああ、やっぱり美味そうに見える ! そして今日の席だったら、空調のドラフトももろに被る席だったんで、温かい蕎麦でも大丈夫だったろうなぁと、女々しく後ろ髪引かれながら東急ハンズを目指した
そして今日買うつもりも無い鞄売り場を先ずうろつきながら、鞄っていうのも、ちょっと大きくても小っちゃくても嫌なもので (これが私だけの特異な性格に拠るものかは知らないが)、でもなっかなかどんぴしゃのサイズがないんだよなぁ、なんて余計な事を悩みつつ、やっと“ゴム売り場”に (笑/なんかこう言うと避妊具売り場みたいだな)。
でいろいろ物色しつつ、シートサイズじゃ大きすぎるしなぁ~と悩んでいると、1mm厚の80*80くらいのが 130円くらいで売ってたんで、迷わずそれを掴んでレジへとまわった。
―― あとはくっついてくれるかだな、瞬間接着剤。なんて、俺はいつまでこんな中学生みたいなこと続けてるんだよ ! さっきだって田宮の工作シリーズみたいなキャタピラで走るやつ売ってんの見付けて、欲しくて欲しくて堪らなくなっちゃって。何かちっちゃなアームみたいなの付いてて、それにひどく心を揺さぶられたわ (笑)
2018/08/16 更新
2018/06 訪問
宮城野/それだけが誇り
劇場内に明かりが灯り、私はちょっと、扇子の袋をどこへやったんだろう、なんて暫し立ち上がれずにいたところ、背はそれほどではないんだけどスキンヘッドに筋骨隆々、それを脇の大きくカットされたノースリーヴでこれ見よがしに覗かせる Gay のおじさんが、他の席ががら空きにも関わらず、それとなく私の隣に着いてきた (笑)。
―― 俺は人生こういうことばっかなんで、かなりの距離から、あのおじさんきっとこっち来るなって、もう予測出来てたけどね ♪ (笑)
とくに気にしていないのは、二本立て、入替え無しの劇場なんだけど私はこれで帰るので、次の回の時間をそのおじさんと共有することはないからなのだが、でもこういうの、真剣に映画観に来ようと思ってお金払って入場してきてる人に誰彼かまわずアタックかけられちゃったら、堪ったもんじゃないよなぁ ……。上映中の席替えっつ~のも、なんとも嫌なもんだろうし。よっぽど劇場の人にひと言注意喚起してあげようとも思ったんだけど、そういうのも苦手なんだよなぁ ……
―― でも俺も、「怒り」の綾野剛みたいなのがきたら黙ってち○こ触らせたんだろうけどね ♪ わざわざ一度観た映画もう一回観てでも (ないない !)
<H30.6.30/映画鑑賞後>
「宮城野」
午後六時。
まだ早い時間なのに珍しく数組のお客が入っている。奥での宴会も宴たけなわのようだが、正直、これはちょっと五月蠅かった。で、いつものことながら飲み物メニュウは横に除け、おもむろにおそばの品書きに目を通しはじめる。
―― まあそれに目を通しはじめた時点で、もう自分自身覚悟は決めてるんだけどね。今日はふつうの“せいろう”じゃ済まないなって ……
で、お姉さんに注文を告げると、冷たいお茶と、温かいお茶と、そして冷たいお冷やとどれがよろしいですか ? と。
―― だんだん増えてきたなぁ~ (笑)
“(冷たい)納豆” @918也。
例によって、最初っから徳利のつゆはすべてまわしてしまう。
で、それでもやっぱ物足りないので、「つゆをもうちょっと」と、これはちゃっかりもらっちゃえばいい。蕎麦つゆ幾らになります ! なんて野暮な店じゃないんで。
細い昆布とワカメと納豆を、ただひたすらにかんました。その行為に別段誇りを持つこともないけど、とりたてて背徳感を覚えることもない。ただ必要な行程をたんたんとこなしてゆくだけだ。
無論、猪口のつゆで調整を図りながらやるということが冷たい蕎麦 (即ちふつうのせいろう) の醍醐味ではあるんだけど、それを了解の上、こうやって敢えて崩していくことも時には必要なことじゃないかなって思う今日この頃
で、どう扱ったら良いのか頭を悩ますのが、この木製の蓮華の使用法である。
柄と懐 (というのかは知らない) の角度は、蕎麦屋にありがちな角度のついたものではなくって、スプウンくらいの、ほぼ水平を保ったもの。私はこれを、蕎麦に絡んでこずに残りがちとなる納豆を救済する、すくって蕎麦と計量しつつやっていく為のアイテムと見当をつけたので、ふだんはこんなもの使わないんだけど、その理論を検証する為に、ふざけて (ふざけてかよ !) 実践してみる。
結果まあ、そんなもんだった (なんだそのやっつけ仕事 !)。
二つ目の汁徳利に残ったつゆを器に注いで残った納豆をきれいにしようとしたら、あたりまえのことなんだけどこの冷たいぶっかけ用のつゆだって、それなりに辛く。
―― 今日も汗だくんなったけど、これで塩分補給もばっちりだな。つくづく、人間の身体って良く出来てると思う。水分補給の必要が生じれば自動的に喉が渇くし、塩分補給の必要が生じれば、自動的に蕎麦が喰いたくなって、自動的につゆを飲み干す。その結果手にした血圧、その185という定量だけが俺の誇り ♪
2018/07/14 更新
2018/05 訪問
宮城野/ちょっと角のとれて
いつもの二番館での映画鑑賞後、魅惑的な斜光の中でお散歩写真を楽しんで、時刻は未だ五時半。
いつもの居酒屋のアルバイトは、今日は Sちゃんただ一人。だから、ちょっと恥ずかしいけどケーキか何かを“一つだけ”、売り場のお姉さんに包んでもらってけばそれでいいんだけど、そうするにもまだ些か時間が早かった。というわけでもないんだけど ……
「宮城野」
階段をカーヴしながら上がっていって、いつも人気のカフェみたいなお店に対して左向け左。例の重い戸をスラスト方向にスライドさせて入店。
戸を戻す私の背中に容赦なくお姉さんからの声がかかり、ちょっと待ってよと心の中で訝りつつ、正面を向き直して人差し指を一本立てる。中途半端な時間なのでどこへでも着ける状態の中、壁際の二人掛けの席に滞りなく陣取った。
場所柄、私の目の前に陣取るイカツイ若者。
ホストとかパンクバンドメンとか (目の前の彼はまた違ったジャンルの方とお見受けするが) 、およそ世の中に背を向けるポーズを自らの“売り”にする類の人たちも、日本蕎麦屋の中では何故かとんがってみえなくなるというか、マイルドにみえてくるから不思議である (笑)
“金色”
どうせ酒の前に胃に何かを入れておくだけの行程なので、最も安価な“せいろう”でいこうとして、でも自分に嘘はつけずに注文してしまった。
こういったものを邪道と馬鹿にするのは簡単なんだけど、逆にこういったものが自然にやれるようになったとき、蕎麦というものを、ほんとうに呼吸するようにやれるようになるのかも知れないなと ……
いつもどおりに、味もみないで徳利のつゆをすべて注いだ。いつもどおりに、蕎麦はみるからに美味そう。山葵を蒲鉾に擦(なす)れば興奮はピークに達し、蕎麦を後回しに口へと放り込んだ。
蕎麦をデコレイトするは昆布、天かす、油揚げ。天かすの攻撃性を奪う為 (喉に突っかかって咽せるのをふせぐ為) 、お蕎麦を底からひっくりかえせば、そこに私のエネミーなど、もうどこにも存在しなくなった
さらに傾きを増し、マゼンタの強調された光線に包まれる野口五郎交差点。
報道ヴァラエティ番組で、お亡くなりになった西城秀樹さんの偉業を振り返る想い出の映像を見せつけられるにつけ、彼の偉大さにはあらためて感動させられるばかり。願わくばこの野口五郎交差点 (東口五差路交差点ともいうが) のそばに西城秀樹交差点をつくってあげられないかな、という気持ちでもういっぱいなる。
―― どうせならもうあの西武の真ん前、というか国鉄池袋駅東口の真ん前のあのでっかい交差点でもいいんじゃないかなぁ、とも ……
2018/06/04 更新
2017/12 訪問
宮城野/その名はひやこん
昨晩国鉄上野駅にて、一緒に飲んでいた昔のバイク屋仲間チームの一人が殉職した。
こいつの殉職シーンを、俺たちはもう何度見せつけられたか分からない (笑)。十数年前くらいには、ひっくり返ってもそいつの名を叫べば、それに呼応して、まるで生まれたての子鹿のように四肢をピン ! と突っ張って四つ脚歩行くらいは出来たんだけど、今回ばかりはなかなか起き上がれないよう。
それはテキサス刑事とくらべたらあまりに無様な殉職シーン。
そのひっくり返っての妙なアクションを目の当たり、皆での、これはインスタ映えするよと挙って催され始めた撮影会を、ただただ爆笑しながら見守った。まあ、俺も一枚撮っちゃったけどね。こっちも泥酔状態だったんで、ピントも何も合わせられなかったけど ……
<H29.12.17 映画鑑賞後>
「宮城野」
BGMは極く抑制された音量での、JAZZピアノ。
隣に若きお父さんお母さんと、目のぱっちりとした可愛らしい女の子、またお母さんのご姉妹と思しき女の人、都合四名の家族パーティがやってくるのを横目に、いつもは“酒前”としてふつうの“もり”を一枚やるだけなのだが、今日は自分の中の貪欲に抗いきれず、ちょっとゴージャスなものを注文してしまった。
熱いお茶と冷たいお冷やを用意できますが、とのことで、冷たいお水を所望。
これはおそらく、日本蕎麦とお茶の相性を五月蠅く考えるお客とのトラブルを未然に防ぐ為のことなんだと思うんだけど、あんまりヒステリックに考えなくても、って気がしちゃう。
で、思いの丈を高らかに注文すれば、女の子はその私の注文を、「おねがいします ! “ひやこん”で」と茹で場に通してくれた
“金色/冷やし” @918也。
このお蕎麦を“きんいろ”ではなくて“こんじき”と読むことは既に学習していたので、滞りなく注文することが出来た。
つゆ徳利のつゆを、味も確かめないで全部注いでしまうのは蛮勇。それでも足りなくて、花番の女の子を摑まえてつゆをもうちょっとください、とやってのけることは知勇 (いやいやいや ……)。追加のおつゆをいちいち幾らとなります、とやらないことは、お店の正義。
天かすと油揚げの、ハーモニーともつかないハーモニー。そこへ割って入る、甘辛く煮付けられた昆布 etc.
その異個性に絡んでゆく蕎麦なんだけど、意外と嫌々感もなくって、寧ろ居心地良さそうにそこに佇んでいるように見えるから不思議である。
繰り返しんなっちゃうんだけど、今日もここんちのお蕎麦は美味い ! ただその一言
隣の小さな女の子に“かけうどん”が届き、ただでさえくりくりだったその娘の瞳が、さらに輝きを増した。
なんでも、その娘は“素”のうどんが大好きらしい。私も、今日はちょっと捻(ひね)ってしまったが、その女の子の気持ちがすごくよく分かる。こういったものへの我々の要求って、やっぱり突き詰めればシンプル、もっと言って穢れなき純粋性であって、そしてこの嗜好って案外、幼くして誰にも備わっているものではないかと。
とりわけ女の子が、まだ幼くたって、成熟した大人の女の魔性というものを既に完全に近い形で備えているように ……
2017/12/29 更新
2016/01 訪問
宮城野/蕎麦 Of Gold
【 またまた追記 】
一旦通り過ぎたのだが、やはり自分を騙すことが出来ずにUターンして階段を上がった。
例の戸を引くとすぐ帳場なのだが、おじさんが一人、お会計中。ちょっとお待ち下さいとなって待っていたら後ろでまた戸が引かれ、女性二人連れが入店。私は二人の為に少し脚を進め、スペースを確保してあげようとしたが、内一人がずんと私の前に出て来て、もう一人も倣って私の前へ。
そこへお店の、私にお待ちくださいと声を掛けた娘とはまた別の女の子がやってきて、お二人様ですか ? となったので、その女性二人組は案内されるがまんま、当然のように先に入店した私を置き去りにフロアに案内されて行った
―― こんなとき、どんな顔していいのかわからない ……
“海苔せいろ” @864
“お蕎麦大盛り” @324
続いて私も席に案内されたのだが、いみじくも私の先に案内されていった女性たちの隣のテーブルとなって、こんな時、勿論向こうはまったく意に介さずなのだが、逆に男独りのこちらのほうが、そこはかとなく後ろめたくなるそのメカニズムというのも、これはいったい何なのか。
―― こんなとき“も”、どんな顔していいのかわからない ……
蕎麦は三枚重ね。
機械切りの海苔は小皿で分解提供。せいろうを重ねるスタイルなのでこうしているのだろうと予測は出来るが、汁も“ざる”専用仕様ではなかったので、これは敢えてこちらでは“ざるそば”とやることもないな、と結論付けさせられた。
とは言え、お蕎麦の調子は今日も頗(すこぶ)る良好。
細打ちの肢体にもちっとしたところとざらっとしたところを高次元で拮抗させつつ、そしていつものように、あくまでも冷たく締められている。
やっつけた蒸籠を除けて、すぐまたそのクール・ビューティとの再会という極上の白日夢を、その蒸籠の枚数だけ重た。そして畳みかけるように女の子の持ってきてくれた熱々の湯で、そっとおとした小さじ一杯の孤独とともに、おもむろに汁を割る。
猪口の中で、汁の分子と湯の分子と、そして私の孤独の分子が激しく運動しあい、上手い具合に勝手に混ざりあってゆく様に完全に満足しつつ、それをやり終えて席を立った
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【 平成28年1月/またまた再訪録追記 】
朝起きたら、まい泉のミニバーガー、コロッケと黒豚メンチカツが一つずつ、テレビ台の上に置いてあった。テレビ台の上にテレビは無い。こないだまでどこからかアナログ電波をひろっていたのが、当たり前の話だがとうとう映らなくなって、即座に、アニミズムのかけらも持たない非情な私の親に捨てられてしまったのだ。
昨日もそうとうに飲んだ気がする。
ちょい気持ち悪かったが、そのパンを二つ纏めて電子レンジに放り込み、二十秒間温めて無理矢理胃に落とし込んだ。べつにお腹がすいていたわけではなかったが、今食べなきゃ捨てるようになるので勿体無くって。
ものには何でも、“命”があると思ってるから ……
<H28.1.11>
「宮城野」
大きく重い例の戸をスラスト方向に滑らせた。
午後十二時半。
卓は七割ほど埋まっている感じだが、問題無くすぐに席につくことが出来た。隣の若い女の子三人組がこの上なく質の良いエアフィルタとなっているようで、清涼感のある空気を私に供給してくれ、大変気分が良い。マイナスイオンが超溢れ出ている(この大馬鹿野郎 !!)。
で、お茶を啜りながら早速品書きを広げた。
まだ気持ち気持ちが悪かったし、出掛けにパンを二つ食べたので大盛りはやめておこうと思った。いや、元々こちらの蕎麦の盛りはちゃんとした蕎麦屋としては、気前が良かったはずである。となると私の標準ルーティンとしての後工程は、シンプルに“もり”か“ざる”を選定するのみだが、品書きに目を通して無情にも、ここで私の言う“ざる”、“のりせいろう”はやっていないようである。
こんなとき、素知らぬふりして「ざるそば !」、とやれば案外そのまま海苔かけのお蕎麦が出てくる可能性が低くはないということを私は知っているが、そんな確信犯的傲慢もちょっとなぁと思って、今日はちょっと捻ってみることにした
“田舎せいろ” @918也。
限定三十食とのこと。
今日の蕎麦は、ここ二年間台風の影響で収穫出来ず、三年ぶりに用意できたという、あの幻の福井県坂井市丸岡町産とのこと。これは非常に期待がもてる ! なんて、蕎麦の産地や銘柄なんか金輪際気にしたこと無いけど、俺の蕎麦人生。
果たして舞い降りたせいろうの上で躍動するは、蕎麦柄を織り込んでたっぷりと褐色にして、田舎蕎麦としては極端な太さでもないもの。まるで全盛期の高見知佳を彷彿とさせる健康的で元気の良いおそばで、私の興奮はピークに達した。高見知佳は、パッと見オリエンタル色だけのように見えるが、よくよく見ればその目鼻立ちに確かなヨーロピアンテイストをも兼ね備えるということを、これは分かる方なら分かっていただけると思う。
そんな奥深さを持った、太くて粒状感のあるそれを噛んでやるという、何とも言えぬ背徳感。蕎麦の香りよりも、大胆に冷たく締めることを優先させるという思い切り良い覚悟そのもの[注]が、ざらりと喉元をすべり落ちる快感に、暫し耽った
注) そのマインドの代表選手が「上野藪」だと思う
で、少し落ち着いたところで隣をみれば、女の子たちはアナゴ(それにしても行きつけの居酒屋の娘もそうだが、女の子ってアナゴが好きなもんだ)、そしてまた鴨 ? そんなものをそれぞれに楽しんでいた。私がそれらを苦手な為に、自動的に視線が逸れてしまっているだけかも知れないが、そういったものをよく品書きから読みとるなと、皮肉でもお世辞でもなく、心底感心してしまう。
花番の女の子と、ようやく目が合った。
お待たせいたしましたと非常に恐縮しつつ、且つ大変熱いですからと気遣って供された湯は、私のハートのように限りなく熱く、そして美しいまでに脆く儚く ……。ゆったりと二杯半、徳利に残った汁まできれいに使いきったところで湯もちょうど無くなった。
この間、フロアは落ち着き払った平和な時間に支配され続けていたのでまったく気が付かなかったが、立ち上がって帳場へ向うと待ち客が二組ほど。
俺としたことが ……
そして外の空気にあたって、やはり美味いものを食ったとき、人はこんなにも気分が良くなるもんなんだなと思った。
なんなんだ、この二日酔いまですっきりしちゃう爽快感は ……
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【 平成27年8月/再訪録追記 】
<H27.8.12>
ラブホテルの屋号“ナポリ”という看板を見て、“ナポリタン”をやっているレストランでは、と見紛うほどに意識が朦朧としていた。
仕方なく新規開拓はあきらめ、東口五差路(私にはどういうわけか、これがいつも野口五郎に見えてしまう)の一角の二階、いつもの蕎麦屋への階段を上っていったが、今まさに客が二組ほど入り口で、優柔不断にも入店するのかしないのかだらだらとやっている ……
―― ほんとにいやだ、こういうの ……
ただ迷っているのかお店が満員なのか判断がつかなかったが、さっさと踵を返し、ちょっと手前にあったスパゲッティ屋さんへの階段を下りてゆけば、今度は確実に数組の待ち客を抱えている。
なんだかなぁ、俺の人生 ……。でも人生ってこういうもんなんだろうな ……
「宮城野」
で、再び蕎麦屋の階段を上ったら、今度はスムースに席まで通ってしまった。
なんだったんださっきの店頭の交通渋滞は。まあ、それでもほぼいっぱいに卓は填まってるんだけど。背の高い焼き物のぐい飲みで供された、氷の入った冷たいお茶が嬉しかった。そして本日のお蕎麦は、北海道深川市多度志産とのこと。
そんなのがプラスティックの小さくて透明なディスプレイ台に挟まって立っていた
“納豆 (冷やし)” @918
“おそば大盛り” @324
締めて \1,242也。
昆布が甘く炊かれていて、それをちょっとづつ、それと若芽もちょっとづつ、蕎麦に供えながらやった。そういう“口中調味”という高度な感覚を具(そな)えた日本人という民族に生まれたことを、私は常に天に感謝している。
喉越すそれが醸し出す、鼻腔に抜ける上質な香りは、紛れもなく北海道深川市多度志の新鮮な空気を纏っていた。
―― すみません、嘘つきました。北海道なんて行ったこともありません、ボク
こちらのお蕎麦は細身にして力強く、真っ当に美味いと思うが、接客含め、中には低い評価がところどころ見受けられるのは何故だろう。
今回のきれいなお蕎麦も、納豆と蕎麦との高次元の拮抗としか言いようのないものであった。もうどんな酷暑にでも耐えられそうな勇気が沸いてくるほどの。
そんなこんな独り夢見心地でいると、私の隣の卓の前で、何やらユーロテイストとラテンテイストを高次元で入り混じらせるチャーミングな女性が、花番の女の子に立ったままで品書きの説明を求めはじめた。
暫しのやりとりの上、その女性は、花番さんの説明に納得がいったのであろうか、ようやく安心したように席に着き、おもむろにそのすらりと美しく伸びた脚を天板の下にクロスさせてみせたのである
蕎麦、納豆、そして脚が私の脳内で拮抗しはじめた瞬間だった。
そしてそれは直ぐ様何らかのものを形成し始めたが、その物体が完成してしまうと途轍もなく恐ろしいことが起きそうな気がして、強靭な意志力を以て、後ろ髪引かれる思いで席を立った
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<H26.12.13 池袋>
冷たい風に、刺さされて往った。
サンシャイン通りの入り口のところに、いっつも混雑しているガラス張りのカフェのようなところがあって、大昔から、まさかこの一角だけは永遠に私には無縁の世界だなと思っていたが、二階への階段の麓に手打蕎麦屋の看板があるではないか。今日初めて気がついた。
なので映画の切符を入手してから一直線に戻ってきて、弧を描きながら上昇してゆく階段を、迷わず一歩一歩上っていった
「手打そば 宮城野」
木製に見える大きな戸の取っ手を、それなりの力で滑らせた。おでこを撫でる暖簾。くぐって、やけにがらがらの店内。席に着いて耳を澄ませたら、遠くで仄かにピアノが鳴っていた。
品書きを広げて、ここ日本屈指の繁華街の昼時にあって何故混み合っていないのかが、朧気に垣間見えたような気がした。最初、この蕎麦屋として正統派に過ぎるシンプルな構成では、池袋の若者の胃袋を掴むには、些か刺激に欠けているのではと思ったのだ。且つ、ある程度以上のクラスの蕎麦屋特有の、なんでもないもりそば、かけそばにふられた値段からして、もう、これは一見して割高かなあ? と思われちゃうんじゃないかな、とも。
中学生時代の私の蕎麦屋での常套の振る舞い方、すまし顔でもりそばとたぬきそばを二ついっぺんに注文ということを、もしも今やったとしたなら ……
―― その時には親のお金と思って気楽にやっていたことを、今、それらがそれぞれ七百円超の店で同じことをやった時、お昼ご飯一回ぽっきり千五百円以上になってしまうことに心底びびっている私だが、それが果たして情けない男独りの戯言(たわごと)と済まされてよいものか ……
しかし午後一時を過ぎた今、何故か次々と戸が引かれたことには、客としても幾ばくかの安堵を感じたが
“金色 (油揚げ・揚げ玉)” 九百幾らか
“おそば大盛り”三百幾らか
締めて \1,242
「これください。金色(きんいろ)って読むんですか、これ?」
「金色(こんじき)です」
とのこと。
分からないことは周りの大人に聞いてみなさいと、いつも母は言っていた。もうやぶれかぶれで、目にしたことのないものを注文することにしたのだ。温かいのと冷たいのと出来るらしく、冷たいのを。
で、無事お蕎麦のどんぶりが届いた。割り箸の袋の中、屋号の隣でうさぎさんのシルエットが楽しそうに踊っていた。立地も含め、そんなこんなほとんど期待を喪失していたが、それは一見して誠実なものと分かる蕎麦、太さは東京基準で言っても細打ちといえる凛とした佇まいを持っていて、正直、ぶっかけ様式のものを注文してしまったことを後悔させるほどだった。
しかし、本来質(たち)の良い同等の蕎麦であればぶっかけよりも猪口の汁でのおそばと、くだらない固定概念の固着した私は、刺身のつまのような海草(おいおい、ちゃんと調べて言えよ)、卵焼き、蒲鉾、ほんとうに適切に味の滲みたお揚げ、そして天かす、かすって言ったら悪いから揚げ玉と言い換えますが、そんな脇役たちに彩られ、しかも気前良く豪勢に盛られた蕎麦の前に、正直、ひれ伏すこととなった
お茶のおかわりが欲しくって、ちょっと向こうに立っていた花番の女の子の視界の片隅に、いちかばちかだったが湯呑みを翳した。これを十条の一杯飲み屋のサボタージュ傾向のある女の子に向けてやったら、間違いなく確信犯的にそっぽを向かれるであろう距離感の中。
そしたらちゃんと私の意志が女の子に通じ、そんなのふつうのことだが、ふつうのことがふつうでなくなっている飲食業界の現状の中、殊更嬉しくなった。
―― 今度、ふつうのせいろう試してみよ(みよう) !!
2016/02/11 更新
ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンの豪華共演は凄いんだけど、些か社会派に過ぎる映画を何度も気を失いかけながらの鑑賞後、立て続けにアル・パチーノの熱演を堪能しておもてへでたら、まだ外は明るいくらい。
そこで久しぶりに池袋の夕景でも撮影しておこうと愛機FUJIFILMのストラップを利き腕に装着し、野口五郎交差点から南池袋方面へと舵をとる。道すがら、名画座で私の隣に偶然着いた若い女性二人組が、さらに偶然が重なって目の前で信号待ちをしており、運命的なものを予感させてきたのだが、無論それ以上の進展はなかった。
内一人は可愛い顔も然ることながら、非常にスタイルが良く、私の横に座っていたときには膝頭の位置の高さに驚かされたが、こうしてみるとその半分は厚底靴のかかとの高さだったことが分かり、なんだか無意味に(笑)、ちょっと一安心。その人の、パンツスタイルということもあってか膝を揃えずに肩幅程度に脚を広げて座る姿が、新聞を縛るときに脚をがに股に潔く広げてしゃがむ東北女性を連想させたので、勝手に青森美人と決めつけさせていただく。あの恥じらいもなくお相撲さんのように、脚を広げ、しかし背筋は伸ばしてしゃがみこむスタイルを、美人がやるぶんには非常に幻想的だが、そうじゃない人はそれなり
―― ほんと使えるなぁ、そうじゃない人は、それなりに。それにひきかえ今の流行語大賞とかいうやつの ……
<H31.4.28>
「宮城野」
GW2日目の夕方。
弧を描く階段を上って例の重い引き戸を引く。先ほど、お昼に来ようと思い立ったんだけど軌道修正してしまったが、その想い、未だ冷めやらなかった為。脚を踏み込んだ店内は、今日はいつもよりお客が入っているようだが、私一人が紛れ込むのにはまだまだ十分に余裕があった。
お飲み物は如何いたしましょうか ? の問いかけは、お酒をすすめる意味もあるんだろうけど、こちらのお店では寧ろ、そばにお茶を合わせることを嫌うお客への気遣いだと私は思っている。
私自身はそれほど気にしないんだけど、でもお茶という飲み物もとりわけ好きでもないので、冷たい水を所望させていただく。前にどこかのそば屋で年嵩のお父さんがそれを「こおり水」と言ったのを聞き、えらくカッコいいなと憧れてはいるんだけど、未だそれを使えるところまでとても自分は達していないなと思って、実践してはいない。
一方こんなとき、もしも沖雅也さんであれば紅茶をお願いするんであろうけど、それすら出来ない私である
「そば屋で紅茶だと !?」
by ゴリさん
“金色” @920也。
「ひやこんで~す !!」
(私に言ったのではなく、お姉さんが茹で場に通すときの掛け声である)
自分に嘘はつけなかった。
例え他人を騙して陥れたとしても、自分だけは騙さない。たとえそのほうが辛い生き様となろうことが分かっていたとしても。そのテンションのまんまつゆ徳利を鷲掴み、そばにぶちまけることだけが私の勇気であり、覚悟であり、なかんづく正義である。
若芽、昆布、揚げ、天かす、それらが支配する地域をディズニーランドのようにそれぞれ若芽タウン、昆布タウンと名付けることにし、うまくそばと絡めつつやり進む。
隣り合う、例えば若芽と昆布の境界線であれば、それらを上手く相乗させながら。そうするとこのおそばは本当に玉虫色のようにそのカラーを変えて見せてくれて、私はただただそれに微睡むばかり ……
今日のおそばは、こんなこといったら茹で場の職人さんに、そばは噛まないで喉越してくれって怒られるかも知れないけど、いつもよりちょっと歯応えのあるもの。
「上野薮」が接客共々その質(たち)を落としつつある中で、私にふだん使い出来るお蕎麦屋さんとして相対的にであれ、こちらは私の中で、その依存度を確実に増してきていると言えると思う。
おもむろに回りを見渡せば、池袋という繁華街にあっての若者ターゲットではなく日本蕎麦屋ということで、老若男女、ほんとうに幅の広い客層(家族連れが多いってこともあるけど)を従えて、でも一枚一枚丹念にこしらえたおそばを出し続けていただいて、ほんとうにいつも感心させられるばかりである