2回
2025/06 訪問
日曜もやってるありがたいお店!
2度目の来店、『小麦っ娘』さん!!
いろんな調味料が置いてあって、味変たくさん出来て嬉しいお店!!
休日でもやってるのが嬉しいなぁ〜!!!!
本日のメニュー
・帆立バター←美味い
・イカゲソ
・チーズハンペン?←美味い
・アボカドキムチ
・きのこバター
・チョリソー
・じゃがバター
・もんじゃ×3種←他二つは撮るの忘れた…
こんな感じでいただきましたぁ〜!!
美味しく楽しかったぁ!!
ごちそうさまでした!!
もんじゃ焼きとは?
もんじゃ焼き(もんじゃやき)は、ゆるく水溶きした小麦粉を鉄板で調理して食べる東京発祥のローカルフードである。
単にもんじゃと呼ぶほか、地域によって異なるさまざまな呼称がある。
いわゆる「粉もの」料理の一つで、小麦粉を水に溶き、鉄板の上に流して焼く料理である。
お好み焼きに似た食べ物であるが、生地の粉液比が非常に低いうえに、ソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうため、加熱後の鉄板上においても糊状で固形化しないのが特徴である。鉄板にへらで押さえつけて焼きながら食べるので、鉄板に接する面は黒く焦げるが、内部は柔らかく粘ったままである。
東京都の下町と埼玉県南部・東部、群馬県東部と栃木県南部に提供する店が多い。
独特の見た目や食べづらさ、腹持ちの悪さなどから賛否の分かれる料理である。
現在に繋がるもんじゃ焼きのスタイルは戦後の昭和20年代に誕生し、浅草近辺(墨田区本所地区 現:墨田区東駒形)が発祥とされる事が多いようである。この地を基点とする東武鉄道や京成電鉄、旧奥州街道である国道4号、当時まだ盛んであった隅田川の物流などを通して、北関東や千葉方面に伝播したと考えられている(異説もあり)
江戸時代や明治時代の江戸・東京に「文字(もんじ)焼き」と称する駄菓子が存在したことが記録に残っている。現在のもんじゃ焼きとは異なる甘い焼き菓子であるが、これが「もんじゃ」の語源となっていることは想像に難くない。敗戦後に小麦粉が配給となった際に、これが糖蜜抜きで復活したという推測は成立する。
清水晴風の「街の姿」には「文字焼はうどんの粉に蜜を入れて、溶解せしを子供に与え、小なる匙にて文字を書くが如く、自由に銅板の上に垂らせば、直ぐに焼けるを以て文字焼と言う。」と書かれている。また、森銑三の「明治東京逸聞史2」にも「饂飩粉に蜜を加えたものを、銅の板の上で、手ン手に焼いて食べる」とあり、当時の文字焼きは甘味のある煎餅やパンケーキのような食べ物であったことがわかる。
駄菓子屋ともんじゃ焼き
東京下町の駄菓子屋には、昭和40年代(1965年 - 1974年)頃までは大抵もんじゃ焼きの鉄板があった。駄菓子屋は子供たちの社交場として機能しており、もんじゃを焼く鉄板上での陣取りはゲーム的要素のある遊びとして親しまれていたという。
昭和20年代は物資が欠乏していたため、単にうどん粉を水で溶き、ソースや醤油で味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代になるとキャベツなどの具材が加わるようになり、いわゆる「土手」を作ってから液汁を流し込むという調理手順が誕生した。しかしこの独特の作法が伝搬しなかった地域も少なくなく、近年では「土手を作らない」ことで料理としての独自性を主張する向きもみられる。
駄菓子屋のもんじゃは下町の子供たちに広く親しまれたが、食文化や嗜好の変化に加え、店主の高齢化に伴う廃業によって平成以降急速に姿を消していった。一方で、もんじゃ焼きは東京の伝統的な食べ物として全国的に認知されるようになり、観光客や昔を懐かしむ世代を対象とする業態に移行したことで単価の上昇を招き、子供たちの小遣いで手の届く価格帯ではなくなってしまった。それでも一部にはまだ昔ながらの安価で提供する駄菓子屋もわずかながら残存している。
2025/06/03 更新
今宵は広尾の『小麦っ娘』さん!!
長年広尾で愛されたお店!!
今日でおしまいなの…かなしみ…
今宵も大変美味しくいただきました!!
写真撮るの忘れたけど…
またの再開をおまちしております!!
お好み焼きとは?
お好み焼き(おこのみやき)は、小麦粉と鶏卵、キャベツ、ソースなどを使用する鉄板焼きの一種である。
水に溶いた小麦粉を生地として鶏卵、野菜、肉、魚介類、麺類など摂食者それぞれの好みの材料を使用し、鉄板の上で焼き上げ、ソース・マヨネーズ・青のり等の調味料をつけて食する。
焼き方や具材は地域によって差が見られ、関西流の焼き方と広島流の焼き方が異なる他、「ねぎ焼き」・「キャベツ焼き」、「べた焼き」、「遠州焼き」、「カキオコ」、「かしみん焼き」、「ちょぼ焼き」、「大阪焼き」、「はしまき」など様々な様式や具材のお好み焼き類似料理が存在している。
特に関西や広島を含む中国地方では、人々に愛される「ソウルフード」として定着している。また海外での日本食ブームも追い風となり、世界中で認知を拡げている。
記録では日本における粉物料理の起源は、安土桃山時代の千利休が好んだという「麩の焼き」にあるといわれている[出典 4]がお好み焼きとはかけ離れたものであり、お好み焼きの起源としては異論もある。
現在のお好み焼きに近いものとしては明治に東京で定着していたもんじゃ焼きから派生し、昭和の初めに東京を中心に流行した「どんどん焼き」があり、屋台や縁日などで販売された。このどんどん焼きは近畿地方においては、ソースが洋食的で一銭で買えることから一銭洋食と呼ばれ広まっていった。こうした古いスタイルのお好み焼きの原型は、現在も縁日の沿道に出る屋台などで提供されている他、「ねぎ焼き」・「キャベツ焼き」、神戸市や高砂市の「にくてん」、岸和田市の「かしみん焼き」、京都市の「べた焼き」といった形で存続している。また、中国人が似たものをごま油で香ばしく焼いたものの屋台も存在する。
1918年(大正7年)3月24日の読売新聞朝刊に「蝦フライ一銭のどんどん焼」と題する記事が掲載されており、記事内では「どんどん焼き」という表現を用いながらも、その屋台の暖簾や品書きには「お好み焼」という表現が使用されている。また柳田国男は、1931年(昭和6年)に刊行された「明治大正史 第四巻 世相篇」において「子供を相手の擔ひ商ひの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などといふ一品料理の眞似事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る」と書いている。
池田弥三郎の「私の食物誌」には「昭和6年〜7年(1931〜1932年)ごろに銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」というエピソードが記録されており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、どちらかと言えばいかがわしい業態としても機能していたことが読み取れる。食文化史研究家の岡田哲は、「お好み焼き」は当時の東京の花街において、座敷にしつらえた鉄板で客が自分の「好み」に焼く風流な遊戯料理として誕生した[注釈 2]というこの証言に基づいた解釈を紹介しており、日本コナモン協会会長の熊谷真菜も自著にて同じ説を採用している。
作家の田辺聖子は同じく作家の藤本義一との対談の中で、大阪でお好み焼きが知られるようになったのは昭和16〜17年ぐらいからではなかったかと発言している。現存するお好み焼き屋の中で最古とされる店は、浅草の「風流お好み焼 染太郎」で1938年(昭和13年[32])の創業であるが、大阪でも同じ時期に「以登屋」(現在は閉店)が開店しており、大阪で初めて客に自由に焼かせる「お好み焼き」を紹介したとされる。以登屋は芸者や花柳界の粋人、船場の旦那衆などを対象とした高級店で、市中の洋食焼きが10銭程度であった時代に1円50銭もしたという。ちなみに大衆店として人気を博した染太郎では、創業当時のお好み焼きの価格は一枚5銭であった。
戦後、「お好み焼き」という言葉は客が自分で焼いて楽しむという原義を離れ、ネギではなくキャベツを用いた粉物料理そのものを指すようになる。キャベツを用いる混ぜ焼き式の「お好み焼き」は近畿地方を中心に戦後急速に浸透し、全国各地で洋食焼き・どんどん焼きからお好み焼きへと料理の名称と調理法が更新されていった。焼き方に関しては現在も戦前のスタイルを残す地域が存在するものの、名称の点ではほぼ全国的に「お好み焼き」に統一されている。お好み焼きは戦後の大阪において、具材やソースの追加、腰掛け式のカウンターテーブルの採用などの変化を経て、本家と言われるほどに発展していく。昭和中葉(中期)には、大人が飲食店としての「お好み焼き屋」で座って鉄板を前に焼きながら食べる本格的なお好み焼きと、子どもが「立ち食い」を前提に「新聞紙」に包んだ二つ折りのものをその場で立って食べる、簡便なお好み焼きとが分かれて存在した。 広島は戦前の東京で誕生したお座敷料理のお好み焼きはもちろん、戦後に広まった混ぜ焼き式のお好み焼きの影響も受けなかった地域であるが、どんどん焼きは乗せ焼きが主流であり、どんどん焼きから一銭洋食として伝わり、関西のお好み焼きも広島のお好み焼きも源流は同じである。どんどん焼きが関西に渡り一銭洋食に変化した。乗せ焼きの文化は広島だけでは無く、神戸・京都・徳島などでも残っている。戦災からの復興過程で1950年(昭和25年)ごろに発生した屋台街(後のお好み村)において、鉄板一枚で調理出来ることから、戦前の一銭洋食をベースに独自の変化を遂げ、後に広島お好み焼きと呼ばれる料理に発展した。
呉市の関西お好み焼き店「ぼてじゅ」の創業者である宅見義喜によれば、お好み焼きのルーツはピザであり、昭和初期に軍艦の乗組員がヨーロッパから呉に伝えたという。これを海軍工廠に徴用された大阪の料理職人が大阪に伝え、戦後の復興期に里帰りして関西お好み焼きの元になったと主張している。
「柔らかいもんじゃ焼きを屋台で販売するために粉の分量を増やしたのがどんどん焼きの始まりである」とする説があるが、そもそも現在のもんじゃ焼きが誕生したのは昭和30年代のことであり、戦前の文字焼きは蜜の入った具なしの甘い生地を焼いて食べる子供のおやつであった。またどんどん焼きは一銭洋食と同じ「乗せ焼き」であり、後のもんじゃ焼きやお好み焼きのように生地に具材を混ぜ込む調理法は挽肉を用いる一例を除き記録には残っていない。池波正太郎は昭和初期を回想したエッセイの中で、今のお好み焼のごとく何でも彼でもメリケン粉の中へまぜこんで焼きあげるというような雑駁なものではなかったと語り、数あるどんどん焼きの中で唯一「牛てん」というメニューだけがネギとひき肉を生地に混ぜてから焼いていたと証言している。
三宅正弘は、戦前のお好み焼き屋において、一人前ずつの分量を座敷に運んで客に焼かせるという提供方法から必然的に合理的で管理がしやすい混ぜ焼きとなり、これが「お好み焼き」という言葉とともに大阪に伝わったのではないかと考察している。
現存する最古のお好み焼き店は、1938年(昭和13年)に東京浅草で創業した「染太郎」である。染太郎では戦前から続く古風なメニューを多く残しており、キャベツではなく白ネギを用いたお好み焼きや、どんどん焼き形式の乗せ焼き、あんこ巻きなどの甘味焼きも提供されている。東京には染太郎以外にも「松浪」や「まりや」など、黎明期の面影を残すお好み焼き屋がいくつか残存している。
一方、大阪屈指の老舗として知られる千日前の「はつせ」は全席完全個室で、風俗上の取り締まりを受けたという戦前のお好み焼き屋の姿を偲ばせる作りとなっている。近年はカウンター式で店員が焼き、マヨネーズまでかけた状態で提供されることが多くなった大阪だが、この店ではお好み焼きが東京から伝わった当時の様式を今もなお維持している。
これら老舗に共通するのは「客が自分で焼く」という点であり、店側は鉄板と材料を提供するのみで、特に要望のない限り店員が客席に顔を出すことはない。また焼き方や味付けは文字通り「お好み」であるが、基本的には具材をすべて混ぜ込み、よくかき混ぜてから焼くことを推奨している。