31回
2026/01 訪問
当たり前が終わる前に──「やっぱり、いっとこ」
イベリコ豚は、いつの間にか「今のうちに」と思わせる存在になっていた。
珍しいからでもなければ、特別視してきたつもりもない。
ただ、ずっと当たり前のようにそこにあったものに、ふと終わりの気配が差し込んだだけだ。
この日はステーキで供された。
焼き目の香ばしさが先に立ち、続いて脂の甘みが静かに広がる。
力強さはあるが、重たさはない。
下に添えられたソースは、酸味と奥行きを与える役に徹し、前に出すぎない。
結果として、肉そのものの輪郭が、最後まで揺らがずに残っている。
カウンター越しに、シェフがぽつりと口にする。
イベリコがなくなったあと、どうするか。
肉質の近いものを国内で探すのか。
それとも、似ていない別の豚を選び、料理の方向そのものを変えるのか。
どちらにも理屈があり、どちらにもためらいがあるようだった。
私はただ、その話を聞きながら食べている。
選ぶのはシェフで、決めるのもシェフだ。
客にできるのは、当たり前として出てきたこの一皿を、終わる前にきちんと味わうことだけ。
だから、目の前に出てきたら、つい口をついて出る。
当たり前が終わる前に──「やっぱり、いっとこ」。
2026/01/29 更新
2026/01 訪問
名残を噛みしめる夜
イベリコ豚に、昨年十一月末から輸入制限がかかっていると聞いた。
まだ在庫は残っているらしい。だが、それも今ある分まで。そう思った瞬間、これまで当たり前のように目にしてきた存在が、急に脆いものに見えてきた。
今夜選んだのは、以前にも口にした「生ハムのクリームコロッケ」。
生ハムは、一人で来るときにはあまり頼まない料理だ。量のこともあるし、どこか“分け合う前提”の皿という気がしている。それでも今日は、この味をもう一度、自分の舌で確かめておきたかった。細かく刻まれ、ベシャメルに溶け込んだ生ハムの塩味と熟成香は、記憶の中と違わず穏やかで、噛むほどに名残が広がっていく。
最近はワインを三杯、ジンを二杯──そんな流れが、知らぬ間に身体に馴染んでいた。
当たり前のように続いてきた味は、ある日ふと途切れる。
それは寂しい。だが、だからこそ今夜は、一皿ごとに少しだけ立ち止まりながら、噛みしめるように味わっていた。
いつまで食べられるのだろう。
その問いだけが、静かに胸の奥に残っていた。
2026/01/29 更新
2026/01 訪問
夜は、記録より先に消えていく
「あたらよ」を出たあと、二軒目に選んだのは、結局いつものブルボだった。
特に理由があったわけではない。考えるより先に、足がそちらへ向かっていた。
前菜をつまみ、パエリアを分け、生ハムにも箸を伸ばした──記憶では、そうなっている。
だが後から記録を辿ると、確かに残っているのは「チュロス」だけだった。
この店でも、かなり飲んだのだと思う。
グラスを重ね、言葉を重ね、夜を深めていったことだけは確かだが、何をどれほど口にしたのか、その輪郭はすでに曖昧だ。
夜は、記録に残る前に、記憶から先に消えていく。
それでも、不思議と不安はなかった。
楽しかった、という感触だけが、最後まで残っているからだ。
笑ったこと、間の抜けた会話、妙に真面目な話──細部は思い出せなくても、その夜の温度だけは覚えている。
二人とも、ずいぶん酔っていた。
それでも千鳥足にはならず、なぜか真っ直ぐ歩いて帰れた……はずである。
記録にも記憶にも残らない夜。
だが、消えていったものの分だけ、確かに良い夜だったと、今はそう思っている。
2026/01/29 更新
2026/01 訪問
ごった煮の夜に、味は整う
年始というのは、いつも心がざわつく。
仕事始めの緊張や言葉にならない忙しさが身体に残ったまま、気づけば夜が来る。そんな落ち着かなさを抱えたまま、私は自然と新栄のブルボへ足を向けていた。特別な目的があるわけではない。ただ、この店に来れば、乱れた流れが元に戻る気がするのだ。
前菜の盛り合わせから始まるのも、いつも通りだ。皿の上に料理が並び、味が一つずつ重なっていく。その過程で、気持ちの角が少しずつ取れていくのが分かる。そして今夜の主役は「カツオのステーキ ティタイナ風」。トマトと野菜の甘みを土台に、魚の旨みと塩気が層をなす。ティタイナと聞くと、雑多なごった煮を想像しがちだが、この皿は違う。火を入れたカツオの力強さを、ソースが過不足なく受け止め、味は静かに整っている。
締めは、いつものお茶ジン。緑茶の香りが立ち上がり、アルコールの輪郭を柔らかく溶かしていく。グラスを置くころには、店内もすっかり賑わっていた。
人の気配が増えたのを合図に席を立つ。
ごった煮のように入り組んだ一日も、こうして皿を重ねていくうちに、どこか整っていく。夜気の冷たさの中で、頭の中だけが不思議と静まっていた。
2026/01/14 更新
2026/01 訪問
野性と向き合う距離
かつてジビエという言葉には、わずかな距離があった。
癖が強い、扱いが難しい──そんな評判が先に立ち、自分の皿とは少し離れた場所にある食材だと思っていた。それがいつの間にか、気づけば自然に選んでいる。熊を食べる日が来るなど、あの頃の自分に話しても、きっと信じなかっただろう。
今夜の皿は、ジビエの中ではもっとも顔なじみのある「猪」。
ハンバーグという形で供されたそれは、粗挽きの肉がはっきりとした輪郭を持ち、噛むほどに旨みが静かにほどけていく。野性の香りは確かにあるが、荒ぶる気配はない。脂は控えめで、肉そのものの力が前に出る。付け合わせもソースも語りすぎず、猪との距離をこれ以上詰めすぎない。
この店では、最初から最後まで泡か白で通すことが多い。だが今夜は迷わず赤を選んだ。猪には、やはり赤だ。グラスの中のタンニンが肉の旨みを受け止め、野性をなだめるように余韻を整えていく。
満ち足りた感覚のまま席を立つ。
ジビエは、もはや試すべき挑戦ではない。今の私にとっては、野性と無理に近づきすぎず、離れすぎもしない──その距離を楽しむための、ごく自然な選択肢になっていた。
2026/01/14 更新
2025/12 訪問
年の瀬に残る甘み
ジンの切れ味も捨てがたい。
香りが立ち、輪郭がはっきりしていて、気分を切り替えるには申し分ない酒だ。
けれど、こうして年の瀬に腰を落ち着けて向き合うには、やはりシェリーの包容力がしっくりくる。
グラスに注いだアモンティリャードは、まずナッツや乾いた木を思わせる香りを静かに放つ。
口に含めば辛口だが角はなく、長い熟成がもたらす丸みが、舌の上をゆっくりと転がっていく。
時間を急がせない酒だ、とあらためて思う。
一方で、アイスにかけたペドロ・ヒメネスはまったく別の顔を見せる。
干し葡萄や黒糖、カラメルを思わせる濃密な甘みが、冷たさの奥からじわりと立ち上がり、
一年の終わりにふさわしい余韻を、静かに残していく。
同じシェリーでありながら、飲むための一杯と、かけるための一滴。
役割も表情も異なり、それでいてどちらも出過ぎない。
その控えめな甘さこそが、年の瀬に、最後まで舌に残るものなのだろう。
2025/12/24 更新
2025/12 訪問
分け合う夜の、もうひとつの皿
一人で食事をすると、どうしても選べる皿の数は限られてくる。
気になる料理はいくつもあっても、実際に手を伸ばせるのは、そのうちのほんの一部だ。
けれどこの夜は、隣に座った同じく一人客と、言葉少なに皿を分け合う流れになった。
それだけで、食卓の奥行きが少しだけ深まった気がした。
最初に運ばれてきたのは「鹿肉のカネロニ」。
本来この料理は、前日のロースト肉を刻み、翌日に姿を変えさせるためのものだという。
だがここには、“残り物”という前提がない。
鹿肉は最初からリエットとして仕立てられ、マカロニではなくラザニア生地に包まれ、
ベシャメルソースとともに静かに焼き上げられている。
口に含むと、野趣を残した旨みと乳白のコクが溶け合い、
再利用という言葉とは無縁の、端正な味わいが広がっていった。
続いて、イベリコ豚のパエージャを二人で分ける。
脂の甘みが米に染み込み、鍋肌の香ばしさが余韻として残る。
一人では届かなかった皿たち。
けれど分け合うことで、料理は数だけでなく、意味までも増えていく。
“残り物ではない贅沢”とは、きっとこういう夜のことなのだろう。
2025/12/15 更新
2025/12 訪問
香気抽出の夜に
ジンにのめり込んでいた時期がある。
発端は──言わずもがな、あの少佐だ。
彼が静かにグラスを傾けるだけで、どこか物語の気配が立ちのぼる。
その所作に魅せられ、気がつけば私も同じ香りを追いかけていた。
この店の看板は、本来スペインのワインとシェリーである。
だから、ジンを頼むたびに胸のどこかが少しざわつく。
それでもつい手を伸ばしてしまうのは──新蒸留研究所の一本が、どうしても忘れられないからだ。
「No.3 緑茶の香気抽出に関する研究」。
実験ノートの表紙に書かれていてもおかしくない名だが、ひと口ふくめば途端に世界がやわらぐ。
緑茶の気配が、ジンの骨格に静かに重なり、香りだけで一杯ぶんの余白をつくってしまう。
本当ならいろいろカクテルを試したい。
けれど、この一本は“そのまま”でこそ、ひそやかな輪郭を明らかにする。
今夜は、牛ハラミのフリカンドーを相手に選んだ。
煮込みの底に潜むナッツの甘みを、ジンの清涼感がそっと押し広げる。
互いを主張しすぎることもなく、ただ静かに寄り添い合う。
酔いがほどけていくのを感じながら、ふと思う。
──ジンとは、こうしてその時々の皿と夜に、さりげなく物語を差し出してくれる酒なのだと。
2025/12/03 更新
2025/11 訪問
冬の白に、異国の影をさす
鱈の白子と聞けば、まず思い浮かぶのは和食の静かな景色である。
湯引きの白さ、寄せ鍋の湯気、天ぷらの衣に隠れた柔らかさ──
冬の台所にそっと置かれた、あの慎ましい存在感。
だが今夜ブルボで出会った白子は、そんな記憶をあっさりと裏切ってきた。
「鱈白子のムニエル アホブランコソース」。
たったそれだけの言葉で、白子の佇まいは別物になる。
表面には軽やかな焦げ目がつき、中はまるで溶けるような濃密さ。
にんにくとアーモンドをすり合わせたアホブランコが寄り添うと、
淡い白の奥に潜んでいた甘みが静かに姿を現す。
和食で知っていた滋味とは異なる、もうひとつの深度が舌に沈んでいった。
見た目はあっさりとしているのに、中心には確かな重みがある。
ワインよりも、むしろシェリーのほうが腑に落ちる。
白子の奥行きにアモンティリャードの香りがそっと重なり、
冬の一皿が、音もなく完成していく瞬間を感じた。
和の衣を脱ぎ、洋をまとった白子。
その少しの違和感さえ、今夜は心地よかった。
2025/12/09 更新
2025/11 訪問
アメリカーノが鳴る夜に
この店には、一人で来ることが多い。
静かにグラスを傾け、料理と向き合う時間が好きだからだ。
けれど今夜は珍しく複数で。振り返れば、誰かと来るのはまだ二度目だった。
人数が増えると、注文できる皿の数も増える。
そのささやかな贅沢に、ほんの少し胸が躍る。
今夜の〆は二つのパエージャ。
ひとつはイベリコ豚。香ばしい脂が米に染み込み、噛むたびに旨みがあふれる。
もうひとつは牡蠣。火を入れてもなお瑞々しく、海の香りがふっと立ち上がる。
二皿のあいだを行き来するスプーンが、まるで短い旅を描いているようだった。
店内では、私が勝手にこの店のテーマソングだと思っている
「Tu vuò fà l’americano」が流れている。
軽快なリズムが夜の空気を少し揺らし、ワインの酔いと混ざり合う。
気づけば会話に花が咲き、笑い声が波のように広がっていく。
そしていつものように──写真を撮るのは、すっかり後回しになっていた。
2025/11/21 更新
2025/11 訪問
白い羊と黒い海
どうも私は、酒を飲むペースが速いらしい。
グラスが空くたびに頼むのも気が引けて、忙しい夜は最初からボトルでいくのが常だ。
今夜も、赤い彗星──ではなく、白い羊。
牛の煮込みに続いて、今度は烏賊に寄り添ってもらうことにした。
カウンターに運ばれてきたのは、この店の名物「イカ墨のパエージャ」。
もっとも、私がここでパエージャを食べるのは、これで三度目になる。
それでも、黒々とした艶を湛えたこの一皿には、毎回ほんの少しだけ胸が高鳴る。
米に染み込んだ烏賊の旨みと海の香り。
わずかな焦げの苦味が、白い羊──オベハ・ブランカの酸味と静かに溶け合っていく。
なるほど、これが“お酒の宛てになるやつ”というやつだ。
グラスの向こうで、夜がゆっくりとほどけていく。
羊が海を渡り、烏賊の隣で眠るような、不思議な静けさ。
その余韻の中で、私はそっと呟いた。──もう一口だけ。
2025/11/12 更新
2025/11 訪問
白い羊が撫でる夜
この店では、いつも前菜の盛り合わせから、その日のメインへと流れていく。
魚の日もあれば、肉の日もある。
けれど今夜の一皿は、二週続けて同じものを頼んでしまった。
それほどまでに心を奪われた料理は、これまでになかったかもしれない。
皿の上に静かに置かれていたのは、「牛タンのフリカンドー」。
カタルーニャの郷土料理で、本来は薄切りの牛肉をきのこと煮込むのだという。
ここではその主役を牛タンが務めていた。
長い時間をかけて煮込まれたタンは、驚くほどやわらかく、
仕上げに加えられたアーモンドとパンをすり潰したピカーダが、
香ばしさと深いコクを与えている。
ひと口ごとに、きのこの香りと肉の旨みが重なり、
その奥からナッツのほのかな甘みがふっと顔をのぞかせた。
今夜のグラスには、「オベハ・ブランカ」──“白い羊”という名のスペインワイン。
羊の名を冠したワインで、牛を味わう。
なんとも洒落た巡り合わせだと思った。
やがて、グラスの中の白い羊が、煮込みの余韻をそっと撫でていく。
それは、静かな夜の帳の中で訪れた、ほんのひとときの至福だった。
2025/11/05 更新
2025/10 訪問
スペインの朝と日本の夜
チュロスに初めて出会ったのは、もう四十年ほど前のことだ。
ディズニーランドの通りで、紙袋の底から立ちのぼる砂糖と油の香りに足を止めた。
まだ珍しかったその揚げ菓子を、私はてっきりアメリカの甘味だと思っていた。
けれど、あとになって知る。
その生まれは、はるか西のスペインにあったのだと。
スペインでは、チュロスは朝の象徴だという。
「チュレリア」と呼ばれる店で、濃いチョコレートにくぐらせながら味わう──
そこにワインはない。
だが今夜、ブルボのカウンターで供されたチュロスは、
シェリーの余韻を連れて、静かに現れた。
そう、ここは“チュレリア”ではなく、“チュロス・バル”なのだ。
立ちのぼる甘い香りが、夜の空気にやわらかく溶けていく。
スペインの朝と、日本の夜。
遠く離れた時間と場所が、ひとつの香りでそっと重なった気がした。
2025/10/30 更新
2025/10 訪問
去りゆく季節と青の余韻
季節が移ろうとき、ブルボのメニューもまた静かに姿を変える。
「米ナスと鯖のソテー サルサソース」も、そろそろ終わりの頃だと聞いた。あの軽やかな酸味と、香ばしく焼かれた鯖の皮。名残惜しさに背を押され、もう一度だけ頼んでみることにした。
皮目をカリッと焼いた鯖に、トマトと柑橘の香りが溶け合うサルサソース。脂の甘みを受け止め、酸味がすっと抜けていく。米ナスは静かに季節の終わりを抱きしめるようで、グラスの中のワインがそれに歩調を合わせる。やはり、ここでしか出会えない調和だと思う。
食後には、最近の定番となったチーズを。ブルーチーズの塩気に、オロロソの香ばしい甘やかさが寄り添い、ゆっくりと余韻が溶けていく。料理もワインも、すべてが“今この瞬間”のために存在している。
カウンターの向こうでは、もう次の季節の仕込みが始まっている。
その音を聞きながら、私はこの“名残の鯖”と“ブルー”の記憶を、そっと胸に閉じ込めた。
2025/10/22 更新
2025/10 訪問
削られなかった味
ブルボのカウンターに鎮座する生ハムの原木。店の象徴ともいえるその姿は、決して飾りではない。ナイフの軌跡を刻みながら、日々少しずつ削がれていく。その様子を眺めていると、まるで時間そのものが静かに削り取られていくように思えてくる。
一本の原木が終わりを迎える、その瞬間にだけ現れる料理がある。──「生ハムのクリームコロッケ」。
硬くて切り出せない端の部位を細かく刻み、ベシャメルの中に閉じ込める。衣の中でとろけ出すのは、生ハムの塩味と熟成の深み。そこにトマトソースの酸味と甘みが重なり、ひと口ごとにゆるやかに溶け合う。
このコロッケは季節限定ではない。だが、出会えるのは一本が尽きた“その時”だけ。
削られることなく残った端が、最後にもう一度、命を与えられる。
カウンターの向こうで新しい原木が据えられるのを眺めながら、私は静かにその味を噛みしめた。──削られなかったものだけが、こんなにも深い余韻を残すとは思わなかった。
2025/10/16 更新
2025/10 訪問
黄金のあとに残るもの
この店では、いつもワインかシェリーが定位置だ。 前菜の盛り合わせからカニグラタン、そしてチーズの盛り合わせへ──その流れを辿ることが、もはや儀式のようになっている。
けれど、その夜はほんの些細な偶然が、流れを変えた。 シェリーを飲み終え、次をどうしようかと考えていたとき、隣の方がふいに「ビールをください」と言った。 その一言が、なぜか心のどこかをくすぐった。 つられるようにして同じものを頼む。 運ばれてきたグラスには、淡い黄金色の泡が静かに揺れている。
銘柄は「クエルス・カンポ」──アンダルシアの太陽の下で生まれた、軽やかなラガーだ。 ひと口。苦味よりも清涼感が先に立ち、舌の奥に塩のような余韻が残る。 チーズの皿に残っていたブルーを合わせると、その塩気とビールの軽さが思いがけない調和を見せた。 語るべき物語などない。
けれど、そんな無言の一杯が、夜の終わりにはちょうどいい。 カウンターの泡が消えていくのを見つめながら、私はその静けさの中に、ほんの少しの余韻を感じていた。
2025/10/23 更新
2025/09 訪問
甘さに潜む均衡
いちじく──和にも洋にも姿を現す不思議な果物である。白和えや天ぷらといった和の席にしれっと紛れ込むかと思えば、生ハムと組んで洋の食卓を飾ることもある。だがそれも、短い旬の間に限られたわずかな邂逅にすぎない。その儚さこそが、いちじくを特別なものにしているのだろう。
ブルボ名古屋で供されたのは「イチジクとブルーチーズのピンチョス」。熟れたいちじくをカラメリゼし、ブルーチーズに添えた一皿だ。果実の甘みに焦がしのほろ苦さが重なり、そこに濃厚な塩気と酸味を持つチーズがぶつかる。強烈な個性を放つブルーチーズに拮抗するためのカラメリゼ──そう言ってしまいたくなるほど、両者は絶妙な均衡を保っていた。
素朴にそのまま食してきた果物が、ここでは装いを変え、知らなかった顔を見せてくる。甘さの奥に潜む均衡が、短い季節にだけ許された出会いを、より鮮烈なものにしていた。
2025/10/02 更新
2025/09 訪問
卵の隠された名
レヴェルト、と耳にしても最初は皆目見当がつかなかった。スペイン風の卵料理だと聞いて、ようやくその輪郭がかすかに浮かんでくる。だがブルボ名古屋で供された一皿は、そんな説明だけでは到底収まりきらない。
皿に並んだのは長谷川農産のマッシュルーム。その肉厚さと瑞々しさは、ただの脇役に甘んじることを許さない。そこへ生ハムの塩味が静かに潜み、ふわりと重ねられた卵が全体を柔らかく包み込む。仕上げに漂うのはトリュフオイルの幽かな香り。ひと口ごとに、層をなす旨みがほぐれ、舌の上で小さな物語が解けてゆく。茸の滋味、卵のやさしさ、生ハムの塩気──それぞれが独立しつつも、どこかで一つに溶け合っていた。
本来レヴェルトは「かき混ぜる」の意をもつ家庭料理、卵と具材をざっくり合わせただけの素朴な皿だという。だがここでは、選び抜かれた素材と香りの工夫が、素朴さを洗練へと変えていた。知らなかった料理の名を、こうして舌で覚える。ブルボの愉しみとは、つまりそういうことなのだ。
2025/09/12 更新
2025/09 訪問
郷土化した外来食 ピンチョ・モルーノ
スペイン史における「レコンキスタ」がどういう時代だったのか、正直よく知らない。けれど、彼らの歩んだ歴史が食文化として今に伝わり、こうして日本の食卓にまで届いているのは確かだ。
ブルボで出されたのは「ピンチョ・モルーノ」。ムーア人風の串焼きで、この夜は鹿肉だった。クミンを中心に、パプリカ等の香りをまとわせマリネ、そして焼き上げられた肉は想像以上に柔らかく、噛むほどにスパイスの熱が舌に広がる。鹿肉特有の野趣も、異国の香辛料に包まれることで穏やかに変わり、むしろ上品な旨みに変わっていた。
この店で普段口にするのは、どちらかといえば繊細に素材を生かした料理だ。だからこそ、この一串に漂う強い香りと刺激は、思いがけない驚きとなる。
遠い大陸の記憶が、名古屋の片隅で一夜限りの姿を見せてくれる。串を手にしたまま、私は異国の余韻に静かに酔っていた。
2025/09/04 更新
イベリコ豚が続くのには、やはり理由がある。
特別だからではない。前回と同じく、当たり前にあったものの終わりが、静かに視界に入ってきているからだ。ならば、もうひとつ。理屈より先に、口がそう言ってしまう。
今回はパエリア。
鍋に広がる米はトマトの赤をまとい、きりっとした酸味を帯びている。その酸味が土台となり、イベリコ豚の旨みをぐっと引き出す。豚の味が米に溶け込むというより、酸味のある米が受け止めることで、脂の甘みが輪郭を持つ。結果として、全体は驚くほど軽やかだ。重さはなく、むしろ後味はさっぱりしている。
前回はステーキで、その力強さを確かめた。
今回は米と向き合い、少し距離を取った付き合い方。
同じ素材でも、器が変われば語り口も変わる。
イベリコの先に何が来るのかは、まだ分からない。
だから今は、余計なことは考えない。
次を聞かれたら、たぶんこう言う。
今度は、生ハムかな。