日本海の灰色の空が、たまの気まぐれで晴れ上がり、日の光が部屋に差し込んできて、清んだ空気と反射しているような冬の午後
とか、
ちょっとした仕事が片付いてホッとしている
とか、
贔屓のミステリ作家の新作を手に入れ、ひとり安楽椅子にぬくぬくと納まり、さぁこれから読みましょうかというとき
とか、の「チョッといい気分」のとき、グラスの中で細かい泡をあげているシャンペーンの一杯があると、「いい気分」が増幅されてよろしい。
とは言え、シャンペーンを一本開ける、という事になると、なにかと面倒だ。
まずその姿。壜の形といい、ラベルといい、コルク栓の具合といい、「祝い酒」という側面の強い酒であるから、なにやかやと大仰で、言ってしまえば「エラソー」感が強く、気軽にポン! とやる気にならない。
そして値段。けしからぬほど高い、という訳ではないが、醸した年の表示のない一般的なものだって、普段晩酌で使っている一升瓶二本ほどの値はする。ごくアタリマエの中年男としちゃ、一瞬の一人の愉しみだけに、気軽に開ける事を躊躇させられる。
さらには、開けたら開けたで、泡の消えないうちに呑み切ってしまわないとなんだか落ち着かない。密封栓、いわゆるストッパーを使えば「持ち」のいいのも分るのだが、一杯注いではバキュバンで空気を押し込み栓をして・・・とやっていては、「いい気分」が殺がれる憾みがある。
ような気がする。
つまり、「いい気分」をより飛翔させるものでありながら、とは言え中々抜栓するのには「決心」のいる酒、それが、シャンペーンという奴なンである!
しかしながら。
世の中よくしたもので、捨てる神あればなんとやら、シャンペーンには上記で言及してきた通常サイズ(750ml)のほかに1/4サイズ(とは言え200mlであること多し)、通称ピッコロ壜というやつがある。
これがいい。
まずカタチ。オリジナルの縮小版とは言いながら、注ぎ口の口径はオリジナルと変わらないから、全体にすこし「ずんぐりむっくり」になる。
と、シルエット、ラベルの構成にどこか滑稽味というか愛嬌が出てきて、「エラソー」感が薄れる。
栓もコルクと留め金から、多くの場合スクリュートップ・スタイルになるから、シャンペーンの持つ「佳いもの」のイメージは残しながら、適度にカジュアルに、軽くなる。
そして値段。一本1,500円から、せいぜい2,000円。これにしたって決して「廉い」訳ではないが、「レストランのグラスワインの上等」くらいに落ち着くから、「ま、いっか」と、気弱なおぢさんでも、比較的罪悪感を感じずに、開ける事が出来る。
さらにはその容量そのもの。グラスに一杯チョイだから、一度注いでしまえば「のこり」の心配をしなくてもよい。
又、足りなければ「もう一本」となっても、「心理的負担」は、最初から大壜を開ける時よりは、はるかに軽い。
ワイン通のひとに言わせれば、一本のワインはより大ロットの同一条件で瓶詰めしたものの方が良く、ハーフより大壜、出来ればマグナム・・・という事になり、このちびっこ壜の味わいなど、まさに「薬にもしたくない」となるのかもしれない。
が、こちらは「チョッといい気分」のドーピングにこれを用いているんで、味わいは二の次、とは言わないが、ま、そこそこであれば宜しい。
と、いう訳で、我が家の冷蔵庫の野菜室には、出来るだけシャンペーンのピッコロ壜を切らさないように腐心している。
ピッコロ壜のデザインとして好ましいのは、嘗てツル印空港のC席御用であったパイパー・エドシック(ピペ・エドシック?どっちが一般的?)が見慣れているから落ち着くが、マム社のコルドンルージュなんかもいい。
ややクラシックすぎる意匠ではあるものの、シャンペーンと言いつつ、どこかイタリーっぽい色使いが楽しいし、「あの」アーネスト・ヘミングウェイの愛飲酒であった、という伝説が、「気分の高揚」をより強めるような気がする。
壜の「なかみ」のキレのよさを、そのまま連想させるラベルのデザインとなると、テタンジェも宜しい。黄色がかった白いラベルに楷書で端正な文字が並んでいるだけ、というのは、中々すっきりしていて気持ちがいい。
香港のリッツ・カールトンホテルで、カビアのブリニとともに、ルームサービスの出前でとった時「タイティンジャー」と発音しなければ通じなかった、なんてのも、個人的には「愉しかった思い出」だ。
モェ・エ・シャンドンのひとつ星は、若いころ背伸びをしたあれこれを思い出させ、クリコ未亡人の黄色いラベルには、どこか「明るい中の闇」みたいなものを思わせるものがある。
結局、当方の「シャンペーンごのみ」は、味わいやお菜との調和、などより、あの泡自体の存在と、ラベルから想起されるあれこれの「記憶」に由来しているところが強いみたいである。
だからワタシはトンチンカン。