6回
2023/05 訪問
北京飯店/ふたたび出ていったかお母さん
見上げて青空と雲の割合は、1:1くらい。
予報ではGW最後の土日2日間は天気が崩れるとのことだったので、雨ぢゃないだけまだマシだろう、と思いながら、新宿御苑前でメトロを這い上がり、なぜだか妙に強く押し寄せる飢餓感を埋めるべく、今日は原人の故郷を目指すことにした
<R5.5.6>
「北京飯店」
「ああっ、びっくりしたぁ ! 消毒してもらえましたか ? 消毒」
足を踏み込むとアベックが一組おり、お母さんが対応中。
こちらを振り向いて驚いたように消毒 ! 消毒 ! 言ってくるので、バイキンになったような気分でアルコールを手に噴射し、ハエのように手をもみもみするポーズをとりつつ、人間のお腹の中には100兆もの細菌がいるのに、身の回りだけ除菌したってしょうがないわ ! ということは黙って着席。
そして今日はもう自分を騙さないと決意し、表立ってはいないが実はこちらのお店の特色である、今の中華屋では稀有となって久しい中華らしからぬご飯メニュウを必死で探すボク ……
“メンチカツ定食” 前は@900だったけど、忘れた
お母さん 「メンチ少々お待ちください」
前のアベックの女性 「メンチなんかあるの ?」
お母さんが妙にハッスルしているのを見逃すぼくではないが、その理由は不明(笑)。
キャベツ、焼きそば、目玉焼き付き ! という殺し文句にもやられたのも事実だが、本質的に、こういった中華屋さんの“定食”こそを ! ぼくの身体の芯が欲していたのだと思う。
やってきたメンチに思う存分ソースを回し、皿に目玉焼きにはしょう油を回すことは、それは騎士道とも武士道とも言えないと思うが、一人の武士(もののふ)として間違ったことはしていないと確信している。
古(いにしえ)の中華スープが、それまで乾涸びていたボクの身体に急速に浸透していく体感も心地よく、買い物ではあろうが、ソース本来の味を十分に纏ったdoubleメンチをチョップスティックでバラバラに解体していくという快楽の作業に夢中で耽り、そして目玉焼きの黄身を赤子のように弄(もてあそ)びに入ったとき、ぼくのecstasyはクライマックスを迎えた ……
「それでは皆さん、ごゆっくり ♪」
それまでは皆我慢していたが、煩かったお母さんがやっと帰り(こらっ !)、お父さんが厨房からほっとしたような安堵の表情で出て来て、お客さんの様子にあらためて目を配るそのことが、商売として非常に重要なことなのだ ! と感心させられる。
夫婦というのは(かは知らないけどね)、このようにとことん我慢なんだけど、でもその我慢ということが非常に尊いことなのだと思い知らされ、でもそれが、そういうことから必死で逃げ続けているだけのボクにとってどうしようもなく後ろめたさが募ってしまい、堪らずに目の前の花園という名の通りを西へと逃げ出した ……
その後「新宿武蔵野館」にて、「セールス・ガールの考現学」というモンゴル映画を鑑賞。
モンゴルというと銀座「維新號」のモンゴルイカ炒めランチしか思い浮かばないボクだが、主演と思しき女の子の面持ちが、今は会っていないY~ちゃんにちょっと似ているな、とは思っていた。が、そのこないだまでの人民共和国には到底似つかわしくないポスターの中のsexyな黒ランジェリー姿はどうしても、どうせギミックだろうと思えてならずに高を括ってthroughしようとしていたのだが、どうしてモンゴル国 !
ウランバートルは都会で洗練されており、そこに学ぶ素朴ながらキュートな女子大生の専攻は、なんと原子力工学 ! 且つその新人女優は、日本の(決して脱ぐことなき)体当たり演技女優どもを、わたし脱いだら凄いんです状態で足元にも寄せ付けず !
―― 大林監督、日本はもうほんとうにダメかも知れません ……
※ ちなみにそのモンゴル映画はけっしてお色気方向に特化した作品ではなく、現代モンゴルの風俗を爽やかに描く真っ当な映画でした
2023/05/13 更新
2022/11 訪問
北京原人/Who are you?
運命のメトロを新宿御苑前で下りて北へ歩いてくいくと、新宿通りに並行するように柳並木の静かな通りがあって、その道沿いの北京へ。
日本に展開する北京は数多(あまた)あり、その創始者は緒形直人さんだと聞いているのだが、私の訪問した範囲では未だ出くわしたことはない。また片岡礼子さんがママとしてお店に立つという情報もあり、熟女好きの私としては(女子大生しか興味がないと曲解されて、ぼくは今ほんとうに困っています)、ぜひお姿を拝見してみたい気持ちでいっぱいなんだけど、いったいどの北京に行けば逢えるんだか ……
<R4.11.26>
「北京原人」
「こっちが日本語のになりますんで !」
複数の、どれも同じに見えるラミネイトの品書きに翻弄される。
北京語のがあるらしかったが(北京語とは言ってないでしょ !)どれも日本語に見え、且つその一部を「同じものですから」と言って強引に奪われ、そして私が触ったからといっていつもよりも念入りにこれ見よがしにアルコール消毒されたとて、なにより今日もその奥様がいてくださることに、先ずは一安心。
こちらは調理担当として厨房にご主人お一人の、小じんまりとした規模のお店ながら、品書きのヴァリエイションが広く、ほんとうはじっくりと目を通せば掘り出し物が見つかりそうなんだけど、奥様の圧力に屈して急ぎふつうの注文をしてしまうぼく ……
“D.半チャーハン+ラーメン” @980也。
まあ間違いないと言えば間違いないのだろうけれど、馬鹿の一つ覚えのようにいつでもどこでも注文してしまう半チャンラーメン。
昨夜の御徒町「福徳」さんも町中華だが、若干香りが現代風、というかスパイシィ方向にアレンジされていたと思う。それに対してこちらのラーメンはよりトラディショナルなもので、美味しくないわけがなかろう。ラーメンはこれでいいしまた、こ~ゆ~のがいい ♪
それはさておき、奥様がまたお使いに出掛けるよう。
こないだはちょっとそこまでお使いに行くと出ていったまんま2年間戻ってこなかったので、またご主人お一人になってしまうんじゃないかと、ひどく心配 ……
(嘘をつけ !)
空はまだらに黒い雲がはびこり、今にも雨粒が落ちてきそうでいて、でもその合い間からときおり陽も差すという奇妙な天気。
予告編から見て完全には信用できないと思っている韓国映画を観る為にいつものニコマートの切符フロアに立つと、女王陛下からナイトの称号を受けたスコットランドの巨漢がパンツいっちょで仁王立ちしていて気圧される !
この人にはスパイ技術で勝てないことも然ることながら、先ず“毛”で勝てないなと、無駄な敗北感に打ち拉がれつつ、そしてまたこのモンゴロイドたちの中に果たしてぼくのほかに日本人はどの程度いるのだろう ? と仲間を求めてまったく見分けのつかない自分の不甲斐なさを呪いつつ、諦めて階段の踊り場で入場時間を待つぼく ……
2022/11/29 更新
2022/05 訪問
北京飯店/雨の新宿 waterproof
「料理長に言え。餃子のニラを少なめにしろと !」
―― 不味い料理を15年も強制的に食べ続けさせられると、このくらい言えるようになるのだろう。私も15年には至らぬうちに、口にすることも出来なかったが、調理人の目の前でいつ食っても不味かった麻婆豆腐にラー油や醤油をもう散々、これ見よがしに回しまくっていたら、不味かったそれがだんだんと美味しくなり、終いにはそのお店の人気料理にまで成り上がったことには驚いた !
(これほんと !)
メトロを四谷で乗り換えようとしたところで、ふと空の邪悪なる暗さに気が付いてしまう。
ホームに滑り込んで来た丸の内線に乗り込めば、窓には既に、幾筋か直線的な雨の雫くの軌跡が描かれていた。となると、どうしたものか ? 折り畳み傘は持ってきていないし、もう新宿三丁目まで一気に距離を詰めてしまうべきか ? 電車が走り出して直ぐに地中へと潜ってしまったものだから、如何せん判断のしようがない。
―― 地下鉄ってどこから入れたのか分からなく、それ考えたら夜も寝らんなくなっちゃうと思っていたら、今入ったよ ! 地下鉄は四谷から入るんだよ !
安全とリスクの中間をとり、新宿御苑前で這い出した。
雨はまだ落ちて来てる。というか、どんどん強くなってきてもいるような気がするのだが、西の空を見上げればそこには蒼空もたしかに垣間見えていたので、その下を狙っていけばいいではないかと意を決し、これで三度目となろうか、緒方直人さんプロデュースのお店へと一直線に足を進めた
<R4.5.7>
「北京原人」
「消毒お願いします ♪」
お母さんがふたたび帰って来てくれていたことが何より嬉しくて(ほんとに都度家出してるの ?)、お客に消毒させる前にこの雑然とした店内を整理するほうが先じゃないかとも思うが(こらっ !)、言われるがままに手先を消毒するぼく。
先客はお一人様*都合二名。カウンターは今はお母さんの陣地のようで、ならばと先客たちの間のテーブル席に陣取って品書きに目を通し始め、今さらながらのメニュウの豊富さに、あらためて感心させられる。
先日、中華屋さんだというのに目の前にあった洋定食に目がとまってしまい、オーナーシェフの手を煩わせてしまったことを思い出し、そのことを反省しているのだがしかし、今日もどんぶり一つなんだけど、素直にはいかないものをお願いしてしまうぼく
BGMは頭上のブラウン管総天然色テレヴィジョンからの、水中ドローンでの謎の生物探索 !
そんな番組をもう子供の頃から見ているような気がするが、ほんとうに実績をあげたのは、猿人や二首頭のヘビの発見など、これは手前みそということでは決してないが、私の所属する(正確に言えば現在私一人が隊員として残されている)川口探検隊だけだということには、誇りを持ち、胸を張って生きていきたいと思う。
―― その偉大なる功績と引き換えに、川口隊長はテレビキャメラの前で憐れピラニアに食われてしまったけど ……(実話)
“麻婆ラーメン” @930也。
絵もない、花もない、歌もない、そんな中華屋の、何の変哲もない麻婆ら~めん。
このhybrid料理を注文したとき、私はいつも、麻婆豆腐とおつゆをなるたけ分解させたまま、それぞれを活かしてやりたい為に、ラーメンをやるときの必須儀式である麺の底からの“かんまし”というテクニックを避けているのだが、今日も同様、なるたけつゆに波風を立てないようにして、つゆに没した麺の塊りを端からそろり、またそろりと、摘まみ上げるようにしてやっていく
一昨日の麻婆ラーメンよりも麻婆豆腐の餡(この言い方、間違ってますか ? もう逢えぬY~ちゃん、お願いだから返事してくれ !)の粘度が高く、その中から穴釣りのように麺を引き出してくればそれが上手く麺に絡みとられ、麻婆ラーメンとしての個性を発揮し、そしてまた周囲の淡いつゆの部分ではあっさりラーメンと、このようにひとつのどんぶりの中で異なる表情を楽しめるということが、この北京料理の真骨頂であろう。
魚類がその体表のぬめりでwaterproofを成すように、麻婆ラーメンもまた、麻婆豆腐の片栗がwaterproofを成す、ということをもっと意図的、且つ積極的に活用していったところに、麻婆ラーメンというhybrid料理の答えがあろうと思う。
しかしながらこちら含め多くのお店において、それが別段計算づくのものではなく、今のところ偶然依存となってしまっているところに、ぼくなんか、このどんぶりの料理としての“伸びしろ”を期待してしまうのだけれど
【以下映画の話】
2003年 120分 韓国
「オールド・ボーイ」
2013年製作の同タイトル、ジョシュ・ブローリン主演のハリウッド版リメイクをその封切り時に先に観てしまい、そのときに下敷となった本作の存在を知ったわけだが、今回時を逆転し、その下敷の4Kリメイク・リバイバル上映の鑑賞と相成った。
御多分に漏れずハリウッドリメイク作品の批評の時点で既に、オリジナルである本作の相対的高評価が散見されていたことは朧気に覚えているのだが、果たして ……
冒頭の、大酔っ払いで警察に保護されている冴えないサラリーマンの男が主人公か。
何をやらかしたのかは知らないが入れ替わり立ち代わり警察の御厄介になる個性派(笑)の人々の群れの中にあって、ただの酔っ払いでしかない自分の勾留だけが延々と続いているのは、いつまでも抜けぬ酒と、いつまでも見つからない身元引受人のせいだろう。
やがてかつての同級生でもある友人が迎えに来てくれ、ようやく警察署からの離脱は成るのだが、その直後、路上の電話ボックスからの家族への電話を最後に、娘への誕生日プレゼントとして抱えていた“天使の羽根”を路上に残しつつ、男は迎えに来てくれた友人の前から、家族の前から、そして社会から、その姿を忽然と消す。
というところから、このドラマは始まる ……
田舎の無い私なもので、長期連休にやることといえばいつもと同じ、飲むことと映画を観ることしかないのだが、それを毎日続けて映画感想文のひとつも書けない作品ばかり連続していることには、さすがに憤りを覚えていたところ。
結論からいって本作は激しい暴力描写を芸術の領域にまで鮮やかに昇華させ、当時の韓国映画らしく容赦のないザラザラとした肌触りを持って、痛いけどなにか心地よく、不快なのだけれどなにか優しく、それが時代だったということで括りたくはないのだけれど、なかんづく切ない結実、別の言い方をして破綻 ! を見せてくれる、傑作暴力映画であると思った。
窓の外に広がるイラストレーションの風景。
いつまで続くのか分からぬ監禁。
最初は怒り狂い、やがて疲れ、そしていつしか“前向き”に、テレヴィジョンから流れるワークアウトや格闘技の教則ビデオを閉塞生活の中にとり入れつつ、毎回毎回決まって出されるデリバリー餃子にとことん厭きながらも、体力をつける為にと無理矢理食べ続け、そしてお店のミステイクで余計に箸袋に刺さっていた、日本人から見たら情緒も何もないが、如何にも韓国らしいメタル箸の一本を懐中に大切に仕舞い隠し、脱出を謀って少しずつ少しずつ、その箸で壁の継ぎ目を彫り削る日々。
そして15年の歳月が流れた ……
太陽がいきなり目に滲みる !
それはメタル箸での脱出作戦が功を奏したわけではなく、巨大なスーツケースに詰め込まれての、向こうから勝手に有り難くも一張羅、ブラックスーツを着せられての放置であった
男は15年間食べ続けたデリバリー餃子の味だけを手掛かりに、自分をあまりにも理不尽に長期に亘って監禁し、そして何故かいきなり開放した存在への復讐を開始する。
という導入は、ハリウッド版とまったく同様のもの。
理不尽なるものの正体の解明、ということを基軸として展開する物語。
養老孟司さんの本を読むと、どうも人間の脳というものは、“どうしたらどうなる”、という組立を求める性質を持つデヴァイスのようである。
対して我々が住む、宇宙の中の地球というものは言わずもがな自然であり、人間が設計製造したものではないから、これはどうしたからといってどうなるものでもない。
が、人間の脳という装置は、自身の安定の為にそれを認めず、例えば新型風邪が流行すれば、皆が居酒屋で飲めや歌えや気が緩んでいるからだと、例えば天変地異が起こって人類が被害を被れば、地上で我々人間が傍若無人にふるまうから自然が怒っているとのだと、だからそういった行動を自制していけば、必ずやそれらはコントロールし得ると曲解するわけ
その脳の仕組みどおりに男は、15年間も監禁されて、そしてようやく外に出て来てみれば自分の妻は殺されていて、挙句その妻を殺した逃亡殺人犯に自分が仕立て上げられているという理不尽について、自分のどこかにその原因が潜んでいるのだろうと信じ、そして大まかにはその原因にたどり着く ……
このことは、映画には“たどり着く”ということが必要であって、何故ならば観客の脳が腑に落ちるということを求めていて、そして映画という娯楽もとどのつまり、そういった観客の要求を満たして対価を得るものであるから、ということなのだろうと思う。
逆にたどり着かない映画というのもあろうが、それには今度は、たどり着かない理由が求められるのであろう
「実戦で役に立つだろうか ?」
男の武器は、15年間の想像訓練と、そしてトンカチ。
開放されて見たくもない餃子をさらに食べ続け、その舌がやっとのこと探り当てたChinese Restaurantを伝ってたどり着いたビジネスとしての監禁請負い館で、男が15年間密室の中で相手もなく鍛え続けた筋力と格闘術、即ちイメイジトレーニングが、役に、“立った” !
よく絶対音感になぞらえて絶対味覚とかいうけれど、15年間も毎日同じ餃子を食べ続けたならば、少なくともその餃子に対しては、子供がお母さんのおつけの味を死ぬまで忘れないように、そしてまた鮭が生まれた川の水の味を絶対に忘れないように、それを測る味覚のスケイルに“絶対”という基軸が刻み込まれるのは、もう必然と言えなくはなかろうか
話は逸れるが、私は不味いと記憶が残るレストランへ再訪することがよくよくある。
それは料理の絶対値というものへの誠実なる確認作業とも言えるのだが、その作業が図らずも、自分の人間としての構えにとって、非常に有意義に作用することがあるのだ。
何故そんなことを言い出すのかというと、例えば食べグロなんかで、私は一度行っただけではそのお店の評価はしない(逆に言えば初見でレビュウは書くヤツはアホ)と恰好をつけている人たちがいるが、とすると、その“恰好”を成立させる為には、論理として少なくとも、不味いと思ったお店へも数度は通ってみなければならないはずだが、そちら側へはどうなの ? と言いたいから。
もしもそれをほんとうに実施している人がいたなら尊敬するが、でも自腹を切って“不味さの確認作業をする”奇特な人間なんか、おれ以外には滅多にいないでしょ ? ってことを言いたかっただけ。
これ以上は、皆まで言わないけどね ……
天使の羽根を背負ってはしゃぐ生娘のvirginを、図らずもいただいてしまった主人公。
storyは、やがて近親相姦を絡めてますますおどろおどろしく。
諸々の実験的効果を手探りした映像が、これは計算づくというよりは偶然の作用と思いたいが、物語の屈折に全体として非常に巧くマッチし、たしかに或るところの“美”には間違いなく到達していた、ということの宣言を持ちまして、宴もたけなわですが、私の映画評に代えさせていただければ幸いと存じます
2022/05/12 更新
2022/03 訪問
北京飯店/金の斧、銀の斧
「虫歯は何本ある ? 俺は質屋だ。金歯は買う。それ以外は …… ぜんぶ喰いちぎってやる !」
新宿のニコマートに似た名前の映画館で、現代の作品群が失ってしまった清々しいまでに容赦なきヴァイオレンスに彩られていそうな韓国映画が掛かっているのを偶然見つけてしまい、矢も楯もたまらずにやってきた。
わけありの質屋のおじさんが、隣人の、周りの大人から、そして親からも見捨てられた可哀想な女の子を助ける映画のようだが、おじさんと呼ばれる主人公がとてもおじさんには見えない途轍もなきイケメンという強引さも、とても韓国映画らしく、非常に楽しみ ♪
這い出したは新宿御苑駅。
界隈にそば屋がけっこうあるようでその中の一つを目指して歩いてきたが、新型コロナ対応の為に休業とのこと。なのでそこから100m検索をかけると、こないだやった町中華店がふたたびヒットしてきたものだから、ならば今度は別の料理を試してみようかと
<R4.3.19>
「北京飯店」
ドアを引入って、カウンターにお店の女の人が座っていたことに先ず驚かされる。
テーブル席におじさんが一人着いていたが、もう酔っているのか完全に半身で、それに巻き込まれてはいけないと思い(笑)、ひとつ空けてもっとも入口近くのテーブルに陣どった。
先日の訪問時に私のうしろに着いた男の子がやった、“ぼくのいつもどおり”の納豆炒飯を検討していたが、しかし、これは中華とは言えないと思うが、私にとって途轍もなく魅力的に映えるランチが目に飛び込んできてしまったならば、こないだも厨房をたった一人で守るおじさんに面倒な注文をして迷惑かけたと反省していながら、今日もその意味で、非常に反省させられるご飯を注文してしまった次第 ……
でもそれよりも何よりも、何もかも捨ててどこかへ去ってしまった奥さんが、こうして戻って来てくれたということが嬉しい。
こんな無口で口下手の、ただひたすらにラーメンを茹で続けることしか出来ない(こらっ !)不器用なおじさんのもとに、こうして戻って来てくれたということが !
“メンチカツ定食” @900也。
その奥さんはおっかけ入ってきたお喋りの常連客をかわすように、私はこれから“夜の美人”にチェンジしなければならないから休憩に入ると言い残し、また姿を消した。
それがまた永遠の別れにならなければ良いと、ぼくはひたすらに祈ってる ……
だから結局おじさんが、またぼくのご飯を運んできてくれた。
品書きに目玉焼き、焼きそば付き(笑/焼きそば付きって何 ? と思っていたらこれは洋食屋さんにおけるメンチカツへの付け合わせ、素のナポリタンのようなもので、その意味ではちゃんと設計されたランチであると思った)とあったことが、ぼくをどうにも後ろめたい気持ちに追い込んだわけだが、ふたたび出ていった奥さんが戻ってくるかどうかも分からない中で、それを意に介さずただひたすらに仕事に没頭するおじさんに、私は「居酒屋兆治」の高倉健を連想させられずにはいられなかった
「人が心に思うことは、だれも止めることは出来ない」
おじさんのこのお客さんに対する、兎も角満足させたい ! というサーヴィス精神は、もう誰も止めることは出来ない。
メンチが買い物かどうかは知らないが、そんなことはもはや関係なかった。恐ろしく人間を満たすお昼ご飯だった。アル中で身を崩す中人生復活を賭けて東野栄治郎から教わった、これこそが人類最高のお昼ご飯なのだ !
さっきのおばちゃんは、もうおじさんのもとには帰ってこないけど(おいおいおい !)、でもおじさんのもとには必ずや大原麗子さんが戻ってくるだろう。
木の斧を失くしても、まじめにやっていれば、それが必ずや金の斧になって戻ってくるように !
私はそう信じているし、おじさんもそう信じていると思う。
じゃなかったら、男はやってけない ……
【以下映画の話】
2011年 119分 大韓民国
「アジョシ」
集合アパートの一角で質屋を営る男。
そこに住む小さな女の子がいつも幼稚なものを持ってくるのだが、それをお金に換えてやってる。そうしないと女の子は万引きを繰り返すからだが、それでも女の子は万引きを繰り返すだろう。
あばずれの母親は、自分のことを性犯罪者だから近寄るなと女の子に言い聞かせているよう。その母親もまたくだらない質草を持って来つつ、自分の娘が来ていないか ? 自分の娘を部屋に入れるな ! 中を見せろ ! と喚きたてるので、質屋は窓口から母親に出した顔を固定したまんま、下半身に無理にへんな動きを与えて(笑)、娘のご飯茶碗を、テーブルの下に隠れる娘にキャッチさせ、それから戸を開けてお茶碗が一つしかないということを見せ、子供はここにはいないということをアッピールした。
その娘には親含め誰も頼れる人がいないようだが、自分だって天涯孤独。
そんなおじさんと少女の二人の“恋愛劇”のスタートを、公開十年以上を経て今まさに目のあたりにしてる。
大人と子供のLove storyには「グロリア」という傑作があったが、本作は果たして ……
ヌードダンサーをやって生活費を稼いでいた、というよりもヒモへ貢いでいたお母さんが大勝負に出て、店で行われた大量の麻薬取引に介入し、それを奪ってしまったものだから堪らない !
ヤクザな男たちが集合アパートにやって来て母親を脅し、母親から物を預かったろうと自分の質屋にもその手が及ぶ。
やってきた殺し屋は、動じない質屋の男を見て驚く。銃をちらつかせても、その発砲で目の前で人が死んだって、その質屋は動じないないばかりか、母親と娘を拉致した自分たちを追いかけて来るではないか !
あの男はいったいなんなのだろう ? 組織の殺し屋は、その時点で質屋に一目置いたと思う
● 麻薬シンジケートの中でも自分の手は汚さず、市場を牛耳るボス
● ボスの子分格で麻薬製造、臓器摘出などを手掛ける、いわば製造部門長のイカれた兄弟
● その兄弟に雇われた、残虐だが子供には優しいベトナム人の凄腕の殺し屋
● 鼻は効くが結果の出せない猪突猛進の刑事
● そして過去を抹消された質屋の男
目玉も臓腑もすべて“掃除”された少女の母親の遺骸を掴まされた男の怒りが沸騰する !
苛烈な闘いの中、「材料がなくて ……」 と、あり合わせの塗料で少女が施してくれたネイルペイントは、少しずつ剥げながらも、でもまだしっかりと残っていた。
日本映画、アメリカ映画もそうだが、韓国映画も最近はずいぶんとソフトになってしまって物足りなさを覚えるばかりだが、この10年ちょっと前の作品の血しぶきの飛びはどぎつくも鮮やかで、なかんづく清々しい
「お前は明日を生きる。明日を生きるやつが、今日を生きるやつに殺される」
悪行なれどビジネス。ならば明日を見据えて生きているのだろうが、おれには明日はない。今を生きていない人間が、今を生きる、逆に言えば今この瞬間にしか存在できないおれに勝てるわけがないだろう、ということなのだろうか。
このことは、新型コロナ過で協力金をいつまでもらえるのか ? 第6波は終息してしまいそうだが、デルタとオミクロンの合体型、デルタクロンにはぜひ頑張って欲しい ! と期待している居酒屋の店長たちの今日を生きていない魂と、“今夜を飲む”ことしか出来ないお客たちの心とは、決して呼応することがないことに似ている
韓国映画らしい、素晴らしい出来栄えのアクションだと思った。
熱が高いほうから低いほうへとしか伝わらないように、在るものが無いものに負けるわけがない !
だから最後まで生き残って仁王立ち、命懸けで守り抜いた少女が駆け寄ってくるのを「来るな ! 血がつく !」 と制した男に、ぜひとも、全身全霊をかけて感情移入したいのだけれど、あまりにイケメン過ぎてどこから入り込んで良いのか分からず、到底無理だったことが強烈に悔しかった
Fine
2022/03/22 更新
2022/02 訪問
北京飯店/ぼくの未だ見ぬ ……
映画好きの私は、同じ悪の枢軸国である(笑)ドイツのことを、実はけっこう可哀想だと思っている。
というのも、映画の世界では未だに、年間何本もの、大戦中のナチスドイツが周りの国に対して行った悪行、もしくはそれ以上の口では言えないようなことが定期的に掘り起こされていて、それがまた映画として画的重厚感を伴った見応えのあるものが多いものだから、ドイツという国はそうやられる限りはもう永遠に、極悪非道の許されざる国だというイメイジが世界の人々に、とりわけその映画の出来栄えが良いほどに固着化されていってしまうから
確かに、理性的なポーランド将校が自分たちの殺人ラインを、“自分たち自身の手に依って”作らされ、健気に帰りを待つ凛とした妻の願いに応えることが出来ず、不条理ながら、しかしどこまでも冷静な死を遂げる姿は観るものの心を強く揺り動かすが、その映画の出来栄えが良いということと、その内容の真実性とは必ずしも一体のものではない、ということまで了解し、それを受け止めている観客は、現実にはほんのわずかの割り合いでしかないのではなかろうか。
その点、大戦中の日本の残虐を扱った映画は、そもそもその勢いもないということが、これを朧気ながらも大戦中の、皆まで言わないけど、日本という国家に対する国際社会の評価としてとらまえても良いんじゃなかろうかと、私なんか今のところは胸を撫でおろしているのだけれど ……
<R4.2.19>
「北京飯店」
丸の内線を今日は新宿御苑前で下車。
お散歩写真中に何度か前を通過している、北京原人に似た名前の中華屋に、ちょっとおっかなびっくりではあったんだけど突っ込んでみる。
午後1時を回って数組の先客たちの中に仁王立ち、私をピックアップしてくれるホール係の姿無し。カウンターの向こう側で調理に励むおじさんの姿を認めたが、それはどういうわけだか、緒方直人ではなかった。
ふつうなら早々に踵を返して出ていくところだが、仕方なくカウンターに陣取ってみる。
アクリル板で仕切られたパーソナルスペイスの一つ一つに、鼻紙を捨てるビニル袋が無造作に置かれていて、その中身が溜まっているところに着いてしまった自分の洞察力の低さを、にわかに呪ってみちゃったりしつつ(笑)
目の前に、昼間っからのお酒チーム在り。
お店の固定電話が鳴り、その中のモンゴルマンカットの若者が厨房のおじさんに「電話 !」などと余計なことを促したが、フライパンを煽っている最中に電話なんか出れるわけないだろうばかやろう ! と、それはぼくではなく、ぼくの中に巣食うもう一人の人格、アキラがやおら叫ぶ !
平行してぼくの注文を進めながら、一瞬一区切りついたおじさんがぼくに、「こちらへ来ます ? テーブル」と促してくれて、ぼくは咄嗟なことでたじろいだものの、意味が分かってしまったならばその好意を無にしては失礼だと思って、「あ、どうも」と、実に煮え切らぬ言葉を発して席を移動させていただく。
カウンターのぼくのすぐ横に、これは焼酎のボトルだと思うのだけれど、晴美ちゃん4本目、というボトルと、晴美ちゃん5本目、というボトルが並んでいるのを見つけていて、ぼくの未だ見ぬ晴美ちゃんに対する興味が俄然高まっていたところ、後ろ髪引かれる思いで ……
“らーめん定食” @850也。
餃子2ヶ、奴、半ライス付き。
おじさんが一人で切り盛りしていることが分かっているのに、酷な注文したのは無論、アキラってやつ。おじさんはぼくが入ってきたときにはシカトしてくれたがほんとうはなかなかいい人のようで、テーブル席に移ったぼくの前に、それを丁寧に持ってきてくれた。
ラーメンに白いご飯というのは、とりわけ餃子2ヶというとき、私はそれをどう消化していけば良いのか分からないのだが、お新香の小鉢と、冷や奴の切り方が細かかった為、それらをストレスメンバーとしてやっていくのだなという意味が分かり、若干干乾びた感じではあるが粘りもある独特なご飯と、日本人としてこれまで培ってきた最高の技術を以て口中調味してゆく !
ラーメンもつゆの漆黒こそ昭和のそれに劣るものの、単純にうまい !
そのラーメンの麺、つゆともに白いご飯のおかずとして運用するに足るものだが、それを殊更必要とすることもなかった
お父さん 「何食うか ?」
男の子 「ぼくはいつもどおりです」
私の後ろに、小学校低学年くらいの男の子を連れた若いお父さんが着いた。
―― 子供の言う、こ~ゆ~中華屋での“いつもどおり”のものって何 ? 教えて池上遼一さん !
※ 巷で人気の池上彰さんよりも、現実に人間が生きていくときの相談ごとは、はるかに池上遼一さんのほうが長けていると思う。自分の義理のお母さんと図らずも男と女の関係になってしまったとき、それでも人は生きていかなければならない。そんな男であれば誰もが直面する悩みに答えてくれるのは、ある意味北方謙三さんでもなく、池上遼一さんしかいないはず !
お父さんが店のおじさんに注文をはじめた。
子供はまさか、納豆チャーハンと主張する(笑)。
いつもどおりの注文が納豆チャーハン。恐ろしい子供だと思ったが、こういう子供がこれからの日本には必要なのだと心底思う。
一刻も早く社会から、この老若男女四六時中のマスク着用を撤廃させ、自然のとおりありのままに、子供たちが人の表情の動きから緻密なコミュニケイションを図っていく力を学習出来る世の中をなんとかとり戻してあげなければと願うこの私の孤軍奮闘の空回りは、いったいいつまで続くのやら ……
2022/02/23 更新
丸ノ内線を新宿御苑で這い出して、はて ? この新宿通りをどっちに進めば国鉄新宿駅方面だろう ? と陽の差す方向を確認する作業を繰り返すことは、毎回同じ出口で出て来ることに成功していないからだろう。
通りの新宿御苑側には私の使えそうな店がないものだから(テラスせきが強調されたスカした店はあるけど)こちらで良かったなと思いつつ北へと足を進め、いつもの柳立ち並ぶ通りに出てしまって今日は土曜日 !
ボクの“北京”へと吸い寄せられていく自分を止めることは、もう出来なかった
<2025.1.18>
「北京飯店」
「消毒お願いしま~す ♪」
足を踏み込むなりのその規制に、今日はおかあさんが和解して帰ってきているなと思い知る。
早速ポンピングして手を揉むポーズを装いつつ、人間のお腹の中には常に100兆もの菌が蠢いているのに、手のひらだけ消毒したってしょ~がないですよ ! とは教えてあげず、このボトルの中身がアルコールならまだしも、次亜塩素水だったら、ここんちで次亜の製造設備でも持っていない限りは、次亜の殺菌力はすぐに減衰してしまうから意味ないですよ ! とも教えてあげない
カウンターはおかあさんの縄張りのようで、先客はおじさん一人。
この空間において自然な陣どり、及び適切なパーソナル距離の確保の為には、ボクはそのおじさんの手前隣のテーブルに着くのが適切だと思うのだが、そのおじさんが向こうを向いて着いている為、入口頭上に鎮座ましますブラウン管テレビを観るには、おじさんと背中合わせにならなければならず、そんなおっさんとの白昼のピンクレディーはヤだ ! と、仕方なくおじさんに倣ってテレビに背を向けて着いたら、今度はカウンターに座って悠々テレビを見上げるおかあさんと近距離で向い合せに !!
―― こんなとき、どんな顔していいのかわからない ……
“ラーメン” @750
“餃子” @650
〆て1,400円也。
ラーメンはそのつゆ透明度、及び漆黒さで、東京の昭和町中華のメインストリームはいけてないと思うし、餃子も、おいしいがしかし、唸るほどではないと短絡してしまうのもそれもこれも何もかも !
おれの十条「一番」がなくなってしまったからだということは、もう何度も先述させていただいている
お店にはさっきっから、お母さんと飲み友達と思しき、もっと質(たち)の悪い、みるからに呑兵衛そうなおじさんが(こらっ !)跋扈していた。
おじさんは昨夜も飲んでいたようだが、飽き足らずにまだ飲むよう。やおらおかあさんが、なんとかちゃんが今来たから ! と、さらに仲間を募るべく、緊急連絡網をたどって電話してる。
ボクがもうイヤってほど見てきた東十条の夜が、今まさにこの昼の新宿裏通りで展開されていた
アグネス・チャンが最初日本に来た頃、歌番組でよく八代亜紀さんといっしょになって、八代亜紀さんが「夜の新宿裏通り ~ ♪」と歌いはじめると、お客さんたちからそこで感嘆の拍手が一斉に沸き起こるのを、最初は薄気味が悪かったという。
夜の新宿の裏通りという歌詞に、いったい何の意味があるのか ? そしてまた日本人たちは何故、神社の境内とかにうじゃうじゃ、人を見てもまったく逃げようとしない緊張感のない鳩の群れを、捕まえて食べようとしないのか ?
そんなふうに日本人を訝ったというのだ
でも日本のことを理解していくうちに、というか未だティーンエイジャーだった彼女が若過ぎただけのことなのであろうが、そのシェイプされた歌詞の中に、夜の新宿裏通りが様々な人々のヒューマンドラマを包み込み、それに慰められながら、どうにか人々はそれぞれの人生をやっていけているんだよ、という意味が包括されていたということに、大人になってようやく気付いたのだと ……
おかあさんが電話をおいて、お使いに出るよう。
おかあさんが出ていくと、おじさんは今度は調理場のご主人を捕まえて、昨夜の粗相を必死にあやまりはじめた
ボクは、今日は土曜日なのに、日曜日の午後からやってるドキュメント番組を観ているような気分になる(笑)。
ちょっと逸れるが、あの日曜のドキュメントを観なくて済むようになったことも、ボクがテレビを捨ててことに依って得た恩恵の一つである。
その男同士のやりとりは、気高き協調にはとても見えなかったものの、興味深かったことは、おじさんとご主人そのどちらも、おかあさんの帰りを望んでいないように見えたこと
(それって、ボクの感想ですよね ? ⇒ そうです)
そんな人生劇場に後ろ髪惹かれながら、柳通りを新宿に向かってふたたび漕ぎはじめるボク
昼の新宿裏通り。肩を寄せあうひともいないが、でも、それほど気分もわるくない