「中華料理」で検索しました。
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2025/12訪問
1回
健康にも抜群によかった!!
1回
昼をとうに過ぎた時間、腹の虫が静かに鳴いていた。 街の喧騒が午後の陽射しにやや鈍く溶け込むころ、ふと足が止まったのが「まんぷく亭」だった。暖簾は少し色褪せていて、入り口横の看板には筆文字で“定食”の二文字。いかにも飾り気のない店構えに、妙に心を惹かれた。 ドアを開けると、カウンターの奥から「いらっしゃい」と短く、けれども芯のある声。店主の声には、厨房で長年油を浴びてきた職人の温度があった。客はまばら。時計の針は午後二時半。昼の混雑が過ぎ、店内には油の香ばしさと、ゆっくりとした時間が漂っていた。 壁のメニューを眺める。唐揚げ、しょうが焼き、焼き魚定食──どれも定番で、悩ましい。だが、その中で「レバニラ定食」という文字に、心がピクリと反応した。最近、まともなレバニラを食べていない。チェーン店のそれでは、どうも魂が感じられない。そんな思いが背中を押した。 「レバニラ、お願いします」 注文してから、わずか数分。中華鍋の底でレバーが躍り、ニラが弾ける音が聴こえた。油が金属に跳ねるリズムが心地よい。料理の音には、作り手の集中が宿る。その音を聞いていると、なぜか落ち着くのだ。 やがて、目の前に置かれたレバニラ定食。 白飯の湯気が立ち上り、味噌汁が隣に控える。主役の皿は、鮮やかな緑と艶やかな茶色の対比が美しい。レバーの表面には光沢があり、厚みも申し分ない。箸でひと切れつまむと、驚くほど柔らかい。口に入れた瞬間、ふんわりとした食感のあとに、濃密な旨みが広がる。 ニラのシャキシャキ感、もやしの歯ごたえ、そしてレバーのコク。 それらがひとつのリズムとなって舌の上で調和する。にんにくの香りが立ち上がり、後からほんの少しだけ辛味が追いかけてくる。その絶妙なバランスが、箸を止めさせない。 気づけば、白飯がどんどん消えていく。 このレバニラは、ご飯のために生まれた料理だ。噛むほどに味が深まる。タレの濃さもほどよく、脂の重さを感じさせない。まるで料理全体に“節度”という美学が貫かれているようだった。 店主がちらりとこちらを見る。 「レバー、ちょっといいやつ使ってます」 そう言って笑った。 その一言に、この店のすべてが詰まっている気がした。素材に対して嘘をつかない。手間を惜しまない。派手さはないが、味で勝負している。そんな誇りが感じられる。 外に出ると、午後の陽射しが傾き始めていた。 腹は満ち、心も満ちている。ふと振り返ると、まんぷく亭の暖簾が風に揺れていた。その姿が、どこか人生の一場面のように映った。 うまいものというのは、単に舌を喜ばせるものではない。 心に静かに残る余韻、それこそが本当の“うまさ”だと思う。 まんぷく亭のレバニラは、まさにそんな一皿だった。 ──またあの音と香りに会いに来よう。
2025/10訪問
1回
池袋の街を歩くと、昼下がりの人の流れは絶えない。駅前の喧騒を背にしてサンシャイン通りを抜け、階段を降りると、そこに「青龍門」がある。石造りの壁と柔らかな灯りが出迎えてくれるその入り口は、東京の真ん中にありながら、異国の横丁に迷い込んだような錯覚を抱かせる。表に広がる雑踏とは別世界。店内に足を踏み入れた瞬間、湿度を含んだ空気と、香辛料の香りが鼻をかすめる。昼時ということもあってテーブルはほぼ埋まり、サラリーマン、買い物帰りの親子連れ、学生らしき若者たちが賑やかにランチを楽しんでいた。 この日は仲間二人と落ち合い、少し遅めのランチを取ることにした。選んだのは、担々麺のホリデーランチセット。メニューの写真に映る真っ赤なスープの色が、腹の奥を刺激したからだ。注文を告げてしばらく待つと、重みを感じる丼がテーブルに置かれた。表面に浮かぶ辣油が艶やかに光り、立ち上る湯気の中に胡麻の香ばしさが漂う。レンゲを手に取り、ひと口すすれば、舌の上に濃厚な胡麻のコクが広がり、その後を追いかけるようにじんわりとした辛みが押し寄せてくる。決して暴力的ではなく、旨味と辛味が拮抗した心地よい刺激だ。 麺はやや太めで、スープをたっぷりと絡め取る。噛むたびに胡麻の香りとスパイスの辛みが交錯し、口の中で小さな火花を散らすようだ。時折浮かぶ挽肉をすくい上げれば、じゅわりとした旨味が広がり、スープ全体に厚みを加えてくれる。夢中で箸を進めていると、気づけば汗が額を伝い落ちていた。夏の暑さとは別の、食欲に突き動かされる汗だ。 セットには小鉢と点心、そしてライスが付いてくる。餃子の皮は薄く、口に運ぶと肉汁がじんわりと広がる。揚げ物ではなく蒸し餃子というのがまた良い。しっとりとした皮と、ふっくらとした餡の組み合わせは、担々麺の刺激を一時和らげ、次のひと口を欲望へと変えてくれる。小鉢の野菜料理はさっぱりとした味付けで、辛さに火照った舌をリセットする役割を果たしていた。 テーブルの向かいに座る仲間は、同じセットを頼み、無言で汗をぬぐいながら麺をすすっている。もう一人は「辛いな」と笑いながらも箸を止めようとしない。その様子を見ていると、料理がただの食事以上の意味を持つことを思い出す。仲間と共に同じものを食べ、同じ時間を過ごすことで、互いの距離が一段と縮まる。そんな当たり前のことが、この一杯の担々麺によって鮮明に浮かび上がってきた。 隣のテーブルからは賑やかな笑い声が響き、奥の席では家族連れが点心をシェアしている。中華独特の香りと、人々のざわめきが入り混じり、店内は活気に満ちていた。だが不思議と騒がしいとは感じない。むしろ雑多な音や匂いが心を落ち着かせ、池袋という都市の中で小さなオアシスを見つけたような気分になる。 食べ終えたあと、丼の底に残ったスープをレンゲですくいながら、もう一口、もう一口と飲んでしまう。最後には胃袋が心地よく満たされ、午後への活力が全身にみなぎっていくのを感じた。ランチセットとはいえ、その満足感は決して軽くはない。むしろ、この一杯で得られる充実感は、どんな高級店の料理にも引けを取らないとすら思えた。 青龍門 池袋店――ここは、池袋という街の喧騒を忘れさせる空間であり、濃厚な担々麺の一杯が、仲間との時間をより深いものへと変えてくれる場所だった。食後の余韻とともに店を出ると、再び雑踏の音が耳に流れ込んできた。だがその時の自分は、腹も心も満たされ、少しばかり強くなったように感じていた。
2025/08訪問
1回
歌舞伎町の裏手。ネオンがやけに近く、空が遠い。 その夜、俺たちは「天府火鍋巷子」という名の、まるで四川の路地裏を移築したかのような店にいた。 入り口からすでに、ただ事ではない香りが鼻を突いた。唐辛子、花椒、八角、にんにく……そのすべてが火を持ち、ただそこにいるだけで、額に汗が滲む。だが、それがいい。むしろ、それを求めてここへ来たのだ。 テーブルを囲んだ仲間たちは、どこか挑戦者のような面持ちだった。「これは戦だな」と、誰かが冗談のように言ったが、それはあながち間違いではなかった。中央の鍋が煮えたぎり、赤黒いスープの中で唐辛子がぐるぐると渦を巻いていた。 最初の一口。麻辣スープにくぐらせた牛肉を口に運んだ瞬間、脳天に火花が走る。辛い。いや、辛いという言葉では足りない。痺れる、燃える、熱い、そして――うまい。 仲間のひとりが「やばいな」と顔をしかめた。その隣で、別の奴が額から汗を滝のように流しながらも、笑いながらレンゲを差し入れていた。誰もが汗だくになり、箸を止めない。 辛さの中に、確かな旨味があった。出汁の奥行き、素材の強さ、それを引き出す火鍋という魔物。ただ辛いだけではない、これは舌と胃と心を掴む、魔性のスープだった。 羊肉もよかった。あの独特の香りが、花椒と交わることで、まるで異国の街角を旅しているような錯覚を与える。きのこ類や豆腐皮も、ただの具ではない。スープに浸されることで、命を吹き込まれたように存在感を放つ。 終盤には、全員が無言になっていた。ただ、鍋の音と、氷の入ったグラスのカランという音だけが、静かに夜を刻んでいた。 最後に、鍋の底に沈んだ唐辛子たちを見つめながら、俺は思った。 これは料理ではない、儀式だ。 激辛という名の火に包まれながら、俺たちは笑い、語り、そして少しだけ、生きていることを実感したのだった。 「天府火鍋巷子」――名前を忘れることはない。あの夜、俺たちは、火を喰った。
2025/07訪問
1回
上野の街は、夕暮れを過ぎると一気に熱を帯びる。 通りの灯りが、どこか異国の港町を思わせるように滲んでいた。 仲町通りは人波が行き交い、屋台の煙と、どこか懐かしい油の匂いが混ざり合っている。 その喧噪のなかを抜けて、私たち五人は「再来宴」の暖簾をくぐった。 重たいガラス戸を引くと、すぐに広がるのは中華特有の濃密な空気。 油をまとった鉄鍋の匂い。紹興酒の甘い香り。 どこか“遠くへ来た”ような錯覚を起こす瞬間だった。 店内は広くはないが、雑多な空気が逆に落ち着く。 長いテーブルには既に料理が数品並んでいる。 私たちは仲間であり、同時に各分野の戦友でもあった。 席に着くと誰ともなく話が始まり、仕事の話題が飛び交う。 音の粒が混ざりあい、にぎやかな夜を形づくっていく。 箸を伸ばすと、最初に口に入れたのは青菜と干し豆腐の和え物だった。 素朴な見た目に反して、噛むほどに旨味が滲む。 あっさりとした塩気の奥に、油がほんのり香り、 口の中で、静かに輪郭を広げていく。 忙しない一日の境界線が、そこからゆるやかに溶けていくようだった。 その横には、大きな氷を沈めた琥珀色の紹興酒。 グラスを傾けると、甘さの奥に深い土の香りがある。 長い年月を瓶の中で眠っていた酒が、 ようやく呼吸を取り戻したかのように鼻腔をくすぐる。 飲むたびに、気持ちがどこか遠くへ運ばれていく。 次に運ばれてきたのは、濃厚なタレをたっぷり纏った手羽先だ。 照りのある飴色が皿の白によく映える。 噛んだ瞬間、甘辛いタレが舌にまとわりつき、 その奥からじゅわりと肉汁が広がった。 忙しい日々の中で、こういう“分かりやすく旨い”料理は 理屈抜きで心をほぐしてくれる。 テーブルの上には、会話と料理が絶えず循環していた。 ビジネスの相談、未来の構想、予期せぬアイデア。 五人の話が互いに混ざり合い、まるで鉄鍋の中で炒められる具材のように、 次第に形を成していく。 時折、誰かの笑い声が店内の喧噪に溶け、そのまま天井の方へ消えていった。 一杯、また一杯と紹興酒を重ねる。 氷がゆっくりと溶け、酒の味が変化していくのがわかる。 まるで、今いる時間そのものが、 少しずつ柔らかくほどけていくようだった。 ふと周りを見渡すと、テーブルごとにさまざまな物語が生まれている。 酔った声、熱心に語り合うスタッフ、 そして食事を楽しむ家族や仲間たち。 “人が集まる理由”が、料理だけではないことを教えてくれる。 気がつけば、時計の針はだいぶ進んでいた。 外に出ると、上野の夜はまだ賑やかだった。 仲町通りの灯りが揺らめき、酔いをやわらかく包んでくれる。 五人での会食は、ただの食事ではなく、 未来へ向かうための、小さなエネルギー補給のように思えた。 再来宴のあの濃密な空気は、 店を出てなお、しばらく身体のどこかに残り続ける。
2025/11訪問
1回
梅香苑の暖簾をくぐると、そこには町場のざわめきとは切り離された、独特の落ち着きがあった。木の香りを含んだ店内の空気に、鉄鍋で焼き上げられる餃子の香ばしい匂いが混ざり、腹の底をくすぐる。 焼き目は黄金色、皮は程よく厚みを持ちながらも噛めば軽やかに破れ、中から肉汁が舌の上でじゅわりと広がる。ニラと生姜の香りが鼻へ抜ける頃、思わずドラゴンハイボールへと手が伸びる。グラスの中で氷が小さく鳴き、喉奥を駆け抜ける強めの炭酸が、餃子の油を一瞬で洗い流してくれる。その爽快さは、ただのハイボールとは一線を画し、龍の名を冠するにふさわしい勢いを秘めていた。 カウンターの隅で、焼き上がりを待ちながら耳を澄ませば、隣席の笑い声と鉄鍋の音が心地よいBGMとなる。餃子を頬張り、ドラゴンハイボールで流し込む。この単純な所作の中に、街の夜を生きる人間の小さな幸福が凝縮されている気がした。 梅香苑の餃子とドラゴンハイボール――それは決して派手ではない。だが、日常に疲れた心身をゆるやかに解きほぐし、もう一杯、もう一皿と、静かに背中を押してくれる力を持っている。ここに座る限り、夜はいつまでも続いてほしいと思わせるのだ。 ――そんな夜のひとときだった。
2025/08訪問
1回
上野という街は、いつ訪れても雑踏の熱と人いきれが混ざった独特の気配を纏っている。アメ横を抜けた先の路地で、ふと鼻先をくすぐる甘い醤の匂いに立ち止まった。北京ダック専門店──その看板のひと言だけで、旅の途中に寄り道をしたくなる衝動が生まれる。仲間内との打ち合わせを兼ねた昼食は、どうせなら腹の底からうまいと唸れる料理がいい。そう思いながら扉を押した。 店内に足を踏み入れると、金色のクロスが敷かれた円卓が整然と並び、どこか異国の宴会場のようにも見える。北京語が飛び交う厨房からは、皮が焼けるかすかな香ばしい匂い。料理を待つあいだ、自然と背筋が伸びた。 最初に運ばれてきたのは、北京ダックの第一幕。薄く削いだ飴色の皮と、肉の断面が美しく並ぶ。白い皿の上で、きらりと脂が光る。その隣には、透けて見えるほど薄いクレープのような皮と、針のように切りそろえられた白ネギとキュウリ。料理とは、ここまで律儀に“準備”の段階から魅せるものなのかと、改めて感心させられる。 手に取ると皮は驚くほど柔らかく、しかし弾力を持っている。キュウリの青さと白ネギの鋭い香りが混ざり合い、そこに甘く濃厚な甜麺醤をひとすくい落とす。包んで口に運ぶと、脂がすっと溶けていき、皮と野菜の歯ざわりが追いかけてくる。強烈ではない、しかし確かな存在感。北京ダックがなぜ世界中で愛されるのか、その理由がひと口ごとに胸の奥で腑に落ちていく。 料理とはいつも、人生のどこかで見落とした景色を思い出させてくれる。北京ダックを噛みしめながら、僕らはビジネスの話に自然と熱を帯びていった。上野の街の雑踏とは対照的に、卓上の時間だけは妙にゆるやかに流れている。 次に現れたのは、鮮やかな朱色をまとったエビチリだった。大ぶりの海老がゴロゴロと並び、レタスの緑とソースの赤が対照的に映える。スプーンですくえば、ぷっくりとした海老の重みが手に伝わる。ひと口噛むと、弾けるような食感と甘辛いソースの広がり。辛さを控えめにしているせいか、海老そのものの旨みがすっと立ち上がる。北京ダックの余韻の上に、この海老チリがちょうどいいアクセントを落としてくれる。 仲間と目を合わせる。 「これは話が進むな」 冗談めかしたひと言に、皆が笑った。 料理には、人を前へ押し出す力があるのだと思う。北京ダックの香りに背中を押され、エビチリの温かさに言葉がほどけていく。上野という街のざらついた空気ごと、この円卓が包み込んでくれるようだった。 外へ出ると、午後の陽が街を照らし、人々の足音がまた騒がしく耳に入ってきた。だが、店内で過ごしたひとときは、どこか旅の途中で寄った北京の食堂の記憶のように心に残っている。 北京ダックを包んだあの動作の丁寧さ。皮が舌に触れた瞬間の静かな衝撃。海老チリの温度。 それらはすべて、ささやかな旅の“景色”になった。 打ち合わせの成果も悪くない。 いい料理を前にすると、人は自然と前向きになる。 上野の街を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。
2025/11訪問
1回
喜夜楽番 ― 吉原の灯の下で味わう中華 夜の浅草を抜け、吉原の近くまで歩みを進めると、街の空気はがらりと変わる。煌びやかな提灯やネオンが、昼間とは別の顔を見せる。どこか妖しげで、しかし人を惹きつける磁力を放つ街。その一角にひっそりと光を灯すのが「喜夜楽番」だった。 店の前に立つと、夜更けにも関わらず明かりは温かく、まるで帰りを待つ灯火のように揺れている。仕事終わりに仲間と「ここで一杯やろか」と暖簾をくぐった瞬間、油の匂いと鉄鍋を振るう軽快な音が、吉原の喧噪を一気に忘れさせてくれた。 最初に頼んだのは餃子。皿に並んだ焼き目は黄金色に輝き、箸でつまめば皮がぱりりと音を立てる。ひと口頬張ると、中から熱々の肉汁が溢れ出す。香ばしさと旨味が混じり合い、冷えたビールを流し込めば、喉を滑る苦味と肉の甘みが見事に調和する。吉原の夜に漂う退廃と欲望を一瞬忘れさせる、純粋な「旨さ」がそこにあった。 続いて青椒肉絲。ピーマンと豚肉が色鮮やかに皿の上で絡み合い、シャキリとした歯ごたえと柔らかい肉の旨味が舌を踊らせる。ほろ苦さと濃厚なソースのコントラストが、どこかこの街の陰影を思わせた。気づけば仲間の箸も止まらず、皿はあっという間に空になった。 チャーハンは夜中の腹に染み渡るご馳走だった。米一粒一粒がしっかりと立ち、卵とネギの香りがふわりと鼻を抜ける。油の香ばしさと塩気の加減が絶妙で、スプーンを運ぶ手が止まらない。吉原の街を彷徨い、疲れた体をそっと包み込むような優しい一皿だ。 そして肉もやし炒め。これほど潔い料理もない。強火で一気に炒められたもやしはシャキシャキ感を残しながら、肉の旨みと混ざり合う。余計な飾り気はなく、ただ真っ直ぐに食欲へ応える。その素朴さが、夜更けにふさわしい力強さとなって僕らの体に染み渡った。 気がつけば、テーブルの上は空の皿とグラスで埋まり、仲間の笑い声が絶えなかった。外の世界では、吉原の街がまだ眠らず、赤い灯と人々のざわめきが漂っている。しかし、この店の中は穏やかで、ただ料理の旨さと人の温もりが支配していた。 「喜夜楽番」。その名の通り、夜を喜び、楽しく過ごすための番所。吉原の近くという土地柄が生む妖しさと人情、その両方を抱きとめる懐の深さを、この店は持っている。きっとまた、仕事に疲れた夜、あるいはふらりと街に迷い込んだ夜に、僕はこの店の灯りを探してしまうのだろう。
2025/09訪問
1回
先日、仲間内で赤坂の「中国茶房8」に晩御飯を食べに行きました。以前から「ここは北京ダックが安くてうまいよ!」という噂は聞いていたのですが、実際に訪れてみて、その評判の理由がよく分かりました。 まず驚いたのは、メニューの多さ。とにかく種類が豊富で、点心、炒め物、スープ、麺類、鍋料理など、ざっと見ただけでも300種類以上はあるのではという充実ぶりでした。何を注文するかでひとしきり盛り上がったあと、お目当ての「北京ダック」を一羽注文。これが大正解でした。 大皿に美しく盛られたダックは皮がパリパリで、身はジューシー。甘辛のタレときゅうり・ネギをクレープで包んで一口食べれば、口の中に香ばしさと旨味がじゅわっと広がります。これが高級中華のような味なのに、価格は驚くほどリーズナブル。一羽まるごと頼んでみんなでシェアしても、一人あたりの負担は非常に軽く、「これでこの値段?」と思わず笑ってしまうほど。 さらに水餃子や麻婆豆腐、空心菜の炒め物なども注文しましたが、どれも手抜きなしの本格的な味。特に麻婆豆腐は石鍋で提供され、熱々のまま最後まで楽しめました。ピリ辛でしっかり花椒(ホアジャオ)の風味がきいていて、ご飯が欲しくなる系の味です。 店内は中国の屋台っぽい雰囲気を感じさせる賑やかさで、カジュアルに楽しむにはぴったりの空気感。奥にはカラオケ付きの個室もあり、大人数で来ても使い勝手が良さそうでした。私たちは6人で訪れたのですが、料理もスピーディーに出てきて、テンポよく食べて飲んで、気持ちのいい時間が過ごせました。 そして何より、このお店の魅力は「24時間営業」であること。今回は夜8時ごろから入りましたが、時間を気にせずにいられる安心感があるのは大きなポイント。夜遅くなっても「もう1軒行く?」じゃなくて「このままここでダラダラしようか」となるくらい、居心地がよかったです。 全体を通して、「気の合う仲間と美味いものを腹いっぱい食べたい」ときには本当におすすめのお店だと思いました。高級感を求めるというよりは、ワイワイと盛り上がれる場所。コスパよし、味よし、雰囲気よしの三拍子そろった赤坂の名店。また近いうちに、今度は火鍋でも囲みに行こうかとすでに計画中です。
2025/05訪問
1回
市川駅の北口を出ると、どこか下町らしいざわめきが漂っている。大通りの喧騒を抜けて路地に足を踏み入れると、赤提灯に照らされた小さな看板が目に飛び込んでくる。「日高屋 市川北口店」。この街に暮らす人々にとって、そして通りすがりの旅人にとっても、ここは憩いの場であり、胃袋を満たす安らぎの場所だ。 ドアを押し開けると、油の香りと焼き立て餃子の匂いが鼻をくすぐる。チェーン店という言葉で片づけられない、どこか家庭的な温もりがある。カウンター席に腰を下ろすと、店員の声が飛び交い、ジョッキを持ち上げる音や、鉄板に油が弾ける音が混じり合って、ひとつの交響曲を奏でている。仕事帰りのサラリーマン、部活帰りの学生、買い物袋を下げた主婦。彼らが一堂に会する光景は、この街の縮図そのものだ。 ハイボールを頼む。シュワリと炭酸が立ちのぼり、氷がカランと音を立てる。その一口目が、乾いた喉を鮮やかに潤す。アルコールの刺激と、レモンの香りが一日の疲れをどこかへ追いやってくれる。値段は驚くほど安い。しかし安さが決して軽さを意味しないことを、ここに座れば誰もが知るだろう。むしろ「安いからこそ、毎日寄れる」。そういう距離感が心地よい。 皿の上に餃子が運ばれてきた。焼き目はきつね色にこんがりと輝き、皮はパリッと音を立てる。箸で割れば、中からは肉汁がほとばしる。ニンニクの香りと野菜の甘みが絶妙に絡み合い、ハイボールとの相性は抜群だ。これがまた、三百円そこそこというのだから驚かされる。背伸びする必要もない。大衆に寄り添う値段設定こそが、この店の真骨頂なのだろう。 そして、肉の皿を追加する。決して高級な肉ではない。だが、鉄板の熱が直に伝えた香ばしさは、舌に幸福を与えてくれる。塩気の効いたシンプルな味付けが、アルコールを呼び込む。隣の客がラーメンをすすり、向かいの席では炒飯をかき込む。そのすべてが「ごちそう」であり、同時に「日常」でもある。特別な夜を演出するわけではない。ただ、いつ来ても同じように迎えてくれる安心感が、何よりの魅力なのだ。 この街で長く生きてきた人にとって、日高屋は「第二の食卓」かもしれない。財布を気にせず、腹を満たせる。そこにあるのは、贅沢とは異なる幸福感。肩書きも立場も関係ない。すべての客が「飲みたい、食べたい」という欲求のままに、同じ空間を共有する。それは一種の平等であり、自由でもある。 店を出る頃には、夜風が火照った頬を冷ましてくれる。駅前のネオンが瞬き、足早に帰路につく人々の群れが流れていく。その中で、心はどこか軽やかになっていた。安くて旨い――このありふれた言葉が、これほどまでに説得力を持つ場所が他にあるだろうか。日高屋 市川北口店は、単なる中華チェーンではない。ここは、人々の日常に寄り添い、明日へとつなぐ力を与える「名店」なのである。
2025/09訪問
1回
新宿の夜は、どこか気怠く、それでいて心をざわつかせる。 喧騒のなか、ネオンの光が汗ばんだ額にちらついた。あてもなく歩き、辿り着いたのが「肉汁餃子のダンダダン」だった。 ひとりで入る店には、その夜の心のかたちが出る。今夜のそれは、寂しさというより、どこか荒んだ旅の途中のような、そんな空気を身にまとっていた。 まず、パクチーサラダがやってきた。香りが鼻をつき、東南アジアの露店のような鮮烈な気配が舌に広がる。だが、それも束の間、次に現れたのは馬の生レバー。艶やかで赤く、生々しい命の残り香を感じさせる一皿だった。噛みしめるごとに、過去の記憶がぼんやりと浮かんでは沈んでいった。 そして、主役の餃子。肉汁が爆ぜ、焼き目の香ばしさが口中に広がる。これはもう、理屈じゃない。身体が欲していた。 ハイボールをぐいと喉に流し込む。炭酸が、胃の奥に残る思いごと、さらりと洗い流してくれるようだった。すべてを喉で呑み込むことで、今日という一日が終わっていく。 他人の笑い声と、箸がぶつかる音に囲まれながら、ひとりでいることの自由と孤独を、同時に味わっていた。新宿の夜は、まだ浅い。
2025/08訪問
1回
赤坂見附の駅を出ると、まだ空にはほんのりと夕暮れの名残があった。ビルの谷間を縫うように歩くと、湿った風が頬に触れた。この街は、夜の始まりに妙に色気がある。灯りのともるみすじ通りに差し掛かると、目的の「香港亭」の赤い看板が目に入った。 その夜は、珍しく6人という大所帯だった。日々の仕事の緊張がまだ身体に残る時間帯だというのに、誰の顔にもどこか弛緩した笑みが浮かんでいた。どこかで心が緩んでいたのだろう。久しぶりに、誰かと「食べる」ことの意味を思い出したかったのかもしれない。 店の扉を押すと、ざわついた空気がこちらを包み込む。厨房の奥からは金属音と中国語が飛び交い、狭い通路を通って円卓に通された。席に着くなり、皆の口は勝手に動き出す。メニューをめくる手も忙しなく、あれがいい、これが食べたいと、声が錯綜する。誰も、沈黙を許さなかった。 料理は一つずつ、ゆっくりと運ばれてきた。まずは小籠包。湯気が立ちのぼるそれをレンゲに乗せ、そっと口に含むと、熱い肉汁が舌の奥に広がった。頬張るという行為が、こうも心を静めるものだったかと思った。 続いて麻婆豆腐。山椒の効いたそれは、見た目からして容赦がない。ひと匙口に運べば、舌の上が痺れ、胃の底まで熱が降りていく。だが不思議と、誰も水を求めなかった。むしろ、次の辛さを待ちわびるように、箸は次々と皿へ向かった。 餃子、空芯菜炒め、海老のチリソース、五目炒飯、回鍋肉……料理はどれも「家庭の味」などではない。もっと剥き出しで、もっと土臭く、そして豪快だった。中華の真髄とは、たぶんこの“にぎやかさ”なのだと思う。料理がうまいというより、食べるという行為が楽しい。それがこの国の流儀だ。 ビールが並び、グラスが何度も打ち鳴らされる。誰かがふと昔の話を持ち出し、皆が腹を抱えて笑う。こんな夜が、何年ぶりだったろう。料理の味も、会話の中身も、たぶん翌日にはぼんやりとしか思い出せない。だが、この“場”の熱だけは、きっとどこかに残る。 気づけば、空いた皿がテーブルの上を埋め尽くしていた。卓の真ん中にある回転台が、もう何も運ばなくなった頃、誰ともなく「杏仁豆腐いく?」と呟いた。甘味のあとに残る静けさが、ひとつの区切りを告げた。 店を出ると、空はすっかり夜だった。都会の夜はいつまでも明るく、人の流れも絶えない。けれども僕らは、ほんの一時間ばかり、時間の隙間に逃げ込んでいたのだと思う。6人という数字がちょうどよかった。多すぎず、少なすぎず。話し声が重なり、皿が回り、笑いが生まれるには、それがちょうどいい。 あの円卓の中心には、何もなかった。ただ湯気と香りと、笑い声だけがあった。
2025/07訪問
1回
新宿で「小肥羊(シャオフェイヤン)」を見つけたとき、思わず立ち止まりました。中国本土にいたころ、何度も通った思い出の火鍋チェーン。まさか日本で、しかも新宿の真ん中でまたこの味に出会えるとは…。懐かしさと少しの不安(日本でこのクオリティが出るのか?)を胸に、迷わず入店しました。 店内は落ち着いた中華モダンな雰囲気で、席の間隔も広め。接客は丁寧で、日本のサービス水準の中に中国らしい活気も感じられ、心地よいスタート。 スープはもちろん「白湯(パイタン)と麻辣の二色鍋(鴛鴦鍋)」を注文。ひと口スープを啜った瞬間、「あの味」が舌の記憶に蘇りました。特に白湯は、薬膳の風味が豊かで滋養たっぷり。クコの実やナツメ、にんにく、唐辛子、そして独特の香辛料が絶妙なバランスで調合されていて、本場そのもの。麻辣スープはピリッとした辛さの中にも旨味がしっかりあって、辛いだけじゃない深さが嬉しい。 具材も新鮮で種類が豊富。ラム肉は薄切りでスープとよく絡み、柔らかく臭みもなし。特に小肥羊といえば「ラム」と「薬膳スープ」の組み合わせ。このコンビネーションを口にしたとき、「ああ、これは間違いない」と中国での日々が一気にフラッシュバックしました。春菊や白菜、キノコ類、豆腐、もちもちの水餃子まで、どれもスープと相性抜群で、箸が止まりません。 個人的に嬉しかったのは「ごまだれ」や「自家製たれ」のアレンジが楽しめる点。中国では自分で調味料を混ぜてオリジナルのたれを作るのが当たり前ですが、こちらでもそれに近い体験ができたのが嬉しいポイントでした。 また、火鍋というとにぎやかで大勢でワイワイ食べるイメージがありますが、新宿店では一人鍋も気軽に楽しめる雰囲気があり、ソロ利用でもまったく気にならないところも◎。実際、私のように中国での思い出を追いかけて訪れる人も多いのか、周囲には中国語が飛び交うテーブルもちらほらありました。 食後は体が芯から温まり、薬膳の力でどこかスッキリとした気分。これぞ火鍋の魅力。食べて満腹になるだけでなく、体の内側から整うような感覚は、やはり他の鍋料理では得られません。 日本でここまで本格的な火鍋を楽しめる場所はそう多くないですが、小肥羊 新宿店はその中でも本場に限りなく近い“再現度の高い”一軒です。中国にいたころの食の記憶を、こうして再び五感で味わえることに、感謝したくなるほどでした。 懐かしさに浸りたい人、薬膳で体を整えたい人、そしてただ純粋に美味しい鍋を楽しみたい人に、心からおすすめしたいお店です。また必ずリピートします。
2024/06訪問
1回
両国駅東口を出て、夜のざわめきに背を押されるようにして、小さな赤い看板に灯る「日高屋」の文字を見つけた。 「ちょっと寄ってくか」と、気心知れた仲間ふたりと肩を並べて暖簾をくぐる。冷房の風が頬をなで、立ちのぼる油と醤油の香りが空腹の底をくすぐる。 カウンターではなく、奥のテーブル席に腰を下ろす。メニューは迷いがなかった。餃子、野菜炒め、そしてレモンサワーと緑茶ハイ。それぞれの喉を潤すには十分すぎる布陣だった。 まず餃子。ジュウと音を立てて鉄皿に載せられ、照明の光を背に黄金色に焼きあがったそれは、まるで一日の終わりを労うような味がした。かりっとした皮の下には、ふわりと肉汁が詰まっている。 野菜炒めは潔いほどにシンプルだ。キャベツ、人参、もやしに豚肉。熱された中華鍋の記憶をそのまま皿に移したような、躍動感ある味わい。ごま油の香りと塩の塩梅が、なんとも言えず心地いい。 「明日からまた、がんばるか」 誰ともなく呟いたその言葉に、レモンサワーの泡が静かに応えた。 緑茶ハイを口に含むと、ほんのりとした渋みが喉を通り抜け、妙に落ち着いた気分になる。気取らない、飾らない、けれど確かに沁みる夜だった。 ああ、こういう時間があるから、日々のあわただしさもまた愛しく思えるのかもしれない──そんなことを思いながら、店を出た。夜風が心なしか、さっきよりも優しく感じた。
2025/08訪問
1回
──錦糸町の北口を出た瞬間、街の熱気が肌にまとわりついた。夕暮れ前のざわめき。サラリーマン、買い物帰りの主婦、そして俺たちのような“途中”の人間たちで、駅前は妙に騒がしかった。 そんな中、無意識のように足は「日高屋」へと向かっていた。気取らない白い暖簾、いつもの蛍光灯の光。涼しげな顔で隣を歩いていた仲間の一人が言った。「ここ、いいっすよ。安いし、早いし、うまい」 テーブルにつき、ハイボールを注文。すぐに薄い氷が入ったジョッキが運ばれてくる。乾杯の音もそこそこに、俺たちは一気に喉を鳴らした。喉に触れる冷たさは、安物のウイスキー特有の突き刺すような荒々しさを持っていたが、それがいい。汗ばむ身体がそれを欲していた。 続いて餃子。六個、規則正しく並んだ焼き面はきつね色で、ひと口かじると、やや控えめな肉とニンニクの香りが、舌の奥でゆっくり広がる。 そして野菜たっぷりラーメン。シャキシャキのもやしとキャベツ、その下に隠れたあっさり醤油スープの麺。気がつけば、俺たちは無言だった。言葉を交わすより、黙って啜るほうが、今は正しかった。 夜の始まりには、こういう場所がちょうどいい。過剰でもなく、過少でもない。値段にして、たった数枚の小銭で、腹も心も満たされた。 ──店を出たとき、風が少しだけ涼しく感じたのは、日高屋のせいだったか、それとも安上がりな満足感のせいだったか。
2025/08訪問
1回
六月のある日、私は飯田橋で打ち合わせを終えたばかりだった。 いや、正確に言えば、「終えた」のではなく、ちょうど中盤、次のアポイントまでに少しだけ時間の空白ができたのだ。 その隙間の30分をどう使うかを考えながら、私は雑居ビルの谷間を一人で歩いていた。 この街には、官庁と出版社と、学生と会社員が同居している。 人通りは決して少なくないが、奇妙にみんな同じ方向を向いているように見える。 私は逆に、その流れから少し外れるように、細い路地へと足を向けた。 すると、ふと、鼻をくすぐる香りが漂ってきた。 唐辛子だろうか、それとも花椒か。胃の底が反応するような、強い中毒性を伴う匂いだった。 その匂いを辿るように進んだ先に、小さな中華料理店が現れた。 「芋品香」と書かれた赤い看板が、まるで偶然ではなく、私を待っていたかのようだった。 もともと何かを食べようと思っていたわけではない。 だが、人間は理屈では動かない。 気がつけば私は、店の扉を押していた。 入ってすぐ、冷房の涼しさとともに、中国音楽の旋律が流れ込んできた。 歌声は柔らかく、だが芯があり、異国の空気を運んでくるようだった。 店内は広すぎず狭すぎず、昼を少し回った時間帯だったせいか、席には程よい余白があった。 「石鍋麻婆豆腐定食とビールをお願いします」 注文を済ませると、瓶ビールとグラスが運ばれてきた。 普段なら昼のビールは避けるが、今日は少しだけ特別だった。 打ち合わせの間に聞いた話が、頭の中でまだぐるぐると回っていた。 それを静かに整理するには、少しのアルコールと、熱い食事が必要だった。 グラスにビールを注ぎ、一口。 冷たさが喉を通り過ぎると、たまらなく心が落ち着いた。 やがて運ばれてきた石鍋は、赤黒く煮えたぎっていた。 表面には泡が立ち、油が熱を湛えて波打っていた。 スプーンで掬うと、豆腐が滑らかに崩れ、ミンチと餡がとろりと絡まる。 口に運んだ瞬間、まず感じるのは香り。 次に舌を刺激する辛味、そして喉奥に広がる痺れ。 熱さも手伝って、額に汗がにじむ。 だが、不思議と心地よかった。 まるで混乱していた思考が、ひとつずつ整頓されていくような感覚だった。 白飯にその麻婆豆腐をのせ、かき込む。 米の甘みが、辛さを和らげるどころか、むしろその輪郭をより際立たせる。 ビールを流し込むと、すべてが再びゼロに戻り、また一口を欲する。 気づけば私は、皿と真剣に向き合っていた。 他の客も皆、無言だった。 スーツ姿の男も、若い女性も、料理の前では皆、等しく静かだ。 店内に響くのは、スプーンが器に当たる音と、厨房から漏れてくる鍋の金属音、そして、あの中国音楽の旋律だけだった。 杏仁豆腐で口の中を整え、少し冷めたスープを啜る。 外の世界がゆっくりと戻ってくる気配がした。 会計を済ませ、店の扉を押して外に出た。 空はまだ曇天に近かったが、どこか頭がすっきりしていた。 再び、次の打ち合わせに向かう道。 あの麻婆豆腐の熱と、花椒の香り、そして瓶ビールの冷たさが、心に小さな芯を残していた。 それは、仕事の合間に偶然見つけた一杯ではあったが、確かに、旅のような時間だった。
2025/07訪問
1回
店に足を踏み入れた瞬間、どこか異国の小さな寺院に迷い込んだような、 静かで澄んだ空気が漂っていた。 油の熱気や香辛料の刺激は影を潜め、代わりに、野菜や香草の持つ柔らかな香りが、 ゆっくりと呼吸に馴染んでいく。 「中華の店に来たのに、身体が先に安心してしまう」 そんな不思議な感覚に包まれながら、席に着いた。 最初に運ばれてきたのは、まるで上質な海老の清炒めのような一皿だった。 白と橙が混ざり合う“エビらしき食材”が、アスパラやパプリカ、銀杏とともに 白い皿の上に静かに並んでいる。 見た目だけなら、どこに出しても立派な中華の海鮮料理だ。 箸を入れた瞬間、その“あり得なさ”に思わず笑ってしまった。 植物性で作られた代替食材なのに、噛んだときの弾力、 舌に沿って弾き返すような繊維の感じが、本物の海老と錯覚させるほどだ。 ただ、後味だけが違う。 海老特有の重さがまったくない。 旨味はあるのに、食べ終えたあとの胃が驚くほど軽い。 まるで料理そのものが、食べ手の身体を気遣っているような優しさを帯びていた。 続いて出されたのは、角煮のように見える大豆ミートの一皿。 彩鮮やかなトマトやパプリカ、大根おろし、紫蘇が織り成す “和の気配をまとった中華”。 皿の上の食材たちは、それぞれが静かに自己主張しながらも、 ひとつの景色として調和していた。 ひと口食べると、そこでまた驚かされる。 大豆ミートとは思えないほどのコクと旨味。 ただ濃いだけではなく、香りと深みが何層にも重なるように広がっていく。 そこへ大根おろしの清涼感がすっと入り、紫蘇と香草が余韻を引き締める。 味が“縦”にも“横”にも伸びていくような感覚。 料理人の技巧というより、 “食材そのものの声を聞き、その最も美しい形を引き出した” そんな一皿だった。 その合間に、特製のビーガンワインが注がれた。 透明度の高い赤紫の液体がグラスの中で揺れ、 香りはどこか柔らかく、ブドウの輪郭だけが静かに浮かび上がるようだった。 口に含むと、 重さはないのに芯がある。 余計な強さがなく、野菜との相性が驚くほど自然だ。 普段飲んでいるワインとは違う、 “料理の邪魔をしない存在”という立ち位置が、逆に新鮮だった。 料理を一つひとつ味わうたびに、 「中華料理とはこうあるべきだ」という自分の中の固定観念が 少しずつ剥がれ落ちていくようだった。 重い、油っぽい、翌朝に響く―― その常識が、この店では意味をなさない。 皿が下げられ、最後にグラスの残りを飲み干した頃、 身体のどこにも重さがなく、 むしろ深く整った静けさだけが残っていた。 まるで旅先で、偶然立ち寄った寺院で食べた精進料理のように、 料理が心まで澄ませていく。 店を出ると、夜風が頬をかすめ、 街の明かりがゆっくりと戻ってくる。 その光景を眺めながら思う。 ――ビーガンだからではない。 ――中華だからでもない。 ただ“美味しいものとは、こういうものだ”と、 静かに教えてくれる店だった。 Vegan Veggie 嫦娥。 中華の美しさを、別の角度から照らし出す一軒だ。