本田 直之さんが投稿した鮨 さいとう(東京/溜池山王)の口コミ詳細

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三ツ星から屋台まで

この口コミは、本田 直之さんが訪問した当時の主観的なご意見・ご感想です。

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鮨 さいとう六本木一丁目、神谷町、六本木/寿司

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1回目

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迷って、ぶれて、たどり着いた究極のオリジナリティ

王道を極めた鮨。
もはやコメント不要だが、シャリとネタのバランス、美しい握りとその所作。
このために毎月日本に来てしまうほど。

本田直之の「賛否両論=オリジナリティ」 ~批判に負けず、クリエイティブに生きる~より

2004年に鮨かねさか赤坂店としてオープンし、2007年に鮨さいとうに名前を変え、2008年に初めてミシュランの星を獲得すると、2010年以降8年連続で三つ星を獲得しているのが、東京・六本木の「鮨さいとう」です。今、日本で最も予約が取りづらい鮨レストラン、と言っても過言ではないでしょう。半年後の予約もとれるかどうか、という声も聞こえてきます。

実は僕は、「鮨さいとう」が今の場所に移る前、まだ「鮨かねさか赤坂店」だった頃からお店に通っていました。今から12年ほど前のことです。

当時は鮨ブームでもなんでもなく、老いた大将が握りながら怒っているような小難しい店も少なくない時代でした。鮨屋は入りにくいイメージが強かった。僕は30代半ばでしたが、いい店になかなか出会えませんでした。

そんなときに、知人に連れていってもらったのが「鮨かねさか赤坂店」でした。今も強く印象に残っているのは、自転車会館の駐車場の入口から入るという、びっくりするくらいわかりにくく、変わった場所にあったことです。行き方を説明しないと、初めての人はとても来られないような店でした。

修業の最初の3年は、ほとんど掃除だけだった

ただ、味も良く、何より接客が心地良いものでした。ここから、店主の齋藤孝司さんとのお付き合いは始まりました。当時は、「明日の予約は大丈夫ですか」なんて前日に問い合わせができた時代でした。その後、2007年に「鮨かねさか赤坂店」から名前を変える形で「鮨さいとう」になり、2014年に独立して六本木に移転することになります。


齋藤さんは千葉県八千代市生まれ。高校時代、魚屋でアルバイトしたことが、この仕事に入るきっかけになったと言います。

「野球部の歴代の先輩がアルバイトしている魚屋がありました。その親方が本当にカッコ良くて、このまま魚屋になろうかな、と思っていたんですね。ところがあるとき、親方に地元の高級鮨屋に連れていってもらう機会があって。出前の鮨しか食べたことがなかったので、カウンターで食べる鮨は衝撃でした。これまたカウンターの向こうがカッコ良く見えて、鮨屋になろう、と。何か切って付けているだけみたいだし、と(笑)。しかも、会計がけっこういいお値段で、稼げるんだと思ったんです(笑)」

高校を卒業後、齋藤さんは「やるなら東京へ行け」という親方のアドバイスのもと、銀座の高級鮨店に入ります。ここから、厳しい修行の時代が始まりました。

「最初の3年はほとんど掃除だけでした。包丁に触れられるのは、賄いをつくるときだけ。お客さまに出すものは、仕込みでも触らせてもらえない。厳しかったですね。同期は10人ほどいましたが、3カ月で半分になって、半年でまた半分になって、一年経ったときには僕だけでした。上下関係も厳しかったんですが、僕は野球部で慣れていましたから」

初めて魚を触らせてもらえたときの感動

どんな世界でも最初からうまくいくわけではありません。最初は苦しい時期が続くもの。こういう時期を乗り越える力を持っていないと結局、途中で折れてしまったり、諦めてしまったりしかねません。また、技術的な裏打ちを付けるにも、我慢は必要です。

最近では、修業など必要あるのか、という声が聞こえてくることもあります。たしかに理不尽な修業は不要かもしれませんが、やはり修業の時期は重要だと僕は感じています。齋藤さんも、修業があってこそ、のこんな話をしていました。

「何年も魚に触らせてもらえませんから、初めて触らせてもらったときには、本当にうれしかったんです。コハダの頭を落としただけでしたが、今でもそのときの鮮烈なイメージを覚えています。自分も鮨屋になったんだ、という感動。あの瞬間は、絶対に忘れられないです」

しかも実は、このときのために準備をしていた、と言います。掃除ばかりの日々の中でも、いずれチャンスがやってくることを、先輩が教えてくれていたのです。その先輩こそ、後に「鮨かねさか」をつくる金坂真次さんでした。素直に教えを請うた齋藤さんを見込んで、いつでも準備をしておけ、とアドバイスしていたと言います。

「ある日、突然、声がかかるんです。そのとき、お、こいつは練習している、ということがわかれば、またチャンスがもらえる。だから、日頃から準備をしていました。地元のアルバイト先の魚屋で、魚を下ろさせてもらったりもしました」


言ってみれば、「陰練(かげれん)」です。これをやらないと、チャンスが来たとき「初めてなんです」になりかねない。これでは次のチャンスは来ません。あらゆる仕事でそうでしょう。心と体の準備ができている人だけに、次のチャンスはあるのです。ところが、多くの人が待っているだけです。それではチャンスが来たときに結果を出せません。

 その後、金坂さんに見込まれた齋藤さんは、「いつか独立する。それまでいろんな世界を見てこい」という言葉をもらいます。高級鮨店を5年で辞めると、それから5年、齋藤さんは自由な日々を過ごしたといいます。

外の世界を見ることは、遠回りではない

これは今回の連載でご紹介する方々に共通することですが、必ず外の世界を見ています。遠回りのようでいて、実はそうではない。フレンチのシェフの中には、1年休んで肉屋で働いていた人もいます。遠回りだけれど、こういう経験は他にない仕事の深みにつながります。齋藤さんも、和食の店、鮨割烹のほか、鮨店も何軒か回ったといいます。この経験が後に生きます。いわゆるプータローの期間もあったそうです。

「サーフィンにハマっていた時期もあります(笑)。このまま生きていけたらいいなぁ、なんて思いましたね。でも、現実に気づくわけですね。それは難しい、と。おかげで、しっかりあきらめがついたんです。サーフィンはきっぱりやめました」


2000年、27歳のとき、28歳の金坂さんの独立に合流します。銀座の鮨店での20代の独立は、当時はありえない出来事だったといいます。それだけに大変でした。独立までには、一年以上を要します。それまで、金坂さんと一緒に住んで準備をしたのだそうです。そして開業後も、苦労は続きました。

「一年半、休まなかったですね。お客さんがゼロの日はなかったんですが、なかなか繁盛できない中、迷いがありました。今では考えられませんが、野菜のお鮨をやってみたり、キャビアやフカヒレを使ってみたり」

どうしていいかわからなくなり、方向性がぶれてしまったというのです。しかし、試行錯誤する中で、自分たちの進むべき道を見つけていくことになります。

「“この鮨は何だ、あの店の鮨を食べてこい”と、ある著名なお客さまに叱られて、食べに行ったんです。衝撃でした。マグロとウニにこれはうめえと感動して。そこから軌道修正をして元に戻しました。いいものを仕入れて、ちょっと手を加えて出すのが、鮨だ、と。王道というか、本道に戻っていきました」

コハダ、アナゴ、マグロ、煮ハマグリなど、王道にこだわることを改めて決めます。王道はなくならない。一方で王道の進化形がこれまではなかった。むしろ王道は攻められるんじゃないか……。

「その意味で、最初に創作系に走ってしまったのは、むしろ良かったんじゃないかと思っています。これは違う、ということに気づくことができたからです」


間違った方向に行ったことで、自分を知ることができたのです。自分の合わないことをやってはいけない。流行っているから、とマネしてもうまくいかない。自分の立つべきところから、自分の行く道を決めることができたのです。

「お客さまにも恵まれました。若造だったから、毎日怒られていましたが、聞く耳が持てたんですよね。不安もありましたから、お客さまの言うことは1度は聞いてかみ砕いて、いいものは取り入れよう、と考えていました」

有名店がどの仲買から買っているか、後をつけた

これは若くして独立したことが大きかったのではないかと思います。スタートが早かったから、人の言うことも素直に聞けたのです。そして鮨屋にとっては極めて重要な仕入れ先、仲買の見つけ方もびっくりするような方法をとっていました。

「有名店の親方がどの仲買から買っているか、こっそり後を付けて見に行きました。もちろん、最初は相手にしてもらえません。ふっかけられたりもしていたかもしれませんが、すべてを受け入れました。いくらでもいいから、とにかくいいものを出してほしい、と」

値段は一切聞かなかったそうです。それを借金してでも現金で買った。こうして、トップの仲買から高品質の魚を卸してもらえるようになります。若いから無理だろう、売ってくれないだろう、と考えるのではなく、あきらめずに挑んでいったのです。しかも、ここからさらに踏み込んだといいます。

「市場の出してきた魚を、お客さまがどう捉えるか、ちゃんと反応を見ていったんですね。それを市場に伝えていきました。いい魚を買うには、この繰り返しが大切なんです。市場にはお客さまはいません。だから、しっかりコミュニケーションをしていかないといけない。お客さまの声を市場に伝えていくのも、僕たちの仕事なんだと思っています」

「鮨かねさか」は繁盛店に育っていきました。そして2004年、赤坂に分店を出すことになります。これが「鮨かねさか赤坂店」です。齋藤さんは31歳になっていました。仕入れなどのやり方は銀座の本店と同じ。ただ、ひとつ厳しい条件があったと言います。

「銀座からはお客さまの紹介を一切しない、ということです。お前はお前で、お客さまを付けろ、と。これには驚きました。どうすればいいのかわかりませんでした。ただ、人間そうなると、いろいろ必死で考えるようになるんです。これが、結果的に良かった」

紹介されなかっただけに、赤坂店には齋藤さんが自分の力で集めたお客がつくことになりました。銀座店とは違う顧客が開拓されていったのです。そしてこの時期、その開拓に一役買った大きな環境変化がありました。それがインターネットの口コミサイトやブログ、そしてミシュランだったのです。

後編につづく

2017/10/03 更新

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