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2025/11訪問
1回
海の煙をまといながら、ふたりで食べる魚は、どうしてこんなにうまいのだろう。 冬の海風がゆっくり冷えてくる午後、彼女と車を走らせて辿り着いたのが「まるに古川水産」だった。 外観は漁師小屋のように飾り気がなく、店の前まで来ると、すでに魚を焼く香りが道まで漏れ出していて、ふたり同時に小さく笑った。「これは当たりだね」と彼女が言う。その一言が、まるで箸を入れる前からこの店の味を保証してくれるようだった。 席に通されると、七輪の赤い炭火がじりじりと息づいている。 まず運ばれてきたのはアラ汁。湯気の奥からほぐれた白身とネギが顔を出している。ひと口すすれば、海の底に沈む静けさをすくい上げたような深い出汁が舌に広がる。脂の甘味がふっと残って、それを追いかけるようにネギの香りが抜けていく。運転の緊張を解くように、身体の芯がすっと温まる。「これだけで満足しそう」と彼女が笑った。 次にやってきたのは焼き物の主役、カマの塩焼きだ。 こんがり焼けた皮の下に閉じ込められた脂が、箸を入れた瞬間にじゅっと光を持ち上げる。レモンを絞ると、香りが立ち、さっきまで眠っていた旨味が一気に跳ね起きるようだ。頬張ると、塩気と脂が喧嘩もせずに溶け合い、海の豪快さと繊細さが同時に押し寄せてくる。 「これ、やばいね…」と彼女。うまいものを食べたときに出る、あの素直な声だった。 しかし本番はここからだった。 網の上に並べられたのは小ぶりの魚たち――銀色に光るその姿は、まるで海の中を泳いでいた勢いをそのまま残しているようだった。炭に落ちた脂がパチパチと音を立て、煙が魚の表面をふわりと撫でていく。焼けるにつれ、香りが店いっぱいに広がり、海の近くにいる幸福をあらためて感じさせてくれる。 噛むと、驚くほど素直な塩味と、骨の際のほろっとした旨味が混じり合う。飾りっ気のない味なのに、どうしてこんなにも心に残るのだろう。 さらに、テーブルの端にはサザエ、ホタテ、はまぐりが控えている。 貝殻がぷっくりと開く瞬間をふたりで待つ時間は、食事以上に贅沢だった。サザエは肝のほろ苦さがたまらない。ホタテはバターの香りが海の甘味を引き立てる。はまぐりは潮の香りを真っ直ぐに届けてくれる。 「海が丸ごと来たみたいだね」と彼女が言った。 瓶ビールを開けると、もう言葉はいらなかった。 キンと冷えたグラスに注ぎ、七輪の火を眺めながら飲む一口は、どんな高級店でも味わえない種類のうまさを持っている。炭火、海鮮、夕方の光、そして隣に誰かがいるというその事実――全部がビールの味を決定づけていた。 食べ進めるほど、ふたりの会話はゆるくほどけていく。 「こういう店って落ち着くね」と彼女が言う。 確かにそうだ。肩肘張らず、ただうまいものを焼き、食べ、笑う。それだけでいい時間というものが、この店には流れている。 帰り際、外の空気を吸うと潮の香りがかすかに残っていた。 まるで今日という時間をそっと封じ込めてくれるように。 ――まるに古川水産。 派手さはない。だが、ここで食べた海の味は、きっとしばらく心に残る。 デートの昼下がりにこんな店を選べるなら、旅の午後はいつだっていい日になる。
2025/11訪問
1回
夜の帳がゆっくりと街を包み始めた頃、俺は車のエンジンを切り、静かな住宅街の一角にぽつんと光る「麺場 田所商店 松戸二十世紀が丘店」の暖簾をくぐった。 この日、どうしても味噌ラーメンが食べたかった。いや、正確に言えば「北海道味噌の炙りチャーシューメン」が、頭の中に焼きついて離れなかったのだ。腹が減っていたというより、体がそれを欲していた──そんな夜だった。 厨房からは味噌の焦げる香りと、炙られたチャーシューの香ばしい匂いが漂ってくる。しばらくして現れたその一杯に、思わず息をのんだ。 濃厚な北海道味噌のスープが黄金色に輝き、力強く、それでいてどこか包み込むような温もりを湛えている。そして何より目を引いたのは、炙られたチャーシューたち。表面にしっかりと焼き目が入り、脂はとろける寸前で踏みとどまっていた。まるで焚き火の煙を纏ったかのような香りが、食欲を暴れさせる。 レンゲですくってひと口。スープはどっしりとしたコクと塩味が押し寄せ、それが決してしつこくない。太めの麺がその濃厚なスープを絡め取り、噛みしめるたびに北の大地の厳しさと恵みが伝わってくるようだった。 そして炙りチャーシュー。これはもう、ラーメンの中の贅沢ではなく、一つの料理だった。口に入れた瞬間、炭の香りと肉の甘みが混ざり合い、咀嚼という行為が一種の儀式に思えるほど、ひと噛みひと噛みに重みがある。 食べ終えた丼の底に、うっすらと残るスープを見つめながら思った。これは偶然の一杯ではない。今日この日、この場所で、このラーメンに出会う運命だったのだと。 ──北海道味噌の炙りチャーシューメン。それは、旅では味わえない、日常の中に潜む非日常だった。
2025/08訪問
1回
昼をとうに過ぎた時間、腹の虫が静かに鳴いていた。 街の喧騒が午後の陽射しにやや鈍く溶け込むころ、ふと足が止まったのが「まんぷく亭」だった。暖簾は少し色褪せていて、入り口横の看板には筆文字で“定食”の二文字。いかにも飾り気のない店構えに、妙に心を惹かれた。 ドアを開けると、カウンターの奥から「いらっしゃい」と短く、けれども芯のある声。店主の声には、厨房で長年油を浴びてきた職人の温度があった。客はまばら。時計の針は午後二時半。昼の混雑が過ぎ、店内には油の香ばしさと、ゆっくりとした時間が漂っていた。 壁のメニューを眺める。唐揚げ、しょうが焼き、焼き魚定食──どれも定番で、悩ましい。だが、その中で「レバニラ定食」という文字に、心がピクリと反応した。最近、まともなレバニラを食べていない。チェーン店のそれでは、どうも魂が感じられない。そんな思いが背中を押した。 「レバニラ、お願いします」 注文してから、わずか数分。中華鍋の底でレバーが躍り、ニラが弾ける音が聴こえた。油が金属に跳ねるリズムが心地よい。料理の音には、作り手の集中が宿る。その音を聞いていると、なぜか落ち着くのだ。 やがて、目の前に置かれたレバニラ定食。 白飯の湯気が立ち上り、味噌汁が隣に控える。主役の皿は、鮮やかな緑と艶やかな茶色の対比が美しい。レバーの表面には光沢があり、厚みも申し分ない。箸でひと切れつまむと、驚くほど柔らかい。口に入れた瞬間、ふんわりとした食感のあとに、濃密な旨みが広がる。 ニラのシャキシャキ感、もやしの歯ごたえ、そしてレバーのコク。 それらがひとつのリズムとなって舌の上で調和する。にんにくの香りが立ち上がり、後からほんの少しだけ辛味が追いかけてくる。その絶妙なバランスが、箸を止めさせない。 気づけば、白飯がどんどん消えていく。 このレバニラは、ご飯のために生まれた料理だ。噛むほどに味が深まる。タレの濃さもほどよく、脂の重さを感じさせない。まるで料理全体に“節度”という美学が貫かれているようだった。 店主がちらりとこちらを見る。 「レバー、ちょっといいやつ使ってます」 そう言って笑った。 その一言に、この店のすべてが詰まっている気がした。素材に対して嘘をつかない。手間を惜しまない。派手さはないが、味で勝負している。そんな誇りが感じられる。 外に出ると、午後の陽射しが傾き始めていた。 腹は満ち、心も満ちている。ふと振り返ると、まんぷく亭の暖簾が風に揺れていた。その姿が、どこか人生の一場面のように映った。 うまいものというのは、単に舌を喜ばせるものではない。 心に静かに残る余韻、それこそが本当の“うまさ”だと思う。 まんぷく亭のレバニラは、まさにそんな一皿だった。 ──またあの音と香りに会いに来よう。
2025/10訪問
1回
朝の光がやわらかく差し込む松戸の街に、少し早めに着いた。クルマを停めたのは「むさしの森珈琲 松戸新田店」。国道沿いの喧騒をほんの少し奥に入るだけで、ふっと空気が変わる。白い外壁と木のぬくもりを活かした建物は、まるで郊外の別荘のような趣がある。ドアを開けた瞬間に広がるのは、焙煎豆の深い香りと、木目調の内装が生み出す柔らかな空気感。朝から仕事の打ち合わせには、こういう場所がちょうどいい。 店内は天井が高く、開放感がある。広めのテーブル席がゆったりと配置され、隣との距離がほどよく保たれているので、声を潜めなくても気兼ねなく話ができる。カフェ特有のざわめきはあるが、それが妙に心地よいバックグラウンドミュージックになっていた。打ち合わせ相手が来る前に、まずは一息つこうとアイスコーヒーを注文する。グラスに入った黒い液体が、陽の光を受けて微かに透ける。その姿は、まるで研ぎ澄まされた墨のよう。ひと口含むと、深煎り特有の苦味が舌に広がり、その奥から爽やかな酸味が追いかけてくる。冷たさと香りが喉を通り抜けると、不思議と頭の中の靄が晴れていく。打ち合わせ前の準備には、こういう一杯が何よりも効く。 ほどなくして、相手も到着。注文したのは「卵とベーコンのサンドウィッチ」。むさしの森の定番メニューのひとつだ。しばらくして運ばれてきたプレートには、ふんわりと焼かれたパンの間から、とろりとした卵とカリッと焼かれたベーコンが顔を覗かせている。見た目はシンプルだが、こういう料理ほど、店の力量が問われる。手に取ると、パンの表面は軽くトーストされていて指先にほんのり温かい。ひと口かじると、ベーコンの香ばしさが先に立ち、すぐに卵の優しい甘さと絡み合う。噛むごとにパンのふわりとした食感が全体を包み込んでいく。奇をてらわない、しかし丁寧に作られた一皿。どこか懐かしく、落ち着いた味わいだった。 打ち合わせは、コーヒーの香りに包まれながら淡々と進んでいった。ビジネスの話というよりは、これからの方向性を一緒に描いていくような、柔らかい時間だった。窓の外には秋の陽射しが差し込み、通りを行き交う車の音が遠くに響く。都会のカフェにはない、郊外ならではの余白がここにはある。時間がゆっくりと流れ、話のテンポも自然と穏やかになる。 食事を終えたあとも、アイスコーヒーを少しずつ飲みながら、資料を広げ、次の予定を確認する。スタッフの接客も控えめで、こちらの空気を壊さない距離感が心地よい。長居しても嫌な顔をされることはなく、むしろ「ゆっくりどうぞ」という雰囲気が漂っている。 「むさしの森珈琲 松戸新田店」は、ただコーヒーを飲む場所ではなく、「考える時間」や「話す時間」を静かに包み込んでくれる空間だ。ビジネスの打ち合わせにも、ひとりで文章を書きたいときにも、ぴったりの場所。ここで過ごす朝のひとときは、どこか旅先のロッジにでも迷い込んだような、不思議な充足感を残してくれる。
2025/10訪問
1回
夜が深まるほど、人はなぜかラーメンに惹かれる。 一日を終えた身体が、最後のご褒美のように、温かい汁物を求めるのだろう。 代々木の街を歩きながら、その衝動が静かに胸の奥でうずき始めていた。 「麺屋亥龍」。 その名を見つけた瞬間、迷いはなかった。 まるで吸い寄せられるように暖簾をくぐった。 カウンターの向こうで、店主が無駄のない動きで鍋を操る。 スープがひと息つくように湯気を立て、背脂が光を帯びて揺れている。 深夜特有の静けさのなかで、その音だけがはっきりと耳に届く。 やがて目の前に置かれた一杯。 青い龍の絵柄が入った器に、背脂が雪のように浮かんでいる。 ネギがどっさりと盛られ、チャーシューは丼の端で静かに存在感を示している。 海苔が少し湿り始めていて、その様子がなぜか愛おしい。 まず、れんげを沈めてスープをすくう。 背脂が舌に触れた瞬間、じんわりと広がる甘みとコク。 その奥から醤油の輪郭が顔をのぞかせ、喉を通る頃には身体全体が温まる。 「深夜にこれは反則だな」と、思わずひとりごちた。 そして、投入した大量の大蒜。 ニンニクが溶け出す瞬間、スープは一気に別物になる。 鋭いパンチが加わり、背脂の甘さがさらに引き立つ。 深夜に食べる罪悪感と、翌朝の活力を同時に与えてくれる味。 ラーメンとは、時に“背中を押す料理”なのかもしれない。 麺をすすれば、その感覚はさらに強くなる。 太すぎず細すぎず、スープを絡め取ってちょうどいい。 すすった瞬間に立ち上るニンニクの香りは、夜の街の疲れを一瞬で吹き飛ばしてくれる。 チャーシューはしっとりとしていて、箸を入れただけでほぐれていく。 脂の旨みと肉の筋がほどよく残っていて、噛むたびに力強い味が広がる。 どこか懐かしさすら感じるその一枚は、この一杯の中で欠かせないパーツだ。 そして、大好きな“深夜のラーメン”特有の感覚が訪れる。 空腹を満たすというより、今日一日の自分を労う儀式のようなもの。 背脂が溶ける音、スープの香り、麺の温度── そのすべてが、まるで「お疲れ」と語りかけてくる。 店内は決して華やかではない。 照明は必要以上に明るくなく、客同士の会話も少ない。 だが、不思議な“安心感”がある。 深夜の店でしか味わえない、静かなぬくもりだ。 最後の一滴まで飲み干す頃には、 身体の中心から熱が湧き上がり、明日へのエネルギーが満ちてくる。 背脂ラーメンというのは、ただの食事ではなく、 “明日に繋げるためのエネルギー補給”なのだと実感する。 外に出ると夜風がひんやりしていたが、 その冷たさですら心地よく感じられた。 胃袋に宿った温もりが、ゆっくりと全身を満たしていく。 代々木の夜、麺屋亥龍の一杯。 深夜の孤独を癒し、翌日僕を支える── そんな力強いラーメンだった。
2025/11訪問
1回
本八幡の夜は、いつもどこか湿っている。総武線の高架下を抜け、都営新宿線の出口から顔を出すと、目の前にそのオレンジ色の看板が見えた。吉野家。 いつものことだ。何度この店に吸い寄せられてきたことか。 だが、今日は違った。いつもの牛丼ではない。新メニュー、「まぜそば」。それが、どうしても気になっていた。 カウンターに腰を下ろし、注文票に視線を落とす。まぜそばという言葉が、妙に艶かしい。つるりとして、それでいてどこか野性的な響きがある。 厨房の奥から、ジュウと油の弾ける音が聞こえてくる。その音に誘われるように、私は無意識に背筋を伸ばす。体が食べる準備をはじめている。 やがて目の前に運ばれてきたそれは、見た目にも食欲をそそる姿だった。 黄金色に照り返すタレ、もやしと刻みネギがこんもりと乗り、その上からは卵黄がとろりと光っている。まるで、深夜の路地裏に灯るひとつのネオンのようだった。 箸を手に取り、一気にかき混ぜる。卵とタレ、具材、そしてもっちりとした麺が渾然一体となって絡んでいく。その瞬間、湯気の中に立ちのぼる匂いに、私は完全に心を奪われた。 それはもう、言葉では表現しきれない種類の欲望だった。 一口。いや、正確には最初の啜り。 濃厚なタレの甘みと、背脂のコクが舌に広がる。追いかけるように、刻みニンニクと胡椒のパンチが喉元を駆け抜けていく。 次の瞬間、私は思わず笑ってしまった。ああ、うまい。どうしようもなく、うまい。 まるで、長年追いかけてきた何かが、いま目の前で形を変えて答えをくれたような、そんな錯覚すら覚えた。 ほっぺが落ちる、という表現があるが、今日ほどその言葉の意味を身体で理解した日はない。 実際、口元の筋肉がゆるみ、何度も笑いが込み上げてくる。 そして、その笑いの向こうには、日々の相場に疲れた自分が、まるで肩の荷を降ろしたかのように座っていた。 隣の席では、若いサラリーマン風の男が黙々と牛丼をかき込んでいる。 彼がひとくち、味噌汁をすすったタイミングで、私はつい声をかけそうになる。 「これ、食べたことあります? まぜそば、ヤバいですよ。」 だが、言葉は胸の中に収めた。 こういう幸福は、誰かに語るより、静かにひとりで味わう方がいい。 ましてや、この店のカウンター席ではなおさらだ。 食べ終えたあと、私はカウンターに100円玉を二枚、余計に置いてしまった。 理由はわからない。ただ、あの一杯に、たしかにそれだけの価値があった気がしたのだ。 店を出ると、また総武線の夜の風が、肌をかすめていく。 スマホを取り出し、株価アプリをちらりと開く。日経平均は…まぁ、いい。今日はもう、まぜそばで十分、勝っている。 本八幡の吉野家。 ここで、私はまたひとつ、大人の夜を覚えた。
2025/07訪問
1回
ドライブの帰り道というのは、どうしてこうも腹が減るのだろう。海風にあたり、波の音に包まれ、長い時間アクセルとブレーキを交互に踏んでいた身体が、急に何かを欲しがる。そんな時に立ち寄ったのが、「道の駅むつざわ つどいの郷」だった。 ここには温泉がある。それを知っていて寄ったのだが、もうひとつ、心に残る場所があった。館内の一角に佇む、あのレストランである。 風呂から上がり、湯気の余韻をまとったまま、木の廊下を歩く。すれ違う人々の表情が、どこか柔らかいのは、湯に癒やされたからだけではないような気がした。きっとこの土地の空気そのものが、ひとをほどいていくのだろう。 レストランに入ると、地元野菜をふんだんに使ったメニューが目を引いた。が、なぜだろう。僕は迷わず「ペペロンチーノ」を選んだ。にんにくとオリーブオイルと、唐辛子。たったそれだけのはずの料理に、無性に惹かれた。 席につき、運ばれてきたペペロンチーノは、一見してシンプルだった。けれど、フォークを入れた瞬間、その“ただものではない”空気が伝わってきた。にんにくの香ばしさ、オイルの艶、そして意外にも存在感のある地元野菜──ししとう、小松菜などが、皿の上で静かに自己主張していた。 口に運んで、思わず「うまい」と声が漏れた。オリーブオイルが全体をやさしく包み込んでいる。辛味は控えめ、けれど芯がある。パスタの茹で加減も申し分なかった。芯の残るアルデンテというより、むしろ“ちょうどよさ”を極めた茹で具合。歯ごたえと舌ざわりが、舌の上で素直に収まる。 厨房の奥から、地元のスタッフらしき人の話し声が聞こえてくる。その言葉の抑揚が、どこか「日常」の風景を作っていた。観光地にありがちな浮ついた空気はここにはない。レストラン全体が、むしろ“暮らし”の延長線上にあった。 食後、迷わずアイスコーヒーを頼んだ。 夏の風呂上がりに熱い飲み物など、もう体が受けつけない。ガラスのグラスに注がれたアイスコーヒーは、黒曜石のような深い色をしていた。カランと氷が音を立てた瞬間、思わず目を閉じた。のどを潤すというより、内側から「冷静さ」が戻ってくる感覚。 一口飲むと、キリッとした苦みが舌を刺激し、そしてスッと消えていく。どこか、遠い記憶の中の喫茶店の味がした。味そのもの以上に、その冷たさと落ち着きが心地よかった。 窓際の席からは、棚田と里山が見える。夕暮れが迫り、空の色が少しずつ変わり始めていた。僕はただ、グラスを傾けながら、その静かな風景に身を預けていた。先ほどまでアクセルを踏み込んでいた自分が嘘のように、ここではただ、風景とアイスコーヒーを味わうだけの人間になっていた。 店内に流れる音楽は控えめだった。BGMに頼らずとも、この場所そのものが“音楽”になっている。レストランの空気、木の床の軋み、誰かがナイフとフォークを置く音、それに遠くで笑う子どもの声。すべてがひとつの交響曲のように、静かに、心にしみていく。 ふと思った。このパスタと、このコーヒーは、ここでしか味わえない。いや、似たような料理なら、街のイタリアンやカフェでいくらでもあるだろう。でも、「この風景と、この空気と、この時間」に包まれて味わうそれらは、唯一無二の体験なのだ。 僕は最後の一口をゆっくりと噛みしめ、グラスの底に残った氷が溶けきるのを見届けてから、席を立った。満腹というより、「満ちた」という感覚だった。 夕暮れが近づいていた。再びオープンカーに乗り込む。屋根を開けて、風を受ける。さっき食べたペペロンチーノとアイスコーヒーの余韻が、まだ身体のどこかに残っていた。 風がその記憶を少しずつ攫っていく。けれど、完全には消えない。記憶の中で、そのひとときは、今日という一日の象徴として、しばらく留まり続けるのだろう。
2025/07訪問
1回
市川駅の北口を出て、風が頬をなでた瞬間、ああ、冬が来たなと感じた。 駅前の通りを歩きながら、吐く息が白く曇る。指先がかじかみ、ポケットの中で手をもぞもぞと動かす。そんな夜、自然と足が向いたのは、いつもの松屋 市川店だった。 寒さが人を呼び寄せるのは、きっと、あの湯気のせいだ。 券売機の前で立ち止まり、迷いなく指が押したのは「チゲ鍋定食」。 心も身体も温めてくれる、この季節の定番。鉄鍋でぐつぐつと煮え立つその音が、何よりのご馳走だ。 店内は思ったよりも混んでいた。スーツ姿のサラリーマン、部活帰りの学生、年配の常連客。みんな黙々と湯気に顔を向け、冬の夜を乗り越えるように箸を進めている。 やがて、目の前にやってきたチゲ鍋は、まるで火山のようだった。 赤く光るスープの中に、豆腐、豚肉、ネギ、そして半熟卵。湯気の奥で卵がとろりとゆらめいている。レンゲですくうと、唐辛子と味噌の香りが立ちのぼり、鼻腔をくすぐる。 ひと口、スープをすすった瞬間、舌の上に広がる辛みと旨み。その奥にほんのりとした甘みが追いかけてくる。思わず「うまい」と小さく声が漏れた。 外の冷気で固まっていた身体が、じわじわと溶けていく。 この瞬間のために冬があるのだと、心のどこかで納得する。 スープを飲み干すごとに、背中に汗がにじむ。鍋から立ちのぼる湯気と、体内から湧き上がる熱が交錯して、自分が湯気の中に溶け込んでいくような錯覚さえ覚えた。 ふと隣を見ると、学生らしき青年がスマホを見ながら同じチゲを食べていた。 「やっぱり冬はこれっすね」と、店員に笑いかけている。 その何気ない言葉に、妙な共感を覚えた。人はきっと、理由なんてなくても温かいものを求める季節があるのだ。 ご飯をスープに少しずつ浸して食べる。 辛さと米の甘みが溶け合って、至福のバランスになる。最後は残りの汁を一滴も残さず飲み干した。 空になった鍋の底に残る赤い模様を見つめながら、どこか満たされたような、静かな充足感が胸に広がった。 外に出ると、冷たい風がまた頬を打った。 だが、さっきまでの寒さとは違う。身体の芯に熱が灯っているから、風がむしろ心地よい。 駅へ向かう途中、ふとショーウィンドウに映った自分の顔が、どこか柔らかく見えた。 松屋のチゲ鍋定食は、ただのファストフードではない。 それは冬の夜に、ひとりの人間を静かに包み込む小さな灯火だ。 寒さに凍える帰り道の途中で、ふと立ち寄ったこの場所が、誰かの一日の終わりを温めている。 そんな当たり前の光景が、この街の冬をやさしくしている気がした。
2025/11訪問
1回
夜の市川駅北口。人の流れが落ち着いた時間帯に、僕は仕事仲間とサイゼリヤの扉を押した。 目的は「打ち合わせ」だが、実のところそれだけではない。安いワインを片手に、積み重ねてきた日々を振り返る時間が、僕にはときどき必要なのだ。 店内に足を踏み入れると、あの特有の明るさが迎えてくれる。照明は少し白っぽく、テーブルの木目は軽やかで、学生も家族連れも、会社帰りのサラリーマンも、ここではみな一様にリラックスしている。サイゼリヤという空間は、妙に人間を平等にする力を持っている。 誰もが高級でも安っぽくもなく、ちょうどいい場所にいるような気分にさせるのだ。 グラスワインの赤を頼み、軽く乾杯する。 一本のボトルに換算すれば、千円にも満たないそのワインが、驚くほど舌にしっくりくる。安いからこそ気取らずに飲めるし、飲むほどに語り口もやわらかくなる。仕事の話がいつの間にか人生の話に変わっていくのも、ここではよくあることだ。 仲間の一人がメニューを眺めながら「栄養補強にほうれん草いっとく?」と笑った。 その言葉に頷きながら、僕もほうれん草のソテーを頼む。皿が運ばれてくると、湯気の向こうに、鮮やかな緑が立ちのぼっていた。 オリーブオイルの香りが軽く立ち、ニンニクがほんのりと効いている。派手さはないが、誠実な味だ。 この一皿に、サイゼリヤという店の哲学が凝縮されているように思えた。 「うまい」「安い」「変わらない」――それだけで、どれほど多くの人の胃袋と心を救ってきたことだろう。 打ち合わせの話題は、やがて仕事の方向性から人生のリズムに変わる。 「安定って何だろうな」と誰かがつぶやく。 僕はワインを少し口に含みながら、「サイゼリヤのほうれん草みたいなもんかもな」と答えた。 派手ではないが、確かに体に沁みていく味。日々の中で、静かに自分を整える存在。 そんなものを持っている人こそ、結局は強いのかもしれない。 外では風が冷たくなり始めていた。 グラスの底に残ったワインを飲み干しながら、ふと店内を見回すと、若いカップルがピザを分け合って笑っている。 老夫婦がゆっくりとミラノ風ドリアを味わっている。 誰もが、それぞれの時間をこのテーブルの上で過ごしている。 安いチェーン店のはずなのに、なぜだか少し温かい。 それはたぶん、ここが「日常の延長線上にある幸せ」を映す鏡だからだ。 帰り際、店を出る前にもう一度振り返る。 サイゼリヤの白い灯が、駅前の雑踏の中にぼんやりと滲んでいた。 豪華ではないが、確かに心を休めてくれる場所。 今日のワインも、ほうれん草も、そして会話も、どれも等しく「安定の味」だった。 この店の魅力は、派手さの裏にある静かな確かさだ。 それを理解できる年齢になったことを、少しだけ誇らしく思いながら、僕は夜の市川の風に背中を押されて歩き出した。
2025/11訪問
1回
仲間と車を走らせる時間というのは、目的地よりもその過程が面白い。ハンドルを握り、幹線道路を滑っていくと、都会の喧騒はバックミラーの向こうへと置き去りになる。目的地は「二九八家 いわせ」。口コミの評価がどうこうというより、仲間のひとりが放った「ここのチャーシュー、ちょっと人生変わる」という半ば胡散臭い誘惑に負けたからだ。 到着したその店構えは、決して観光客を意識した派手な色彩ではない。むしろ、地元の胃袋を長年支えてきた職人の寡黙さを思わせる。暖簾をくぐると、豚骨の匂いが鼻腔に広がる。旨さと脂が絡み合い、空腹という原始的欲求に火をつける香りだった。 テーブルに腰掛け、迷うふりをしながらも、心はすでに「チャーシュー麺」へと決まっている。仲間たちも同じ頼み方だ。注文が通ると、厨房の奥からチャーシューが切られる音が聞こえた。トントン、とリズムを刻む包丁の音が小気味よい。まるで「これからお前の世界を変えてやる」と言わんばかりだ。 ほどなくして、その一杯は目の前に置かれた。 黄金にも見える濃厚な豚骨スープ。ぴたりと整列した麺が沈む下、重厚な存在感を放つチャーシューが鎮座している。脂身と赤身が描く模様は、まるで熟成された大理石のようだ。視覚だけで、人は幸福になれるのだと実感する。 箸を伸ばし、チャーシューをつまむ。ふわり、と持ち上がる軽さ。噛む前に、唇で崩れる。肉の繊維がほぐれ、脂がとろける。味が舌に触れると同時に、豚肉の生きざまが語りかけてくる。決して派手ではない。だが、丁寧に毎日積み重ねられてきた仕事の結晶。それを、ラーメンの上にそっと寝かせているのだ。 スープは濃厚だが決して重くない。豚骨という素材を知り尽くし、その魅力を最大値に引き上げている。レンゲですくい一口。喉を通過したあとに残る余韻が、酒の余韻にも似た深さを持っている。そこに中太の麺が絡むと、旅はクライマックスに向けて加速する。麺を啜るという単純な動作に、こんなにも快楽が潜んでいるとは。 仲間たちは無言だった。会話を奪うラーメンが世にどれだけあるだろうか。人は本当に美味いものに出会った時、言葉を失うのだ。会話が止まり、湯気と鼻息だけが店内の空気と混ざる。そんな静寂の中で、幸福だけが満ちていった。 食べ終えた後、ふと外を見ると、車のフロントガラスに夕日が反射していた。胃袋を満たしたばかりなのに、心のどこかに切なさが漂う。美味い一杯というものは、いつも別れの瞬間に寂しさを連れてくる。なんでこんなにも短いのだろう。人生と同じで、良いものほどすぐに終わってしまう。 「また来たいな」 誰かが呟いた。それは全員の本音でもあった。 二九八家 いわせ。 そこには、無駄な飾りも、奇をてらった演出もない。ただただ誠実に、チャーシューが激ウマという事実のみがそこに存在する。 旅をする理由は人それぞれだ。 だが、ここには一つの動機がある。 「このチャーシューに会いに行く」という理由が。 その理由だけで、また車を走らせる価値がある。
2025/10訪問
1回
市川本八幡の駅を降り、総武線の高架をくぐると、夜の街にひっそりと灯りを落とす「カプセルホテルレインボー」の看板が目に入った。昨日はここに泊まった。 フロントで小さな鍵を受け取り、狭い廊下を抜けた先に待っていたのは、サウナの熱気だった。 ガラスの向こうに蒸気が揺れ、汗を滴らせた男たちが、黙々と自分の時間を過ごしている。木のベンチに腰を下ろし、身体がじわじわと熱に溶かされていく。頭の奥に残っていた雑念も、次第に霞のように消えていった。熱気に耐え、耐えきれなくなったその瞬間、水風呂に飛び込む。冷気が一気に肌を叩き、心臓が大きく跳ねる。 その後に待っていたのは、一杯の生ビールだった。ジョッキを手に、泡をすする。冷たい液体が喉を駆け抜け、火照った身体を一瞬で鎮める。サウナあがりの一杯が、これほどまでに甘美なものかと、あらためて思い知らされる。 宿泊はカプセル。狭い空間ではあるが、妙に落ち着く。布団に身を沈めれば、外の喧騒とは別世界。レインボーの灯りがほんのりと心を和ませ、眠りへと導いてくれる。 「カプセルホテルレインボー 総武線市川本八幡店」。駅前の雑踏からわずか数歩、そこにはサウナとビール、そして静かな眠りが待っていた。旅の途中の小さな港のような場所だった。
1回
灼けつくような陽射しが、駅前のアスファルトに容赦なく突き刺さる。市川の午後。ふと足が向いたのは、シャポーの地下、通路の奥にひっそりと暖簾を掲げる「Time is Curry」だった。 いつもならスパイスの香りだけで満ち足りるのだが、この日は違った。胃の奥に確かな渇きがあった。ハンバーグカレー。メニューに目を落とした瞬間、それは一切の迷いを打ち消していた。 ほどなくして運ばれてきた皿からは、蒸気が立ち昇り、スパイスの奔流が鼻腔を駆け抜ける。そして、中央に鎮座するハンバーグ。厚みがあり、ナイフを入れると肉汁が溢れた。それは、まるで炎天下に咲く一輪の花のようだった。 一口、頬張る。辛さのなかにほんのわずかに甘みがあり、それが熱気とともに身体の隅々に染み渡っていく。夏の疲れも、汗ばむシャツも、その瞬間だけはどうでもよくなった。 時間など、どうでもよかった。ただ、スプーンを進めるたびに、心の奥の何かが静かにほぐれていったのだ。 ──Time is Curry。名前の通り、あの一皿に、確かに“時”が宿っていた。
2025/08訪問
1回
千葉県市川市、道の駅いちかわの中にある「いちCafe」。この場所に通うようになって、もう数ヶ月。今では週に3回は足を運ぶ、まさに“自分の居場所”のような存在です。 まず、このカフェの最大の魅力はその居心地の良さ。大きな窓から自然光が差し込み、天井も高く、空間が広々としていて圧迫感がありません。カウンター席、テーブル席、そしてソファ席まであり、気分や用途によって選べるのが嬉しいところです。平日の日中は比較的空いていて、静かに過ごせるので、ちょっとした気分転換や作業にもぴったりです。 電源も一部の席に設置されており、ノートパソコンを使っての作業が可能。ただし、すべての席にあるわけではないので、電源を使いたいときは早めに行くか、スタッフに確認して座席を選ぶ必要があります。Wi-Fiは無料で使え、通信も安定していて、メールチェックやリモートワークには十分な環境です。 そんな「いちCafe」で私のお気に入りは、サーモンを挟んだパンのランチセット。市川市内の有名パン屋「ピーターパン」や「ボローニャ」の厚切り食パンに、スモークサーモン、シャキッとした野菜、そしてほんのり酸味のあるソースが絶妙にマッチしています。パンのしっとりもちもち感が、サーモンの旨味を引き立てていて、まさに“間違いない”組み合わせです。 食後には、ついつい注文してしまうのが「梨のソフトクリーム」。市川産の梨を使ったソフトで、これが本当に美味しいんです。さっぱりした甘さで、口に入れた瞬間、梨の香りがふわっと広がり、後味もすっきり。暑い日にも、食後のデザートにもぴったりで、今では毎回の楽しみの一つになっています。 スタッフの方々の対応もとても気持ちよく、笑顔で迎えてくれたり、混雑時でも落ち着いた接客で丁寧に対応してくれるのが印象的です。ひとりでふらっと入っても居心地が悪くならないのは、スタッフのこうした配慮があるからこそだと思います。 また、道の駅いちかわという立地も魅力的で、カフェ利用の前後に地元野菜やお土産を見たりするのも楽しみの一つです。ドライブ中に立ち寄るにもぴったりですが、私はむしろ「このカフェのために市川に来ている」と言っても過言ではありません。 「いちCafe」は、食事・スイーツ・空間・接客、どれを取ってもバランスが良く、毎週通いたくなる魅力が詰まった場所。特にサーモンパンのランチと梨ソフトは本当におすすめです。今後も変わらず、週に何度も訪れて、癒しの時間を過ごしたいと思います。
2024/10訪問
1回
屋台風の佇まいに惹かれて訪問。名物・市川ブラックラーメンは見た目の黒さとは裏腹に、旨味たっぷりで奥深い味わい。醤油のコクと香ばしさが絶妙で、スープを一口飲んだ瞬間にその世界観に引き込まれました。モチっとした中太麺との相性も抜群で、トッピングのチャーシューもとろける旨さ。暑い中で熱々のラーメンを食べる一杯は、で格別でした。地元の名物としてもっと広ま
2025/06訪問
1回
ケンタッキーフライドチキン 本八幡店。 昼下がりの街は、どこかのんびりとした空気をまとっていた。駅前を抜け、日常に溶け込むようにそこに在る赤い看板。人の往来に混じって、その光景は無数の昼の記憶と重なり合う。 カウンターでバーガーのセットを注文する。トレーを受け取ると、紙に包まれたバーガーからはほのかに油とスパイスの匂いが漂い、コーラの炭酸が小さく弾けている。窓際の席に腰を下ろし、一息ついて包みを開く。 ふわりと立ち上がる湯気と、バンズの柔らかな香り。歯を立てると、カリッと揚がったチキンの衣が小さな音を立て、すぐに肉の弾力とジューシーさが舌を打つ。噛むごとに胡椒と塩気が混ざり合い、昼の空腹を一気に埋め尽くしていく。脂の旨味を受け止めるように、冷たいコーラが喉を抜ける。その瞬間、胃の奥が確かに満たされ、思わず小さく息をついた。 店内には学生の笑い声、買い物帰りの親子の会話、そして一人黙々と食事を済ませるサラリーマンの背中。それぞれの昼が交錯し、ひとつの風景を作り出していた。ファストフードでありながら、そこに流れている時間は決して軽くはない。誰にとっても必要で、誰にとっても一瞬の休息になる。 食べ終えた後の満足感は、贅沢な食事に引けを取らない。値段や形式に左右されることのない、シンプルな幸福が確かにここにあった。 ――「お昼のバーガーセット、美味かった」。 その一言に尽きる。
2025/08訪問
1回
朝の光が、まだ柔らかく街を包み込んでいる。 駅の改札を抜け、ベックスコーヒー市川店のドアを押したとき、外のざわめきが一瞬だけ遠のく。 カウンター越しに注文したアイスコーヒーは、深く黒く、その中に微かな琥珀色のきらめきを宿していた。 ひと口、口に含む。 冷たさが舌先を走り抜け、すぐに深煎りの苦味が追いかけてくる。 それは決して強すぎず、しかし確かな存在感を放つ、まるで長年連れ添った友人のような味わいだった。 窓際の席に腰を下ろし、通りを行き交う人々をぼんやりと眺めながら、氷がグラスの中で静かに音を立てるのを聴く。 朝の市川に溶け込むような時間。 それは、ただのコーヒーではなく、この街の朝そのものを飲み干しているような感覚だった。
1回
笑福庵──その名のとおり、どこか肩の力が抜けるような響きだった。 温泉に入る前に、まずは腹ごしらえをと、ぼくは一人、のれんをくぐった。夕暮れの空気が少し冷えてきた頃だった。 店内は静かで、木の香りがわずかに鼻をかすめる。観光地のざわめきとは違う、地元の人々の生活の匂いがあった。そこにいるだけで、何か大切なものを忘れてきた気がして、背筋を伸ばして座った。 「そばをひとつ」 店の主人が黙ってうなずき、奥で湯を沸かす音が聞こえる。数分もすると、素朴な器に盛られたそばが運ばれてきた。 一口すすると、冷たくて、やさしかった。キリリと締まった麺が喉をするりと通っていく。つゆは出しゃばらず、控えめで、だが深みがあった。山あいの水と空気を食べているような、そんな錯覚にとらわれる。 風呂前の、ただの一杯のそば。だが、この一杯が旅の記憶に棘のように残ることを、ぼくはこのときまだ知らなかった。 温泉の湯よりも先に、心のどこかが、ふっと解けていった。
2025/07訪問
1回
その日、熱っぽい体を引きずるようにして布団から抜け出したのは、午後もずいぶんと過ぎた頃だった。 汗ばんだシャツを脱ぎ捨て、顔を洗って、もう一度鏡に映った自分を見つめたとき、ふと「肉うどんが食べたい」と、そんな衝動が全身を駆け巡った。 ──なぜ肉うどんなのか、自分でもわからなかった。ただ、あの甘辛い肉の香りと、やさしく喉を通ってゆくうどんの温もり。それだけが、風邪に侵された身体の奥にある、なにか生きたがっているものを呼び起こす気がしたのだ。 松戸二十世紀が丘。住宅街の中にぽつんと灯る、丸亀製麺の看板が見えたとき、少しだけ胸が熱くなった。店の外には、平日にもかかわらず老若男女が列をなしていたが、僕は構わずその列の最後尾に並んだ。食欲は、何よりも生きる力の証だと思うからだ。 「肉うどん一丁」 会計の声と共に、丼が手渡された。湯気が立ち上るその器からは、甘く煮込まれた牛肉の香り、そして讃岐うどんの確かなコシが伝わってきた。ネギをひとつかみ、天かすを軽く添えて、席に着く。 ──ひと口すすった瞬間、全身に熱が通い始めた。 だしのやわらかい塩味が、喉を潤し、胸を温める。牛肉の甘さと脂が、口の中でとろける。人はなぜ、こんなにも食に救われるのだろう。風邪も、孤独も、後悔も、この一杯のうどんの前では、ただ静かに溶けていくようだった。 気づけば完食していた。 汁の底には、まだ生きることへの微かな執着のようなものが、温かく残っていた。 そうして僕は、再び立ち上がる力を得たのだった。
1回
市川駅の吉野家。今日はいつもの「牛丼」にしようかと迷いながらも、ふと目に入った新メニュー。「肉だくスパイシーカレー」…これは気になる。普段ならつい無難な方を選んでしまう自分だけど、今日はなぜか心がこのカレーに引き寄せられた。 席に座って注文。「肉だくスパイシーカレーお願いします!」店員さんが元気に返事してくれて、なんとなくこの時点でテンションが上がる。店内にはサラリーマン、学生、一人ランチ中の女性など、いろんなお客さんがいる。それぞれが思い思いに食事を楽しんでいるこの空間が、なんだか好きだ。 待つこと数分。ついに登場、肉だくスパイシーカレー。見た瞬間、正直テンション上がった。茶色のルーに、これでもかというくらいの牛肉がたっぷり。名前の「肉だく」は伊達じゃない。スパイスの香りがふわっと鼻に抜けて、食欲が一気に加速する。 まずはスプーンでルーだけひと口。ピリッとくるけど、ただ辛いだけじゃない。ちゃんと旨味がある。スパイスの奥に、しっかりとしたコクがあって、深みのある味わい。それから肉。これがまた、吉野家ならではのあの牛丼の味。カレーに浸った牛肉は、いつもの牛丼よりもさらにジューシーで、ちょっとした贅沢感すらある。 ご飯との相性も抜群。スプーンが止まらない。気づけばガツガツと食べ進めている自分がいる。カレーって時々無性に食べたくなるけど、この一杯はその欲望に見事に応えてくれる。ボリュームも申し分なし。お腹いっぱいになるし、満足感がすごい。 途中で紅しょうがを少しトッピングして味変も楽しむ。これが意外とアリ。スパイシーさに、紅しょうがの酸味が絶妙にマッチして、さらに食欲が増す。テーブルに置いてあった七味もちょっとかけてみる。これまたいい感じに辛さが増して、汗がじんわり出てくるけど、それすらも心地いい。 周りの席からもチラホラと「肉だくカレー頼んでる人」が目につく。このボリューム、この味、この価格。そりゃみんな頼むよな、って心の中で納得。 食べ終わるころには、しっかり満腹。でも、胃もたれ感はなくて、むしろ元気が出る感じ。スパイス効果なのか、体がポカポカして、自然と「午後も頑張ろう」って気分になってくる。 改めて思ったのは、吉野家って「牛丼屋」ってイメージが強いけど、こうやって攻めたメニューもしっかり美味しい。むしろ、こういう「意外性のある旨さ」をまた体験したくなる。 次回来たときは、違うトッピングでカスタムしてみるのもアリかも。温玉のせとか、チーズトッピングとか…想像するだけでワクワクする。 市川駅の吉野家、今日も美味しい時間をありがとう。やっぱりこの店、好きだ。また来ます!
2025/06訪問
1回
VISSLA CAFE ― 海辺の午後を切り取ったような一杯のカフェ・オ・レ 海沿いのドライブを終えたあと、人はなぜか温度差のある場所を求める。 潮風で少し乾いた肌に、冷たい飲み物の一撃を与えたい。そんな衝動に背中を押されるようにして、友人と立ち寄ったのがこの「VISSLA CAFE」だった。 店に足を踏み入れた瞬間、まず目につくのは壁一面に飾られたアートだ。油絵、写真、抽象画。色は強いのに、どこか海の静けさを内包している。無造作に打ち付けたように見える木材の壁が、作品たちを包み込むように暖かい光を放っている。サーフボードが壁に立てかけられているのを見れば、この店が海と人の往復運動の間にひっそりと存在していることがわかる。 カウンターで注文をすませ、席につく。友人が向かいでスマホを置き、肘をつきながら「ほんま落ち着くな、ここ」とつぶやいた。 たしかに、その一言に尽きる。 店内の音楽はさりげなく、木目の香りが鼻をくすぐり、窓の向こうには風に揺れるヤシの葉。都会のカフェが作る人工的なオシャレとは違う、“海辺の無造作な余裕”のような空気が漂っている。 ほどなくして運ばれてきた冷たいカフェ・オ・レは、透明カップの壁に淡いグラデーションの影を落としていた。ミルクにコーヒーが沈み込むときの、あのゆっくりとした境界線。その境界がここではそのまま静止画のようにとどまり、光に照らされては微妙に揺れ動いている。 ひと口飲むと、驚くほど柔らかい。 コーヒーの主張は控えめで、ミルクの甘さが先に来る。けれども舌の奥に残る微苦味が、「ただの甘い飲み物」には終わらせない。海風のように後味が早く引き、もう一度口に運びたくなる。友人と会話の合間、何度もストローに手が伸びてしまうのは、その軽さが理由だろう。 天井を見上げると、梁のむき出しの木材が力強い影を落としていた。 その下で談笑する若いカップル、パーカー姿でパソコンを叩くフリーランスらしき男、サーファーのような日焼け肌の兄ちゃんたち。 それぞれが“ここに居る理由”を持っているのに、互いに干渉せず、ただゆるやかに空間を共有している。まるで海辺の波のリズムのように、客たちの呼吸が調和しているのが不思議だ。 外を眺めると、テラス席に緑色のパラソルが開き、風がカップの表面を通り抜けるように軽やかに吹いていた。 海の街に来たとき、「ああ、こういう場所でゆっくりできたら」と誰もが想像する“理想の午後”が、そのまま現実化したような景色だ。 木のテーブルの上にはケチャップやマスタード、紙ナプキンのタワー。それらがカフェらしさとアメリカ西海岸の軽さを同時に演出している。 雑貨と衣類が売られているのもいい。サーフ系ブランドのTシャツ、バッグ、キャップ。絵画の前で商品を見ると、どこかギャラリーに迷い込んだような錯覚すらある。 冷たいカフェ・オ・レを飲み干すころには、海風の音と店内のざわめきがひとつに混ざり、友人との会話もゆるやかになっていた。 この店の魅力は、飲み物の味以上に“空気の余白”にある。 何かを語る必要もなく、かといって沈黙が重くなることもない。 海のそばで生きる人たちが共有する、あのゆったりとした時間の流れが、この店には確かに宿っている。 店を出るとき、ふと振り返った。 壁の絵画が夕方の光を吸い込みながら、それぞれの色を微かに変えつつあった。 あの冷たいカフェ・オ・レの余韻が、いつまでも口の奥に残っている。