半年ぶりくらいに回ってないお鮨屋さんに行く。
握る前の仕込みにものすごく手間が掛かっている点に改めて感服するものの、それだけに食べ終わってからの余韻が鬱陶しい(失礼! )くらいに長く続き、あ、こりゃこれくらいの頻度で食ってりゃいいモンなのかもね、とも感じる。
鮨通にはなれないなと再認識。
近ごろは、凝ったフランス料理とかにもこう感じる点が少なからずあり、ご馳走ってなんなのかしら?と袋小路っぽいところに入った気分。
一方、ねりウニだのコノワタだの、おさかなの干物あたりでちまちまいっぱいやるのには一向飽きない。
エチゴ名物「ぬかいわし」の焼いたやつとかも。なんだかなあ。
をぢさんは、こういう気分になって八重洲の「ふくべ」とかが、ホントに居心地よくなるンだろうなあ。
ああ、書いてて我ながらじじむさい。
さて、これは加齢に伴う「舌の先祖帰り」によるものなのか、それともご馳走自体の「過剰」を嫌忌というか「敬してこれを近づけぬ」といった気分の変化によるものなのか?
じぶん自身にこういう「ゆらぎ」が出てしまうと、何かを食べ続けているから、とかこの店には何十年通い続けているからという経験由来の(自分の)判断が甚だぁゃしぃものだと感じざるを得ない。
好き嫌い、嗜好はともかく、モノ(食べ物、料理屋)そのものの良し悪しを客観的に測る事が出来るという向きもあるかとは思うけれど、それは自分のカネで誰かの「審査員」を肩代りしているようなモンで「あんまり」愉快ではない。
飲み食いには「楽しみ」を求めてるんだしね。
料理屋評論を生業にしているひとは、この「肩代り」を苦痛とせずやってる訳で、尊敬に値する、とは申さぬものの、「楽しみ」のひとつをヒトや世の中に差し出してしまっているので、やあお疲れちゃん、という気がしない、事もない。
長く飲食口コミ、点数をつけているレビュアー、素人の目利きというひとびとはここいらへん、どうやってバランスとっているのかしら? アタシとは真逆で「変わらないブレない自分」でいる事に心地よさを感じているのかな?
一方、自分じしんを振り返ってみると、レビューの中に「旨し」「おいしい」という文言は昨今だんだん減ってきていて、「型が決まる」だの「調子が高い」だのという、なんだかお稽古事みたいな表現が無意識のうちに増えてるな、と感じている。
前述の「ゆらぎ」が顕在化してきているのかな、と思う。
つい最近、と思っている事が気がつくと30年以上前で、え? オレは全然変わってないし相変わらずのぼせ症のおっちょこちょいで老成もしてないのに! とウロタえる事が少なくないのだけれど、食べたり飲んだりに、体力由来ではなく感覚上の「ゆらぎ」が顕在化してきているところに、あ、オレ変わってきたな、と、気づく次第。
高級食材てんこ盛りの料理とか、旨味を重ねに重ねたイマドキのラーメンから距離を置くのは、「本当の味」「澄んだ味や香り」「正しい姿勢」との相違からではなく、「過剰」を鬱陶しい、「(若い人の言葉を借りると)メンドくさい」が先に立ってる。
こういうゆらぎまくる人情の持ち主だから
「あーMSSBくんには味の正誤については期待してないし描かなくていいよ、面白い文章だけ書いてくれれば」
と10年以上前に看過した卍センセは極めて正鵠を射ていた、ということになるんだろう、ちぇっ!
(ごじしん、覚えてらっしゃらないようですが、当時ホントにそー言われたンですから! (笑 )
まぁ、そもそも、ほどの良い造りのカウンタや小体な食卓で、手触りの良い徳利や猪口、グラスを掌の中で玩弄している「行為」自体が楽しくて、酒自体やお料理の出来栄えは、作った人の存在や温もりが感じられ、そこそこに仕上がっていればオッケーという「晩酌派」だからね、オレ。
はは。
あ、ただ、昨今この「そこそこ」に至ってないヤカラが…ってこういう事言い出すのには、オレもまだ娑婆っ気が残ってるみたい。
決してマズいものではないけれど、例えば「つきだし」や「八寸」に鈴廣のオードブル蒲鉾
https://ec.kamaboko.com/shop/goods/list.html?cid=umiyamaを切っただけのが出てくると、ちょい「やな感じ」になる偏狭さ、は、相変わらずある。
「いたわさ」には文句ないんだけどね。分かるかなぁ、わっかんねぇだろ〜な〜イェーイ♪©松鶴家千とせ師匠
オードブルかまぼこってイマドキはないんだろうけど昔、新婚家庭に遊びに行くと出てきた「チクワにキューリを挿しこんだアレ」みたいな「やるせなさ」が
…あ、いけね。ポテサラおぢさんみたいに叱られる?!
#だからワタシは嫌われる
さて、今日は仕事の後、どこでいっぱいやろうかな。