24回
2025/12 訪問
香気抽出の夜に
ジンにのめり込んでいた時期がある。
発端は──言わずもがな、あの少佐だ。
彼が静かにグラスを傾けるだけで、どこか物語の気配が立ちのぼる。
その所作に魅せられ、気がつけば私も同じ香りを追いかけていた。
この店の看板は、本来スペインのワインとシェリーである。
だから、ジンを頼むたびに胸のどこかが少しざわつく。
それでもつい手を伸ばしてしまうのは──新蒸留研究所の一本が、どうしても忘れられないからだ。
「No.3 緑茶の香気抽出に関する研究」。
実験ノートの表紙に書かれていてもおかしくない名だが、ひと口ふくめば途端に世界がやわらぐ。
緑茶の気配が、ジンの骨格に静かに重なり、香りだけで一杯ぶんの余白をつくってしまう。
本当ならいろいろカクテルを試したい。
けれど、この一本は“そのまま”でこそ、ひそやかな輪郭を明らかにする。
今夜は、牛ハラミのフリカンドーを相手に選んだ。
煮込みの底に潜むナッツの甘みを、ジンの清涼感がそっと押し広げる。
互いを主張しすぎることもなく、ただ静かに寄り添い合う。
酔いがほどけていくのを感じながら、ふと思う。
──ジンとは、こうしてその時々の皿と夜に、さりげなく物語を差し出してくれる酒なのだと。
2025/12/03 更新
2025/11 訪問
冬の白に、異国の影をさす
鱈の白子と聞けば、まず思い浮かぶのは和食の静かな景色である。
湯引きの白さ、寄せ鍋の湯気、天ぷらの衣に隠れた柔らかさ──
冬の台所にそっと置かれた、あの慎ましい存在感。
だが今夜ブルボで出会った白子は、そんな記憶をあっさりと裏切ってきた。
「鱈白子のムニエル アホブランコソース」。
たったそれだけの言葉で、白子の佇まいは別物になる。
表面には軽やかな焦げ目がつき、中はまるで溶けるような濃密さ。
にんにくとアーモンドをすり合わせたアホブランコが寄り添うと、
淡い白の奥に潜んでいた甘みが静かに姿を現す。
和食で知っていた滋味とは異なる、もうひとつの深度が舌に沈んでいった。
見た目はあっさりとしているのに、中心には確かな重みがある。
ワインよりも、むしろシェリーのほうが腑に落ちる。
白子の奥行きにアモンティリャードの香りがそっと重なり、
冬の一皿が、音もなく完成していく瞬間を感じた。
和の衣を脱ぎ、洋をまとった白子。
その少しの違和感さえ、今夜は心地よかった。
2025/12/09 更新
2025/11 訪問
アメリカーノが鳴る夜に
この店には、一人で来ることが多い。
静かにグラスを傾け、料理と向き合う時間が好きだからだ。
けれど今夜は珍しく複数で。振り返れば、誰かと来るのはまだ二度目だった。
人数が増えると、注文できる皿の数も増える。
そのささやかな贅沢に、ほんの少し胸が躍る。
今夜の〆は二つのパエージャ。
ひとつはイベリコ豚。香ばしい脂が米に染み込み、噛むたびに旨みがあふれる。
もうひとつは牡蠣。火を入れてもなお瑞々しく、海の香りがふっと立ち上がる。
二皿のあいだを行き来するスプーンが、まるで短い旅を描いているようだった。
店内では、私が勝手にこの店のテーマソングだと思っている
「Tu vuò fà l’americano」が流れている。
軽快なリズムが夜の空気を少し揺らし、ワインの酔いと混ざり合う。
気づけば会話に花が咲き、笑い声が波のように広がっていく。
そしていつものように──写真を撮るのは、すっかり後回しになっていた。
2025/11/21 更新
2025/11 訪問
白い羊と黒い海
どうも私は、酒を飲むペースが速いらしい。
グラスが空くたびに頼むのも気が引けて、忙しい夜は最初からボトルでいくのが常だ。
今夜も、赤い彗星──ではなく、白い羊。
牛の煮込みに続いて、今度は烏賊に寄り添ってもらうことにした。
カウンターに運ばれてきたのは、この店の名物「イカ墨のパエージャ」。
もっとも、私がここでパエージャを食べるのは、これで三度目になる。
それでも、黒々とした艶を湛えたこの一皿には、毎回ほんの少しだけ胸が高鳴る。
米に染み込んだ烏賊の旨みと海の香り。
わずかな焦げの苦味が、白い羊──オベハ・ブランカの酸味と静かに溶け合っていく。
なるほど、これが“お酒の宛てになるやつ”というやつだ。
グラスの向こうで、夜がゆっくりとほどけていく。
羊が海を渡り、烏賊の隣で眠るような、不思議な静けさ。
その余韻の中で、私はそっと呟いた。──もう一口だけ。
2025/11/12 更新
2025/11 訪問
白い羊が撫でる夜
この店では、いつも前菜の盛り合わせから、その日のメインへと流れていく。
魚の日もあれば、肉の日もある。
けれど今夜の一皿は、二週続けて同じものを頼んでしまった。
それほどまでに心を奪われた料理は、これまでになかったかもしれない。
皿の上に静かに置かれていたのは、「牛タンのフリカンドー」。
カタルーニャの郷土料理で、本来は薄切りの牛肉をきのこと煮込むのだという。
ここではその主役を牛タンが務めていた。
長い時間をかけて煮込まれたタンは、驚くほどやわらかく、
仕上げに加えられたアーモンドとパンをすり潰したピカーダが、
香ばしさと深いコクを与えている。
ひと口ごとに、きのこの香りと肉の旨みが重なり、
その奥からナッツのほのかな甘みがふっと顔をのぞかせた。
今夜のグラスには、「オベハ・ブランカ」──“白い羊”という名のスペインワイン。
羊の名を冠したワインで、牛を味わう。
なんとも洒落た巡り合わせだと思った。
やがて、グラスの中の白い羊が、煮込みの余韻をそっと撫でていく。
それは、静かな夜の帳の中で訪れた、ほんのひとときの至福だった。
2025/11/05 更新
2025/10 訪問
スペインの朝と日本の夜
チュロスに初めて出会ったのは、もう四十年ほど前のことだ。
ディズニーランドの通りで、紙袋の底から立ちのぼる砂糖と油の香りに足を止めた。
まだ珍しかったその揚げ菓子を、私はてっきりアメリカの甘味だと思っていた。
けれど、あとになって知る。
その生まれは、はるか西のスペインにあったのだと。
スペインでは、チュロスは朝の象徴だという。
「チュレリア」と呼ばれる店で、濃いチョコレートにくぐらせながら味わう──
そこにワインはない。
だが今夜、ブルボのカウンターで供されたチュロスは、
シェリーの余韻を連れて、静かに現れた。
そう、ここは“チュレリア”ではなく、“チュロス・バル”なのだ。
立ちのぼる甘い香りが、夜の空気にやわらかく溶けていく。
スペインの朝と、日本の夜。
遠く離れた時間と場所が、ひとつの香りでそっと重なった気がした。
2025/10/30 更新
2025/10 訪問
去りゆく季節と青の余韻
季節が移ろうとき、ブルボのメニューもまた静かに姿を変える。
「米ナスと鯖のソテー サルサソース」も、そろそろ終わりの頃だと聞いた。あの軽やかな酸味と、香ばしく焼かれた鯖の皮。名残惜しさに背を押され、もう一度だけ頼んでみることにした。
皮目をカリッと焼いた鯖に、トマトと柑橘の香りが溶け合うサルサソース。脂の甘みを受け止め、酸味がすっと抜けていく。米ナスは静かに季節の終わりを抱きしめるようで、グラスの中のワインがそれに歩調を合わせる。やはり、ここでしか出会えない調和だと思う。
食後には、最近の定番となったチーズを。ブルーチーズの塩気に、オロロソの香ばしい甘やかさが寄り添い、ゆっくりと余韻が溶けていく。料理もワインも、すべてが“今この瞬間”のために存在している。
カウンターの向こうでは、もう次の季節の仕込みが始まっている。
その音を聞きながら、私はこの“名残の鯖”と“ブルー”の記憶を、そっと胸に閉じ込めた。
2025/10/22 更新
2025/10 訪問
削られなかった味
ブルボのカウンターに鎮座する生ハムの原木。店の象徴ともいえるその姿は、決して飾りではない。ナイフの軌跡を刻みながら、日々少しずつ削がれていく。その様子を眺めていると、まるで時間そのものが静かに削り取られていくように思えてくる。
一本の原木が終わりを迎える、その瞬間にだけ現れる料理がある。──「生ハムのクリームコロッケ」。
硬くて切り出せない端の部位を細かく刻み、ベシャメルの中に閉じ込める。衣の中でとろけ出すのは、生ハムの塩味と熟成の深み。そこにトマトソースの酸味と甘みが重なり、ひと口ごとにゆるやかに溶け合う。
このコロッケは季節限定ではない。だが、出会えるのは一本が尽きた“その時”だけ。
削られることなく残った端が、最後にもう一度、命を与えられる。
カウンターの向こうで新しい原木が据えられるのを眺めながら、私は静かにその味を噛みしめた。──削られなかったものだけが、こんなにも深い余韻を残すとは思わなかった。
2025/10/16 更新
2025/10 訪問
黄金のあとに残るもの
この店では、いつもワインかシェリーが定位置だ。 前菜の盛り合わせからカニグラタン、そしてチーズの盛り合わせへ──その流れを辿ることが、もはや儀式のようになっている。
けれど、その夜はほんの些細な偶然が、流れを変えた。 シェリーを飲み終え、次をどうしようかと考えていたとき、隣の方がふいに「ビールをください」と言った。 その一言が、なぜか心のどこかをくすぐった。 つられるようにして同じものを頼む。 運ばれてきたグラスには、淡い黄金色の泡が静かに揺れている。
銘柄は「クエルス・カンポ」──アンダルシアの太陽の下で生まれた、軽やかなラガーだ。 ひと口。苦味よりも清涼感が先に立ち、舌の奥に塩のような余韻が残る。 チーズの皿に残っていたブルーを合わせると、その塩気とビールの軽さが思いがけない調和を見せた。 語るべき物語などない。
けれど、そんな無言の一杯が、夜の終わりにはちょうどいい。 カウンターの泡が消えていくのを見つめながら、私はその静けさの中に、ほんの少しの余韻を感じていた。
2025/10/23 更新
2025/09 訪問
甘さに潜む均衡
いちじく──和にも洋にも姿を現す不思議な果物である。白和えや天ぷらといった和の席にしれっと紛れ込むかと思えば、生ハムと組んで洋の食卓を飾ることもある。だがそれも、短い旬の間に限られたわずかな邂逅にすぎない。その儚さこそが、いちじくを特別なものにしているのだろう。
ブルボ名古屋で供されたのは「イチジクとブルーチーズのピンチョス」。熟れたいちじくをカラメリゼし、ブルーチーズに添えた一皿だ。果実の甘みに焦がしのほろ苦さが重なり、そこに濃厚な塩気と酸味を持つチーズがぶつかる。強烈な個性を放つブルーチーズに拮抗するためのカラメリゼ──そう言ってしまいたくなるほど、両者は絶妙な均衡を保っていた。
素朴にそのまま食してきた果物が、ここでは装いを変え、知らなかった顔を見せてくる。甘さの奥に潜む均衡が、短い季節にだけ許された出会いを、より鮮烈なものにしていた。
2025/10/02 更新
2025/09 訪問
卵の隠された名
レヴェルト、と耳にしても最初は皆目見当がつかなかった。スペイン風の卵料理だと聞いて、ようやくその輪郭がかすかに浮かんでくる。だがブルボ名古屋で供された一皿は、そんな説明だけでは到底収まりきらない。
皿に並んだのは長谷川農産のマッシュルーム。その肉厚さと瑞々しさは、ただの脇役に甘んじることを許さない。そこへ生ハムの塩味が静かに潜み、ふわりと重ねられた卵が全体を柔らかく包み込む。仕上げに漂うのはトリュフオイルの幽かな香り。ひと口ごとに、層をなす旨みがほぐれ、舌の上で小さな物語が解けてゆく。茸の滋味、卵のやさしさ、生ハムの塩気──それぞれが独立しつつも、どこかで一つに溶け合っていた。
本来レヴェルトは「かき混ぜる」の意をもつ家庭料理、卵と具材をざっくり合わせただけの素朴な皿だという。だがここでは、選び抜かれた素材と香りの工夫が、素朴さを洗練へと変えていた。知らなかった料理の名を、こうして舌で覚える。ブルボの愉しみとは、つまりそういうことなのだ。
2025/09/12 更新
2025/09 訪問
郷土化した外来食 ピンチョ・モルーノ
スペイン史における「レコンキスタ」がどういう時代だったのか、正直よく知らない。けれど、彼らの歩んだ歴史が食文化として今に伝わり、こうして日本の食卓にまで届いているのは確かだ。
ブルボで出されたのは「ピンチョ・モルーノ」。ムーア人風の串焼きで、この夜は鹿肉だった。クミンを中心に、パプリカ等の香りをまとわせマリネ、そして焼き上げられた肉は想像以上に柔らかく、噛むほどにスパイスの熱が舌に広がる。鹿肉特有の野趣も、異国の香辛料に包まれることで穏やかに変わり、むしろ上品な旨みに変わっていた。
この店で普段口にするのは、どちらかといえば繊細に素材を生かした料理だ。だからこそ、この一串に漂う強い香りと刺激は、思いがけない驚きとなる。
遠い大陸の記憶が、名古屋の片隅で一夜限りの姿を見せてくれる。串を手にしたまま、私は異国の余韻に静かに酔っていた。
2025/09/04 更新
2025/08 訪問
見知らぬ鯖
「鯖」と聞いて、まず味噌煮か塩焼きを思い浮かべるのは、ごく自然なことだろう。
白い湯気を立てるごはんの横に、濃い色の煮汁に照り映える切り身が一枚。あるいは、香ばしく焼かれた皮の焦げ目と、大根おろし。そんな記憶が、食卓の風景と結びついて離れない。
けれど、この夜ブルボで出されたのは、その既成概念をさらりと裏切る一皿だった。 「米ナスと鯖のソテー サルサソース」。 皮目をカリッと焼いた鯖と、ほどよい硬さを残した米ナス。それに重ねられるのは、トマトと柑橘が軽やかに調和したサルサソース。酸味と香りが、ひと口ごとに口内を洗い、鯖の脂を新たに照らす。
前菜の盛り合わせで緩やかに動き出していたワインが、この一皿で加速する。
鯖がワインを呼ぶ。
初めて見る風景だった。 見慣れた鯖が、スペインの陽を浴びて、どこか新しい表情をしていた。
「味噌煮だけが鯖じゃない」 そんな声が、グラスの奥で聞こえた気がした。
2025/09/03 更新
2025/08 訪問
苦手の向こうにある景色
「このお店、何食べても美味しいよ」
──その言葉が嫌いなわけじゃない。ただ、少しだけ立ち止まってしまう。
もちろん、それまで食べた料理が美味しければ、他の皿にも自然と期待は向く。だが私は、どこかで頑固な性分を手放せずにいる。「何を食べても」と言い切るには、自分の舌で“全部”確かめてからにしたい。
それが、私のちいさなこだわりだ。
とはいえ、現実はそう易々とはいかない。沁ゆうきで言えば納豆、ここブルボで言えばパクチー。食べられないわけではないが、積極的に手を伸ばす気にはなれない。
だが、その夜は違った。「ラムボールパクチー」──逃げられない一皿だった。
事情を話すと、パクチーは別添えに。ありがたい。その配慮に応えるように、まずはラムだけで一口。じわりと広がる滋味。悪くない。次にほんの少しだけ、パクチーを添えてみる。……思っていたほど、悪くなかった。
まだ、すべての皿を食べ尽くしたわけではない。
それでも、苦手をひとつ越えた先にある景色は、少しだけ誇らしかった。
2025/08/07 更新
2025/07 訪問
夏の酸味、夜の甘味
酸味のある料理には、どこか抗いがたい魅力がある。
舌を刺すようでいて、決して乱暴ではない。芯のあるやさしさ──そういう味が、昔から好きだった。以前通っていた寿司屋では、南蛮漬けがあると聞くだけで迷いが消えた。酢がしみた白身魚と、玉ねぎの苦味が交わる瞬間、酒は言葉を必要としなくなる。
この夜、ブルボで選んだのは、エスカベッシュ。
つまりは洋風の南蛮漬けだが、今日の主役は鱧とオレンジ。酸味は尖らず、どこか丸い。柑橘の果汁が下支えしているのだろう。オリーブオイルの香りがそこに重なると、皿の上に、軽やかな初夏がひらく。
そして最後に選んだのは、シェリー酒のアイスクリーム。
甘みはきっぱりと主張しながら、酒精の余韻がその輪郭をすっとなぞっていく。静けさの中に、余白を残す味だった。
酸味と甘味。
別々に始まった記憶が、最後には静かに重なり合っていた。
2025/07/29 更新
2025/07 訪問
記録にない夜
この店には、いつも一人で来ていた。
静かなカウンターで、料理と酒にだけ向き合う時間。それが自分の流儀だった。
この夜は、少し違った。
近隣の関連事業所の方々と連れ立って。店に来るのは、彼らにとっては初めてだった。
距離は近いが、顔を合わせるのは稀。どこか他所行きの空気をまとったまま、扉を開けた。
料理はすべてお任せに。最初の皿が届くころには、少しずつ言葉も和らぎ、笑いが混じり始める。
グラスが進み、話題が交差し、やがて空気はこの店らしい温度に整っていった。
気づけば、写真は一枚も残っていなかった。
けれど最後──シェリー酒のアイスと塩で食べるバスチーだけが例外だった。
「これだけは撮っておこう」と、誰かが言ったのだ。
記録ではなく、記憶に残る夜。
なにより印象に残ったのは、「今日は一人じゃない」という、それだけのことだった。
2025/07/29 更新
2025/07 訪問
赤と赤の構成式
朝は軽め。昼は仕事に吸われた。食べるという行為の優先順位が、勝手に後ろに回されたまま、気づけば夜になっていた。
空腹を伴ったまま、無意識のような動作でブルボの扉を引く。
まずは、いつもの前菜盛り合わせをつまみながらグラスを空ける。
そこまでで終わる予定だったが、胃がそれを許さなかった。
目覚めてしまったものには、次の供給が必要になる。
選んだのは「牛ザブトンのビステック」。脂と赤身の比率が安定しており、温度によって状態が変わる部位。
この夜はミディアムレア。外側には焦げの香ばしさ、内部は温度と肉汁が滑らかに混ざり合っていた。
合わせたのは赤ワイン。ここで赤を選ぶのは珍しいが、この肉には引力があった。
タンニンの角は削られており、果実味が脂と並走している。
皿とグラス。どちらの赤も温度が揃っていて、こちらに向かって同じ速度で迫ってきた。
満足感というのは、量ではなく構成で決まる。
この夜は「赤と赤」で組み上がった。余計な装飾はいらなかった。そういう夜も、ある。
2025/07/17 更新
2025/07 訪問
甘くない終止符
バスク風チーズケーキ──通称「バスチー」。
かつては流行の中心にいた。コンビニから専門店まで、あらゆる場所に並んだ。
今では熱は落ち着き、話題にされる機会も減った。
それでもメニューに残している店が一定数あるのは、つまり、単純に美味しいからだ。
この夜、最後に選んだのは、塩で食べるタイプのバスクチーズケーキだった。
表面は焦げ目の香ばしさ。中は半熟で滑らか。
甘さは最小限に抑えられ、そのかわりに塩が旨味を引き出している。
合わせたのは辛口のシェリー、フィノ。ナッツやイーストの香り。温度が上がると、塩気と苦味が前に出てくる。
甘味と甘味を重ねないことで、かえって輪郭が際立つ。
これはデザートというより、構成の一部としての終盤の皿だった。
バスチーに話題性を求める時期は終わった。
だが、美味しいものは、流行が過ぎても正当に残る。
最後の一手としての塩チーズケーキ。そこにフィノがあれば、締めとして十分だ。
2025/07/03 更新
2025/06 訪問
一番という仮説
「一番がたくさんある」──この表現に違和感を覚える人は多い。
論理として破綻している、と指摘されることもある。「○○じゃないんだから」ととあるキャラクター名をあげられることもある。
厳密に言えば、「一番」はひとつでも、「一番候補」は多数存在する。
その中から、当日の気分や体調、直近の記憶に照らし合わせて、暫定一位が都度選ばれているに過ぎない。
つまり、制度としての「一番」は変動性を含んでいる。
今日の一番は、鴨だった。
メニューは「鴨のコンフィー、レンズ豆のサラダ添え」。
低温で火を入れた鴨肉は、皮が香ばしく、内部はしっとり柔らかい。
下に控えたレンズ豆のサラダは、脂を吸収しながらも自己主張せず、全体の構成を整えていた。
食べながら、飲みながら、「今日の一番はこれだった」と確信するに十分な内容だった。
もちろん、明日は変わる。
牛かもしれないし、イベリコ豚かもしれない。
「一番」が不動である必要はない。
その日、その場所、その一皿。その一口に、「一番」は現れる。
だから人はまた、次の一番を探しに行く。選ばれるのは、皿ではなく、記憶の側だ。
2025/06/27 更新
一人で食事をすると、どうしても選べる皿の数は限られてくる。
気になる料理はいくつもあっても、実際に手を伸ばせるのは、そのうちのほんの一部だ。
けれどこの夜は、隣に座った同じく一人客と、言葉少なに皿を分け合う流れになった。
それだけで、食卓の奥行きが少しだけ深まった気がした。
最初に運ばれてきたのは「鹿肉のカネロニ」。
本来この料理は、前日のロースト肉を刻み、翌日に姿を変えさせるためのものだという。
だがここには、“残り物”という前提がない。
鹿肉は最初からリエットとして仕立てられ、マカロニではなくラザニア生地に包まれ、
ベシャメルソースとともに静かに焼き上げられている。
口に含むと、野趣を残した旨みと乳白のコクが溶け合い、
再利用という言葉とは無縁の、端正な味わいが広がっていった。
続いて、イベリコ豚のパエージャを二人で分ける。
脂の甘みが米に染み込み、鍋肌の香ばしさが余韻として残る。
一人では届かなかった皿たち。
けれど分け合うことで、料理は数だけでなく、意味までも増えていく。
“残り物ではない贅沢”とは、きっとこういう夜のことなのだろう。