天下統一を果たした豊臣秀吉(1537-1598)は、さらに大陸への侵攻を意図し、その前線基地として現在の佐賀県唐津市に名護屋城を築城しました。そして、15万人以上の兵士を招集したといわれています。
しかし、大陸への出兵に備えて、めぼしい船は既にあらかた徴用されていましたので、本州各地から動員された兵士の大軍は関門海峡を渡ることができず、九州を目前にして下関での滞留を余儀なくされたそうです。
膨大な数の兵士の食糧を現地で調達することは不可能でしたので、兵士たちはたちまち食糧に窮する事態になりました。空腹を満たすために兵士たちは、当時下関の沿岸で豊富に獲れたフグを食べて、中毒死する者が相次いで発生する事態となったといいます。
日本人がフグを食用とし始めた起源は明確ではありませんが、日本各地で発掘されている縄文時代の貝塚からは貝殻や魚の骨とともにフグの骨も出土しているので、既にこの時代には、日本でフグを食糧としていたことが推測できます。
明治期に作成された古い海図をみると、当時の関門海峡をはじめ下関周辺の海域はトラフグの産卵に適した浅瀬が広く存在していたことがわかります。下関市内で発掘された貝塚からもフグの骨が発見されていますので、下関ではフグ食というヴァナキュラー文化が存在していたといえます。
しかし、当時、フグを初めて目にした兵士も多く、彼らは猛毒とは知らずに、肝臓や卵巣を食べて次々と倒れていきました。
この事態に激怒した秀吉は、河豚食禁止令を発し、フグ食は禁止されることになりました。このフグ食禁止の流れは武家階層を中心としてその後も受け継がれ、徳川幕府から明治維新後まで承継されています。特に長州藩(現在の山口県)では、藩士がフグを食べたことが発覚した場合、家禄没収などの厳しい処分が科せられたとのことです。
もっとも、この河豚食禁止令は主に武士階級に対するものでしたので、一般庶民はその後も結構フグを食べていたようです。
鰒(フグ)食はぬ 奴には見せな 不二(富士)の山(小林一茶)
なお、下関市在住の直木賞作家古川薫氏は自著の中で、豊臣秀吉が1587年に20万の大軍を率いて九州征伐に赴いた折、下関に滞留した兵士がフグを食べて集団中毒をおこしたため、河豚食禁止令が出されたという説を紹介しています*。
註:古川薫『関門海峡-歴史をはこぶ運河』新日本教育図書,2003年。