ちかごろのカツ丼は、ウマくなくなった。
とんかつ専門店で出すものなど、豚や卵への目利きはたいしたものだし、かつの肉厚は堂々としており、しかも揚げたてを渋滞なく、割り下で煮、イマドキ風にふわふわとろとろに卵でとじる。
めしも吟味されたコシヒカリやあきたこまち。見るからにピカピカもっちりと来ていて、どんぶりの上から三つ葉など散らしてある。
こうして作り上げられたカツ丼の、そのありさまたるや、どんぶりものでありながら、ひとつの作品のように神々しく、且つ、ご馳走感にあふれている
…んだが、これ、すべてカツ丼のうまさ、存在意義を台無しにしているンである。
考えてみたまえ。
どんぶりものとはそもそもなんだ? あたま(具)と台(めし)をどんぶりの中で一体化せしめ、これの融和を愛で、味わうものであるハズである。
しかしながら上記「ご馳走的カツ丼」の場合、かつが、たまごが、そしてめしがそれぞれの存在を声高に申し立て、一向歩み寄ろうとする気配がない。
かつとめしのそれぞれの旨さを堪能したければ、わざわざ割り下のつゆなんかにぶち込み、あまつさえ煮込むなんてことせず、素直にかつ定食、ないしカツ・ライスで喰えばいいンである。
むかしのカツ丼は、そうではなかった。
第一、とんかつ専門店で喰うというより、蕎麦屋で口にするものであった。
もともと蕎麦屋には、天丼、親子丼といったどんぶりを触媒として、あたまと台をアセンブリするという、主に出前で提供されるお菜が存在しており、そこにはイニシエより尊ばれた伝統の技術? があった。
これが今日より一層、米飯食に対する執着があった時代に台頭、大いに採用されていた、という事実をかんがみる限り、それに準拠したほうが合理であること、疑う余地はあるまい。
さて、旧来型の「蕎麦屋のカツ丼」はどのように作成されたか?
その前に!
街場の蕎麦屋で長く使われ、しかし一般市民諸君の人口に膾炙されていない言葉に莫(ばく というのが、ある。
莫というのは、てんぷらを揚げおきにしておいたもの、である。
忙しい、時分時には、都度の注文でてんぷらを揚げている訳には行かないので、いわゆる「見込み生産」で仕込み、天丼ないしてんぷらそばのが入ったら、温そばやめしの入ったどんぶりにコイツをえいや! と放り込み、一丁あがり、という真似をする。
てんぷらそばであれば「つゆ」に浸っている間に揚げたてかどうか、なんて分からなくなるし、天丼であれば最後にのっける「フタ」により半密閉され、底の温飯でよって「いい感じ」に蒸れちゃうから、これはこれでいい訳である。
これを「終わりよければすべてよし」と言う。
蕎麦屋のカツ丼も、蕎麦屋で調製されていた訳だから、やはり揚げ置きの「莫」が採用される。
しかもほかの「たねもの」にも流用できる鶏肉ではなく、数が出るかどうか分からない、少なくとも専門のとんかつ屋よりは出ない、豚肉である。
材料の吟味などしようがないし、したところで知れている。だからある程度、スジのキツい、脂身多目のそれを用いる。
が、コレがいいンである!
華菜、中華料理を少しでも学ばれた向きはご存知のように、かの国の割烹法には「滑油(油通し)」という手法がある。
つまり、材料を煮たり、炒めたりする前に、油にくぐらせる事により、加熱により素材の口当たりを柔らくし、余計な水分を落とし、且つ、対汁(あわせ調味料)が材料に染みやすくする訳である。
しかも湯通ししたて、ではなく、しばらく置いて粗熱をとってからのほうが、後に炒めるにしても煮るにしても、対汁がより素材に染み込みやすくなる事は、賢明なる読者諸兄はすでに、経験でご存知である事であろう。
そう、蕎麦屋に莫採用のカツ丼においては、知ってか知らずか、この技法が入り込んでいる。
スジっぽい、硬い豚肉は一度揚げられる事により、柔らかさを得るが、、一度覚まして、つまり莫となって待機する。
そして注文が入った折、たまねぎとともに割り下の入った「親子なべ」に投入され、冷めているから揚げたてのそれより温まるまで余計に煮られる。
と、かつの衣と肉は全身にたっぷりと割り下を吸い込むと同時に、スジの部分だけに濃厚なけだもの由来の旨み要素を割り下に、時間がかかる分ゆっくり、ナミナミと供出、いわば「交換作業」を行う。
かつと割り下の一体感は、一層高まり、そこに加えて、現代のような「ふわりとろり」ではなく、しっかりと熱を通す作法の「卵とじ」は瞬時にして上記を閉じ込め、固定する。
そして出来上がった「あたま」が乗るのは、蕎麦屋で炊かれているから、量も少なく、粘度も低い、ごく普通の温飯。
…なンだが、粘度に欠けるという事は水分を吸収しやすいという事。
一体となったあたまの汁気をどっしり受け止め、「もうこれほど堅牢な結びつきはない」というほどの調和を呈する。
こうして結びついた一塊のものに、もはや余分な薬味などは要らず、三つ葉、焼き海苔などは香りが高い分、却って邪魔になり、唯一「あをのり」のとぼけた風味だけが、ま、及第点といったところ。で、これをひとふり。
最後に「蓋」がされ、全体の密着度が上がったところで、ようやく食卓に現れた「蕎麦屋のカツ丼」は、マズかろうハズがなく、ゆえに戦後高度成長時代の青少年、額に汗して働くオトウサン諸君に大いに愛されたのである!
そう、とんかつ、と、カツ丼は別のウマさや存在理由があるのにかかわらず、現代のグルメ・ブームと、穿った本格志向がそれを混同、誤解する形で、「昔の味」を打ち捨て、とんかつ屋は、「無駄に」材料を吟味した、滑らかさに欠けるサイボーグみたいなカツ丼を供する。
蕎麦屋も蕎麦屋で、「んだようこの店、作り置きつかってるジャン! 」なんてレビューに書かれるのを恐れ、中途半端な肉を、中途半端な割烹で調製し、単なる「中間工程のヌケた半端もの」みたいなものを出しちゃ、当方のように口が奢ってはいないが悪い、ひねくれものから悪態をつかれ、
「んー、蕎麦屋のカツ丼ナツカシー! 」
と、喜び勇んで頼んだものの、「アレ」っと、オトウサンがたから首をひねられて居たりする。
どこかしっかり? とした、莫のカツ丼、出すところないかね?
だからワタシは嫌われる。