2回
2019/03 訪問
Episode 118 『ホテル川久』(和歌山県・南紀白浜)古城の晩餐。黄金の天井の下で、春の息吹とトリュフの香りに溺れる
白浜の海が夕闇に染まる頃、私はまるで竜宮城のような異形の城の前に立っていた。
世界中の建築技術と粋を集めて建てられたという、ホテル川久。
エントランスをくぐると、そこには黄金に輝くドーム天井が広がっている。床を埋め尽くす緻密なモザイクタイル、回廊を支える重厚な柱。
昼間のアドベンチャーワールドでの喧騒が、まるで遠い過去の出来事のようだ。
今宵の私は、この「夢の城」の住人として、静寂に満ちた晩餐へと招かれる。
案内されたダイニングは、カトラリーが触れ合う微かな金属音だけが響く、洗練された空間だった。
3月の末日。外はまだ少し肌寒いが、テーブルの上に置かれたメニューには「春の息吹を感じて」という副題が躍っている。
まず運ばれてきたのは、ガラスの器に盛られた冷前菜だ。
「帆立貝のコンフィと牛肉のパテ・昆布のジュレ・キャビア」。
スプーンを入れると、琥珀色のジュレが光を乱反射させる。
口に運ぶと、ひんやりとした冷たさの後に、濃厚な海の旨味が押し寄せてきた。
昆布の出汁が効いたジュレが、ねっとりとした帆立と牛肉のパテを優しく繋ぎ止めている。
天頂に乗せられたキャビアの塩気が、全体を引き締めるアクセントだ。
まさに海と大地の出会い。一皿目から、私の舌は完全に支配された。
続いての温前菜は「フォアグラのパートフィロ包み」。
薄い生地(パートフィロ)に包まれたキツネ色の塊が、赤いソースの上に鎮座している。
ナイフを入れると、「パリッ、サクッ」という軽快な音が耳に心地よい。
中から現れたのは、とろりと溶け出した熱々のフォアグラだ。
濃厚な脂の甘みを、パリパリの生地の食感と、酸味の効いたソースが巧みに中和していく。
これはいけない。ワインを呼ぶ味だ。私は慌ててグラスに手を伸ばした。
スープは「桜鯛・蛸・烏賊・筍・空豆のコンソメロワイヤル」。
洋風の茶碗蒸しの上に、透き通った黄金色のコンソメスープが張られている。
スプーンですくうと、そこには春の役者たちが勢揃いしていた。
筍のシャキッとした歯ごたえ、桜鯛の上品な身質。
コンソメの奥深い香りが鼻腔を抜け、胃袋を優しく温めていく。
派手なフレンチの中に潜む、和の安らぎにも似た繊細な仕事だ。
魚料理は「サゴシとミナミイセエビのポワレ」。
皿に描かれた菜の花のクーリー(ソース)の緑色が、目に鮮やかだ。
サゴシの皮目は香ばしく、身はふっくら。焦がしバターソースのナッツのような香りが、淡白な白身魚にコクを与えている。
春野菜のほろ苦さが、冬の終わりと春の訪れを告げているようだ。
口直しの「桜風味のグラニテ」で舌をリセットすると、いよいよ真打ちの登場だ。
「奥羽牛フィレ肉のオイルバス、ミックスビーンズのフランセーズ」。
低温の油でじっくりと火を通したというフィレ肉は、ナイフの重みだけで切れるほどに柔らかい。
その断面は、美しい薔薇色だ。
そして肉の上には、これでもかと言わんばかりのトリュフのスライス。
口に含んだ瞬間、トリュフの妖艶な香りが爆発し、噛むほどに赤身肉の純粋な旨味が溢れ出す。
マデラ酒のソースが、そのすべてを甘美にまとめ上げる。
なんという贅沢、なんという背徳感。
この城の王になったかのような錯覚さえ覚える、圧倒的な一皿だった。
夢見心地のままデザートへ。
「ココナッツのブランマンジェと苺のコンカッセ」。
メレンゲのスティックが立体的に配置された現代アートのような一皿。
苺の酸味とココナッツの甘い香りが、重厚なコースの最後を華やかに彩る。
最後に運ばれてきたコーヒーを見て、私は思わず苦笑した。
カップの形が、完全な「ハート型」なのだ。
重厚な古城、熟練のフレンチ、そして最後にこの遊び心。
取っ手のない独特な形状のカップを両手で包み込むように持ち、漆黒の液体をすする。
苦味が、甘くなった口の中を洗い流し、現実に引き戻してくれる。
窓の外には、夜の帳が下りた白浜の海。
パンダの笑顔に癒やされ、古城のフレンチに酔いしれた一日。
この落差、この振れ幅こそが、旅という非日常の正体なのかもしれない。
私はハート型のカップをソーサーに戻し、深く息を吐いた。
極上の春を、ごちそうさまでした。
2026/02/14 更新
王様の夢には、まだ続きがあった。
重厚なカーテンの隙間から差し込む、南紀白浜の鋭い朝日で目を覚ます。
昨夜、あれほどの美食を胃袋に収めたというのに、人間という生き物はまた空腹を覚えるのだから業が深い。
私は身支度を整え、昨夜とは違う、朝の光に満ちたダイニングへと向かった。
ホテル川久の朝食は、「王様のビュッフェ」と呼ばれている。
その名が決して大袈裟ではないことは、会場に足を踏み入れた瞬間に理解できた。
目の前でシェフが焼き上げるステーキ、焼きたてのパンの香り、そして氷の上に鎮座する新鮮な魚介類。
ここは朝食会場ではない。食の展覧会だ。
理性を保とうと努めたが、私の本能が「もっと盛れ」と囁く。
私は白い皿を片手に、広大なビュッフェ台という大海原へ漕ぎ出した。
席に戻った私の目の前には、欲望をそのまま具現化したようなトレーが広がっている。
まずは、サラダやフルーツで罪悪感を少しだけ中和する。
厚切りのベーコンやハムは、脂がキラキラと輝き、マスタードを添えればそれだけで立派なメインディッシュだ。
だが、今朝の主役はそれらではない。
トレーの中央で圧倒的なオーラを放つ、小ぶりな丼。
私がビュッフェ台の海鮮コーナーで、自らの手で築城した「オリジナル海鮮丼」だ。
「これだ……これが食べたかったんだ」
白米の上に敷き詰められたのは、鮮やかなオレンジ色のサーモン、透き通るような甘海老、そして真紅のイクラ。
錦糸卵の黄色が、彩りに華を添えている。
箸で持ち上げると、ずっしりとした重量感が指に伝わる。
まずは、イクラとご飯を一緒にかき込む。
プチッ。
口の中で弾けた瞬間、濃厚な海のジュースが広がり、温かいご飯の甘みと混ざり合う。
旨い。理屈抜きに旨い。
昨夜の繊細なフレンチとは対極にある、直球の暴力的な旨さだ。
続いて甘海老。
とろりとした食感で、舌の上で優しく溶けていく。
サーモンは脂が乗っており、わさび醤油との相性は言わずもがな。
新鮮な魚介を、好きなだけ、好きな組み合わせで食べる。
この「自由」こそが、ビュッフェにおける最大の贅沢だ。
途中で挟む味噌汁の温かさが、興奮した胃袋を優しく撫でてくれる。
小皿に取った焼き魚や、出汁の効いた豆腐も、脇役にするには惜しい完成度だ。
窓の外には、穏やかな青い海が広がっている。
朝の光を浴びながら、海鮮丼を貪り食う。
この非日常感、この背徳感。
「帰りたくない」
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。
だが、皿の上から宝石たちが消えていくにつれ、現実へと戻る時間も刻一刻と迫ってくる。
最後の米粒一つまで綺麗に平らげ、熱いコーヒーで一息つく。
カップに浮かぶ湯気の向こうに、この二日間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
パンダの笑顔、古城の晩餐、そしてこの極上の朝食。
ホテル川久。その外観の奇抜さに目を奪われがちだが、ここは食のワンダーランドでもあった。
席を立ち、ダイニングを後にする。
胃袋は満たされ、身体中にエネルギーが充填された。
城を出れば、また日常という名の戦場が待っている。
だが今の私には、この「王様の記憶」がある。
次にここへ帰ってくる日を夢見て、私はチェックアウトのためにロビーへと歩き出した。