2回
2017/01 訪問
永坂更科 布屋太兵衛/ナロウの息吹
2017/01/28 更新
2015/02 訪問
永坂更科 布屋太兵衛/その滑らかなる減衰
<H27.2.11>
地下鉄南北線、王子神谷駅で電車に乗り込んだ。
高級そうなストッキングで丁寧にラッピングされた魅力的なお御足を見せつける女性の横へ喜び勇んで着いてみれば、まるで瓶をひっくり返したかのように香水の匂いをぷんぷん発散させていて、かなり興醒めした。
そんなこんな、下町野郎には縁のない、勝手分からぬ城南、麻布十番駅を這いだした。
外人と美人がいっぱい跋扈していたが、その両方の特性を併せ持つ、美人の外人というものが、何故かいなかった。最新スーパーカーもいっぱい走っていたが、しかしスーパーカーキャメラマンとしての私の心を揺さぶったのは、大昔の、白くてちっちゃなVWカルマンギアだけだった
「永坂更科 布屋太兵衛」
午後五時に届いていない。
もう一件、そちらも相当に年季の入っていそうな更科を名乗る蕎麦屋を先に見付けたが、けっこうにいいお値段のようで、これからがぶ呑みするのにただ胃に何かを入れておきたいだけの今の私には明らかに勿体無く、こちらの暖簾を割ってみた。
戸が自動ドアに改修されていることにさえ違和感を感じるくらい、正々堂々としたお蕎麦屋さんであった。広々としたフロア。帳場のお姉さんが、どこへでもどうぞと促してくれた。中途半端な時間ながら、それなりのお客が入っている。席について早速品書きを広げてみれば、結局こちらもいい値段だったが。
―― それはもう、店構えですでに分かってたけどね ……
“太兵衛ざる” @886
“大盛り” @443
締めて\1,329也。
「お汁はあまいのとからいのと、お好みで合わせてやってください♪」
調光されたLEDの波長に途轍もなく映える、圧倒的なまでにふつうの蕎麦がきた。
ふつうであり、真っ当であり、そして正統。
良い意味で、圧倒的にふつうなこの凄まじき凡庸をやるには、やはり千数百円のコストが必要なのであろうか。余計なことは考えちゃいけないと自分に言い聞かせつつ、ざるそばなのでいつもどおり、盛りの頂点を避けた絶妙なポイントに箸を入れた。
猪口にはまず、辛汁だけをちょっと。
想像通りに辛汁だけでも甘みを感じるもので、本来このままで十分ながら、“ざるそば”の形式美を更に完全なものとする為、あま汁を注ぎ足した
「ノースモーキング?」
そして滞り無く席へと誘導し、
「イングリッシュメニュウはいりますか?」
アングロサクソン系ハンサムガイ二名の来店に、炸裂する花番のおばちゃんのネイティヴ・ジャバニーズイングリッシュ。そして炸裂する蕎麦の質(たち)と汁の質との拮抗。箸で手繰りあげる蕎麦の分量だけはけっしてミスるなと凄んでくる、朱に化粧された美しい蒸籠。その緊張を優しく包み込んでくれる汁の甘さ、その限りなく上質なツンデレ。
そして夢のような時間は、たっぷり残った二種のつゆを湯で割って思う存分享受することにより、滑らかに減衰してゆく。
店を出るとき、帳場からおばちゃんが声を掛けてくれた
「またお出掛けください♪」
―― きっと、またいらっしゃってくださいという意味なんだろうな。また来てくださいって直接的に言うとちょっとやらしいから、お出掛けくださいって。惚れ惚れしちゃうよ、この美しい日本語の使い方 ……
2015/02/15 更新
行きたくもない六本木に行かなければならず、せめて気の紛らわしに蕎麦でも食っていくかなと。
非常に中途半端な時間。しかしまともな蕎麦屋、老舗のお蕎麦屋は通しで営業しているお店が多い。というのは私のただの個人的印象か ……
<H29.1.7>
「永坂更科 布屋太兵衛」
「空いてるお席へどうぞ ♪」とのこと。
こちらへは二度目の訪問。「上野藪」の人の入れ替わりによる接客のクゥオリティの低下にはここしばらく憂いているが、こちらのそれは前回同様つかずはなれず、日本蕎麦屋のそれとしてまったく教科書どおりのもので、非常に安心感がある。
安心できないことはお品書きにふられたお値段のやたらめったらの高さだが、それは覚悟していたこと。そしてこんなとき、事態をより辻褄の合うように纏める為に必要なことは唯ひとつ、開き直ることだということを私は知っていた。
なので今日はブルジョワジー御用達のお蕎麦を、且つ大盛りで ……
“御前そば/大盛り” @945 + @473
締めて 1,418円也。
限りなき純白のもり、山葵を擦(なす)ることさえ後ろめたく。
長寿を祈念して細く長くの蕎麦をやるのだとしたら、日本人の浄化志向の具現ともいえるこの色の白さとも相まって、こちらの蕎麦もかなりのところにいるものだと思う。
そして盛りは単価の高さ(に応々にして反比例する老舗店のそれ)に反し、けっこうなもの。
蕎麦人生のすべてを懸けて、辛汁にあま汁を合わせてゆく。
それを何度も調整し直すという無粋だけを、私はやりたくなかった。つまみ上げる分量のコントロールも御前そばということで細心の注意を要することは分かりきっていたが、そもそも食事というものは“楽しくやる”ということがもっとも大切なことだと、意識的に肩の力を抜いた
気付けば私の中で、また何かが共鳴している。
前もそうだったんだけど、こちらのお蕎麦をやると何故か懐かしいものがこみ上げてくるのである。おそらく大昔、私がまだ物心つきはじめた頃に親や親戚のおじちゃんおばちゃんに連れて行かれた蕎麦屋の、つゆの香とか蕎麦の肌とか、どうもその辺りがキーとして引っ掛かって郷愁への再生ボタンが押されてしまうんだろうけど。
―― でもその原風景をたどる旅を、今は保留とさせていただきたい。白きナロウを捌いてその一本一本に息を吹き込む作業に没頭しているこの暫しの間だけは ……