つい先日、mixiのプロフィールを久しぶりに書き換えたのだが、最後の方で、会いたい人を「ジョディ・フォスター」と書いた。その補足で「実は、一度だけ会ったことがある」と書いたのだが、ある方からメールでご質問を受けた。「いったいどうやって会うことができたのですか?」
期待を裏切るかもしれないが、実は、会ったといっても一対一でお会いしたわけではない。
忘れもしない今から10年と半年前、ジョディ・フォスターが「コンタクト」という映画のプロモーションで来日した。その当時、たまたま映画情報を扱う番組に配属されたばかりで、公式に行われた記者会見に行くことができたわけだ。
まだなれない仕事だったので、要領がわからず、相当早くに会見場についてしまった。まだほとんど記者や取材陣は来ていない。・・・当時、ジョディの大ファンだったぼくは、ラッキーとばかりに、一番前の席に陣取った。なんと、ジョディが座る席から6~7メートルほど!
その昔、庄野真代さんが、憧れの人を目の前にしたときには、「鼻の穴が広がる」とお話されていたことがある(庄野さんは、憧れの沢田研二さんを初めて前にしたとき、文字通り鼻の穴が広がったそうである_笑)。
そのときの、ぼくも、まさに文字通り「鼻の穴が広がった」。ジョディが会見場に現れた瞬間、思わず過呼吸状態(笑)。今にして思えば、プロ失格である。
美しかった・・・なんというのだろう・・・いわゆるエロティシズムとは無縁の、クールな美しさ、知的な美しさとはこういうものなのか、という気品があった。かなりひいき目な見方かもしれないが、そう見えたのだからしょうがない(笑)。ただただみとれてしまった(再びプロ失格である)。
そのときのジョディの言葉で、今も脳裏に刻まれている言葉がある。
会場から質問があがった。「作品の中で、
オズの魔法使いの
オーバー・ザ・レインボーがかかるシーンがある。
コンタクトにおけるエリー・アロウェイは、実はドロシーであり、その物語は、
オズの魔法使いがモチーフになっているのではないか?」
この難しい質問に対して、ジョディは、こう切り返した。
「監督からはその話は特に聞いていないが、私の意見をいわせてほしい。自分の読書経験に照らしてみて、人類の歴史に残る古典の物語には、ある普遍的な構造があると思う。主人公が、日常を離れて、ある非日常な世界で強烈な経験や旅をして、再び現実に帰ってくる。そのとき、主人公は、大きく生まれ変わり、精神的にも肉体的にも飛躍的に成長している。そうした物語の構造だ。エリーはそのような旅をしてきたのであり、その意味では、
オズの魔法使いも
コンタクトも、優れた古典がもつ、普遍的な構造をもっているのだと思う(趣意)」
おそらく、古今東西の古典を読み込んでいなければ、出てこないようなこんな主張を、借りてきた言葉ではなく、しかも全く淀みなくとうとうと語ったジョディ・・・す、すげぇ~。心の底から惚れ直してしまった。
映画「コンタクト」は、原作者カール・セーガンの高い志からすると、エンターテイメント性を加えようとするあまり少々強引で劇画的な展開(特に北海道を舞台にした部分)が少々残念さが残る映画ではあるが(まあ、それがゼメキス監督流なのであろう)、全体を通してみて、カール・セーガンの思想を非常にうまくくみ取って、映像化していると思う。非常に深い余韻を残した。
忘れられないのが、ラスト近く、エリー・アロウェイが大地の土くれを愛おしむようにすくい上げ、その土くれが、指の間からこぼれ落ちていく、というシーン。とても美しいシーンで、ぼく個人の中では、その土くれが、宇宙の星くずのイメージの重なった。そう、私たち一人一人の体も、そして踏みしめている大地も、さかのぼっていえば、みな同じ星くずから生まれてきたものだ、だからこそ、愛おしいのだ。2時間半の映画を凝縮したようなシーンだったと感じた。
ジョディのすばらしい演技とともに、心に残る作品である。
・・・というわけで、ぼくの夢の一つは、生きている間に、ジョディ・フォスターと一対一でお会いし、お話をすること・・・なのである。おばあちゃんになってもいいから、お会いしたい(笑)。