138回
2025/05 訪問
ふくにて、魚のおかずを
亀戸駅の改札を出て、ふと風のにおいを確かめるように空を仰ぐ。乾いた五月の光が、街の隅々まで届いていて、何でもない道がすこしだけ新しく見えた。そんな午後、「ふく」へと向かった。
先週は肉のおかずを三日続けていただいた。
とり大根、豚の角煮、ロールキャベツ。どれもそれぞれに力強くて、親しみがあって、食べるたびに身体の芯があたたかくなった。ふくでその料理を食べることが、いつの間にか、僕にとって大事な習慣になっていたのかもしれない。
でも今週は、魚にしようと思った。そういうときがあるのだ。理由はいつもあいまいで、ただ心のどこかがそう言っているような気がするだけ。そして、僕はその声をわりと信じるタイプの人間だった。
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水曜日 ― しゃけの西京焼
ふくのしゃけは、どこか空想の中で描かれたように立派だった。身が厚くて、焼き色は絶妙で、西京味噌の香りがふんわりと鼻をくすぐった。箸を入れると、ゆっくりと身がほどけて、まるで何かを許してくれているみたいだった。
味はもちろん申し分ない。やさしい甘みと、香ばしさと、じんわりくる塩気が、ひとつの物語のように口の中で広がっていった。ごはんが進む。進みすぎて、途中で少し困ったくらいだ。
こんなにごはんが恋しくなるしゃけが、この世にどれだけあるのだろう。たぶん、そう多くはない。
木曜日 ― ぶり大根
このぶりの厚さには、最初すこし驚かされた。
大きくて、重たくて、でもそのくせ口に入れると、ほろりと崩れてしまうほどやわらかい。
しっかりと甘辛く煮込まれていて、どこか懐かしい味がした。きっとそれは、味そのものではなく、誰かの気配のようなものだったのかもしれない。添えられた大根は、面取りが施されていて、煮汁が芯まで染みこんでいた。箸でそっと崩して、最後の一粒のごはんにのせて食べたとき、胸の奥に小さな灯がともるような気がした。その感じは、言葉にしようとすると消えてしまう、こわれもののようなものだった。
こんな魚のおかずは、そうそう出会えるものじゃない。それは間違いない。ましてや、こうして定食として味わえるなんて、奇跡に近い出来事だ。でも、奇跡には終わりがある。だからこそ、奇跡なのだろう。もうこんな魚のおかずに出会えなくなるかもしれない──そう思ったとき、何気なく噛みしめていたぶりの切れ端が、ふっと胸にひっかかるような気がした。
「また来よう」と、僕は心のなかでつぶやいた。
それは、ただのあいさつかもしれないし、
もしかしたら、自分に言い聞かせているだけかもしれなかった。でも、そういう言葉が、日々を静かに支えていることもある。
帰り道、ほんのり温まったシャツの背中に、風がそっと触れた。見上げる空は、何も知らないふりをしていて、僕もそれに合わせて、何も考えないふりをしながら、駅へと向かった。でも、胸の奥に残ったあの味だけは、しばらく消えそうになかった。
#ふく
2025/05/25 更新
2025/05 訪問
ふくにて、肉のおかずを
亀戸駅を出て、喧騒の谷間をすり抜けるように数分歩く。いつもの通りを曲がると、あの小さな店が現れる。「ふく」。看板は控えめで、表の風景に紛れている。でも僕にはすぐにわかる。五年通い詰めた場所だ。何度足を運んだか、もう数えるのもやめた頃から、本当の常連というのが始まるのかもしれない。
今週は水、木、金と三連荘でふくへ。まるで身体がこの店の重力に引き寄せられているようだった。ひとつひとつの料理に、時間の粒が静かに沈んでいる。まるで、思い出の深さに比例して、味わいにも奥行きが生まれるように。
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水曜日 ― とり大根
とり大根。シンプルな名前の奥に、静かな力が宿っていた。鶏肉はやわらかく、出汁は澄んでいるのに輪郭がはっきりしていて、まるで音楽でいえば、チェロのようだった。和風でありながら、どこか洋の魂が響く。口に含むと、ふっと目を閉じたくなる瞬間がある。料理がこちらの心の奥にそっと触れてくるような、そんな感じだ。
締めにはスープで雑炊を。これはただのご飯ではない。静かに区切りを告げる鐘の音のようなものだ。今日という一日が、そこに収束していく。
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木曜日 ― 豚の角煮
翌日は角煮。これはもう、料理というより風格だった。見ただけで旨さが伝わる。飴色に輝く肉塊に、丁寧に仕込まれた大根、そしてとろけるような半熟玉子。まるで、記憶の中にある“理想の晩ごはん”がそのまま出てきたようだった。
箸を入れた瞬間、じんわりと湯気が立ち上り、長い旅を終えたような安心感が胸を満たした。そしていつも思う。この店の大根は、どうしてこんなに静かに心を打つのだろう、と。丁寧に面取りされたひとつの大根に、時間と愛情のすべてが凝縮されているように見えるのだ。
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金曜日 ― ロールキャベツ
週の終わり、金曜日はロールキャベツ。ひと目見て、これは“ふくの”ロールキャベツだとわかる。大きい。キャベツもタネも、心のひだに届くくらい大きい。包まれているのは、単なる肉ではなく、優しさとか、手間とか、そういう目に見えないものだ。
和風仕上げだが、洋風のパンチを秘めている。まるで、優しく話す人が実は芯の強い人だった、というような驚きがある。ご飯が止まらない。これはもうおかずの範疇を超えて、小さなごちそうだ。いや、もしかすると、ごちそうというのはこういうもののことを言うのかもしれない。
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ふくに来るたびに思う。ここには時間がある、と。料理ひとつひとつの中に、言葉にできない記憶が宿っている。それは味ではなく、風景だ。カウンターの木目、味噌汁の湯気、お母さんとマスターの一言、そして静かに流れる店の空気。五年のあいだに、僕の中の「日常」という引き出しには、ふくの記憶がぎっしり詰まってしまった。
たぶんこれからも、何かの折にふくの味を思い出すだろう。そのとき、味と一緒に思い出すのは、あの時間の濃さだ。そう、あの場所にだけ流れていた、特別なリズムのようなもの。
きっとまた来週も行くだろう。いや、行けるうちに、できるだけ何度でも。
それが、ふくという店との付き合い方なのだ。
#ふく
2025/05/24 更新
2025/01 訪問
亀戸「ふく」にて
金曜日の昼下がり、僕はふくの暖簾をくぐった。木の扉を開けると、湯気と醤油の匂いが鼻をくすぐる。いつもなら肉のおかずに手が伸びるのだけれど、今日は妙に魚の気分だった。店の奥からお母さんの声が飛んでくる。「今日は何にする?」
「さばみそ煮、お願いします」
ほどなくして、お膳が運ばれてくる。藍色の縁取りがされた器の中で、分厚い鯖が甘じょっぱい味噌の海に浸かっている。湯気が立ちのぼる。僕は箸を手に取り、迷わず頭側のほうからほぐした。
身はほろほろと崩れる。ちょうどいい塩梅に脂が乗り、味噌のコクと絡まりながら舌の上でほどけていく。鯖という魚は、頭に近いほど柔らかく、深い旨みがある。これはもう法則のようなもので、少なくとも僕の中ではニュートンの万有引力と同じくらい確固たるものだ。
ごはんが足りない。いや、ごはんが足りなくなることは分かっていた。だから、最後の一口分だけは慎重に残しておいたのだ。僕はお櫃のごはんに味噌ダレを投入する。即席のおじやの完成だ。塩分がどうとか、健康がどうとか、そんなことは考えない。今、この瞬間に必要なのは、それが「美味いかどうか」ただそれだけだった。
気がつけば、皿の上にはサバの骨しか残っていなかった。我ながら綺麗に食べたものだ。ふと、父のことを思い出す。僕の家では勉強しろとはあまり言われなかったが、魚の食べ方だけは妙に厳しかった。「身を残すな。骨だけにしろ」と、まるで職人のような目で僕を見ていた。
「相変わらず魚の食べ方うまいね」
お母さんが声をかける。僕は少し照れくさくなりながら、「親のしつけですね」と笑って答えた。まさか、ふくで親の教えが活きるとは思わなかった。
食後、店を出ると風が冷たかった。ふくの扉を背に、僕はひとつ息を吐く。そして、少しだけ名残惜しくなりながら、駅へと歩き出した。
2025/02/11 更新
2024/12 訪問
亀戸の食堂「ふく」にて
月曜日の昼下がり、僕はJR総武線・亀戸駅を降りた。商店街の喧騒をすり抜け、小道に入るとひっそりとした空気が広がる。その奥に佇む「ふく」。ドアの向こうはいつもと変わらない、心の落ち着く場所だ。外から中は見えない。だが、それがむしろ良い。見えないからこそ扉を開けた瞬間のぬくもりが倍増するのだ。
木製の扉を開けて、暖簾をくぐると、お母さんの柔らかな笑顔とマスターの静かな頷きが迎えてくれる。この二人を見ると、いつも不思議な安心感に包まれる。遠くから聞こえる古いジャズのようなものだ。何気ないけれど、心の奥深くを温めてくれる。
今日は月曜日。月曜日の「ふく」は肉しょうが炒めに限る。前日からじっくりと仕込まれたタレで炒められた豚ばら肉。その香りは、懐かしい映画のワンシーンのように、一瞬で僕を過去の自分へと連れ戻す。もう天文学的数字ほど食べてきたけれど、相変わらずこの味は僕の舌に寄り添ってくれる。
皿の中央にはタレがしみた豚ばら肉。その周りには、キャベツの千切りが雨に濡れた花のように控えめに彩る。このキャベツがまた絶品だ。極上ダレがじわりと染み込み、素朴でありながら深みのある味わいを与える。お母さんはマヨネーズを勧めてくれるが、僕は素のままの味が好きだ。余計なものは要らない。この味付けだけで、十分に完結しているのだ。
ご飯の炊き加減も抜群だ。一粒一粒が輝き、箸で口に運ぶたびに、ふっくらとした甘みが広がる。そして味噌汁。熱々で、心まで温めてくれる。副菜は毎回少しだけ違うが、いつも一品だけ多くサービスしてくれる。こんな小さな気遣いが、どれだけ僕の心を癒してくれるか。ありがとう、と心の中でそっとつぶやく。
驚くべきは、これだけのボリュームと美味しさを税込700円で楽しめることだ。時代がどれだけ移り変わろうと、「ふく」はこの価格を守り続けている。それはまるで、地球が自転をやめたとしても変わらない北極星のようだ。
でも、僕が「ふく」に通うのは、食べ物だけのためではない。お母さんとマスターとの二言三言の会話が、僕の日常に欠かせないスパイスになっているのだ。「仕事忙しいのか?」なんて言葉が、長い旅の果てのオアシスのように響く。
食べ終わり、心も体も満たされた僕は、再び外の世界へと戻る。ふくの扉を閉めると、まるで本を閉じたような感覚がする。また来よう。月曜日でも、水曜日でも。ふくはいつもそこにある。僕を待っていてくれる。
#ふく
#亀戸
2025/01/13 更新
2024/11 訪問
ふくのとり大根
JR亀戸駅から歩いて3分。路地裏にひっそりと埋もれるように存在する「ふく」。その佇まいは、まるで秘密を抱えた小さな木箱のようだった。店先に掲げられた黒板には、今日の献立が簡潔な筆文字で記されている。その潔さに、僕はなぜかほっとした気分になる。
僕が「ふく」に通い始めてから、気づけばもう8年が経つ。それでも、この店に足を踏み入れるたびに新鮮な感覚を覚えるのはなぜだろう。きっと、目に見えるものの背後に、目に見えない何かがあるからだ。僕の中では、この店はいつも静かに変化している。
水曜日。僕が選ぶのは決まって「とり大根」だ。だが最初にこれを頼んだのは、ずいぶん後になってからだった。正直に言えば、初めは避けていたのだ。「とり大根」という文字列には、どうしてもパンチの無さを感じてしまったからだ。でも一度試してみたら、考えが180度変わった。この料理は、見た目の穏やかさに反して、内に秘めたる芯の強さを持っていたのだ。
器の中には、大根と鶏肉が静かに寄り添っている。だが、その静けさに騙されてはいけない。口に運ぶと、優雅な和風出汁に洋風の風がそっと混ざり込んだような、何とも表現しがたい奥深さが広がる。その出汁は、まるで冬の朝に飲む一杯のコーヒーのように、心を温かく、そして不思議な形で満たしてくれる。
鶏肉は柔らかく、それでいて噛むたびにしっかりとした存在感を主張する。一方で、大根はまるで長い時間をかけて思索に耽った哲学者のように、全てを吸収しきった深みがある。丁寧に面取りされた大根の形には、マスターの几帳面さと優しさが宿っている。
僕はいつも、ご飯を少し残しておく。この美味い出汁を雑炊にするためだ。お櫃に残った白米が出汁を吸い込み、一瞬にして別次元の料理に生まれ変わる。その瞬間、僕はこの店に通い続けている理由を再確認するのだ。
店を出ると、外の空気は少し冷たく、街のざわめきが耳に戻ってくる。でも、僕の心の中では、まだあの出汁の余韻が静かに響いていた。それは、何にも代え難い小さな幸福だった。
#ふく
2024/12/27 更新
2024/10 訪問
ふくの肉しょうが炒め
月曜日の昼下がり、僕はひさびさに亀戸駅を降りて、少し歩く。目指すのはあの店、「ふく」だ。木目の扉は今日も無言で僕を迎え入れる。店内の様子は相変わらず外からまったく分からない。まるで秘密結社の隠れ家みたいだ。でも扉を開けると、そこに広がるのは、ほっとするような小さな温もりの世界だ。
店に入ると、お母さんがいつもの優しい笑顔で出迎えてくれる。その奥では、マスターがテキパキと鍋を振っている。お母さんとマスターの連携は、ちょっとしたバレエのようだ。息遣いもリズムも完璧に合っていて、見ているだけで心地いい。
僕は口開け一番の特等席に腰を下ろす。そして当然のように月曜の肉おかず「肉しょうが炒め」を頼む。月曜にそれ以外を頼むという選択肢は、少なくとも僕には存在しない。
やがて定食が運ばれてくる。まず視線を奪うのは、皿いっぱいに広がった肉しょうが炒め。薄くスライスされた豚肉がタレの中でキラキラと輝いている。その味は一口目で強烈に僕の舌を叩き、次の瞬間、静かな波のように懐かしさを運んでくる。何だろう、この感覚。家庭的と言うには洗練されすぎている。きっとこれは、プロの火加減とタレの配合が生む奇跡なのだろう。
ご飯は、いつものように小さなお櫃にたっぷり盛られている。白米一粒一粒が美しく光っていて、これ以上の相棒は思いつかない。小鉢の豆腐は、鰹節の香ばしさが淡い塩気を引き立て、もう一つの小鉢のシャキシャキした長芋には胡麻の香りが絡む。味噌汁は、静かに箸を置いた後の余白を埋めるように心を温めてくれる。
こんなに食べて、税込700円だ。信じられるだろうか。この値段設定には、きっとマスターの不器用な優しさが詰まっている。彼は数字を細かく計算する人ではなく、ただ「美味しくて満足してもらえればそれでいい」と思っているに違いない。
食べ終わって店を出るとき、いつもの静けさが僕を包む。この店は僕の人生の「ちょっとした穴」みたいな場所だ。人生という長いトンネルの途中で見つけた、秘密の抜け道みたいなもの。ここで味わう肉しょうが炒めの記憶は、きっとずっと僕の中で灯り続けるだろう。
#ふく
2024/11/24 更新
2024/10 訪問
ふくのロールキャベツ
JR総武線・亀戸駅から徒歩2分ほどにある食堂「ふく」
月曜日から木曜日の肉のおかずは日替わりで固定だけども、金曜日の肉おかずはランダム。ロールキャベツだったり、肉じゃが、とんかつなんて日もあったな。どれも美味しいけど、やっぱり金曜日のふくは、名物と言っても過言ではない「ロールキャベツ」が一番イイね。なんてったってボリュームが凄い。男性の握り拳ほどはある大きなロールキャベツ。それが2個も。丁寧に下処理されたキャベツに巻かれた大きなタネ。巻き方も工夫されているのか、箸でも軽く切れる。女性は嬉しいね。和風コンソメのスープをしっかり吸ったロールキャベツ、抜群に美味い。でも美味しいからといって、ロールキャベツだけでごはん食べ切ってしまうのは禁物だ。キャベツの旨みと肉汁が染み出た和風コンソメスープを、残しておいたお櫃のごはんに入れる。コレが目眩するほどに美味しい。美味しく仕上がったスープを、最後の一滴まで楽しむための作法だ。こんな金曜日があるふくのお昼ごはん。一週間のモチベーションにセットするのも悪くない。
#ふく
2024/11/11 更新
2024/10 訪問
ふくのさばのみそ煮
その店の名前は「ふく」。一見、どこにでもありそうな食堂だが、そこには特別な魅力があった。通りに面した外観は控えめで、店の中は外からは全く見えない。ひっそりとした佇まいの店先に、手書きのメニューがかけられているだけだ。だが、暖簾をくぐると、そこには温かい光景が広がる。
厨房の奥で腕をふるうのは、店主の男性だ。彼がすべての料理を丁寧に作り上げる。包丁のリズミカルな音や、鍋から立ち上る香りが店内を満たし、来客たちは静かにその時を待つ。店主のお母さんが料理を運んでくるその姿は、親しみと温もりに溢れている。彼女の動きはどこか緩やかで、まるで時間の流れが他の場所とは違うかのようだ。手際よく料理をテーブルに置き、少し頭を下げて微笑む。言葉は少なくとも、その動作ひとつひとつに長年の経験と家族の絆がにじみ出ている。
「ふく」の中は狭く、テーブルはわずかしかないが、その空間は特別な雰囲気で包まれている。外の喧騒とは無縁の、心地よい静けさが流れる場所だ。そして、何より驚くのは、店主が作り出す料理の質だ。手作りの温かさとともに、素材の良さを最大限に引き出した一皿が、まるで家族の食卓に戻ったような安心感をもたらす。
この店の定食はどれも一律700円。今では珍しい価格設定だが、安さ以上の価値がそこにはある。料理はいつも熱々で出てきて、一口食べるとその丁寧さが伝わってくる。その日は、甘辛いタレで煮込まれた「さばみそ煮」を注文した。じっくり煮込まれたさばは、柔らかく、箸で触れるだけでほろりと崩れ、口の中に広がる深い味わいがたまらない。
店内はいつも混んでいるが、その理由は一度来れば誰もが理解するだろう。この店には、ただ料理を食べるだけではなく、何か温かいものを感じる時間が流れている。そこには、昔ながらの日本の家族の風景が息づいているのだ。厨房で忙しく立ち働く店主と、それを支えるお母さん。その姿を見ているだけで、まるで自分もこの場所の一部であるかのような錯覚に陥る。
店を後にする時、ふと感じるのは、この店の外観が持つ不思議な魅力だ。外からは何も見えない。だからこそ、この扉を開けた人々だけが知っている特別な場所なのだろう。
#ふく
#生成AI作
#プロンプトは詳細に
#生成AIには敬語
2024/10/20 更新
2024/10 訪問
ふくの豚の角煮
JR総武線・亀戸駅から徒歩3分ほどにある食堂「ふく」
3ヶ月半ぶりのふく。亀戸は総武線で何度も通過していたけど、お昼のタイミングに合わず。その度に車窓越しにふくのこと思っていたけど、思い叶ってようやく来れました。
平日11時20分着で一番目。最近は開店時間より早めに開けてくれますね。そして本日木曜日。昼のおかずの中でも一番人気の豚の角煮です。次から次へ入る注文はほぼ角煮。11時30分過ぎるとほぼ満席の店内とほぼ全員角煮という木曜日のふく。
見た目も良く上手に煮込まれた角煮。ただ柔く煮込んだだけじゃない。肉も脂も食べ応えがあるように程よい柔らかさが最高。丁寧に面取りされた大根が、煮汁をよーく吸い込んで美味い。この大根を肴に、日本酒飲みたいなあ。煮卵!半熟!ごはんにのせるでしょ!タレ多めに絡ませてね。ああ今日もごはん足らないや。お櫃のごはん軽く300gあるのにね。
久しぶりのふく。興奮して食べてしまいました。もう100回以上も来てるのに。改めて思うこと、ふく最高。これ以上の食堂なかなか無いな。吉平と永太ぐらいかな。帰り際お母さんに久しぶりに会えて嬉しかったなあと言われてグッときてしまいました。夜のふくも復活させたい。
#ふく
2024/10/14 更新
2024/06 訪問
ふくのロールキャベツ
JR総武線・亀戸駅から徒歩3分ほどにある食堂「ふく」
超超久しぶりに金曜日お昼のふく。月から木曜日の肉系おかずはほぼ固定だけども、金曜は今日のロールキャベツ以外に肉じゃが、とんかつと気まぐれに変わる変則の肉おかず日。とはいえ最近はほとんどロールキャベツですかね。男性の拳ぐらいある大きなロールキャベツが2つでボリューム満点。そんな見た目のボリュームとは裏腹に、お味は和風コンソメ仕立ての旨味たっぷりな逸品。ごはんのおかずだけでなくお酒にも合うなきっと。マスター夜のメニューに組み込んでくれないかなあ。さらにふくのロールキャベツはキャベツとタネがバラバラにならないんですよ。両方一緒に味わえてすごく食べやすい。最後はいい出汁のスープにごはんを入れて雑炊で楽しむ。ふくのロールキャベツ最強です。
#ふく
2024/06/29 更新
2024/05 訪問
ふくの豚の角煮
JR総武線・亀戸駅から徒歩3分ほどにある昼は食堂、夜は居酒屋の昼夜共に美味しくてリーズナブルで人情味溢れる素晴らしいお店。
久しぶりに行けた昼のふく。それも一番人気の木曜豚の角煮の日。口開け一番で入れましたが、その後に続くお客さん次々と豚の角煮を注文。11時30分にはほぼ席が埋まり9割以上のお客さんが角煮をオーダー。多分12時までには無くなるんじゃないかなあ。狙ってる人いたら時間要注意。そんな久しぶりの角煮は言わずもがな美味しくて、人気のおかずの理由、食べてみたらよーくわかると思います。夜のふくも久しくご無沙汰なので近々行きたいなあ。何よりお母さんから、久しぶりに来てくれて嬉しいなあと言われると、何だかグッとくる。とはいえ仕事がねえ、やれやれ。
#ふく
2024/05/26 更新
2024/03 訪問
ふくのロールキャベツ
JR総武線・亀戸駅から徒歩2分ほどにある食堂「ふく」
久しぶりに金曜お昼のふくに来ることが出来ました。日替わりのおかずの中でも多分ダントツで人気、金曜日のロールキャベツ。味もさることながら、その大きさは圧巻です。男性の握り拳より確実にデカいな。そんなボリューム満点なロールキャベツがどんどんと二つが並んだ定食が税込700円とは。1,000円払ってお釣りいいですと言いたいぐらい。それぐらい価値の高いロールキャベツ。
一つひとつ丁寧に包まれたロールキャベツ。この包み方見ても、マスターの几帳面さが伺える仕事っぷり。和風出汁によーく沁みたロールキャベツ最高に美味しいです。白米との相性も抜群。夜のメニューにあったら、ビールで飲りたいなあ。
ふくのお昼のおかず、美味いの色々ありますが、ロールキャベツがきっとナンバーワン。亀戸で用事作るなら金曜日が正解。もちろん11時30分までに用済ませて、12時までにはお店に入ることオススメします。
#ふく
2024/03/19 更新
2024/02 訪問
ふくのとり大根煮
JR亀戸駅から徒歩3分ほどにある食堂「ふく」
ふくに通い始めた頃、初めて水曜日のとり大根煮を食べたとき、美味いけどあまりパンチが無いなあ思いました。しかし毎週食べ続けていくと、段々と美味さの本質というか味わいの良さみたいのがわかるようになってきて、数週間後にはとり大根煮を求め水曜日のふくに通うようになりました。味が染みんだ大根からまずいくんですが、これがまあいい感じのやわさと出汁の味具合で最高。ちょっと七味かけちゃうと間違いなくビール案件。鶏は胸肉のパサつき加減を殺すほどしっとり煮てあって、さっぱりしてるのにご飯に会うんだなあ。とはいえ美味いからと言ってご飯をおかずだけで平らげてしまうのはノンノンノン。3口ぐらいは残して、いい出汁スープにその残したご飯をドボンして雑炊で楽しむ。七味必須。美味すぎて気絶間違いない。水曜日のとり大根煮。最後の出汁の一滴まで味わい尽くせて最高です。
#ふく
2024/03/11 更新
これが「ふく」について書く、最後の文章になるかもしれない。何度もこの店のことを書いてきたし、書くたびに何かが指のすき間からこぼれ落ちていった気がしていた。でも今夜は、こぼれていくそれすらも、抱きしめるようなつもりで、書いている。
総武線亀戸駅。改札を出て、喧噪を抜け、数分歩く。小さな通りに、あの店はある。いや、あった——が正確かもしれない。看板はない。のぼりもなければ、発信もない。まるで、自分の存在を誰かに説明することを最初からあきらめているような店だった。唯一、それが食堂であることを示すのは、手書きのメニューだけ。風に揺れて、雨に滲んで、それでも静かにそこにある。あの紙は、街の片隅でそっと呼吸していた。
スライドドアは、相変わらず小さな音を立てる。開けるときも、閉めるときも。あの音を、僕は何度聞いただろう。あれはたぶん、人生の折々に挿入される「間奏曲」だった。
お店の中が見えず、最初に戸惑ったのは、もう遠い昔のことだ。もう僕にとって、「ふく」は“知っている店”ではなく、“還る場所”になっていた。
昼の「ふく」は静かで規則的だった。肉のおかず、魚のおかず、具沢山の味噌汁、僕にだけつけてくれる、サービスの副菜。派手ではないけれど、どれも穏やかに整っていて、食べ終えるころには、心のノイズが少しだけ消えていた。
夜の「ふく」は、それよりもさらにやさしかった。濃いめの焼酎と肴。揚げ物や焼き魚、サービスで出してくれる五目おにぎり。冷えたビーノも。どれも、口に入れるたびに時間がほどけていくようだった。黙って座っているだけで、誰にも責められず、誰も気を張らずにいられる、そんな夜が、確かにそこにあった。
何度も宴会をした。笑って、酔って、食べて、また笑って。ふざけた冗談も、まじめな話も、壁に反響しては、静かに消えていった。あの夜たちは、たぶん僕らの人生にとって、必要な余白だったんだと思う。
マスターの料理はいつも誠実だった。無駄なものを一切削ぎ落とした静けさ。お母さんの接客も、そっと背中をさするようだった。踏み込まず、でも見逃さない。ふたりが作っていたのは、料理だけじゃなかった。空気であり、記憶であり、寄る辺のようなものだった。
そして、今日。63年の歴史に、静かに幕が下りた。
僕が「ふく」に通いはじめたのは、2018年の1月だった。それから今日まで、およそ7年。63年という歴史の中では、ほんの小さな一片かもしれない。けれど僕にとっては、その7年が、人生の中でもひときわ大切で、かけがえのない時間だった。昼の定食に支えられ、夜の酒に癒され、ふたりのまなざしに救われた。日々のごはんが、明日への橋になっていた。ささやかな夜が、生きていく勇気のようなものをくれていた。その積み重ねが、今日という夜を、こんなにも胸を締めつけるものにしている。
僕はふく最後の営業日の夜に「ふく」に立った。いつものようにスライドドアを開ける。音が胸に突き刺さる。中は変わらない。変わらなさすぎて、逆に泣きたくなる。厨房にはマスターがいる。お母さんもいる。いつもと同じように、変わらない笑顔で迎えてくれる。だけど、もうこれは最後の一皿、最後の酒、最後の夜。
料理は変わらず美味しい。けれど、今日は何を食べても、喉の奥が熱かった。もう戻ってこないものを知っているからだ。口の中に広がる味は、まるで“さよなら”の形をしていた。
店を出るとき、ドアを閉めた。音がした。でも、その音のあとには、何も続かなかった。ただ、心にぽっかりと空白ができた。初夏の風が、静かに頬を撫でていった。
「ふく」はもうない。だけど、「ふく」で過ごした時間は、確かに僕の中に残っている。あの料理の味も、お母さんの声も、マスターの背中も。
思い出は過去にあるんじゃない。きっと、いまこの瞬間にも、生きている。
人は、何度だって別れを経験する。だけど、それでも生きていく。その中で、誰かと、何かと、確かに出会えたと思える瞬間がある。それだけで、救われるような夜がある。
そして、「ふく」は、僕にとって、そういう場所だった。
ありがとう。
さようなら。
どうか、どうか、お元気で。
#ふく